今朝、私たちは預言者エゼキエルに啓示されたものに戻ることにします。きっとあなたたちはこの六つの章(四〇〜四六章)を読んだ時、明確な全体像を得るのにとても大きな困難を覚えたことでしょう。私はこの家とその細部全体の平面図を精確な寸法で描こうと何度も試みました。しかし、現在に至るまで、うまくいっていません。それが不可能だからではありません。今朝、ここには、それを首尾良く行える建築家が数人おられるかもしれません。しかし、この問題に関して私は主に向き合ってきましたし、主もまた私に向き合ってこられました。私は黒板に紙を貼り、私が持つすべての道具を用いて、何度も何度もこの図面に取り組んだのですが、あまりうまくいかないことがわかりました。まるで私は主が私に望んでおられないことをしているかのようでした。あなたにこの経験があるかどうか、私にはわかりません。何かをしようとするのですが、その中にまったく命がないのです。それは死んだものになってしまいます。そして、あなたが霊的に敏感なら、「主はこの中にはおられません」と言わざるをえなくなります。この家の平面図を紙に描こうとする度に、私はこう感じたのです。今朝、私はこの点から始めることにします。これにはとても重要な原則が含まれていると、私は信じているからです。
これらの章を読む時、私たちは膨大な量の詳細に直面します。すべての詳細に取り組むのはとても困難です。この一連の集会でそれを取り扱おうとするなら、それは不可能であることがわかるでしょう。一つの理由は、それにはかなり長い時間がかかるからです。もう一つの理由は、私たちがその中に命を感じなくなるかもしれないからです。私が言いたいのは次のことです。すなわち、細心の注意を払って避けなければならない過ちに、私たちはいとも簡単に陥ってしまいやすいのです。その過ちとは、霊的な事柄を技術的体系に帰着させてしまうことであり、神の家の技術にかかりっきりになってしまうことです。これはとても大きな危険です!今朝、私はこれを強調したいと思います。
ここに記されているこの膨大な分量や詳細を取り扱う力は、私たちにはまったくありません。もしこれをたんなる技術的体系に帰着させようとするなら、私たちは容易にその命を台無しにしてしまうでしょう!ですから、あなたたち兄弟たちにお勧めします。これに関して細心の注意を払って下さい。神の家を技術的問題にしないよう、細心の注意を払って下さい。神の家が一つの体系にされるやいなや、それは命を失いかねません。これが教会の歴史の中で何度も何度も起きたことです。使徒行伝の終わりに辿り着く前に、これが起きているのがわかります!今日のキリスト教組織が始まりかけていたのです。ご存じのように、パウロがテモテに彼の最後の手紙を書いたのは、物事の霊的性質を回復するためでした。教会の役職はたんなる役職ではないこと、長老たちは役人ではなく霊的な人々であることを、彼は示そうとしたのです。
神の家は組織ではありません――それは霊の家です。テモテの時代、人々はすでに霊的な事柄を地的組織にし始めていました。そして、過去数世紀、これが何度も起きました。神は霊的性格を持つ何かを行ってこられましたし、物事の霊的性質に関する新鮮な啓示を与えてこられました。そして、しばらくの間、この霊の命によって、物事が進みます。すると次に、人々がそれを握って、固定化された組織にしてしまうのです。人々はそれを天から地に移してしまいました。そして、そうすることにより、彼らはその霊の命を殺してしまったのです。これが今日地上のキリスト教の中にある多くの事柄の歴史です。その多くは実際的な霊の命により始まりました――かつては霊の力の中にあったのです――そして、それらから命の川が流れ出ました。しかし次に、人がそれらを握り、一つの組織にして、物事の中に技術的要素を導入してしまいました。そして、そうすることによって、人々は命を殺してしまったのです。私はあなたたちにお勧めします。この危険に気をつけて下さい。そして、細心の注意を払って、それに警戒して下さい。特に、指導する責任を負っている人は気をつけて下さい。
さて、エゼキエル書に示されている神の家に戻ることにします。もちろん、この描写は神がいかに厳密で注意深いかを示しています。それは主がごく些細なことにもこだわられることを示しています。これが神の家の掟であることがわかります。神はごく些細なことですら、大いにこだわられるのです。どんな小さなものにも寸法が示されています――それは神によって与えられた寸法です。その寸法より小さくすることも大きくすることも許されません。それは主の御心を正確に表すものでなければなりません。すでに述べたように、ここには途方もない量の詳細が記されています。しかし、そのどの部分も、物事を御心にかなうものにしようとする主の特別な配慮を示しています。私たちはこれを認識していますが、同時に、示されているのは組織ではないことを認識しなければなりません。この家の幻で、神は組織を示しておられるのではありませんでした。神は団体を示しておられるのではありませんでした。神はひとりのパースンを示しておられたのです。それは御子のパースンです。これは霊の家であり、真理の体系ではありません。この家の第一の特徴は命と関係があります。
これを両面から見ることにしましょう。命は振る舞いの厳格さを要求します。命は秩序の厳格さを要求します。しかし、この命がなくても秩序を持つことはできます。組織や技術がこの命を殺してしまうおそれがあります。技術的に聖書にしたがったからといって、聖書にしたがって命が生じるとは限りません。キリスト教をユダヤ教と同じように律法の体系にしてしまうことも可能です。この家の掟は命の聖さです。ですから、私たちは客観的な方法でエゼキエル書のこの宮を見なければなりません。このような方法で最初エゼキエルは宮を見ました。この宮に関して二つの光景がエゼキエルに示されたことがわかります。まず第一に、彼は遠くから宮全体を見ました。彼はとても「高い山」から宮を見せられました。彼はこのような方法で宮を全体的に見ました。彼は宮の大まかな輪郭、その境界、その包括性を見ました。次に、御霊は彼を宮の中に連れて行かれました。そして、彼は宮を中から見ました。彼は中から宮の詳細をすべて示されました。これをこのように見ることは重要です。
この天的な観点から見える第一のものは、この神の家の巨大さです。この家の全域がエゼキエルに啓示されました。そしてそれは、昨日見たように、とても巨大でした。私たちはキリストとその教会を実際よりも小さくしないよう大いに注意しなければなりません。私たちは神が定められた大きさよりキリストを小さくしてはなりません。私たちはキリストを、私たちだけのキリスト、私たちの小さなキリスト、私たちに属するキリスト、私たちの特定の場所のキリストにしてはなりません。私たちは神が定められた大きさよりキリストを小さくしないよう大いに注意しなければなりません。また、私たちは神が定められた大きさより教会を小さくしてはなりません。教会は私たちのちっぽけな教会ではありませんし、誰かのちっぽけな教会でもありません。教会は私たちの思いを遙かに超えて大きなものなのです。教会は私たちの想像力を遙かに越えています。これはとても偉大なキリストであり、とても偉大な教会です。
ここでまた、私たちは一つの危険に対して警戒しなければなりません。それは常にそこにある危険であり、キリストと教会の大きさを小さくしてしまうこと、自分たちが見た寸法に教会を縮めてしまうことです。教会の寸法は、私たちの教会理解の寸法ではありません。教会の寸法は、私たちの教会把握の寸法ではありません。エペソ書の中の教会に関する使徒パウロの祈りは、エペソ人たちの理解が増し加わることでした。彼は教会が「その広さ、長さ、高さ、深さ」を知るよう祈りました。これは人のあらゆる知識を超えた知識です。もし他の使徒にまさる点が使徒パウロにあるとするなら、それはまさに次の点です。すなわち、彼は常にキリストの偉大さと教会の偉大さに圧倒されていたのです。
ですから、私たちはそれをこのように見なければなりません。そして、キリストと教会を私たち自身の大きさにまで、それを知る私たちの知識の大きさにまで小さくしてしまう危険性に対して、常に警戒しなければなりません。あなたも私も主とその教会に関して、これまで見て来たことよりも遙かに多くのことを学ばなければなりません。この事実が現実のものとなる時は常に、私たちは狭量さから救われるでしょう。次に、ここには大いなる豊かさの領域があります――この豊かさが万物を満たし、万物は満たされてこの豊かさに至ります。この家は万物に極みまでも影響を及ぼします。私たちは川に来る時、この豊かさに来ます。この川はこの家の影響であり、効力です。この川はこの家から発して、世界に流れて行きます。そして、全世界に影響を及ぼします。ですから、この家の中に蓄えられているものはみな、地の果てにまで影響を及ぼす可能性を秘めているのです。
さて、この家、この家全体の大きさは、正方形であることがわかります。この家には四辺があり、どの辺の長さも同じです。今、私はこの宮の敷地全体について話しています。宮の敷地全体は一つの大きな正方形であり、四辺の長さは同じです。開始する時、数字の「四」について何を話したか、あなたたちは覚えておられるでしょう。数字の四は被造物の数であることを指摘しました。四は全被造物を含んでおり、この家はキリストにある新創造を表しています。パウロが私たちに告げているように、キリストは万物を満たし、万物は満たされて彼に至ります。あるいは、エペソ三・九のパウロの別の句を用いると、「この奥義の執事職の何たるかを、すべての人に見せるため」です。
「この奥義の執事職の何たるかを、すべての人に見せるため」という御言葉によく注意して下さい。これは必ずしもすべての人がこれを受け入れることや、理解することを意味するのではありません。私たちは教会の真理をほんの少数の人だけに限定しないよう、大いに注意しなければなりません。私たちは次のように言う人々であってはなりません。「さて、私たちは教会を見た民であり、教会の立場に立っています。私たちは教会の真理を握っており、キリストのからだの意義を見ました。他の多くのクリスチャンたちは教会を見ておらず、教会の立場に立っていません。ですから、私たちはどのような結論を下すことにしましょう?私たちは教会でなければなりません。しかし、彼らは教会ではありません!」。これはひどく人為的な結論であることがわかります。私たちはこの危険性に関して大いに注意深くなければなりません。真理の理解や教会に関する立場には違いがあるかもしれませんが、神の御旨は「この奥義の執事職の何たるかを、すべての人に見せる」ことです。あなたはすべての人から逃れることはできません。なぜなら、神の御旨の範囲はすべての人だからです。私たちは自分の心と思いを神の寸法まで広げなければなりません。あなたはキリストを大きくしすぎることはできません。教会が神の教会であって人の教会でない限り、あなたは教会を大きくしすぎることはできません。ですから、ここで私たちはキリストの包括性を持ちます。
パウロはこの感覚で圧倒されていた、と私は述べました。私たちを大いに圧倒する数々の偉大な物事があり、パウロは常にそれについて叫んでいました。彼は「神の知恵と知識の富の深さ」について語り、「神の道は何と究めがたいことか!」と言いました。また、彼は「卓越した富」について語りました。パウロはキリストとその教会のこの偉大さに圧倒されていたのです。その結果は次の通りです。キリストの教会について真に理解する時、私たちは霊の中で寛大にされるのです。小さくされるのではありません。キリストを真に理解することほど、私たちを狭量さから救うものはありません。もし私たちが狭量になるなら、また働きの精神が狭量なものになるなら、実際のところ、私たちはキリストを理解していないのです。このように、家に関するエゼキエルの幻のこの箇所から第一にわかるのは、このことです。この家は何と大きいのでしょう。それは新創造全体を表しています。来るべき時代、この家が万物を満たすでしょう。また、万物はこの家の影響を受けるでしょう。これは輝かしい幻です。ですから、私たちはとても寛大な民でなければなりません。霊と心において寛大でなければならないのです。
家:神の栄光の場所
次に、この家の三つの目的に注目することにします。まず第一に、この家は神の栄光の場所です。エゼキエル書四三章七節、「彼は私に言った、『人の子よ、これは私の王座のある所、私の足の裏の踏む所、私が永遠にイスラエルの人々の間に住む所である。また、イスラエルの家は、民もその王たちも、姦淫と、高き所にある王たちの死体とをもって、私の聖なる名を汚さない』」。七節へ続く言葉は「栄光」という言葉であることに気をつけて下さい。なぜなら、二節は「すると、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来た」と述べているからです。次に四節と七節は、「主の栄光が、東に面した門の道から宮に入った。(中略)そして、彼は私に言った、『これは私の王座のある所である』」と述べています。この家は栄光の王座がある所なのです。
さて、この家がエゼキエルに示される一九年前に、「この栄光」はエルサレムを離れました。この栄光は、文字通り地上のエルサレムに戻ろうとしているのではなく、霊の家に戻ろうとしています。同じように、神の御子が拒絶された時、この栄光は地上のエルサレムを離れました。それは決して地上のエルサレムに戻ることはありませんでしたが、ペンテコステの日に霊の家に戻ってきました。この家は神の栄光の家であり、この七節全体から「この栄光は聖なる栄光である」ことがわかります。この栄光はたんなる明るい輝きではなく、ある霊的な状態です。ここには汚れや死体の余地はありません。ここには死や腐敗はありません。この栄光は聖なる栄光であり、腐敗や死は除かれています。栄光は霊的状態に基づくことを、どうか覚えておいて下さい。この栄光は聖潔に基づきます。ですから、この家は第一に神の栄光の場所です。
家:神の統治の場所
次に、この家は神の統治の場所です。「これは私の王座のある所である」。この家は神の統治の座です。これは天的な家であることを覚えておいて下さい。神の統治の座は、ローマであれ、他のどこかの場所であれ、地上の教会の中にあるのではありません。神の王座は天にあります。私たちが天的な地位に着く時だけ、私たちは神のこの統治の下に来ます。さて、これはとても強烈な言葉です。この言葉には多くの内容が伴っていますが、私たちが天的な地位に着く時、私たちは実際に神の統治の下に来ます。神の統治下にあることはとても重要な問題であることに、きっとあなたは同意されるでしょう。神の統治下にないなら、私たちや教会にいったい何の望みがあるというのでしょう?
ですから、使徒行伝はこれをとても明確に私たちに示しています。使徒行伝を見ると、教会は天の統治下にあり、大いに有用です。しかし、教会が人の統治下に来る時、教会はその有用性を失います。教会統治には天的な地位が必要です。つまり、教会も家も、まったくキリストにしたがっていなければならないのです。主の統治は、まさにキリストにしたがっているものを通して来ます。「これは私の王座のある所である!」。これはどんな所でしょう?――キリストにしたがっている所です。ここでこの幻の中に示されていることはどれもキリストです。キリストが全ての上に立っておられます。すべてはキリストからその寸法と性格を受けます。これが王座のある所です。
次に、この家は御霊によって完全に秩序づけられている家です。この宮における御霊の地位に気づかれたでしょうか?―「御霊は私を引き上げられた。御霊は私を中に導かれた。御霊は私を外に連れ出された。御霊は私を案内された」――これはみな御霊の中でであり、御霊によってです。これは聖霊によるキリストの啓示であり、教会統治の究極的完成です。この家の統治は聖霊の統治です。聖霊は人々を用いるかもしれませんし、いわゆる長老たちを選ばれるかもしれません。しかし、地位と霊性には大きな違いがあります。あなたはいわゆる長老の地位に着くことはできても、霊的には長老ではないかもしれません。もしあなたが霊的に長老なら、あなたはその役割を果たすことになるでしょう。あなたの霊の度量が認められて、あなたが長老にされてもされなくても、もしあなたが霊的に長老なら、あなたは長老になるでしょう。私は言いますが、この統治は霊的統治です。新約聖書に出てくる人々は、「聖霊に満たされた」人々として描写されています。彼らは使徒、長老、執事でした。「御霊に満たされて」いたこと、これが彼らをそのような者にしたのです!
家:神の命の器
次に、三番目です。この家は神の命の経路、もしくは器です。この家のような家から、命が流れます。命が流れるのはこの家からです。あなたはこの命の流れを起こす必要はありませんし、この命を造る必要もありません。この命は一つの流れから自然に流れます。あなたは行って、水を入れるバケツを集め、この家から水を注ぎだそうとする必要はありません。これには何の地位も関係ありません。これには何の助けも必要ありません。これには人の行いは関係ありません。この命は自ら湧き上がります!そして、この命は流れ出て、このように家から流れ出ます――これは主の王座がある家であり、天の統治がある家であり、主がおられる家です。この家から命が流れます。その証しはこの命の中にあります。
ヨハネは「これが証しです」と言いました。この証しが何か知ることを、あなたは願っておられるでしょうか?この証しは教理や教えの体系ではありません。この証しは技術ではありません。「この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えて下さったこと、この命が御子の中にあることです」(一ヨハネ五・一一)。この証しはこの命の中にあります。そして、この証しが私たちの中にある時、この命が私たちの中にある時、この証しは私たちの中にあります。ですから、何であれ、証明するものは命です。これは私たちを探る言葉です!
命は主の臨在の有無を決めるものです。命は物事がキリストにしたがっているかどうかを告げるものです。命はこの奉仕が神の奉仕かどうかを試すものです。命はすべてを試します。問題は、「これは命を供給しているでしょうか?これは生きているでしょうか?これは命を注いで、地の果てまで命を注いでいるでしょうか?!」ということです。もしそうでないなら、何かが間違っています。とても素晴らしい技術や組織だったとしても、何かが間違っています。すべては「この命」によって試されるのです。
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