朗読:イザヤ五二・一三〜五三・一二
「誰が私たちの知らせを信じたのか?誰に主の御腕は現されたのか?」
この「腕」という言葉は聖書の中で象徴的に何度も使われている言葉であり、人が力と助けを求めてそれに頼るものを意味します。この腕は人を示すものです。その人が弱さの中にある時、その腕は弱いものとして描かれます。また、その人が強い場合もあります。この腕は人を象徴するものであり、時には人々や国を象徴することもありますが、常に強い状態や弱い状態を示しています。ですから、「主の御腕」というこの句は、それが人々や諸国民に関して用いられる場合、主の御心にかなっているものに主の力と助けを与えて、主がそのためにご自分を力の中で示されることを意味します。
では、誰に対して主はご自分を力の中で示されるのでしょう?誰に対して主は御腕を「あらわにされる」のでしょう(イザ五二・一〇)?「誰に主の御腕は現されたのか?」。
聖書の例
さて、聖書の中には、主の御腕が現された多くの出来事がありますし、この句によって特徴付けられる特定の数々の機会があります。たとえば、主がイスラエルをエジプトから連れ出された出来事では、主が御腕を現されたこと、主が御腕を伸ばされたことが繰り返し述べられています。この出エジプトの出来事は、主が御腕を示された顕著な機会、主が「御腕を下された」(イザ三〇・三〇)顕著な機会として、たびたび述べられています。イスラエル人を連れ出すために、主の御腕が「現され」ました。神がご自分の民のためにパロとエジプトを取り扱われたこの物語全体を読むなら、この出来事はすべて主の御腕に集約されることがわかります。それは主が御腕を現されることだったのです。もちろん、これは一つの絵図にすぎません――これは選びの民をこの世と暗闇の王国から解放することでした。しかし、そのために主の御腕が現されるのです。
また、イスラエルのバビロンからの解放を見てみましょう。この出来事は主の御腕が現された別の機会でした。「主は民を捕囚から連れ帰るために、バビロンの上に御腕を伸ばして、その支配者たちを引きずり下ろし、その軍隊を投げ倒された」(イザ四三・一四)と何回述べられていることでしょう。これもまた象徴であり――純粋な証しを主の民の間で回復すること、失われた証しを回復することを意味します。「主の御腕は誰に現されたのか?」と問うなら、あるいは時制を変えて、「主の御腕は誰に現されるのか?」と問うなら、その答えは、「主の御腕はこの目的のためであり、この目的と関係している」ということです。
しかし、主の御腕が現された最高の例は、イエスの復活と、彼が天で大能者の右手に上げられたことです。それに続く教会の初期の時代、主の御腕は何と素晴らしく現されたことでしょう。使徒の働きの最初の数章を見ると、主の御腕が何度も何度も伸ばされていることがわかります。彼らが迫害されていた時、数人が祈りのために集まって、「あなたの僕たちに大胆さを与えて下さい。あなたの御手を伸ばして、しるしと不思議を行って下さい」(使四・二九〜三〇)と祈りました。ヘロデはこの御腕によって打たれました。タルソのサウロもその同じ衝撃力によって打たれました。多くの場所で多くの事が起きました。主が御腕を現しておられたからです。
また、新約聖書の最後に行き着く前に、イスラエルの国全体が主の御腕に直面しました。主の御腕が現されて、イスラエルの国を完全に打ち倒し、散らしてしまいました。この破壊はとても徹底的なものだったため、イスラエルの元々の統一はいまだに回復されていません。まだあります――ローマ帝国は全軍をあげて主とその油塗られた者を攻撃しましたが、主の御腕に直面して、完全に滅ぼされ、帝国や国ではなくなってしまいました。これは主の御腕の現れの、歴史上のほんの数例にすぎませんが、「主の御腕は誰に現されるのか?」という問いに対する答えです。
共通する特徴
さて、これらの事例の多くには、共通点がいくつかあることに注意して下さい。
第一に、世の勢力が神に逆らって立ち上がったことです。この世の諸勢力が、主とその油塗られた方に逆らって、その頭をもたげたのです。
第二に、主ご自身の民の弱さや背教という状況を通して、それには主の栄光と主の御旨が関係していたということです。イスラエルをエジプトに残しておくのは、主の栄光に反することでした。主はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれました。この契約があるにもかかわらず、イスラエルの子たちをエジプトで束縛下にとどめておいて、彼らの力を悪の勢力に与えることは、啓示された主の御心の御旨に完全に反することでした。イスラエルをエジプトに残しておくのは、神の栄光にまったく反することでした。それは神にとって不名誉なことであり、啓示された神の意図に反することでした。主が御腕を現されたのは、彼ご自身の民の状況のためだったのです――このような事例が何とたくさんあることでしょう。
次に第三に、この状況の中から一人の執り成し手が叫んだことです。例えば、モーセです。彼はエジプトにおける民の状況に関して、その状況の中から神に触れました。ダニエルと彼と共にいた数人の人たちも、バビロンでのこの状況の中から、神に叫びました。使徒の働きには、そのような祈りの集会について記されています――選民が復讐を求めて叫んだのです。その状況の中からの叫び――これが何度にもわたる神の介入に共通する特徴です。
今日、これに関していくつか疑問が湧きます。この三点に関して、今日、過去のこれらの状況に対応する状況は存在しているのでしょうか?このような状況は今日存在しているのでしょうか?その答えは明白だと思います。世の諸勢力は主に逆らってその頭をもたげているのではないでしょうか?今日ほど、世の諸勢力が神の御座を攻撃している時は、かつてなかったのではないでしょうか?キリスト教の状況は主にとって不名誉なものではないでしょうか?主の真の証しは今日、啓示された主の御心に反する霊的状況に巻き込まれているのではないでしょうか?その答えもまた自明です。今日、この世を行き巡るなら、必ずこの二つのものに出くわして、圧倒されそうになってしまいます。悪のとてつもない力が、神に敵対しているのです!あなたはそれを感じ、それに出会い、それは至る所であなたに姿を現します。これは苦しいことなのですが、誇張せずに言うと、キリスト教全般の状況はそれよりもさらに苦しいものです。キリスト教は、神が御旨に関して啓示されたことと、大いに矛盾しています。時々、「キリスト教の最大の敵はキリスト教である」と言わざるをえなくなりそうになります。もちろん、私はごく一般的な話をしています。神の栄誉と栄光は今日、神の民の間の状況と深く関わっており、その状況は神にとって非常に不名誉なものです。今日、この二つの状況がまぎれもなくはびこっています。
三番目の特徴についてはどうでしょうか?この状況の中から叫び声があがっているでしょうか?これについて多く述べるのは困難です――おそらく、「はい」とも「いいえ」とも言えるでしょう。多くの神の子供たちの心の中で、「状況は正常なものではない」という感覚がますます強まりつつあります――「この状況は神が意図しておられる状況ではない」という真の感覚があるのです。そして、多くの人の心の奥底には、神の民の間の状況が何とか変わることを願う叫びがある、と私は信じます。みなが大体満足している一方で、ごく少数の人がちらほらと叫んでいます。中には、状況を認識・理解している叫びさえあります。その叫びは、「主はご自分の教会のために、今の状況とは異なる状況を望んでおられるはずです。この状況は決して神の水準にかなうものではありえません」という確信から生じた叫びです。もしかすると、私たちが予想しうる以上に、このような思いは強いものであり、その表れは大きなものなのかもしれません。主が何かを行うには、主はこのような叫びを得なければなりません。しかし、たとえそれがバビロンにいるダニエルと三、四人の人だけだったとしても、神にはそれで十分です。私はこの最後の点を大いに強調したいと思います。神に対する深くて力強い叫びが、緊急に必要です。いずれ、この点に戻って来ることにします。
主は再び御腕を現されるのか?
この三つの特徴が確かに今日定着しています。ですから、今は主の御腕が一度ならず現されるべき時ではないでしょうか?「誰に主の御腕は現されたのか?」。前の時と同じように、ついに主の御腕は再び現されることになる、という期待を正当化する根拠は聖書の中にあるのでしょうか?私たちの祈りと期待を支持する根拠はあるのでしょうか?確かにたくさんあります!例えば、ペンテコステの日にペテロはヨエルの預言から引用しました。しかし、引用を終える前に、彼は途中でやめました。そして、その日、この預言はあるところまでしか成就しなかったのです。この預言の成就は御霊の傾注まででした。ペテロは、「これは預言者ヨエルが語ったことです」(使二・一六)と言いました。しかし、ペテロが数節引用したヨエルの預言は、その日に完全に成就されたわけではありませんでした。使徒の働き二・一九〜二一をもう一度見るなら、この同じ預言には何か強力な事柄がいくつか含まれていたこと、そしてそれは後の日のためにペンテコステの日には保留されたことがわかります。それらの事柄は別の時のために保留されているのです。
また、次の出来事をあなたは覚えておられるでしょう。主イエスは御霊の力を帯びて荒野から戻ると、ナザレに行き、安息日に会堂に入られました(ルカ四・一六〜一九)。すると、巻物が彼に渡され、彼はイザヤ書六一章を開いて読み始めました。しかし、その預言を読み終える前に、あるところで彼は中断されました。「……主に受け入れられる年」という言葉で彼は中断して、お座りになりました。彼は「私たちの神の復讐の日」という言葉で終えることはなさいませんでした。預言のその部分は読まなかったのです。その部分は保留されて、いまだに成就されていません。
それから、マタイ二四章二九節以降のような節があります。この御言葉は主の再来の日、最後に何が起きるのかを示しています。この御言葉は、終末における主の御腕の現れと神の介入のしるしで満ちています。この節の言葉の中にはヨエルの預言の残りの部分と同一の言葉がいくつかありますが、これは印象的なことではないでしょうか?これらの事柄はまだすべて成就されたわけではなく、後の日のために差し止められているのです。
黙示録についてはどう言えばいいのでしょう?この本に関する歴史的解釈、将来的解釈、他のいかなる解釈をあなたが採用したとしても、この書の焦点は完全に主の再来の日にあり、この事実からは逃れることができません。この書は主の介入に満ちています――主は教会生活の中に、諸国民の生活の中に、そして暗闇の王国の中に介入されます。そうです、御言葉の中には私たちの期待を正当化する箇所がたくさんあると思います。最後に、主の御腕が大いに現されることになるのです。
主の御腕が現される必要性 (a)主ご自身の民の間で
後で、この質問をすることにします、「主の御腕がいつ、どの人々のために、いかなる状況に対して現されるにせよ、その現れはどのような原則に基づいているのでしょう?」。さしあたって、今日、主の御腕が現されるとても大きな必要があるという事実に、私たちの注意を限定することにします。第一に、主ご自身の民の間に、この必要が存在しています。その必要性は根強いものであり、差し迫ったものです。実に、この必要は個人的な個々の問題になっています。主が私たち一人一人と個人的に共に立つことができるかどうかは、とても重大な結果につながります――主は御力と大能を帯びて私たちの側に立ち、あなたや私のために個人的に御腕を示すことができるのでしょうか?主はあなたや私にご自分を委ねて、「私は力を帯びて、この男性と共にいることができ、この女性と共にいることができます。私は彼らの傍らに私の力を置くことができます」と言えるでしょうか?これが大いに重要な問題です。
また、私たちは地元にいる主の民の群れですが、主はご自分の力で私たちを支えることはできるのでしょうか?これもまた、とても重要な問題です。主は御力を帯びて私たちと共に立ち、「これこそ私が求めてきたものであり、私が守りたいものであり、そのために私の力を行使したいものです。私はこれと共にあり、この中にいます」と言えるでしょうか?これが究極的な問いです。もし主が私たちと共におられず、自由に御力を行使して、私たちのために力強くご自分を示すことができないなら、どんなことも――私たちのあらゆる奮闘、教え、時間や力の支出も――何の役にも立たないのではないでしょうか?
個人や地元の群れに言えることは、この世にいる神の民にも言えます。なぜなら、神の民全体がこの世界情勢の中に巻き込まれており、主の御腕以外の何ものも彼らを救えないからです。ただ一つのものだけが主の民の今日の必要と状況に応じられます。それは、主が御腕をあらわにされることであり、主が力強い御腕を「下される」ことです。
(b)この世において
しかし、これが主ご自身の民の間でこの三つの意味において本当のことだとするなら、この世、この不正で邪悪な世はどうなのでしょう?おそらく、私たちが極めて深刻な論争を時として主としそうになるのは、この点についてでしょう。正直に言うと、私はこれまでこの世界の大部分を巡って、色々なことを見て来たのですが、時として次のような疑問が私の心に湧き起こることがありました。「ああ、主よ、このようなことが続くのを、あなたはどうして忍んでおられるのですか?あなたは御位に着いておられるのに、どうしてこのようなことを耐えておられるのですか?」。誇張して言っているのではありません。ロンドンから数時間しか離れていない所で、私はあなたにあるものを示すことができます。それを見るなら、あなたは恐怖して、「ああ、神よ、この被造物をすぐに終わらせて下さい!」と叫ぶでしょう。この悪と苦難はこんなにも酷いものなので、主の御腕以外にそれに対応できるものはありません。
これが今日に対する言葉です。そこで、次の質問をすることにして、後でできるだけそれに答えたいと思います。主の御腕はどのような原則に基づいて現されるのでしょうか?なぜなら、ある意味、この御腕は管理されており、その現れには条件があることを、私たちは理解しなければならないからです。主の御腕がいわば麻痺している時もあるのです。そのような時、主の御腕は縛られて、動くことができず、自由ではありません。「私は民の間で縛られている人のようであって、動くことができません」(エレ一二・九)というのが預言者の叫びでした。主の御腕を治めている数々の原則や霊的法則があるのです。御腕を必要としているのが、私たち個人であれ、地元の群れであれ、教会であれ、この世であれ、私たちは主が御腕の力を行使される根拠を理解しなければなりませんし、主が御腕を上げて、それを伸ばし、ご自分の力強い活動を行われる条件を理解しなければなりません。
すでに述べたように、この問いにただちに答えることはしません。後で答えます。とりあえず、主の御腕が現される必要性というこの問題の全体像を示したいだけです。あなたが新たにこの必要によって捕らえられることを私は望んでいます。「主の御腕よ、起きよ!」(イザ五一・九)。この御言葉が私を何週間も突き動かしてきましたし、特に極東を巡っていた時にそうでした。この多くの面にわたる世界情勢の中、主の御腕がどれほど必要とされていることでしょう。これを別の言い方で述べることもできます。「おお、主が何かを行って下さいますように――本当に何かを行って下さいますように!」。今日、主の御腕の現れが必要であるという感覚を主がご自分の民に与えて、私たちを前進させて下さり、私たちがまず叫び声を上げて、次に、主の御腕の動きを支配しているこの数々の法則と一致するようになるなら、このメッセージには価値があったことになりますし、実際に大いに役に立ったことになります。
心からの叫びの必要性
まず第一に、この地上の霊的不正に対して叫ぶ必要があります。この世に働くこの霊的不正から生じている、私が見聞きしたことの中からほんの少しだけ、告げることができたらよかったのにと思います――人々は命を奪われ、引き裂かれ、苦しめられており、家庭を破壊されています――ああ、これは恐ろしい物語です。これはまったく悪魔的な悪です――悪魔的計略・狡猾さに他なりません。そして、この悪は人々を通して、この世から神を追放すること、神に属するあらゆるものを追放することに、完全に専念しています。これはまったく邪悪です。この悲しみと苦しみに、私たちは毎日出会って接触していますし、今日、この世界のどこかで依然として続いているのを私たちは知っています。しかし、それを描写するのは不可能です――まったく非人間的なのです。今日、この地上で行われている事柄のこの悪魔的性格を、言葉で表現することはできません。ああ、この霊的不正に対して主の御腕をもたらす、天への叫びが必要です――なぜなら、これは霊的不正だからです。人はたとえ最悪の状態にあったとしても、自分だけでこんなことを行うとは、私は思いません。
次に、「クリスチャン」という名を帯びている人々の一般的な霊的状況によって主は不名誉を被っておられますが、これに対する叫びが必要です。これもまた恐るべき物語です。そうです、「クリスチャン」と名乗っている人々の間で、主は実際にこの困難に会っておられるのです。いわゆる「クリスチャン教会」によって主の御名が被っているこの不名誉に対して、叫びが起きる必要があります。
また、神の偉大な御旨についての皮相的な理解に伴う、あまりにも安直な満足感に対して、叫ぶ必要があります。神の偉大な御旨に対する皮相的で安直な姿勢がまかり通っていますが、これに対して私の魂は何度も何度も怒りを覚えました。「永遠から永遠に至る」神のこの途方もない御旨が啓示されているのに、それにもかかわらず、霊的な事柄に対する姿勢は「まあ、いいでしょう。少しだけで十分です」というものなのです。大きな満足を与えるには、ごく少量で十分なようです。神の御旨の偉大さに関する観念が少しでもあなたにあって、あなたがそれを言い表したとしても、皮相的で華やかなキリスト教はそれをすべて取り去ってしまいます。これを見て、あなたの心は引き裂かれそうになります。まるで、この騒がしい華やかなキリスト教には、御子に関する神のこの途方もない御旨にかなうものが何かあるかのようです。これにあなたは憤慨し、心の底から憤ります。神の偉大な御旨に置き換わって、その地位を横奪するものに対して、神の民は心から叫ぶ必要があります。
預言者イザヤが神の民イスラエルと諸外国の中に見いだされる諸々の悪によって圧迫された時、彼は大声で叫びました、「ああ、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動きますように。(中略)あなたは、私たちが期待しなかった恐るべき事をなされた時に下られたので……」(イザ六四・一、三)。「ああ、あなたが天を裂かれますように」!この世を行き巡って、状況を感得するだけで、この叫びがあなたの内に生じます。しかし、このような時代にあって、神の栄光のために、このような叫びを自分の内に生じさせて下さるように、この「内なる」叫びに自分を加えて下さるように、主に求めて下さい。自分をこの必要不可欠な道具また器の一部として下さるよう、主に求めて下さい。例えば、ダニエルとその友人、エステル、モーセ、エルサレムでの「祈りの集会」、このような他の多くの器のようにです。このような器の叫びは天に届いて、この御腕をもたらします。なぜなら、「このゆえにイスラエルの家は私を尋ね求めるべきである」(エゼ三六・三七)というのが決定的な原則だからです。主の御腕は何もないところに「現される」ものではなく、主への叫びに対してのみ現されます。「昼も夜も神に叫んでいる選民のために、神が復讐して下さらないことがあるでしょうか?私はあなたたちに言いますが、神は復讐して下さいます」(ルカ一八・七、八)。神は復讐して下さいます――しかし、そのためには叫ぶ選民が必要なのです。
主は私たちをそのような者にして下さいます。これが厳粛な言葉であることを私は承知しています。しかし、今は真剣になるべき時であり、現実の状況に直面すべき時です。万事順調であるかのように、愚者の楽園に居続けてはなりません。今日、叫びを神に至らせる必要があります。この大いなる必要にとても身近に触れることなく、これを述べることはできません。極東の状況を少しでも見たことがある人なら、こう感じずにはいられませんし、戻って来る時、「ああ、この状況について、神の民が叫びますように!」と心の中で言わずにはいられないでしょう。ですから、私は最初にこれを強調することにします。そして後で、主の動きの土台について見ることにします。