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「十字架・教会・王国」

The Cross, the Church, and the Kingdom

第3章 サタンの王国とその打倒

Chapter 3 The Kingdom of Satan and its Overthrow

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



「イエスは彼らのところに来て言われた、『私は天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って……』。」(マタイ二八・一六〜一九)

「神の大能の力の働きに従って、信じる私たちに対して働く神の力の卓越した偉大さを、あなたたちが知るに到りますように。神はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座らせ、彼を、すべての支配、権威、権力、支配の上に置き、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました。そして、神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。」(エペソ一・一九〜二三)

このエペソ人への手紙第一章からの節は、天と地のすべての権威は主イエスに与えられたという、彼に関する短い宣言をとても見事に詳述したものです。使徒は主ご自身の短い御言葉をこのように見事に解き明かして、「すべての権威」という言葉の豊かな内容を示します――この「すべての権威」は、すべての支配、権力、支配、名、時代を遙かに超えたものです。これが「すべての権威」の範囲、範疇、内容です。次に、使徒が事実上述べているのは、主イエスが弟子たちに、「それゆえ、あなたたちは行って……」――「この理由により、このゆえに、あなたたちは行きなさい」――と言われた時、この同じ豊かさが教会のかしらである主ご自身の内に集約されたということです。つまり、教会はこのすべての豊かさの下に直接立っているのです。主の意図は、この豊かさがかしらから肢体たちに流れ、肢体たちを通して流れ出ることです。私たちはエチオピヤの宦官が馬車の中でピリポに言った言葉をもじって、「これは誰のことですか?」と尋ねることができるでしょう。なぜなら、私たちが知る教会の中に、これに相当するものを見いだすのはとても困難だからです。この御言葉は何か別の存在にあてはまるのでしょうか?それとも、私たちにあてはまるのでしょうか?私たちの知っている教会がこれに遙かに及ばないものである事実と照らし合わせるなら、このような問いを発する余地は大いにあります。しかし、親愛なる友よ、使徒パウロが思い描いていた教会――この御言葉で彼が言及している教会――は、その中にあなたや私が一つ霊の中でバプテスマされた教会のことであり、この神の力の卓越した偉大さは信じる私たちに対して働いているのです。

さて、これは私たちを今日の課題や必要に直面させる別の方法に他なりません。この課題とは、私たちがこの水準に達すること、なぜ教会はこの水準からこんなにもかけ離れているのかを明らかにすること、どうすれば教会はこの宣言通りのものになるのかということです。私たちはこの一連の黙想を、「キリストの十字架によって成就される究極的御旨として神は何を啓示しておられるのか?」と自問して始めました。私たちがいま読んだばかりの御言葉と、私たちが述べてきたことが、その答えです――神の究極的御旨は、この描写にふさわしい教会であり、この提示された神の御心に応答する一群れの人々です。神が十字架の至高の結果として啓示されたことは次の通りです――あらゆる豊かさが御子の中に集約され、この豊かさが彼の教会、彼のからだに生き生きと有機的に伝わって、作用するようになること、また、この神の力の卓越した偉大さが、宇宙の全領域で、このからだの中で、また、このからだを通して、活動するようになることです。

前の黙想を終えるにあたって、神はこの目的を視野に入れて私たちを実際に取り扱っておられることを見ました。また、私たちは自分のことを、いま神の訓練学校にいる者と見なすべきことについても見ました。私たちは、神の御旨によって当面のあいだ定められたこの場所で訓練を受けているところなのです。訓練学校とは、神の観点から見ると、施設や神学校のことではなく、神の御旨によって私たちが今いる所のことです――これが私たちの訓練学校です。私たちは自分自身を今の場所に順応させなければなりません。その際、「ここは神によって選ばれた場所であり、神は私たちを最大の務めのために整えて下さいます。この務めは死すべき人間が召されている務めの中でも最も偉大な務めであり、御子である私たちの主イエス・キリストの高揚と主権的頭首権を表すことです」という心構えが必要です。

しばしの間、私はこの点を追いたいと思います。まずは、この務めのための備えに関する点から再開します。この備えは、個人的な霊的経験、懲らしめ、訓練という道筋に沿って進むものであり、この神の偉大な御旨のためです。神の御旨は、この宇宙で、特に霊的権力者たちと知者たちのこの大いなる領域で、私たちの主イエスの主権を表すことです。これは第一に神の命と関係があります。神の命は、私たちの中に働いている死と私たちの生まれながらの命とを、私たちの中で征服して勝利します。第二に、これは神聖な知識と関係しています。この神聖な知識は他のいかなる種類の知識よりも偉大なものであり――ただこの種の知識だけが、この偽りの知識の欺きを無効化して取り除くことができます。サタンは初めに人類をそそのかして、人類にこの欺きを握らせることに成功しましたが、今日、この欺きは遙か彼方まで及んでおり、深く根付いています。第三に、これは霊的影響力と関係があります――この影響力は、人間的魅力や、印象的な個性や、人に属する何らかの特性によって説明がつくものではありません――これは霊的で神聖な影響力なのです。

神が求めておられるもの――キリストに関する霊的人格

さて次に、これは一つのことを意味します。これは、神が求めておられるのは人であることを意味します。必要とされているのは人です――第一に必要なのは、職業上の説教者、教師、「働き人」、奉仕者、宣教士ではなく、人です。ああ、こうした肩書きによって、私たちは何と誤った立場に陥ってしまうことか!まったく宣教士ではないのに宣教士と呼ばれている人や、まったく奉仕者ではないのに奉仕者と呼ばれている人が大勢います!肩書きよりも遙かに意義深いものがあるのです。肩書きがあっても、それで私たちはその肩書きにふさわしい者になるわけではありません。たとえ私たちが肩書きや制服を持っていたとしても、それにふさわしい人ではないおそれがあるのです。そうです、神が求めておられるのは、職務上の人々や物事ではありません――何らかの霊的思想、教え、真理の体系の解説者ではなく、人であり、ただ人だけなのです。私たちは区別することを新たに学ばなければなりません。新約聖書が言う教会と会衆とはまったく異なります。祈りと祈りの集会とはまったく異なります。真に霊的な祈りを伴わない祈りの集会を開くことも可能です。生ける証しと慣習や儀式とはまったく異なります。職務上何かを代表しているだけの人々と、イエス・キリストの個人的化身である人々とはまったく異なります。そうです、私たちが受ける霊的訓練の主な特徴は、人が訓練されることです。諸々の主題について学ぶことではなく、人々が訓練されることなのです。

霊的な訓練、神があなたの生活や私の生活で遂行しようとしておられる訓練には、一つの原則があることがわかります。その原則とは霊的人格です。そして、この人格とはキリストです。あなたの人格や私の人格ではなく、キリストの人格です。この原則は神の御言葉に記されているあらゆることの基礎です。聖書をざっと眺めただけでも、これは明らかです。神は人類を一人の人、アダムとしてご覧になっているのです。

これはまさに聖書における代表の原則です。例として祭司を取り上げましょう。祭司はイスラエル国家全体の個人的化身であり代表です。イスラエルは祭司の国であり、神は国をご覧になるかのように祭司をご覧になります。祭司が神の御前に正しく、正常な立場や状態にあって、神の指示にしたがって機能しているなら、国もまた正しくあり、神は祭司に基づいて国を迎え入れて下さいます。しかし、祭司が間違っていて、腐敗堕落しているなら、間違いなく国もそうなっています。そして、神は国をそのようにご覧になります。国はこの一人の人である祭司に集約されているのです。王についても同じです。王の状態が民の状態です。王は国全体の代表者なのです。まるで国は一人の人のようです。その一人の人とは王のことです。王の状態が国の状態です。この証拠を求めてあまり深く探す必要はありません。サウルと、サウルが王だった頃の国の状況をご覧なさい。ダビデと、ダビデが王だった頃の国の状況をご覧なさい。預言者についても同じです。預言者は人々の個人的代表でした。彼はあらゆる種類の尋常ならざる奇妙なことを行うよう要求されました。時には、とてもみっともない屈辱的なことを行うよう要求されることもあったのです。それは、神が彼らをどのようにご覧になっているのかを、国民に対して描写するためでした。イスラエルという名についてはどうでしょう?この名は一人の人の名前であり、個人の名前です。しかし、国の名前でもあるのです。一人の人の名前が国名になりました。これが原則であることがわかります。神は人類を一人の人として、一人の人物としてご覧になっているのです。

さて、これをキリストにあてはめてみましょう。この原則はなおも有効です。神に感謝します、神は私たち自身をご覧になるのではありません。私たちが信仰をもって御子に信頼する時、神がご覧になるのはキリストです。次のように歌うとき、私たちは途方もないことを歌っているのです。

訴える者は吠え猛り、
私が犯した過ちを責め立てる。
私はその数千倍も過ちを犯したのに、
エホバは一つも過ちを見いだされない。

これは途方もないことです!神はひとりの方をご覧になっており、この方は御子なのです。「霊的人格こそ神が求めておられるものであり、それは御子の人格です」と述べたのはこれが理由です。これが及ぼす効力と作用は、次のこと以下のものではありません――言わば――高く上げられて栄光をお受けになった神の御子である主イエス・キリストが天からこの宇宙にもたらされ、彼の臨在が悪の軍勢の間で、そのような臨在が意味する全体的意義と共に表されるのです。あなたはそのような存在にならない限り、これを行うことはできません。学問的な方法で備えをして資格を得ようとしても、そのような方法ではこれを行うことはできません。また、職務上の肩書きや命令によってこれを行うこともできません。次の方法による以外、これを行うことはできません――第一に、神は私たちの内側に個人的にキリストを造り込んでキリストの度量を増し加え、団体的にもキリストを造り込んでキリストの度量を統合的に増し加えます。第二に、彼の民が地上にいることによって、キリストが現れ出ます。第三に、キリストは地上で人々や国々に向かって動くだけでなく、もっぱら第一に、国々や人々や状況の背後にある霊的王国に向かって動かれます。

霊の軍勢に対するキリストの衝撃力

キリストの臨在――これは何を意味するのでしょう?「もしイエス・キリストが地上におられたら、一体何が起きるでしょう?キリストがご自分を低くして地上におられたら、一体何が起きるでしょう」という単純な質問をしてみて下さい。もしそうなら、これらの悪の軍勢は自ら姿を現すでしょう。キリストの臨在は彼らが隠れていることを不可能にします。彼らは叫ぶでしょう、「あなたはまだその時ではないのに、私たちを苦しめにきたのですか?」(マタイ八・二九)。何という暴露でしょう!彼らは自分たちが滅ぼされる時のことを知っているのでしょうか?確かに知っているのです!さらに、彼らはキリストこそ自分たちを滅ぼす者であることを知っています。これは途方もないことではないでしょうか?キリストを連れて来なさい。ご自分を低くされたキリストを連れて来るだけでも、あらゆる領域に影響が及びます。しかし、聞いて下さい――「神の大能の力の働きに従って(中略)神の力の卓越した偉大さを、あなたたちが知るに到りますように。神はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座らせ、彼を、すべての支配、権威、権力、支配の上に置き、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました……」。この主をもたらしなさい!ああ、親愛なる友よ、これはあなたにとって素晴らしい考えのように聞こえるかもしれません。あなたはその実行可能性について聞きたいことでしょう。神は私たちに次のように語ることを願っておられると私は信じます。「あなたたちはキリストの中にあり、キリストはあなたたちの中におられます。あなたたちが関わっているその場所で、状況は従来よりも遙かにこうでなければならなかったのです」。私たちは知覚可能な霊的関係について前に述べましたが、私たちは共にこの関係になければなりません。この関係が霊の王国の中でものを言わなければなりません。敵はあまりにも多くの立場と方法を有していますが、そのようなことは神の御旨ではありません。まるで主は私たちにこう言っておられるかのようです、「私は天と地のすべての権威を与えられました。あなたはこれをどうするつもりですか?これはあなたの問題です。それゆえ、あなたたちは行きなさい……」。

十字架によって確保される霊的人格

さて次に、この霊的人格の問題はキリストを出来事の中に、もっぱら霊の領域の中にもたらす問題に帰着します。これはどうすれば可能なのでしょう?その答えは、それはただ十字架によってのみ可能であり、しかし十字架によれば確かに本当に可能である、ということです。十字架はこの二人の人、最初のアダムと最後のアダムとの間に立ちます。この二人は二つの種族の代表者です。十字架はまさにこの二人の間にあります。

十字架の意味を知るには、この二人が実際のところ何者なのか、この二人の頭首権は実際のところ何を暗示して意味しているのか、私たちは知らなければなりません。なぜなら、どちらの側にも頭首権があるからです。一方は罪のからだです。これは人類、全人類です。この罪のからだには、ひとりのかしらがいます。これが意味するのは、このかしらはこの罪のからだ全体に対するかしらであるということです。サタンがこの罪のからだ全体、最初のアダムの種族全体のかしらです。最後のアダムであるキリストは、別のからだのかしらであり、万物の上にかしらとしてこのからだに――「彼のからだである教会に」――与えられました。この両者について、頭首権が実際に何を意味するのか、私たちは理解しなければなりません。そしてこの頭首権を理解するなら、この二人の人が何者なのかが分かるようになります。また、私たちは十字架の意義を知るためにも理解しなければなりません。

罪の根幹は十字架によって対処された

次に、十字架はあらゆる二次的なものの裏側に回り込んで一次的なものに到ることを思い出して下さい。複数形の罪は二次的であり、単数形の罪は一次的です。複数形の罪は常に二次的なものであり、単数形の罪の結果です。神は複数形の罪のために、包括的な決定的備えを用意して下さいました。他方、神はその背後に回り込んで、単数形の罪に関して何かそれを遙かに超えることを行って下さいました。この区別をする理由は次の通りです――この一次的なものが対処されない限り、この二次的なものが対処される望みはほとんどないからです。あなたや私はこの点について完全にはっきりとしていなければなりません。あなたは複数形の罪と格闘しているのでしょうか?もしそうなら、あなたは格闘し続けることになるでしょう。複数形の罪の鍵は単数形の罪です。あなたは自分の複数形の罪の背後に回り込まなければなりません。そこに神は行かれたのです。単数形の罪とは何でしょう?単数形の罪とは、サタンの王国の原則です。サタンの王国は何か組織化された公的体系ではありませんし、何か文字通りの一時的対象でもありません。サタンの王国は私たちの内側にあります。これは私たち信者にとって、天の王国が私たちの内側にあるのと同じことです。

単数形の罪の起源

私たちの内側にあるサタンの王国はもともといかなるものなのでしょう?サタンの王国とは私たちの内にあるサタンの性質であり、サタンの性質は単数形の罪です。サタンの性質は悪い病のように働く力です――それを毒素や毒薬と呼ぶこともできます――それは旧創造に浸透しており、人類の体系の中に活発に働いています。これが単数形の罪であり、サタンの王国です。さて、私たちはこの面について取り扱わなければなりません。あなたはただちに別の面も見るようになりますが、まだこの十字架の別の面については扱いません。今、私たちは十字架と単数形の罪というこの一次的問題から始めることができます。私たちは単数形の罪のことを「原罪」と呼ぶことにします。原罪とはどういう意味でしょう?原罪とは、遙か遠い昔に始まった何かであり、その時から連綿と続いて来て、いま私たちと共にあるものです。

原罪はどこで始まったのでしょう?その始まりは人類の歴史を遙か昔まで遡るだけでは足らず、人類の始まりの遙か昔にまで遡ります。単数形の罪はサタンと共に始まりました。サタンに関する限り、原罪には二つの要素があります。第一に、原罪は神との関係をただちに閉ざしました。第二に、原罪の座は意志の行使にあります。

さて、私たちの聖書を理解することにしましょう。もちろん、あなたが私たちの解釈を受け入れるかどうかは、旧約で神が語られたことには常に二つの思想、二つの面があるということにあなたが同意するかどうかにかかっています。旧約聖書で神が語られたことには、現在の地的な面と永続する天的な面があります。もしこれを受け入れてくれるなら、これから読む節に関して問題が生じることはないでしょう。

「ああ、黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった!もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった!あなたは心のうちに言った、『私は天にのぼり、私の王座を神の星々の上に高く上げ、北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(イザヤ一四・一二〜一四)

「また主の言葉が私に臨んだ、『人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なるエホバがこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみなる完全な印である。あなたは神の園エデンにあって、あらゆる宝石があなたを覆っていた。すなわち赤めのう、黄玉、ダイヤモンド、緑柱石、縞瑪瑙、碧玉、サファイヤ、エメラルド、ざくろ石、黄金。あなたの小太鼓とあなたの笛の細工があなたの内にあった。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。あなたは油そそがれた守護のケルブであった。私はあなたを神の聖なる山の上に置いた。あなたは火の石の間を歩いて上り下りした。あなたは造られた日から、あなたの内に不義が見つかるまで、その歩みが完全であった。あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、私はあなたを神の山から汚れたものとして追い出し、ああ、守護のケルブよ、私はあなたを火の石の間から断ち切った』。」(エゼキエル二八・一一〜一六)

原罪の二つの要素として私が指摘した二つのことがわかります。第一に、神との関係がただちに閉ざされました。まさに神の御前に原罪があります。原罪は何か神に逆らうものです。原罪は神の比類なさと孤高を犯すものです。この宇宙にふたりの至高の存在はありえず、ただひとりしかありえません。この孤高の比類ない至高性に挑むものは何であれ、この至高性に対する違反であり、欺瞞です。これから原罪が始まったのです。

第二の点は、原罪の座は意志の行使にあるということです。イザヤ書一四章に「私は……しよう(I will)」が五回出てくることに気づかれたでしょうか?これが罪の核心であり、罪の本質です。「私は……しよう(I will)」と語ったとされる者は、おそらく決してこれを言葉で語ったわけではないでしょうが、預言者は霊感によってこの者の思いを明らかにしました。おそらく、私はそう確信していますが、ルシファーは決して自分の思いを言葉にはしなかったでしょう。「あなたは心のうちに言った」――ですから、これは心の問題であり、姿勢、神の御前における状態だったのです。預言者は霊感を受けて、決して言葉として語られたわけではない何か、この者の心の奥深くにあった何かを明らかにしました。ヘブル人への手紙四章一二節の有名な言葉は覚えておられるでしょう、「神の言葉は生きていて活動しており、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図とをたちまち見分けることができます」。そこに神は行かれます。この五回の「私は……しよう(I will)」という決意がなされたのは、この内なる命の奥深くにおいてでした。これは意志の内なる働きであり、神は心の秘密をすべて御存知です。私たちはその秘密を口にする必要はありません。心の中に秘密があるのを神は御存知です。これが原罪です。原罪はこの命の奥深くにあります。

私たちも原罪に直面するかもしれません。原罪は醜いものです。原罪を知らない限り、私たちは十字架を理解することはできません。原罪が及んでいる広大無辺な領域――それは遠い過去まで及び、遙か上にも遙か下にも及んでいます――を私たちが見る時、これはただ十字架の栄光を増すものにすぎません。しょせん、原罪の威光は十字架の威光にはまったく及ばないのです。十字架は途方もないものです。さて、これが単数形の罪――いわゆる原罪――の起源であることがおわかりになったでしょう。そしてこれは毒素であり、毒薬なのです。

単数形の罪の性質

その性質について見ることにしましょう。「あなたの心は自分の美しさのゆえに高ぶった」(エゼキエル二八・一七)。ああ、ですから高慢が罪の本質なのです。高慢から罪が生じたのです。高慢に関する言葉が厳しいのも驚くにはあたりません!「すべて心に高ぶる者は主に憎まれる」(箴言一六・五)。「自分の美しさのゆえに」。ですから、自己評価が高慢の原因でした。そして、高慢には常に反逆が伴います。あなたはこれまで高慢な人が満足するのを見たことがあるでしょうか?同じように着飾っていて、豊かな供給を受けているように見える誰か別の人を連れて来なさい。そして、この高慢な人の反応を見なさい――「もっと良いものを手に入れてやる!」。高慢な心からただちに敵対心が生じ、この反逆の精神と、最善の地位さえ不満に思う心が生じるのがわかります。高慢な心は決して満足することがありません。常に他の人より高く上ること、多くのものを持つこと、良い暮らしをすることを願ってやみません。これは反逆です。そして、反逆を実行に移した時、邪悪な性質が生じたのです。

旧約聖書では、単数形の罪を主に表す二つの言葉があります――違反(transgression)と不法(iniquity)です。この二つの英単語はヘブル語では各々、反逆(transgression)と邪悪さ(iniquity)を意味する言葉です。反逆を実行に移した時、邪悪な性質が生じました。私たちはアダムにあって、彼の反逆行為に捕らわれてしまいました。アダムは高慢な霊に促されて、反逆しました――「神はそう言われたのですか?(中略)それを食べると、あなたたちの目が開けて、神のような者になることを、神は知っておられるのです」(創世記三・一〜五)というこの提案によって、高慢な心が引き起こされました。高慢な心が燃え上がり、神が意図しておられないものを得たいという願望、神が意図しておられない者になりたいという願望がわき起こりました――確かに、このような方法や、このような道筋は、決して主が意図しておられるものではありませんでした。

ルシファーの反逆と対をなすこの反逆行為の結果、一つの性質が生じました。私たちの性質が邪悪であることを、いったい誰が否定するでしょう?親愛なる友よ、どれほどあなたが聖徒らしく、聖別されており、主にささげられていたとしても、どれほどあなたが生活の中で深く訓練されており、どれほど多くキリストの似姿があなたの内に形造られていたとしても、関係ありません――もしあなたに子供がいるなら、その子がそうした性質を受け継いでいるかどうか見てご覧なさい!なんと、大して時間がたたないうちに、その子が「したい」「したくない」と言うのを見聞きするようになるのです。不幸なことに、私たちは祖先のキリストに似た性質を受け継ぐことはありません。あらゆる新しい世代の中に邪悪な性質があります。邪悪な性質は現存しています。この邪悪な性質は、小さな幼児の反抗的で不機嫌な怒りっぽい叫びという単純な形を取ることもありますし、この被造物世界全体の周辺にまで及んで、こうしたあらゆる混乱、争い、戦争、殺人、冷酷さ、「人が人に加える非人道的行為」という形を取ることもあります。しかし、いずれせよ同じことであり、同じ性質であり、同じ先天的な邪悪さなのです。人はこの邪悪な性質を飼い慣らすことも、根絶することも、癒すこともできません。人は国際的な邪悪さを抑制したり癒したりするために国際連盟や国際連合を設立するかもしれませんが、いったい何が起きるでしょう?国際連盟は原罪と衝突してますます悪化してしまったのです!私たちは主イエス・キリストを信じる信者であり、彼を愛する者であり、自分を彼に献げています。しかし、私たちが逆境、苦難、失望、挫折に遭遇する時、また神が私たちの願うものを差し控えられる時、私たちはそれによって試みられ、吟味されます。この時、私たちの内側にはいとも容易に邪悪さや反逆が湧き上がってこないでしょうか?それを抑制し続けることはまったく困難なことではないでしょうか?それはこの古い人のうちにあります。これが罪の性質です。そして、この罪の性質はサタンの中にあり、まさにこうしたあらゆる他のもの――複数形の罪――が吹き出る噴水口です。私たちは複数形の罪についてよく知っています。複数形の罪はこの創造された世界ではありふれたものです。罪の性質は複数形の罪の源であり、その性質です。この罪の性質という源により、人は今のような者になったのです。これがその方法であり、これがその理由です。

単数形の罪の要塞である自己

さて次に、人について見なければなりません。何を見いだすでしょう?人の中心にあるものとは何でしょう?この同じもの――自己、自己、自己――です。血によって生まれたものが出てきます。自己の意志、自己の関心、「この仕事や行程は自分にどう影響するのでしょう?これは私にとって益でしょうか、それとも不利益でしょうか?」という根拠に基づく損得勘定、さらに多くのものが出てきて切りがありません。ひどく感覚的な形で自己を目にすることもありますし、もっと普通の野心という形で目にすることもあります。中には価値ありと称されている野心さえあります。例えば、成功の階段を登りたいという願い等です。しかし、この自己は私たちの霊的生活の中に入り込んで、祝福や力を求める私たちの探求の隠れた動機にもなるおそれがあります。例えば、ペテロの場合がそうでした。主がペテロに、「私があなたを洗わないなら、あなたは私に何の分もありません」(ヨハネ一三・八)と言われた時、ペテロはできるだけ自分のために多くのものを得たいと願って、「主よ、私の足だけでなく、私の手も、私の頭も」と答えました。私はあなたに自己分析や内省をさせるつもりはありません。しかし、私たちが十字架を理解して、このキリストという霊的人格を発達させることができるようになるには、まずこの自己の問題に取り組まなければならないのです。なぜなら、すでに述べたように、ただ十字架という方法によってのみ、自己の利益、自己満足、自己実現、その他多くの自己の形は消え去って行くからです。自分を主張する、積極的で、横柄な、脚光を浴びることを愛してやまない自己だけでなく、自分の貧しさや惨めさや悲惨さゆえに人の注意を引こうとする哀れな自己もあります――これはみな自己です。何であれ私たち自身を見つめるようにさせるものは自己であり、十字架はその道に立ちはだかって、サタンから出てきたあらゆるものに対して、その由来が何であれ――自己実現であれ、自己主張であれ、自己強制であれ、自己推進であれ、消極性や劣等感を伴う自己憐憫であれ――「否」と言います。サタンがそうしたすべての背後のどこかに隠れています。サタンはそれを用いて、その結果、キリストを隠してしまうのです。どうにかして自己を対処しなければなりません。これが私たちが在籍している学校です。堕落した人とサタンのこの本質的連合こそ、ある観点から見ると、全聖書の要約であると言えます。これはまた、人が神の立場ではなく自分自身の立場に立つ時、神は人に対してどこに立たれるのかをも示しています。

サタンの王国の本質である単数形の罪

さて、その結果は――王国です。ここから私たちは始めました。サタンの王国とは何でしょう?何かそこにあるもの、遠く離れた客観的なものでしょうか?鎧を身にまとい、出て行って、サタンの王国を攻撃することを、あなたは計画しているのでしょうか?――サタンの王国は何か遠くにある、インドや、中国や、ロンドンの貧民街にあるものなのでしょうか?いいえ、このサタンの王国は、まず第一に、あなたの内側にあるものなのです。内側に何かが成されない限り、サタンは退位させられることはありませんし、彼の王国が打ち倒されることもありません。サタンの王国はそこにあります。サタンの力は、彼が人類にかみついて注入した、毒としての彼の性質にあります。これは人が許可を与えて同意したためです。これは暗くて恐ろしい面ですが、私たちはこの王国の現実と性質を理解しなければなりません。これをはっきりと見ない限り、あなたは近づいて十字架の意義を見ることも、天の王国の意義を見ることもできません。なぜなら、十字架はまさにそこにやって来て、この堕落した被造物に対して完全に「否」と言うからです。十字架のこの「否」は、完全で、決定的な、永遠の「否」です。神に感謝します。十字架は「否」と言うだけでなく、成就します。私たちは主の民である以上、主の御手の中にあります。いかなる形であれ、自己が自分を主張する時はいつも、私たちはそれを見分けなければなりません。もし見分けることができないなら、何かどこかが間違っており、どこかに調べるべき妨げがあります。私たちは私たちの内側の御霊の証しにより、見分けなければなりません。ああ、私たちは離れて一人きりになり、主と取り引きをする時、こうした多くの隠れた戦いや経験を経過しますが、これはそれが理由ではないでしょうか?私たちは何かふさわしくないことを言ったり、行ったりしたのかもしれません。あるいは、私たちの振る舞いが、たとえ言葉には出していなかったとしても、間違っていたのかもしれません。あるいは、私たちは偉そうに振る舞い、自分たちのことについておしゃべりし、この生活やこの世のあらゆる安っぽいものを見せびらかして、この旧創造に属するものを大事にしていたのかもしれません。そして、私たちは後になって惨めな気持ちになり、それについてくよくよするのです。「ああ、これはすべて死ではなかったでしょうか?どうしてこんな風にひっかかってしまったのでしょう?」。私たちのなすべき唯一のことは、主の臨在の中に逃げ込んで、再調整してもらうことです。私たちはこれをよく知っています。このようなことが起きる時、私たちはこの学校の中にあるのです。

ここで締めくくって終わりにしなければならないと思います。親愛なる友よ、これが私たちが滅ぼすよう召されているサタンの王国の性質です。これがこの戦いの性質です。これはもっぱら、サタンや悪鬼どもを個人的に対処する問題ではなく、サタンの王国の基礎を取り扱う問題です。サタンの王国はこの基礎の上に建てられており、この基礎がサタンの力を支えています。この基礎とは単数形の罪であり、単数形の罪とは先天的な反逆と邪悪さです。ですから、サタンの王国は主イエスの十字架で打ち倒されます。主イエスの十字架で、あらゆるものの背景が対処され、サタンは追放されました――たんに彼自身が追放されただけではありません。サタンひとりが追放される光景を思い浮かべないで下さい――サタンが追放されたという意味は、サタンの力の精神的根拠が彼から取り去られたということなのです。サタンは別の性質に直面しました。その性質の中に邪悪さは何もありませんでした。また、この性質はあまりにも強力で、サタンの手には負えませんでした。そして、際だって偉大な尊い約束が私たちに与えられました。この約束によって、私たちはこの同じ神の性質にあずかる者となることができます(一ペテロ一・四)。サタンが力を失うのは、この道筋に沿ってなのです。