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「王国の福音」

The Gospel of the Kingdom

第5章 王国の宣べ伝え

Chapter 5 The Proclamation of the Kingdom

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



「この王国の福音は、すべての諸国民に証しするために、全世界に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます」(マタイ二四・一四)。

この節の特定の言葉に注意しながら、まずこの節を調べることにしましょう。

「この王国の(字義的には「王の支配の」)福音(字義的には「良い知らせ」)は、すべての諸国民に証しするために(証しのために:ウェイマス博士による訳では「証拠を示すために」)、全世界に(人の住む全地または居住可能な地に)宣べ伝えられます(この特別な言葉は「宣言する」、「宣告する」、「布告する」を意味する)。

さて、この調べた結果を用いて、この御言葉の完全な字義通りの意味をまとめることにしましょう。

「この王の支配の良い知らせは、すべての諸国民の前に証拠を示すために、人の住む全地に布告されます。それから終わりが来ます」。

これは注目すべき節です。なぜならこの節は、まさにイエス・キリストの使命全体と、そのパースン、受肉、生活、死、復活、高揚の意義と目的とを含んでおり、また彼の教会の存在意義と働きをも示しているからです。これは実に包括的な節です。

しかし、私たちはこの素晴らしい宣言の理由を解明して、その中に入り込まなければなりません。それには次の点に注意する必要があります。すなわち、いわゆる福音、良い知らせ――キリスト教の全使命はこれを伝えて与えることです――が王国、主権的支配、王職の働きという言葉で定義されている、ということです。もちろん、私たちはこの用語や概念に大いに慣れ親しんでいます。ですから、おそらく、それが何を意味するのかを立ち止まって考えたことが実際のところまったくないかもしれません。なぜキリスト教について他の言い方をしないのでしょう?なぜ、「この共同国家の福音」、「この社会国家の福音」、その他の言い方をしなかったのでしょう?キリスト教は「この主権的支配、この王の支配の福音」と呼ばれています。別の言い方をすると、イエス・キリストの王職の福音です。キリスト教はまさにこれであり、これ未満のものやこれ以外のものではないのです。

キリストの王職は天に起源を持つ

そして、これは私たちをさらなる問いと探求に導きます。この概念は何に由来し、どこから来たのでしょう?さて、人に関する限り、この王職の概念を過去に遡るのは非常に困難です。王の称号を持つ最初の人は誰だったのか、私たちは知りません。この王職の概念は最初は原始的なものでしたが、次第に成長・発展を遂げ、遂には専制君主の身分を意味するようになりました。後でこの点に戻って来ることにします。しかし聖書からわかるように、この王職の概念は決して人から始まったものではありません。王職は天で神から始まりました。この王の支配、主権的支配という概念は神についてのものでしたが、この世界が創造される前に御子イエス・キリストに渡されました。その時はまだ、この地上における王職のようなものは、原理的にも実際的にも存在していませんでした。聖書によると、神は御子イエス・キリストを万物の相続者として任命されました(ヘブル一・二)。また、神は御子のことを王として述べておられます。詩篇の中の一つで神は次のように述べておられます、「私は私の聖なるシオンの山の上に私の王を立てた」(詩篇二・六)。御存知の通り、これは主イエスに関する預言の言葉です。この王職の概念は神に由来するものであり、御子イエス・キリストに集約されていたのです。

別の王

聖書が次に私たちに示していることは、何者かがこれを妬んだということです。天使の軍勢の中で最高の被造物の心の中に、神の御子に対する妬みが見出されました。彼はその妬みに身を任せ、神の御子に取って代わるための計画、策略、運動を開始し、この支配を自分自身で自分自身のために得ようとしました。御子に関する神の決定に背くこの反逆は、この世界のどこか外側の場所で起きました。それは現在の被造物界が創造される前のことでした。しかし、神は計画にしたがって、また御旨にしたがって前進し、御子という手段を通してこの世界を創造して、この世界を御子の支配する領域とされました。そしてその領域の中に、神は人を置かれたのです。

次に起きた出来事は、反逆、反乱によって天から追放された者が、神が任命して予め定めておられた王の領域にただちにやってきたことでした。この物語は有名です。彼は狡猾な深く張り巡らせた欺きの計画を用いて――人の魂の命に訴えることにより――しばしの成功を収めたのです。彼は人を自分の側に勝ち取ることによって勝利を収めました。こうして彼はしばしの間、違法ではあるものの、「この世の君」(ヨハネ一二・三一等)となったのです――イエスですらこれを認めて承認されました。以上がこの問題全体の源であり、聖書のこの御言葉の背景です。

神の王の勝利

もちろん、神はこのような状況を永遠に許すようなことはなさいません。神の御旨は駄目になることはありませんし、御子も嗣業を奪われることはありません。受肉の物語の理由はこれです。受肉とは神の御子が肉体をもってこの世界に来て、神の御旨、ご自身の(御子の)嗣業、そしてこの嗣業に占める人の地位というこの問題全体を引き受け、戦い抜いて決定的な輝かしい勝利を収めることでした。受肉は職務上のものではなく霊的で道徳的なものでした。そうだった以上、それは状況の本質――そこからすべてが生じた罪と邪悪さの性質そのもの――を突くものでした。受肉は、この悪しき者自身の化身であるこのあらゆる悪に焦点を置いて、それを対処するものでした。イエスはこの問題に直面し、永遠の支配、王的支配を勝ち取るための戦いを開始し、戦い抜いてあらゆる点で勝利されたのです。「十字架によって彼は勝利されました」。十字架において彼は「主権者たちや権力者たちを剥ぎ取り、彼らをさらし者とし、彼らに対して勝ち誇られました」(コロサイ二・一五)。彼は略奪者の手から王権を取り去り、この世の君を追放されました(ヨハネ一二・三一)。そして死と墓から勝利のうちによみがえり、御父の手から王国を「天と地のあらゆる権威」(マタイ二八・一八)、「すべての名にまさる名」(ピリピ二・九)、「すべての支配と権威、あらゆる名に遙かにまさる」地位と共に授かりました。これが聖書の中にある、また聖書が示す偉大な物語です。そしてこれからいわゆる福音、良い知らせ――主は成就された御業の功績により王として支配されるという良い知らせ――が生じたのです。

人の王職の必要性

さて、人間の側に、王職と支配権の歴史に戻ることにします。王職はごく単純な方法で始まったことは明らかです。第一に、王職の原理はある家族の中で表されました。この家族の中に起きた問題は、長きに渡って遠方まで影響を及ぼしました。この家族が誕生してほぼ間もなく、問題が生じたように思われます。そこで、家族の中の誰かが権威をつかさどらなければなりませんでした。最初の王たちは(彼らは王とは呼ばれていませんでしたが)家族の頭でした。次に、彼らの権威は部族に広がり、部族から諸部族に、諸部族から国に広がりました。その後、彼らはできる限り、多くの国に対する王権を獲得しようとするようになりました。彼らの最終目標はすべての国を支配することでした。

しかし、重要な点は次の通りです。すなわち、この状況は様々な環境や人の必要という理由から生じたものだったのです。支配者あるいは統治者――実質上あるいは名目上の王――が必要だったのです。なぜなら、誰かが人の間の揉め事を裁き、家庭や部族や国家間の争いの問題に関して判決を下さなければならなかったからです。誰かが良し悪しの判決を下さなければなりませんでした。争いはさらに世界中に広がり、民は民に、部族は部族に、国は国に、敵意をもって敵対するようになりました。そこで誰かが大義を掲げて戦争を勝利に導かなければなりませんでした。平和は通常の状態ではなく、「不和」――平和以外のもの――が普通の状態だったため、人に平和をもたらそうとする責任、平和を確保し、平和を確立しようとする責任を誰かが引き受けなければならなかったのです。

このように、王職を構成する基本概念は、調停すること、裁くこと、善悪を決定すること、人の幸せを脅かすものに対抗して導くこと、人を統べること、そして平和を確立することから成っています。これらのものが王職の構成要素であり、王職の発展段階に見られる通りです。王職が存在するのは現存する諸々の状況のためであり、王職はそれらの状況に立ち向かうべく立てられています。これはこの問題の背景及び原則を私たちに示します。

義の王

この一時的な地的領域よりも遙かにずっと大いなる領域で、主イエスは神の王として、まさにこれらの問題に取り組まれました。これらのものが彼の王職の構成要素です。この世界はまったく悪くなってしまいました。無秩序で不法(iniquity)な状態――平等でない状態(inequity)、不公平、人から人に及ぶ悪――がはびこっています。この状態を聖書は一言で要約しています。すなわち、不義です。不義が人同士のあらゆる取り引き、関係、交流に影響を及ぼしています。人間関係からなる組織体系はまさに正しいものではなく、真っ直ぐなものでもありません。それは「公平で公正な」ものではなく――不義です。この不義の問題はみな、この王職の問題と関係があります。ですから、神がこの選ばれたイスラエル国家の中にこの王職、この主権的支配、この神の王的支配を樹立しようとされた時、極度に不義な状況が存在していましたが、これはとても意義深いことであると言えます。

しかし、こうしたあらゆる状況のただ中で――こうしたあらゆる不義のただ中で、そうです、王たち自身のただ中からでさえ―― 一人の預言者が立ち上がって叫びます、「ひとりの王が義の中で支配する」!(イザヤ二二・一)。一筋の光がこの来るべき方を照らしました。主イエスの生涯と死は、この義の問題全体に取り組むものであったことを私たちは知っています――主イエスの生涯と死は、第一に、神の数々の権利と関係していました。彼の第一の目的、第一の仕事は、神に彼の権利、彼の分を得させ、人に関する事柄を神に対して真っ直ぐに正すことでした。この中に何と多くの福音が含まれていることか!パウロがローマ人に書き送った素晴らしい手紙は、実際のところ、次のような思想にまとめることができます。すなわち、神は義を要求しておられること、人は神の義の要求を満たせないこと、そしてイエス・キリストがこの欠け目に踏み込んで人のためにこの問題で神を満足させて下さったことです。イエス・キリストは神に対してこれを成し遂げてから、さらに進んで人々の間でこれを行われます。そして、イエス・キリストが王として人々の心を統治しているのが見られる所には、義と真理と平等、「公平と公正」、そして義があります――義が意味するすべてのものがあります。彼は「義の中で支配」されます。

平和の王

次に、この戦いの問題についてです。この問題は人間同士の戦争を遙かに超えています。これらの戦いはみな何に由来するのでしょう?あの悪しき者に由来します。この悪しき者は戦い、闘争、争い、憎しみ、悪意でこの宇宙に打撃を与えてきました。この宇宙的大戦争はまず第一に霊的なものであり、その後、時間の中で顕在化します。この大戦争の由来はサタンです。この戦争が地上で行われていることを私たちはよく知っています。私たちの心の中にこの戦争があります。キリストが私たちの心の中で王座に着かれる前は、何の平和もありません。キリストから離れている私たちの心には何の平和もありません。私たちは自分自身の内側の争闘や争いについてすべて知っています。また、他の人々と何らかの揉め事や、争いや、抗争を起こさずに、長く一緒に暮らすことの極度の難しさも、私たちは知っています。キリストが主となっていない領域には、争いがあります。おそらくクリスチャンなら、他の誰にもまして、この広く行き渡っている敵意を感じていることでしょう。サタンは自分の力と注意を特にクリスチャンたちの上に注いで来ました。それはイエスの御業の証しを破壊するためであり、また、一つ、交わり、一致の意義を無効にして台無しにするためです。どの領域でも、交わりと一致をめぐって真の戦いが繰り広げられています。しかし、おそらく、他のどこにもましてクリスチャンたちの間で激しい戦いがなされています。

しかし、この戦いから連れ出して下さるひとりの王がおられます。この王的支配は次のことを意味します。すなわち、この戦争状態は必要なものではないこと、また、人間同士の争い、争闘、分裂、敵意、悪意、こうしたあらゆることに対して勝利することは可能だということです。サタンはこの宇宙を分断して、宇宙を大戦争の領域にしようとしてきましたが、キリストはこのサタンの恐るべき働きに対して勝利されました。キリストは「十字架の血を通して平和を造られた」(コロサイ一・二〇)と聖書は私たちに告げています。王の役目は、できるだけ遠くまで、平和を維持して確立することです。かなり長期間にわたってこの役割を果たした王や、ある限られた領域を越えてこれを行った王は、これまで誰もいませんでした。しかし、キリストはこの敵の王国の中に入り、先頭をきって戦いの中に入り、平和を確保されたのです。

また、この地上には、生まれつき私たちの心の中に争いや争闘や戦いの要素があります。しかし、キリストにあって私たちは別の面も知っています。キリストは私たちの心の中にご自分の支配と平和をもたらしてくださったことを私たちは知っています。「私たちは私たちの主イエス・キリストを通して神との平和を得ています」(ローマ五・一)。また、人知を越えた神の平和が私たちの心を守っています(ピリピ四・七)。しかし、私たちにはさらに多くの平和が必要であり、私たちは常に警戒して、常にこの事で彼の勝利の中に立たなければなりません。しかし、それにもかかわらず、私たちは交わりを経験しているのであり、この輝かしい事実は残ります。私たちは神の民として、私たちの間で幸いな素晴らしい交わりを経験しています。この交わりは唯一無二のものであり、宇宙広しといえども他ではこの交わりの真価を経験することはできません。イエス・キリストは主権をもってクリスチャンたちの心を治めておられますが、それによってクリスチャンたちが得た最も尊く幸いなものはクリスチャン同士の交わりです。どれほど多くのことがこれと関係していることか!どれほど私たちはキリストにあってお互いに依存し合っていることか!どれほど私たちはお互いを必要とし合っていることか!私たちはお互いなしではとうていやっていけません!なぜなら、私たちがお互いなしでやっていこうとすることに神は反対されるからです。もし私たちがお互いなしでやって行こうとするなら、主は私たちと論争されるでしょう。

義と平和――この二つは主の支配の要素です。敵は打ち倒され、捕虜や犠牲者は解放され、平和が確立されます。他方、内なる守護者は義を確立するというこの問題の世話をして下さいます。これはみな私たちが必要としていることです。これはこれまでずっと人が必要としてきたことでした。主はこの必要を完全かつ十分に満たして下さったのです。さて、これが「福音」――良い知らせ――というこの素晴らしい言葉が示していることです。しかし、イエス・キリストのこの素晴らしい御業を知らない大勢の人がいます――そのうちの一人くらいはこの本を読んでいるかもしれません。彼らは神との平和の恩恵や享受にあずかっておらず、私たちが経験している心の平和を知りません。これらのことは彼らにとって奇妙に思われますが、それでもおそらく彼らは私たちのことを羨望と嫉妬の眼差しで見ているかもしれません。クリスチャン同士のこの交わりは印象的です。それは見せかけではありませんし、装ったものでもでっち上げたものでもありません。私たちはこれまで次のような事例を見てきました。まだ救われていない人々がクリスチャンの集まりに出席して帰る時、たとえまだ実際には救われていなくても、互いに語り合ってこう言うのです、「とても素晴らしい雰囲気でしたね。この人たちには何か他の人にはないものがあります」。彼らは神の民の素晴らしい交わりから受けた印象について語り合います。これが証しを構成します。これこそまさに証しであり、証拠なのです。

証拠を示すこと

そこで私はただちに次に移ることにします。この王的支配もしくは統治という良い知らせは、霊的意義を持つ次の用語で言い表すことができます――すなわち、内なる命、幸いな交わり、征服された争い、確立された義です。この良い知らせは教会とその大使たちに委ねられています。それはこの良い知らせをすべての諸国民にもたらすためです。しかし、注意して下さい。これは誰かが出かけて行って、それを一つの理論として宣言することではないのです。私たちはこれをよくよく理解しなければなりません。もしこの点がもっとはっきりと確かに理解されていたなら、キリスト教や福音伝道の結果として、今日の世界情勢は大いに違うものになっていたでしょう。大使の働きはこの良い知らせを宣言することですが、他方、これまで考えてきた節は「この王的支配の良い知らせは人の住む全地に宣べ伝えられます」ということにとどまりません。それだけではないのです。そして、まさにこれが失敗と弱さの原因です。この御言葉は、「証しのために宣べ伝えられます」と続きます。前に引用したウェイマスの訳は、この問題のまさに核心を私たちに示します。ウェイマスは「証拠を示すために」と訳しています。大使は何か抽象的な理論や事実を客観的に宣言するだけではありません。それが正しい証拠をその場所で実際に示して、提供するのです。

新約聖書に戻ると、何が書いてあるでしょう?大使たちは確かに人の住む地に出かけて行きますが、そこで彼らは何をしているのでしょう?ただ町の中に入って行き、講壇に上って宣言し、それから町を出て行くだけでしょうか?宣言しながら町から町へ移動し、人の住む全地をこの宣言で覆い尽くすまでそうしているでしょうか?彼らはそうしたでしょうか?確かにしませんでした。彼らは自分たちの仕事と主の意図をもっとよく理解していたのです。彼らはどこにいても、自分がそこにいる意義を心や思いの中で意識していました。その意義とは、「イエスが御座に着いておられる確かな証拠がこの場所に確立されなければならない!」ということでした。何かの教えや何かの客観的真理を宣言するだけなら、決して誰も煩わせることはなかったでしょう。しかし、彼らがこの根拠に基づいて、この意図と目的とをもって進み続けた時、地獄はこぞって立ち上がり、「できることならそれを消し去ってやる!」と言ったのです。

ですから、聖書を読むと、使徒がある町に入って行って福音を宣べ伝えると、地獄が立ち上がって人々を扇動したことが書いてあります。人々は使徒を石で打ち、町の外に引きずり出して、死んだと思ってそこに放置しました。人々が去った時、使徒は起き上がりました。彼は何と言ったのでしょう?「私はこの町で宣べ伝えたから――次の町に行こう」と言ったでしょうか?彼はその町に戻って行ったのです。ただちに戻って行ったのです。なぜでしょう?彼は言います、「私たちはまだこの町では確かな証拠を示していません。この証しの具体的表現となるものをまだ確立していません。それを確立するまで、私たちは踏ん張ります。これに関して悪魔の好きにはさせません」。

こうして、彼らはあらゆる場所に何か確かなものを残して行きました。それは大気に向かって発せられた言葉だけではありません。イエスは主であり、悪魔の王国は普遍的なものではないという真理の具体的表現がそこに残されたのです。この良い知らせは様々な場所にもたらされ、その後には証拠が残されました。もう一度、この証しを入れる器である諸教会について読みなさい。諸教会について読みなさい。諸教会は各地で迫害や攻撃を受け、恐ろしい時を過ごします。しかし――それでもなお――諸教会はその土地を保持します。なぜなら、もしそうしないならサタンがその土地を得るであろうことを、諸教会は知っているからです。諸教会は決してそんなことを許しません。諸教会はこの王的支配にささげきっていたのです。ですから、この宣べ伝えは宣べ伝え以上のものでした。宣べ伝えの目的は証拠を示すことであり、その場所に証しを確立することだったのです。各地にいる主の民が自分たちのことを次のように言うのを聞くのは嬉しいことです、「私たちがここにいるのはこの場所に証しを確立するためです」。

さて、これが大使の目的であり、これが諸教会の機能です。これが私たちがクリスチャンとしてこの地上にいる理由です――すなわち、私たちがどこにいたとしても、家庭、職場、その他の場所にいたとしても、イエスが主である証拠を示すためなのです。これが苦難や反対の理由であり、悪魔が私たちを消し去り、追い出そうとやっきになる理由です。私たちが地上にいるのは、何かを証明する証拠としてなのです。少し前に述べたように、これが最初から把握され、保持され、理解されていたなら、状況は何と違っていたことでしょう。福音の宣べ伝えの大部分は、キリスト教の諸々の真理や教理を与えることに帰着しているように思われます。しかし、それを遙かに超える何かがなければならないのです。自分はそのように召されていると感じている人はみな、次のように言う必要があります、「そうです、しかしそれが正しいことを示す確かな証拠がなければなりません。この件について積極的な証拠となるものがなければなりません。『イエスは主である』ことを宣言する何らかの具体的表現がここになければならないのです」。

あなたはこの証拠を示しておられるでしょうか?あなたはそのために立っておられるでしょうか?これが福音を宣べ伝えるときの課題です。福音は良い知らせです。しかし、この良い知らせは、その根拠や証拠となるものによって具体化されなければならないのです。

クリスチャンたちに対する課題

これは私たちクリスチャンに対する課題であり、多くのことを説明する幸いな助けになる解き明かしでもあります。これは、なぜ悪魔が私たちをこんなに激しく憎んでいるのか、その理由を解き明かします。これは、悪魔が私たちの上に加えるあらゆる重圧の理由を解き明かします。これはあの扇動、あの恐ろしい扇動の理由を解き明かします。この扇動は常に敵の何らかの活動の序曲です。敵は、「それを阻止し、台無しにして、何とか覆すことができさえすれば!」と狙っています。ですから、これを知ることは謎を解く鍵であり、助けになります。そして、私たちクリスチャンに対する課題は、主が私たちを動かされるまで、動かされてはならないということです。そうです、主は私たちを動かされるかもしれませんし、私たちを引き上げるかもしれません。また、主は私たちをよそに導かれるかもしれません。しかし神の恵みにより、悪魔は決してそうすることはありません。私たちが今いる所に立っているのは、たんに私たち自身の利益のためではありませんし、自分の欲しいものを得るためでもありません。私たちが立っているのは、それより遙かに重大な問題のためです――ふたりの君、ふたりの王の間のこの宇宙的大闘争という、まさにこの問題のためなのです。私たちは今いる所でこの証拠を示します。これは私たちに対するとても重大な課題です。

救われていない人に対する課題

しかし、これはこの本を読んでいる、まだ主のものではない人に対する課題でもあります。その課題とは、「この宇宙にはふたりの王しかいない」ということです。この問題に関して中立地帯はありませんし、「非占有地」もありません。二つの支配、二つの王国しかないのです。神が永遠に定められた王であるキリストと、昔からの横奪者である悪魔です。私たちはあなたに、「イエス・キリストは主です」(ピリピ二・一一)と宣べ伝え、宣言します。神は彼を主と定められました。彼は悪魔を征服した彼ご自身の功績により主なのです。この二つの王国、領域、統治のどちらに属する者となるのか、あなたは決めなければなりません。この選択は人の住む全地でなされなければなりません。あなたはそれから逃れることはできません。

もしあなたが「自分はサタンの王国や支配の中にはいない」と信じているなら、もしあなたが自分を明確にイエス・キリストに献げていないなら、私は、あなたが許してくれるなら、最も完全で完璧な証拠をあなたに示すことができます。サタンの王国から逃れようとしてみなさい!クリスチャンになろうとしてみなさい!あなたは、これは自動的にそうなって終わるものではないことがわかるでしょう。霊の軍勢が立ち上がって、それが複雑さと困難に満ちたものになることが、すぐにわかるでしょう。あなたの内側から困難が生じるのです――反抗心や敵意、それに関する疑問や疑い、それに関する恐れが生じるのです。あなたがこの問題について動き始めるやいなや、この別のものも動き始めるのがわかります――あなたがそれらの困難を生じさせたのではなく、困難が自ら生じだしたのです。

これを示す旧約聖書の絵図は、エジプトにいた神の民イスラエルです。イスラエルは束縛の中にありましたが、エジプトを脱出するという思想が持ち上がるまで、状況は静穏そのものでした。しかし、このエジプト脱出の思想が形を取り始めるやいなや、様々な出来事が起き始めたのです。エジプトの国全体が沸き立って、これを阻止するために決定的争乱に立ち上がったかのようでした。さて、あなたは主イエスのみもとに行くことを考えることなく、静かに暮らしてきました。あなたには問題があったかもしれませんし、快適な時ばかりではなかったかもしれませんが、それにもかかわらず、あなたの生活は比較的楽なものでした。しかし、主イエスのみもとに来て、彼の支配と王国の中に入ることを検討し始めるやいなや、あなたは自分がまったく何もしていないのに、様々な状況が働き始め、それを阻止するために数々の出来事が起きるのを経験するようになります。それらの問題は内側からも外側からも生じます。争いや戦いを経験せずに天の王国の中に生まれる人は誰もいません。ある人々にとってその戦いは何と激しかったことか――長引く戦いの末にようやくくぐり抜けたのです。すでに述べたように、あなたはこれを試してみることができます。あなたがイエス・キリストに向かって手招きするとき、あなたは自分がそれまで経験したことのない束縛の中にあることがわかるでしょう。これは現実であり、事実です。しかし、神はほむべきかな。あなたは主イエス・キリストによって勝利を得ることができます。主イエス・キリストはあなたをこの束縛の中から救い出して、直ちに彼の勝利の中にもたらして下さいます。

しかし、私が今言いたいのは次のことです。私たちはイエス・キリストは神の王であること、また、この世界の統治権は最終的に彼に与えられていることを宣言しているのです。生まれつき私たちは別の王国、この悪しき者の王国の中に生まれ、この悪しき者に属しています。聖書によると、私たちは「暗闇の子たち」であり、「怒りの子たち」です。私たちは生まれつき悪魔の子たちなのです。なぜなら、アダムが私たち全員を悪魔の力と手の中にもたらしてしまったからです。イエスは私たちを救い、解放し、ご自身の支配の中にもたらすために来て下さいました。あなたはどこにいるのでしょう?これが提示されている問題です。これが告げ知らされ、宣言されています。これはとてつもないことです。なぜなら、永遠の運命がこれに対するあなたの反応にかかっているからです。

イエス・キリストの主権に対する証しが近所にあるのは厳粛なことです――ああ、人々がこれを理解しますように。ある日、そのような地域全体が裁かれることになるでしょう。それは、その群れがこの証しを携えてその地にいたからです。そうです、それは裁きを意味するものとなるでしょう。その起訴状は次のようなものでしょう、「しかし、あなたはその群れがそこにいることを知っていました。その群れはあなたの家を訪れ、あなたに語り、あなたを招待しました。イエス・キリストがその人々の真っ直中におられたのです。あなたはその証しを受け入れようとしませんでした。あなたはそれを無視したり、それに対して反抗したり、それを非難したりしました。しかし事実、証しがそこにあったのです。あなたは、『自分は知らなかった』とは言えません」。神がある地域に御子の主権に対する生ける証しをお植えになるのは、とてつもないことです。その地域全体が、その証しに対する姿勢によって裁かれることになるのです。

これを誤解したり、間違って解釈したりしないで下さい。これは霊的な問題です。御子の主権というこの偉大な事実を示す証拠となる何かを諸国民の間に置き、それによってすべてを裁くことが神の方法です。これは厳しく聞こえるかもしれませんが、私たちは忠信でなければなりません。私たちは懇願するだけでなく、警告しなければなりません。あなたの魂を愛する愛によって私たちは言います、「横奪者の旗の下にとどまらないで下さい。ここに神の王がおられます。私たちはあなたに、神の王による主権的支配というこの良い知らせを宣言します」。

そしてマタイによると、「人の住む全地に」そのための証拠が設立される時、この経綸を閉じる神の時が到来します。私はあまりこれには踏み込みませんが、これには多くの事柄が関係しています。この経綸はその時を待ち望んでいます。ですから、状況は切羽詰まっています。なぜなら今のご時世、いつ世界のどこかで最後の証しがなされるのか、私たちには決してわからないからです。サタンの王国はこの使者たちを追い払っていますが、天を閉ざすことはできません。この主権の福音は伝わって行きます。なぜなら事実、この福音は主権的だからです。

どうか主が御民である私たちを助けて下さり、私たちがこの地上における自分の真の意義及び目的に関するこの課題を果たせるようにして下さいますように。また、もしあなたが主イエスに属していないなら、もしあなたが彼の王国の中にいないなら、主があなたを助けてこの別の課題を果たさせて下さいますように――この偽りの横奪者の旗と支配を捨てて、私たちの主の王国の市民権を求めるようにして下さいますように。