「しかし、私はあなたたちに真実を告げます(私はとてもはっきりと、強調して、積極的に、あなたたちに告げます)。ここに立っている者の中に、神の王国を見るまで決して死を味わうことのない者たちがいます。」(ルカ九・二七)
「テオピロよ、私は先の書を著して、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことを、ことごとく記しました。イエスは苦難を受けた後、自分が生きていることを数々の証拠によって示し、四〇日にわたって彼らに現れて、神の王国に関する事柄を語られました。」(使徒一・一〜三)
「ここに立っている者の中に、神の王国を見るまで決して死を味わうことのない者たちがいます」。「四〇日にわたって彼らに現れて、神の王国に関する事柄を語られました」。主の復活後の四〇日間、使徒たちが主によって専念させられた主題――復活した主の主題――は神の王国でした。
私たちの主の地上生活における二つの王国の戦い
ヨルダン川から十字架に至るまでの主の生涯の年月を振り返ると、この期間の間、主ご自身の場合、二つの王国の間で戦いが行われていたことがわかります。様々な方面から、様々な手段を通して、諸々の影響が主の上に及びました。主は様々な力や活動が存在する領域を進まれましたが、それらの力や活動の目的及び目標は主に偽物の王国を得させることでした。初っぱなから荒野で四〇日四〇夜に及ぶ敵との戦いがありましたが、この戦いの目的がまさにそうでした。「悪魔は、この世のあらゆる王国とその栄光を彼に見せて言った、『あなたが私にひざまづいて、私を拝むなら、これらのものをあなたに差し上げましょう』」(マタイ四・八〜九)。主ご自身の弟子たちも、メシヤを待望する気性や期待を抱いて、絶えず彼に押し迫りました。そのため、主にとってこの道を歩むことはとても困難でした。弟子たちは霊的にとても幼かったため、あまり性急に彼らを幻滅させてその期待や希望を裏切るなら、良くないことが起きるであろうことを主は御存知でした。こうした期待や希望や展望、そしてこの人々への配慮は、主にとって有刺鉄線のようであり、絶えず主を突き刺し続けました。主が弟子たちを幻滅させるようなことを言おうものなら、彼らはたちまちつまずき、疑問を抱き、自制心を失い、反逆しさえしたのです。ある時、群衆や興奮した大衆が主の所にやって来て、力づくで主を連れて行って王にしようとしたこともありました。そこには何かが働いていて、強制しようとしていたのです。主はこの何かに対して絶えず戦い、それをはねのけ、拒絶し、否定されました。これは容易なことではありませんでした。最後に、主はピラトの前に立たれました。その時、「この人は『自分は王である』と言いました」という訴えが主に対してなされたので、ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか?」と問いました。これに対してイエスは言われました、「私の王国はこの世の体系からのものではありません――もし私の王国がこの世の体系からのものなら、私の僕たちが戦っていたでしょう。しかし今、私の王国はこの世からのものではありません」(ヨハネ一八・三六)。これは偽物の王国を否定することであり、主は内面的に別の王国のために立っておられることを意味しました。これは真の王国を否定することではありませんでした。主は常に本物の王国のために偽物の王国に対して戦い、霊的な王国のために一時的な王国に対して戦っておられたのです。しかし、そこにいた諸々の勢力はこの偽物の王国を推進して、主を本物ではない王国の中に巻き込もうとしていました。もしこれが効を奏していたなら、どれほどひどいことになっていたか、容易にわかります。仮に、主が降伏して、この体系から出た偽物の王国を受け入れ、ご自分をこの水準に置かれたとしてみましょう。少し考えただけで、この圧力や申し出の邪悪な性質が直ちに明らかになります。いいえ、主はサタンの王国の化身であるこの枠組みを受け入れようとされませんでした――要するにこれがその意味です。この体系から出た王国の中で、この世の君であるサタンは君臨していました。しかし、主はそれをまったく受け入れようとされませんでした。主はあらゆる誘惑をくぐり抜けました。主の側近の愛されている献身的な弟子――シモン・ペテロその人――の口を通して誘惑が来ることさえありました。彼は誤った熱心に駆られてそのようなことを口走りました。しかし、主はこの誘惑を頑としてはねつけられました。主はエルサレムへ上って行き、人々の手に渡されて、十字架に付けられることになっていましたが、この問題に関する人の助言は、「主よ、とんでもないことです。そんなことは決してあなたに起きるはずはありません」でした。それに対する短い返答は、「私の後ろに退け、サタン」(マタイ一六・二一〜二三)でした。サタンがこの提案の中に入り込んでいるのを主はご覧になりました。これは主がお受けになる王国ではありません。主は王国を獲得されるでしょうが、それはこのような種類のものではありません。
十字架を通して神のために回復された王国
そこで主は十字架に行って、この体制にしたがう偽物の王国を拒絶されました。そして、主は十字架においてこの枠組みの背後に、あらゆる形式や組織の背後に回り込み、この世の君を対処して、彼を追い出されました。主がどのように彼を追い出されたのか、私たちはこの一連の黙想で理解しようとしてきました。主は彼を道徳的に追放されたのです。「この世の君が来ます。しかし、彼は私の内に何も持っていません」(ヨハネ一四・三〇)。ですから、彼は道徳的に追放されます。そして、主は十字架でこの世の君を追い出して、アダムの裏切りにより横奪者の手に渡ってしまった王国を獲得されました――むしろ、主は王国を「回復された」と言うことにしましょう。主は、最後のアダム、第二の人、天からの主として、王国を回復されました。主は十字架において、十字架によって、王国を回復し(これについてはさらに言うべきことがあります)、復活されました。そして、主は神の王国という主題について話されたのです――これは主が強調して語られた御言葉、「ここに立っている者の中に、神の王国を見るまで決して死を味わうことのない者たちがいます」の成就でした。彼らはペンテコステの日に、この勝利のキリストの御手によって回復された王国を見ました。キリストはすぐに得られる見返りを拒絶する
手放す達人となること――これは霊的生活において途方もない価値がある法則です。握りしめる達人である別の者についてはすでに見ました――この者は「私は……しよう、私は……しよう、私は……しよう」と言いました。これについてもさらに言うべきことがあります。しかし今や、この方の御手により、ペンテコステの日に、聖霊の力の中で、この回復された王国が到来したのです。
王国の命と力である御霊
しかし、注意して下さい。私たちにとって重要な点は、この王国は改善された王国であるということです。つまり、この王国の構成は、使徒たちが思い描いていたものやサタンが主に申し出たものとは異なる、別のものだったのです。それは別の種類の王国であり、本質的に霊的です。それは聖霊によって到来します。御霊がこの王国を管理しておられます。御霊がこの王国を推進されます。また、御霊が手綱を握って、この王国に関する計画を立ててそれを発展させ、王国を拡張し、確立されます。すべてが霊的です。それゆえ、この王国は最初から最後まで本質的に内なるものであることがわかります。「天の王国はあなたたちの内側にあります」という主の御言葉は、まさにその通りであることがペンテコステの日に証明されましたし、それ以降もそうでした――内なる御霊が、この王国の性質、力、命、エネルギー、すべてだったのです。
神の王国が教会を通して及ぼす自然な影響
さて、これが事の成り行きや性質だとすると、実際のところ、その全体の核心は何でしょう?その核心とは次の通りです。すなわち、ペンテコステの日から、人々がこの世に出て行く時、彼らは神の王国が実際に現実のものとして到来したことによってもたらされた恩恵によって出て行ったのです。また、これは内なる事実であり、彼らはある特徴を帯びていたのです。その特徴とは、彼らがこの世界にいることによって、神の王国の目覚ましい圧倒的な衝撃力がこの世界的体系の枠組みの背後にある別の王国に及んだということです。まさにこれが起きました。彼らの存在は、この別の王国を妨げ、これに異議を唱え、これを怒らせるものでした。そして、この信者たちがいたおかげで、この二つの王国はこのように恐るべき敵対関係にある現実が明らかになりました。注意して下さい――これは何か注意すべきことです――彼らが宣べ伝えた時、その宣べ伝えが帯びていた顕著な音色は罪からの救いではなく(これは何か別のものの結果でした)、イエス・キリストの絶対的主権だったのです。彼らがイエスの復活を証しするところではどこでも、彼らはイエスを主として宣言しました。認罪の下にある人の「救われるにはどうすればいいのですか?」という問いに答える時になって、「この主はまた救い主でもあります」という解き明かしや適用がなされました。イエスは主なので、イエスはあなたを救うことができます。イエスは主なので、あなたは赦しを受けることができます。もう一度言わせて下さい――これはイエスがたんに職務上主であるからではなく、道徳的に赦しを与える立場にあるからです。少しの間、再びこれを離れることにします。
私が集中して取り組みたい問題は、神の王国のもたらす自然な影響が教会の中に回復される必要があるということです。私たちは救いの福音を宣べ伝えているかもしれません――福音の宣べ伝えを
教会が取り上げて与えているもののかなりの部分は、客観的教えにすぎません。もちろん、教会は救いの祝福について、救いに関する主イエスの素晴らしさや喜ばしさについて知っています。これはみなとても良いことであり、遙か彼方まで及ぶものなのですが、どういうわけか効力の及ばない膨大な空白地帯があります。その理由はおそらく――私はこの理由を次のように述べましょう――まず第一に、宣べ伝えが人々に対してなされており、その影響も人々に対するものであり、霊的背景から自然に流れるものがないことです。神の王国は研究してわかるものではありませんし、演説や説教の中にうまく収まるものでもありません。神の王国は主題や題目ではなく、霊的背景から発する聖霊の大能の力なのです。あなたは主の証し人としてそこにいます。そして、そこには何か敵の力を超えるものがあります。そこには神の力もあるのです。神の王国が到来しました。神の王国は圧倒的なものです。これがその意義です。多くの宣べ伝えはこの領域で弱いのです。さて、私たちは救いを宣べ伝えつつ前進します。私たちはこの救いの問題について人々と接触しつつ進みます。以前にもまして、そうしなければなりません。しかし、覚えておいて下さい。神の王国はたんなる一つの主題ではなく、私たちを通して流れる力なのです。いわば、この力は霊的背景から発して貫き流れ、第一に人々にではなく、この全世界の背後にいるこれらの軍勢に影響を及ぼします。もし私たちがこの神の王国抜きでやるなら、私たちはほとんど無力でしょう。主が何かを行って人々を解放して下さらない限り、たとえ人々が主を信じることや主に向かうことを願ったとしても、誰も信じることができず、誰も主に向かう自由を持たないでしょう。強い人が家の中に押し入らなければなりません。この人は家を守る者より強くなければなりません。誰がこの者より強いのでしょう?この王国よりも強力な王国が、この王国を襲撃しなければなりません。ですから、主は弟子たちに活動の領域を告げて、そこに出て行くことを彼らに命じられた後、「しかし、あなたたちはいと高き所から力を着せられるまで、都の中にとどまっていなさい」(使徒一・五)と言われたのです。「それまでは、この任務を果たそうとしてはいけません。さもないと、あなたたちは失敗するでしょう。そして、この別の王国があなたたちに打ち勝つでしょう」。
私たちにとって何が大事かおわかりになったでしょう。それはみなこれを焦点としており、これに集約されます。地上における私たちの真の任務とは何でしょう?諸々の教理を提唱すること、諸々の真理を説明すること、聖書の注解書を何冊も出版することでしょうか?違います!たとえそれが教育や指導にどう役立ったとしても、神の王国が到来しないなら――つまり、「イエスは死者の間から復活して主となられた」という事実が真に効力を発揮しないなら――真の霊的効力に関する限り、それはすべて役に立たないのです。「聖霊によってでなければ、『イエスは主です』と言うことは誰にもできません」(一コリント一二・三)と言ったとしても、それを聖霊の力で言わないなら、何の役にも立ちません。これは、「イエスは主です」という句を用いることはできないということではなく、この句を述べることはそれを用いる以上のことであるということです。神が「光あれ」と言われると、光が生じました。私たちがいま考えているのは、このような種類の言葉です。つまり、命令の言葉、衝撃力のある言葉です。ある人は「イエスは主です」と言うかもしれません。それは至極正しく、教理は正確で健全なのですが、何も起きません。別の人は聖霊の力の中でイエス・キリストの主権を宣言します。すると、あなたは何かを感じます。神から何かが流れてくるのを感じます。さて、これは使徒職にある者たちだけの特権ではありません。これは教会のためであり、あなたも私も教会を代表しています。ああ、私たちの祈りはこの王国が他の王国に衝撃を与えるものでなければなりません!私の心はこれを叫び求めています。状況の背後で何かがなされるのを求めています。私たちの教えはすべて、その効力がただちに見えるようにはならないかもしれませんが、それにもかかわらず、この王国の力を帯びた人々――敵が一目置かざるをえない人々――を生み出す働きを常に進めるものでなければなりません。私たちの教えの正しさを示す唯一の証拠は、その教えを受けた人々が今度は敵に対して要注意人物となるかどうかです。前に述べたように、このような人は「イエスなら知っている。この者も知っている」と悪鬼どもから言われる存在でなければなりません。私たちは、一目置くべき対象として、要注意人物として、敵に名指しで知られる存在にならなければなりません。「だが、お前たちは何者だ?」(使徒一九・一五)と言われるような、存在感の薄い人ではいけないのです。
復活した主の心を占めていた問題は神の王国です。これはまた主が僕たちに従事させるものでもあります。神の王国―― 一時的な組織の枠組みではなく、神の王国――は言葉にあるのではなく、力にあります。飲食にあるのではなく、聖霊による義にあります(ローマ一四・一七)。これが神の王国です。そして、親愛なる友よ、あなたも私も主が前に語られた御言葉、「ここに立っている者の中に、神の王国を見るまで決して死を味わうことのない者たちがいます」の中に含まれる、とても幸いな地位にあります。神の王国を見ること、そして神の王国が私たちを通して神聖な力の中で到来すること――これが私たちの特権です。これが核心です。すでに述べたように、この一連の黙想で私たちが語る他のことはみな、この周辺に集約されます。
神に手放すことの重要性と力
あなたは言います、「わかりました。私はこれが正しいと信じます。私は心を尽くして応答します。私が関わっているその場所で神がこれを実現して下さるよう、私は神に祈ります。私はそうなってほしいのですが、何も起きません。こういうことがどうしてありえるのでしょう?」。これこそまさに私たちが言わんとしていることです。どうしてこういうことがありえるのか、私はすでにヒントを与えました。これは大いに実際的な問題です。「主イエスは手放す達人であった」と述べた時、私はこの問題の核心に触れていたのです。何度も何度も述べたように、すべては人の意志を焦点としており、それに集約されます。ここで質問をしましょう(とはいえ、私は後でさらに詳しくこの問題について述べなければなりません)。あなたはこれまで何度となく、手放す時に真の力――あなたを解放した力、あなたを高く上げた力、あなたを高い所に据えた力――を受けてきたのではないでしょうか?あなたは何かを握りしめていました――あなたは何か悪いものを握りしめていた、と私は必ずしも言っているわけではありません。あなたはひたすら握りしめていました。それは神があなたに賜ったものだったかもしれません。あなたは生来の所有欲でそれを握りしめ、神に属するものを自分のものとして自分のために握りしめ、他の人には「手を離しなさい」と言っていました。イサクは神からアブラハムに与えられました。これに疑問の余地はありません。イサクは完全な奇跡であり、神がアブラハムに賜らない限り、生まれてくることはありえませんでした。次に、「神はアブラハムを試された」と聖書に記されています。神は言われました、「今、あなたの息子、あなたの一人子、あなたの愛する子を連れてきなさい」。(神は、「私があなたに与えた者を連れてきなさい」と言われたのかもしれません。)「……そして、彼を全焼の献げ物として献げなさい」(創世記二二・二等)。「あなたが息子を私に与えて下さったのに、その息子を再び取り去るとは矛盾しているのではないでしょうか?あなたの約束はすべて息子にかかっています。あなたがそうされたのです。私は息子を手放しません!」とアブラハムは言いませんでした。アブラハムはイサクを手放しましたが、取り戻しました。王国全体と共に取り戻したのです。この王国によって彼は「この世界の相続人」となりました――御言葉にそう記されています(ローマ四・一三)。彼は手放すことによって王国を得ました――これは手放した御方である神の御子の予表です。人々は彼を力づくで連れて行って、王にしようとしました。しかし、彼はその機会を手放されました。主はさらに優った王の地位を得ましたが、サタンが触れることのできない領域でそれを得たのです。その領域は死の力を超越した領域でした。主がもし自分に差し出された王の地位を受け入れていたなら、その地位は死に従属するものになっていたでしょう。復活の中で主は王の地位を得ました。死はその地位に対して何の力もありません。しかし、主は神に手放すことによって、この地位を獲得されたのです。これは大いに実際的な問題であることがわかります。これが、それが実現されない理由です――自己がその状況の中にあるからなのです!自己の意志、自己の関心、自己実現。これはサタンの王国であり、神はこの根拠に基づいて神の王国をあなたに賜ることはありません。自己は神の王国を荒廃させた原因であり、それにより神の王国は人に対して失われました。あなたは自己を回復することはできません。自己に打ち勝つことができないのと同じことです。何か別の違うものが必要です。この自己がいかなるものであれ、神の王国が到来するためには自己を脇にやらなければなりません。
これは実際的な問題です。自分は自己の中にいないと、私は確信できなければなりません。また、何らかの隠れた自分の野心や、何らかの自分の動機が働いていないことを、私は確信できなければなりません。ああ、私たちの心は何と狡猾なことか!あなたも私もおそらく、完全に主に献げる用意ができていることでしょう。私たちはそのつもりであり、徹底的にそうするつもりです。私たちは本当に心を込めて、声を張り上げて、「自己からのものはなく、すべてはあなたからです」と歌います。私たちはそのつもりですし、私たちに関する限り不確かなものは何もありません。しかし、神は御存知です。私たちには隠れた動機があり、私たちは常にこの動機によって打ち負かされ、誠実さを失っています。私たちの真の決意を証明できるものは、試み以外にありません。ですから、神は私たちを試し、調査されますが、次に失望されるのです。私たちはどう応答するのでしょうか?私たちの悲しみや痛みは主のためでしょうか、それとも私たち自身のためでしょうか?私たちは失望しているのでしょうか、それとも、私たちが気にかけているのは本当に主だけであり、私たちは自己の中にはまったくいないのでしょうか?私の言わんとしていることはおわかりでしょう――結局のところ、「自己からのものはなく、すべてはあなたから」かどうかを調べるために、私たちは試みの状況の中に置かれることになります。大いに現実的な試みという実際的方法による以外、私たちには決してわかりません。主はこれをよく御存知なのですが、主が知っておられるだけでは不十分です。私たちが試みに会うとき、私たちは賢く協力的でなければなりません。これがあらゆる試みの焦点です。主は一撃で事を行うこともできますし、機械的に行うこともできます。しかし、私たちは道徳的な世界にいるのであり、主は道徳的根拠に基づいて人に対して働かれます。人には意志があります。この意志が人を道徳的に責任ある者とします。ですから、人は神と協力して自分の意志を行使しなければなりません。
あなたは申命記八章二節の御言葉を覚えておられるでしょう。「あなたは、あなたの神、主がこの四〇年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたをへりくだらせ、あなたを試し、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るかどうかを知るためであった」。私たちの英訳聖書はその完全な意味を伝えていません。引用したこの翻訳だと、「主は私たちを試さないと、私たちの心のうちを知ることができないのか?」という疑問が生じるかもしれません。これに関して疑問の余地はありません。この御言葉の真の意味はこうです――「それはあなたに自分の心のうちにあるものを知らせ、あなたがその命令を守るかどうかを知るためであった」。イスラエルは自分自身の心を知って、啓示された神の御旨に反するものを拒否する地点に達する必要がありました。そして、それは四〇年に及ぶ戦いだったのです。主は、彼らに対する御旨は約束の地であることを示されました。彼らは、自分たちの心の中には依然としてエジプトが地位を占めており、この約束の地に敵対していることを見出しつつありました。そこで、主は彼らに、自分たちの心の中に何があるのかを認めて、エジプトを拒否するよう要求されたのです――彼らがエジプトから逃げた時にエジプトを拒否したように、荒野でもそうするよう要求されたのです。これは内側の問題でした。彼らの心が完全に約束の地に向かって、その地を慕い求めるようにならない限り、主は彼らをその中に導き入れることができませんでした。ヨシュアとカレブはその地に入りました――彼らは完全に主に従ったのです。彼らと同世代の他の人々はみな失敗したのに、なぜ彼らは約束の地に入れたのでしょう?彼らはエジプトを完全に、決定的に、全面的に屠っていたからです。客観的にではなく、主観的に屠っていたからです。そして、神が望まれたように約束の地を尊重したからです。この人々は日毎に、年毎に試されました――「あなたは主に従うことを本気で望んでいますか?あなたは『望んでいます』と言っていますが、本当でしょうか?試してみることにしましょう!」という根拠で試されていました。主は、彼らが自分の心のうちを知るようにしておられたのです。
この内なる神の王国はとても実際的なものであり、私たちに対する主の取り扱いはこれによって説明がつきます。この王国の諸々の法則や原理を私たちが認識する時、試みが到来しなければなりません。私たちが自分のイサクを放棄する時、イサクが戻って来るのがわかっているからという理由で、放棄するようではいけません。主が本当にイサクを私たちに要求しておられ、彼が戻ってくることはないとわかっていたとしても、私たちはイサクを放棄しなければなりません。ここに戦いがあり、勝利があります。私たちの誰も、まだそこに十分に到達した人はいません。だから、私たちが関わっている所に、この王国が十分に到来していないのです。しかし、私たちがこの問題で勝利すればするほど、ますます神の王国が到来します――力と救いが到来します。また、安息が到来して私たち自身の心を解放すると私は信じます。主はこの言葉の意義を私たちに示して下さいます。
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