このイザヤ書五三章には(これに五二章の最後の三節を含めることにします)、神聖な思想、神聖な数々の法則、神聖な諸原則が見られると信じます。それらは主の御腕が現されるための永続的な普遍的条件です。これらの神聖な思想が何かを見いだすために、探求を続けることにします。この記録が示しているように、表面上明らかにわかることがいくつかあります。
この僕に対する人の姿勢
まず第一に、極めてはっきりとわかることは、この主の苦難の僕に対する人の姿勢と神の姿勢との違いです。この二つの姿勢が極めて明確に描写されており、まったく異なる二つの領域を示しています。この御方――「わが僕」――に関する人の姿勢や判断についての記述は二つの区分に分かれます――第一に異邦人の区分であり、第二にイスラエルの区分です。
(1)異邦人
この知らせを聞いてその描写を受け入れた異邦人の反応は、五二章の最後の数節に記されています。「多くの人があなたに驚いたように(彼の顔立ちは損なわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである)、彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからである」。
(次の節である五三章一節に述べられている)彼についての「知らせ」が広まり、諸々の国民や王たちを驚かせました。彼らは驚き恐れて口をつぐみました。その描写を人々は驚きのあまり信じられず、黙り込んでしまいました。「誰がその知らせを受け入れたのか?」。この人々ではありません!彼らはとても信じられなかったのです――「こんな人が主の僕であるはずがありません!こんな人ではありません!これが主の僕だというのですか?こんなに弱々しい人を神は承認されたというのですか?断じてそんなことはありません!」。彼らは口をつぐみ、彼らの顎は閉ざされました。これが異邦人の反応です。
(2)イスラエル
(a)彼の生涯に対して
イスラエルの姿勢はどうでしょう?彼の全生涯がここに記されています。まず第一に、彼の誕生と青年期に関して、彼は「渇いた地から出た根」として描写されています。ある意味において、この記述は正しい記述でした。なぜなら、ダビデの子孫は枯れ果てたように思われており、この国民は彼をこのように疑っていたからです。「彼には私たちの慕うべき美しさはなく」。彼がこの世に来られた時、栄光の輝きや知覚可能な光輝は何もありませんでした。結局のところ、彼は何者なのでしょう?彼はどこから来たのでしょう?もちろん、私たちはよく知っています。しかし、マタイとルカが記録を書いたのは彼が栄光をお受けになったかなり後のことであることを、あなたは思い出さなければなりません。彼らは労苦して、彼の先祖を辿り、彼の誕生時の環境をすべて探しだすことに取り組みました。その記録は福音書の中に記されています。しかし、これらの記録はイスラエルの中では一般的なものではありませんでした。「調べて見なさい。ガリラヤからは一人も預言者は出ていない」(ヨハ七・五二)と彼らは言いました。「ナザレから何の良いものが出ようか?」(ヨハ一・四六)。彼がお生まれになった時、彼には生来の人の栄光や尊貴は何もありませんでした。彼は人間的威光を帯びずに誕生されました。彼の生涯については――ここには積極的なことよりも消極的なことが多く記されており、長所よりも欠点の方が多く記されています。彼には見るべき「姿はなく」、麗しさもなく、「私たちが慕うべき美しさもありません」。主イエスの容貌を思い描こうとしてはいけません。人々は彼をこのように見たのです。彼の相続財産は災いでした――「悲しみの人で、苦しみを知っていた」。彼の生涯は、人の嗣業であり経験である諸々の悲劇と関係しており、ただ悲しみと、苦しみと、災いしかありませんでした――人々は彼の生涯をこのように見ていたのであり、これが人の判断でした。彼らから見ると、彼が主の油塗られた選びの僕、贖い主、メシヤであることを証明する積極的要素は何一つ見あたらなかったのです。
(b)彼の死に対して
イスラエルは彼の死の「知らせ」を聞いた時、どのような判断を下したのでしょう?イスラエルは彼をどのように見たのでしょう?「渇いた地から出た根」です。それには何の美しさも魅力もありません。それは道で見つけたら、蹴って道からどける類のものです。彼らはこれをそのように判断しました。「さげすんで、拒絶した」――これがイスラエルの判断でした。「悲しみの人で、苦しみを知っていた」。「これがメシヤだって!これが主の油塗られた者だって!これがエホバの僕だって!これがイスラエルの贖い主だって!いいえ、断じてそんなことはありえません!」。「人から顔を背けられる者のように、彼はさげすまれた。私たちも彼を尊ばなかった」。このような振る舞い、態度、表情を思い描くのは困難です。「彼は神に打たれた、と私たちは思った」。(神に打たれた!これが彼の十字架の意味です――彼はそれに値したのです!神が彼を打たれたのです!)。「……神に打たれ、苦しめられた」。「神は彼の受くべき判決を彼の上に下し」。「人々は彼の墓を悪しき者と共に設け」――疑いなく、アリマタヤのヨセフが介入して、ピラトから彼の体を願い受けていなければ、これが起きていたでしょう。彼は悪人らと共に共同墓地の中に投げ棄てられていたでしょう。
彼の死について何と完全に描写されていることでしょう!「虐待されても、自分を低くして、口を開かなかった。屠り場に引いて行かれる小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている羊のように、彼は口を開かなかった」。彼は屠り場に向かう者のようだったのです――何と酷い、恐ろしい言葉でしょう!屠り場!「神に打たれた」――これは十字架の解き明かしでした。「裁きによって、彼は取り除かれた」。実は、その時、彼の方が迫害者たちに対して裁きを執行していたのです。しかし、人々の見方はこうでした、「彼が裁きによって取り除かれるのは当然のことです。彼の特権をすべて剥奪し、彼の権利をすべて抹消しなければなりません。彼はそれに値するのです」。「彼は生ける者の地から絶たれた」。「神が彼を断ち切りました――神がそれをなさったのです!」。これがイスラエルの判断であり、人の判断です。神聖な事柄、神聖なパースン、神聖な働きに関する人の判断は、全く外面的考えに基づいており、内なる実際については何も知りません。
神のこの奇妙な道はなぜか?
さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられます。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?
さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の考えからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。
第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。
そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?
人の間違った価値観のため
今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。
「素晴らしい十字架を見渡す時 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」
これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。
私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根元を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根元を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。
人の高ぶりは十字架によって空しくされる
実を言うと、私たちが十字架のもとに来る時、この世が正当な誉れとみなすものですら空っぽにされることになります――まさに下水に流されてしまうのです。タルソのサウロをご覧なさい――彼には何か誇るべきものがあったのではないでしょうか?彼は先祖から受け継いだ長所をすべて私たちに告げます。それらの長所を彼は誕生、しつけ、訓練、習得、成功によって得ました。彼ははしごの頂点に達しました。主イエスの十字架の前に来た時、彼はそれをどう思ったでしょう?それを単なる「ちりあくた」と呼んだのです!彼にとって、人生はそれに基づくものではまったくありませんでした。それは神の御前に立つ立場として神の法廷では受け入れられないものであることを、彼はとてもよくわかっていました。もしあなたや私が心と霊と真実とにより「神の御子の交わり」――神の僕との交わり――の中に入るなら、このような道で私たちの天然的な価値観は消えていきます。私たちは先天的あるいは後天的に、何か誇るべきものを持っているかもしれませんが、そのようなものがすべて無に帰す地点に達するよう、私たちは定められています。とても注意深くしていないなら私たちの霊の命を脅かしかねないものが、それには常に含まれていることがわかります。
私が述べているのは、もちろん、神の御前における私たちの生活をそのようなものの上に据えることについてです。「そのようなものには何の価値もない」と言っているのではありません。しかし、もし私たちがそれらのものを神の御前に持ち出し、勘案し、重んじるなら、私たちが誰の仲間かは明らかではないでしょうか?私たちが神と肩を並べることはありません。神は人の高ぶりをすべて低くされました。主イエスの十字架により、神は人の栄光をすべて断ち切られました。ここに記されているエホバの苦難の僕の絵は、苦悩、ひずみ、恐ろしいもので満ちています。この絵は神の目から見た罪――高ぶり――の結果を示しています。神は人をこのようにご覧になります。高ぶりのゆえにこの知らせを受け入れようとしなかったこの人々について、神から見たそのありのままの姿が、十字架にかかっているこの人によって、ここに描写されています。彼は私たちの罪、私たちの不法、私たちの違反を身に負われました。私たちであるものがすべて彼の上に置かれました。神から見て、私たちはそのような者です。彼がその場所にもたらされたのは、ご自分のせいではなく、私たちのせいでした。これがこの章全体の論旨です。
しかし、神の御前で通用しないのは、それ自身は合法的で正しいものに基づく生活や、先天的あるいは後天的に得た長所や価値に基づく生活だけではありません。自惚れに基づく生活も通用しません。これはさらに巧妙なものかもしれません。確かにこれはさらに恐ろしいものです。ひとかどの者になる資格が元々ない人が、「自分はひとかどの者である」と思い込み始め、自尊心を表し、神の家の中で地位を得て、ふんぞりかえって歩き始めたとしましょう。これは主の僕の精神と何と対照的でしょう!「彼は叫ぶことなく、声を上げることなく、その声をちまたに聞こえさせることもない」(イザ四二・二)。彼には強引で、騒がしい、やかましい所が何もありません。それにもかかわらず、人々は神の家の中ですら地位を主張することができるのです。彼らはやかましく自己を主張し、自分自身に注意を引こうとします。これは神にとって極めて恐るべきことです。
詩篇作者は言います、「あなたは真実を心のうちに求められます」(詩五一・六)。結局のところ、私たちに関する真実とは何でしょう?神の御前で、あなたや私に関する真実とは何でしょう?なぜなら、神の御前で物事は正しく量られるからです(一サム二・三)。使徒は言いました、「愛は高ぶりません」(一コリ一三・四)。高ぶる(puffed up)という句は、空気で一杯で他には何もないことです!愛は「高ぶり」ません。神の御前で人は誇ることはできません。神の御前に出る時、私たちはまったく低くされます。これは常にそうでした――「彼を見た時、私は顔を伏せた」(エゼ一・二八、ダニ八・一七、黙一・一七)。
ですから、人の価値観と神の価値観は対照的であることがわかります。何という違いでしょう!この損なわれて傷ついた僕は、神の目から見て私たちがいかなる者なのかを私たちに示す神の方法です。神の道はとても深遠です。堕落した日から、人は常に自分自身に注意を引くこと、自分でひとかどの者になること、自分のために栄光を得ることを求めてきました。こうしたことにはみな、その核心に高ぶりがあったのです。高ぶりによってサタンは自分の高い地位から落ち、人も自分の高い地位から落ちました。そして、神はこうしたことをみな、主イエスの十字架によって拒否されたのです。「誰に主の御腕は現されるのか?」。誰であろうと高ぶった人に現されることはありません。神聖な委託の原則は次の通りです。「私が目を留める人は、貧しくて霊の砕かれた人である」(イザ六六・二)。「主は高ぶる者を遠くから知られる」(詩一三八・六)。「心高ぶる者はみな、主にとって忌むべきものである」(箴一六・五)。
ですから、一面において、主イエスの十字架は私たちの高ぶり、私たちの自尊心をすべて断ち切るものであり、誤った価値観に基づく生活を断ち切るものです。しかし他方、十字架は神の価値観を啓示します。神の価値観とは何でしょう?
神の価値観
ピリピ人へのパウロの手紙は、十字架に関する偉大な手紙ではないでしょうか?この手紙の二章はイザヤ書五三章を最もよく補完するものです。この手紙のこの部分がどのように始まっているのか聞いて下さい。
「そこで、あなたたちに、キリストによる励まし、愛の慰め、御霊の交わり、優しい慈しみと同情とが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、一つ心、一つ思いとなって、私の喜びを満たして下さい。何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心で互いに人を自分より優れた者と見なしなさい」。
何という要求でしょう!これは私たちの批判をすべて断ち切るものではないでしょうか?「批判すべきだ」と感じる人に対する批判ですら断ち切るものではないでしょうか?あの兄弟やこの姉妹には、何か華々しい欠点があるかもしれません――しかし、神だけかご存じなのです、私にはもっと悪い欠点があることを!
「おのおの、人を自分より優れていると見なしなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。この思いを持ちなさい」――「思い」という言葉がどれだけ頻繁に使われているのかに注意して下さい――「この思いを持ちなさい。それはキリスト・イエスの中にもあったものです。この方は神のかたちでしたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、ご自分を空しくして奴隷のかたちをとり、人のすがたになられました。その有様は人と異ならず、自分を低くして、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられたのです」。
前に述べたように、これはイザヤ書五三章の補足です。これにただちに続くのは、イザヤ書五二章の終わりの部分の補足です(「私の僕はとても高くなる」)。
「それゆえにまた、神は彼を高く上げて、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました」。
主の御腕が現される根拠は何でしょう?誰に現されるのでしょう?ピリピ人への手紙の二章に記されている人々に対してです。三章に行くと、人が誇りにしているもの、人が評価するもの、人が建てあげているものについての一覧表が見つかります。パウロの昔の人生がその好例でした。しかし当時、神は彼をご覧になっても、承認することも祝福することもなさいませんでした。「私はこの人の傍らに立ちます」と神は言われませんでした。神は最初に彼に会った時、彼を塵の中に下らせ、彼を砕いて粉砕してしまわれました。そして、その後、神は彼を起き上がらせました。この原則は極めて明確です。神にとって最大の悪は高ぶりなのです!神にとって最大の徳は柔和さなのです!ですから、ここに記されていることは、イザヤ書のこの偉大な章に記されていることの確認に他なりません。誰に主の御腕は現されるのでしょう?この御方に対してであり、この御方のようである人々――「キリスト・イエスの内にあったこの思い」と同じ思いを持つ人々――に対してです。
しかし、この主の僕について考える時、私たちの驚きはますます増して行きます。この御方は自分が何を経験し、どんな苦しみを受けるのか、そしてそれが意味することを、あらかじめご存じであり、喜んでこの道を取られたのです。それは私たちを高ぶり――高ぶりという不法――から私たちを贖うためでした。「不法」というこの言葉の語根はヘブル語では「強情」を意味します。主の僕が堕落の深淵にまで降りて行かれたのは、私たちをこの強情さ――これは実は心高ぶったサタンとの内なる同盟です――から解放するためだったのです!これにより私たちは高ぶりを正しく評価することができます。神の目から見て、人の誤った価値観だけでなく高ぶりがいかなるものなのかがわかります。これはまぎれもなく、自分を空しくすること、「自分の肉に信頼しないこと」(ピリ三・三)、「神の目から見て大いに価値がある柔和で静かな霊」(一ペテ三・四)の無限の価値を、私たちの目の前に開示します。
ですから、自分たちに反対する主の御腕ではなく、自分たちに味方してくれる主の御腕を望むなら、また、主の御腕の保護、支え、力を、自分たちの交わり、集会、奉仕に望むなら――これがその土台です。これに反するものが少しでもあるなら、主の御腕が私たちのために現されることはありません。「自分の高ぶりをすべてさげすむ」覚悟が整って、「この世に対してまったく死ぬこと」――特に、自分自身の心の中にあるこの世に対してまったく死ぬこと――の意義を理解するようにならない限り、私たちは自分自身が造り出した泥の中で溺れ続け、神は私たちをそのまま放置されるでしょう。