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「主の御腕」

The Arm of the Lord

第8章 十字架と聖霊

Chapter 8 The Cross and the Holy Spirit

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



聖書朗読:イザヤ六一・一〜六二・一a

主イエスの十字架には多くの面にわたる成果があり、今、そのさらなる面について見ることにします。このイザヤ書六一章の最初の三節は大いに豊かな節であり、私たちの主イエスご自身がこれを引用されたことを、私たちは覚えています。主のバプテスマの後、天が開かれ、御霊が下って主の上にとどまりました。それは彼が僕として油塗られた大いなる瞬間でした。この方は、バプテスマによって象徴される十字架の道を通られたばかりでした。今、油塗られて、彼は荒野で敵と遭遇し、あらゆる点で敵を完全に打ち破ります。次に、彼は御霊の力を帯びて荒野から戻り、故郷であるナザレに来られます。

安息日に彼がシナゴーグ(会堂)に入ると、聖書が彼に手渡されました。彼はイザヤの預言のこの箇所を開き、この節を読まれました。そして、この節を読むと、彼は聖書を会堂の管理人に戻して、お座りになりました。(これは私たちの慣習とは正反対であり、何か言うべきことがあることを示しています。何か言うべきことがある時、私たちは通常立ち上がります。しかし、シナゴーグでは、何か言うことがある時、座ったのです。)この節は、その場に集まった人々「全員の目が彼を見つめた」と述べています――なぜなら、彼がお座りになったからです。彼には何か言うべきことがあることを、人々は見ました。「そして、彼は人々にこう語られた、『今日、あなたたちが耳にしたこの御言葉は成就されました』」(ルカ四・一四〜二一)。

このように、主イエスはイザヤ書のこの箇所をご自分にあてはめておられたことがわかります。これまでずっと、こうした数々の預言はイスラエルの歴史と関係しているだけでなく、主イエスとこの経綸にも関係していることを見てきました。今、この点に来ることにします。

かしらに注がれた油はその肢体に流れ下る

しかし、最初に次のことに注意して下さい。この油はまず「主の僕」の上にとどまります。なぜなら、「主の僕」がイザヤ書におけるキリストの称号だからです。「見よ、わが僕」(イザ四二・一)――もちろん、この油は彼の上にとどまり、もっぱらおもにかしらである彼と関係しています。しかし、その後ただちに、預言者の言葉使いが突然変わります。預言者は「彼らは」「彼らを」、「あなたたち」「あなたたちは」「あなたたちの」という言葉を使い始めるのです。主の僕の油塗りに関するこの宣言の後、御言葉はこう述べています、「そして彼らはいにしえの荒れた所を建て直し、さきに荒れ廃れた所を興し、荒れた町々を修復し、世々すたれた所を再び建てる」(六一・四)。神の民はこの油塗りの価値を尊重し、その恩恵にあずかります。まるで、かしらである彼の上に注がれた油が流れ下って、彼に属するすべての者たち――キリストのからだの肢体たち――を油塗ったかのようです。

これが次の章の一節を読んだ理由です。「私はシオンのために黙せず……」。前の章で述べたように、イザヤ書のこの後の方の預言では、シオンについて多く述べられています――この油の恩恵はシオンの中に見いだされ、シオンはこうしたあらゆる恩恵を受け継ぎます。ご存じのように、シオンは教会を表す旧約の型です。前の章ではシオンの光について述べました。「起きよ、光を放て。あなたの光が昇ったから」(六〇・一)――これは回復された証しです。この六一章では、シオンの命とシオンの自由に移ります。

「捕らわれ人に自由を告げるために」

第一に、これはシオンに対する、教会に対するメッセージであることがわかります。これはすべて主の民において成就・実現されなければなりません。当時、イスラエルはバビロンで捕囚の身にあり、束縛と霊的死の状態にありました。そして、この数々の預言はイスラエルの解放、束縛と死からの自由、彼らを解放して命と自由にもたらすことと関係していました。さて、すでに述べたように、「主の油が私の上にある。『それは私が捕らわれ人に自由を告げるためであり』云々」というこの御言葉を、イエスはご自分にあてはめられました。しかし思い出して下さい、地上のシオン、地上のエルサレム――言い換えるとユダヤ人――は決してこの解放の実際の中に入らなかったのです。彼らはその恩恵をすべて失いました。それは霊的イスラエル、神の霊的民の嗣業となりました。ユダヤ教――「肉によるイスラエル」――はこの油塗りの最大の敵でした。律法主義という彼らの武器によって、彼らは彼を殺してしまいました。この章の第二区分に記されているこうしたさらなる恩恵にあずかるのは、この油塗りに関して述べられているあらゆることに応答する民であるにちがいありません。

つまり、そのような民は、柔和であるがゆえに良きおとずれをよく理解できる民でなければなりません。肉によるイスラエルはそうではありませんでした。また、心の砕かれた民でなければなりませんが、肉によるイスラエルはそうではありませんでした。自分たちが実際には捕らわれの身であることを自覚している民でなければなりませんが、私たちの主の時代のユダヤ人はそうではありませんでした。「自分たちは信仰を持っており、地上の民の中で最も自由であって、束縛とは無縁である」と彼らは思っていたのです。これが彼らと主イエスとの間の論争の一つの論点でした(ヨハ八・三三)。「縛られていた者たちに獄屋が開かれる」等のことを享受するのは、自分が投獄状態にあることを実感している民です。油塗りの恩恵にあずかることができる民は、自分たちが主の僕を必要としていることを、こうしたあらゆる方法で霊的に悟る民だけです。この御方は、そのような民の幸福と益のために、油塗りの下で働いて下さいます。

これに対応する新約聖書の箇所

さて、これまですべての文脈で辿ってきたのと同じ道を辿ることにします。イザヤの預言のこの区分、特にこの章は、新約聖書の対応箇所に通じます。これまで見てきたように、イザヤのこの諸々の預言の異なる局面や動きにはっきりと明確に対応している箇所が、新約聖書の中にいくつかあります。この六一章に対応する新約聖書の箇所は、疑いなく、ガラテヤ人へのパウロの手紙です。この手紙の中から、いくつかの箇所を見ることにしましょう。それらの箇所がどのようにイザヤ書六一章、御霊の油塗りを導入しているのかがわかるでしょう。

ガラテヤ人へのパウロの手紙

「ただこの一つのことを教えて下さい。あなたたちが御霊を受けたのは律法の働きによるのですか、それとも聞いて信じたからですか?あなたたちはそんなにも愚かなのでしょうか?御霊によって始まったのに、今になって肉によって仕上げるというのですか?(中略)あなたたちに御霊を賜い、あなたたちの間で奇跡を行われた方は、あなたたちが律法を行ったからそうされたのですか、それとも、あなたたちが聞いて信じたからですか?(中略)キリストは私たちを律法の呪いから贖って下さいました(中略)それはキリスト・イエスにより異邦人にもアブラハムの祝福が臨むためであり、私たちが信仰を通して約束された御霊を受けるためです」(ガラ三・二、五、一三、一四)。

「あなたたちは子であるので、神はあなたたちの心の中に、『アバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を送って下さったのです」(四・六)。

「なぜなら、私たちは御霊を通して、信仰により義とされる望みを抱いているからです」(五・五)。

「しかし、私は言います。御霊によって歩きなさい。そうするなら決して肉の欲を満たすことはありません。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、御霊の欲するところは肉に反するからです。こうして、この二つのものは互いに相さからい、その結果、あなたたちは自分でしようと思うことができなくなります。しかし、もし御霊によって導かれるなら、あなたたちは律法の下にはいません。(中略)もし私たちが御霊によって生きるなら、また御霊によって歩もうではありませんか」(五・一六、一八、二五)。

「なぜなら、自分の肉に蒔く者は、肉から腐敗を刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取るからです」(六・八)。

これはすべて御霊と関係していることに注意して下さい――これはもちろん、油塗りについて述べる別の方法に他なりません。今、十字架の道に続く一連の御言葉を引用することにします。

「私はキリストと共に十字架に付けられました。にもかかわらず私が生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(二・二〇)。

「ああ、愚かなガラテヤ人よ、十字架に付けられたイエス・キリストがあなたたちの目の前に公然と示されたというのに、誰があなたたちに魔法をかけたのですか?」(三・一)。

「キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」(五・二四)。

「しかし、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、私には断じて誇るものがあってはなりません。十字架を通して、この世は私に対して十字架に付けられ、私はこの世に対して十字架に付けられたのです」(六・一四)。

この「ガラテヤの諸教会への」短い手紙から引用した二つの一連の抜粋は、その二つの大きな主題が十字架と聖霊であることを明らかにしています。これはイザヤ五三章とイザヤ六一章の間の架け橋です。

キリスト教の本質である霊的性質

さて、皆さんご存じのように、このガラテヤ人への手紙には、パウロの凄まじい戦いが記されています。そうです、パウロはこの手紙の執筆に取りかかった時、戦おうとしていたのです。パウロが記した文書の中で、この手紙に記されていることほど激しいものはありません。しかし、何に対する戦いだったのでしょう?一体何についての戦いだったのでしょう?もちろん、この問いに対する神学的・教理的答えもいくつかあります。しかし、この手紙自体や新約聖書の他の箇所からの多くの証拠があるので、「このパウロの戦いは完全に、キリスト教の本質である霊的性格と関係していた」と言うことができるでしょう。本物のキリスト教であるキリスト教は、本質的に霊的なものなのです。この戦いはこれに関するものでした。どの文脈からも明らかにわかるように、十字架は霊的立場に、霊的状況に導きます。

この大いなる敵は、ユダヤ主義者という非常に有用な道具を用いて、キリスト教を霊的なものではないものにするために戦っていました。教会を霊的立場以外の立場にもたらそうとしていたのです。ですから敵は、その時からずっと、キリスト教を儀式や祭典の問題――儀式、形式主義、地的で一時的な象徴、肖像、絵図など――にしようとしてきましたし、それに失敗すると、キリスト教を「神秘主義」という御大層な名前の誤った霊性で置き換えようとしてきました。これがサタンの狙いでした。そして、この問題には現実的意味があることをパウロは見抜いたのです。その現実的意味とはキリスト教の本質的性質でした。パウロはこの問題を諦めませんでした。なぜなら、この問題に関して彼には膨大な経験があったからです。それゆえ、彼は持てる力の限りを尽くして、この問題に対して戦闘態勢を取りました。それは、キリスト教は断じて地的組織ではないこと――キリスト教は天的生活であること――を完全に明らかにするためでした。キリスト教は本質的に御霊による生活であり、十字架の目的はそのような生活を生み出すことです。もし十字架がそのような生活を生み出さないなら、当人たちの中に何か原因があります。それは、キリスト教の性質が一変してしまったこと、そして十字架の意義が覆されてしまったことを意味します。

ですから、パウロは十字架のあらゆる力を用いて、敵のこの巧妙な動きに向かって突進し、手に握れる限りの武器を持ち込みます。こうした武器とは何でしょう?

キリスト教の質を劣化させるものに対するパウロの武器
(1)パウロの個人的経歴

さて第一に――この手紙からわかるように、これはとても強力な武器です――彼は自分自身の個人的経歴、自分自身の経験という武器を持ち込みます。彼はこの手紙で自分のことについて述べていますが、これ以上に自分のことについて述べている箇所は、彼の書き物全体の中でも――おそらくコリント人への第二の手紙を除いて――ほとんどありません。彼は自分自身の経歴、自分自身の経験を持ち込みます。これは彼の見事な手腕の一つです。彼はそれにうってつけの人だったのです!タルソのサウロをご覧なさい。彼の経歴を見て下さい――自分自身について私たちに何と言っているか見て下さい。このユダヤ教の体系全体を彼ほど徹底的に試した人がかつていたでしょうか?彼はそれを遵守することや、ユダヤ教のあらゆる儀式を行うことに、徹底的に身をささげました。彼の話によると、実に、彼は同年代の多くの者たちよりもこれに関して遥かに熱心だったのです。「私と同年代の多くの者にまさってユダヤ教に精通し(中略)先祖から受け継いだ伝統に対して遥かに熱心でした」(ガラ一・一四)。この人は、この体系、その祭典、儀式、型、絵図、象徴、形式と共に、全行程を行きました。彼はその道を進み通したのです。

それは彼にとってどんな益があったのでしょう?それは彼をどこに導いたのでしょう?彼はそれを極めて徹底的に、極めて勤勉に、極めて誠実に守り通しました。なぜなら、タルソのサウロについて述べるべき一つのことは、「彼は中途半端を信念とする人ではなかった」ということだからです――彼は真剣な人であり、自分の行いに対して真摯な人だったのです。彼は言います、「ナザレのイエスの名に反対して多くのことを行わなければならないと、私は本当に思っていました」「行わなければならないと思っていました」(使二六・九)。それはこの聡明な若いパリサイ人にとって、良心の問題だったのです。この若者はユダヤ教の階段をかなり高くまで登りました。しかし、彼はどこに辿り着いたのでしょう?彼自身の叫びが記されています。彼は言います、「私はここに辿り着いたのです!」――「ああ、私は何と哀れな人でしょう!誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?」(ロマ七・二四)。あなたなら、これほど低くなることはできなかったのではないでしょうか?何であれ、これが最後の言葉です。自分自身の経験、自分自身の経歴において、これはすっかり失敗に終わりました。事実上、彼は言います、「それが私を導いたのはここです。それが私のためにしてくれたのは、ただこれだけです。他の誰に対しても、たとえその人がそれに対してどれほど熱心だったとしても、それはこれ以上のことはしてくれません」。

(2)十字架の意義

彼はこの結末、この恥ずべき結末に達し、解放を求めて叫びました、「ああ、私は何と哀れな人でしょう!誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?これほど長い時間の間、何ものも、誰も、私のために解放を成し遂げてくれなかったのです!」――次に、彼は主イエスを見いだしました。すると、この途方もない事柄の総計がまったく行い得なかったことを、主イエスは彼のためにすべて行われたのです。彼は十字架を見いだして言いました、「私はキリストと共に十字架に付けられました。にもかかわらず私が生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)。「死」の思いから「命」の思いへの変化がわかります。彼は生かされた死人であり、命を得ました。彼はまったく新しい始まり、新しい人生、新しい経験を得た人です。それらは主イエスの十字架から生じたものだったのです。

さらに、彼は聖霊を見いだしました。彼はユダヤ教に完全に自分自身をささげていましたが、そのユダヤ教の巨大な体系が決して行いえなかったことを、聖霊は彼のために行われました。これが、この手紙の中で彼がこんなにも重要な地位を聖霊に与えている理由です。これが、この証し全体を支配する路線として、十字架と聖霊が一緒に導入されている理由です。聖霊は、十字架の土台に基づいて、この経験全体を逆転し、この状況全体を変えてしまったのです。

(3)キリストの意義

次に――ここで私たちはもう一つの支配的路線と共にこの手紙を読み通すことができます――彼はキリストの真の意義を見いだしました。この手紙は十分から十五分くらいで読むことができますが、この短い手紙の中にキリストという名が四十三回出てきます。これ自体意義深いことです。実に、この手紙が一体何についての手紙であるのかを、この事実は私たちに大声で告げているのです。実際に、キリストの真の意義の何たるかを、パウロはここで示そうとしています。キリストの真の意義とは何でしょう?それはこれです。すなわち、この体系は――彼ご自身によって――完全に成就されたということです。律法やあらゆる規則からなるこの巨大な体系は、キリストにおいて、キリストにより、十字架において成就されたのです。あらゆる義が成就されました。イエスがバプテスマを受けるためにヨルダン川に来られた時、それは彼の十字架の死を予表するものでしたが、彼は言われました、「今はこうさせて下さい。このようにしてあらゆる義を成就することは私たちにふさわしいことだからです」(マタ三・一五)。これが懸案の問題であり、それは主イエスの十字架によってすべて成就されました。十字架につけられたキリストがそれを完全に成就したのです。旧約聖書はキリストにより成就されました。これがイザヤ書についてこれまで述べてきたことであり、イザヤ書に言えることは旧約聖書全体にもあてはまります。旧約聖書がどのようにキリストによって成就されたのか、ここでは示すことはできませんが、これがパウロが述べていることです。「私はキリストと共に十字架につけられました。私はキリストと結合されているので、それを成就することや神のあらゆる要求については忘れることができます。そして、御霊によって、私はイエスであるあらゆる恩恵にあずかるのです」。

(4)恵みの意義

学ぶ価値のあるもう一つの主題が、まだこの手紙の中にあります。それは恵みの意義です。これはガラテヤ人への手紙の重大項目です。恵みは私たちをまったく新しい基礎の上に置きます。儀式、形式、律法の要求はみな、良心のやましさを際だたせるのに役立つだけです。パウロはこれを大いに明らかにしています。ご存じのように、ガラテヤ人へのこの手紙はローマ人への手紙の前に書かれました。おそらくパウロは、ガラテヤ人に書き送った時、自分に向かって、「私はこれについてもっと書かなければなりません」と言ったことでしょう。そこで、彼はローマ人に書き送る時、機会をとらえてそれについて詳述したのです。しかし要点は、この問題全体はこの良心の問題と関係していたということです。「律法が『あなたは……してはならない』と言っていなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう」(ロマ七・七)。「律法はこう述べていましたが、それは私の良心を痛ませるだけでした。この体系全体は私の良心を呼び覚まし続けるだけで、私を良心のやましさから救い出してくれなかったのです。しかし、恵みがこれを成し遂げてくれました。恵みは私を全く新しい別の基礎の上に置いてくれたのです。この基礎の上でこの良心のやましさは対処されます」。そうです、恵みは良心を対処します。「神の恵み」――これは痛む良心に対する素晴らしい言葉です。

(5)聖霊の意義

最後に、パウロは聖霊の意義を見いだしました。ここでパウロが聖霊について最も強調して述べていることは何でしょう?「あなたたちは子であるので、神はあなたたちの心の中に、『アバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を送って下さったのです」(ガラ四・六)。「あなたたちは子たる身分の霊を受けました。それにより、私たちは『アバ、父よ』と叫びます」(ロマ八・一五)。パウロはこれを奴隷の身分と対比させています。ここで彼はこの問題の核心を突きます。なぜなら、僕と子の違いがわかるなら――これは容易なことです――私たちは万事に通用する秘訣を得るからです。

僕は言われたことをただ行うだけの者です。僕はなすべきこと、してはならないことを告げられます。それが好きでもそうでなくても、それに同意してもしなくても、僕は従わなければなりません。これがすべてです。僕自身の反応がどうだろうと、僕にはどうしようもありません。僕はただの僕にすぎません。内側ではその事柄全体に対して積極的に反抗しているかもしれませんが、それに関して何もすることはできません。もちろん、私は当時の僕について述べています。今日の僕なら仕事をやめて去ってしまうでしょう――これが今の時代の流儀です。しかし、パウロの時代のローマ帝国では、そうすることはできませんでした。奴隷には選択権がまったくありませんでした。「私は辞めて、別の主人を見つけることにします」と言うことはできませんでした。そうすることはできなかったのです。彼は体も魂も霊も買い取られていました。たとえ全身が反抗したとしても、奴隷にはどうすることもできませんでした。その人はまさにこの律法の奴隷だったのです。

子たる身分の霊

これが僕であり、奴隷です。では子とは何でしょう?もし人が子たるクリスチャンの身分を本当に持っているなら、奉仕はその人にとって喜びです。その人の内には愛の力があります。子は父が喜ぶことを行うことを喜びます。そして、この愛はそれを行う動機と力を子に与えます。子には別の霊、子たる身分の霊があって、この霊が子の内に働き、あらゆる要求に応じることを可能にします。なぜなら、これが聖霊の意義だからです――すなわち、聖霊は内なる力、愛の力であり、それはあらゆることを可能にするのです。皆さんご存じのように、もし私たちが何かを力強く愛しているなら、不可能なことは何もありません!いらつくことのない愛、ただちに問題点を指摘してそれに注意を引く愛、常に警戒し、熱心に気を配り、なすべきことを見張る愛――このような愛を私たちがもっと持っていれば。私たちにはこのような精神が必要なのではないでしょうか?

私たちは極東にいるいくつかの群れを知っていますが、これはそれらの群れに関して大いに印象的な点です。それらの群れについてここで述べるのは絵図や例証としてであって、他の群れを責めたり批判するためではありません。例えば、ある大きな集会所は千六百名収容することができ、その周囲にはさらに三千名収容する設備があります。その集会所には千の窓枠があり、想像がつくと思いますが、大いに手入れが必要です――掃除、電気設備や拡声器などの手入れが必要です。このような一つの集会所だけでも、こんなにたくさんの仕事があります。毎回集会が終わると、用意の整った男たちや女たちからなる軍隊が仕事に取りかかります。彼らは掃き清め、モップがけをし、整備して、次の集会のために、すべてが清潔で、完全で、あるべき場所にあるように配慮します。この人々が仕事をしているのを見ている時、遠くで古着を着て働いている誰かについて、「あの兄弟はどなたですか?」と尋ねたとしましょう。「ああ、あの人は何某将軍です!」。仕事中の別の若者を見ると、その若者は本当に汚れ仕事をしています。「あの若い兄弟はどなたですか?」。「あの若者はこの島で一番大きい繊維工場の最高経営責任者です」。このようにさらに続けていくと――将軍、大佐、重役に出会います――しかし、彼らはみな「この仕事に取り組んで」いるのです。こうした上級職の人々の一人は、週に一度、この千個の窓枠を掃除することを自分の仕事にしていたのです!

彼らはどうやってこの仕事をしているのでしょう?彼らは仕事に取りかかる前に、全員一緒に集まって、祈り、歌います。この大いなる労働者の軍隊はみな一緒に祈り、次に良い歌を歌います。それから、仕事に取りかかります。この仕事はみな、このような喜びの霊の中で行われます。これが子たる身分の霊です!これは隷属ではありません。これが真の子たる身分の霊です。私たちにはこれがさらに必要です。これが聖霊の意義です。この人々が輝いているのも驚くにはあたりません。彼らの場合、「誰に主の御腕は現されるのか?」という問いに答えが与えられるのも、驚くにはあたりません。主の御腕はまさにそこに現されるのです。この例証を忍んで下さい。こうした事が実際に機能しているのを見るのは大いに有益です。こうした事は機能可能ですし、実際に機能できるのです。

ですから、これが御霊の意義、キリストの意義であり、真の子たる身分の霊です。これがパウロがここで述べていることです。サタンはこれに反対します――サタンはまさにこれを憎んでいます。サタンは何としてでもこれを破壊しようとしますし、これを駄目にしようとします。これがパウロが従事していた戦いでした。パウロはユダヤ主義者たちと戦っていただけでなく、この大いなる敵の直接的敵意とも戦っていたのです。敵はこの類の証しに反対します――十字架のこの真の成果に対して反対します。

律法からの自由は御霊による統治を意味する

さて、サタンは一つの路線で挫折しても、決して諦めません――別の路線を試します。サタンは大いなる策師であり、彼のお気に入りの路線は極端に走らせることです。ガラテヤの信者たちの間で、サタンは律法主義を極端に走らせようとしました。しかし今、サタンはこの路線から退却します。パウロがこの戦いに勝利しました――これに疑問の余地はありません。敵の次の攻撃方法は何でしょう?敵は言います、「よろしい、では、律法を持ちたくないというなら、いかなる律法も持ってはいけません。律法をすべて捨ててしまいなさい。『あなたたちはもはや律法の下にいるのではなく、恵みの下にあるからです』――あなたは何でも好きなことができます!好きなように振る舞うことができます。自分の好きなように続けなさい。あなたにはいかなる制約、制限もあってはなりません。いかなる制限も律法です――それを拒否しなさい!このもう一方の極端に走りなさい――律法の代わりに自由奔放に至りなさい!」。私は信じていますが、もし今日パウロが生きていたら、彼は律法に対して激烈に反対したように、この自由奔放さに対しても激烈に反対するでしょう。なぜなら、まさにそこにサタンの働きがあるからです。サタンは律法によって束縛することができないと、このような方法で物事の性質を一変させ、あらゆる律法を廃棄して、私たちをまったくの無法にしてしまうのです。

しかし、覚えておいて下さい。このガラテヤ人への手紙は御霊の自由に関する手紙であるだけでなく、御霊の統治に関する手紙でもあります。私たちが自由を得るのは、統治されている時だけです。私たちが時々歌うジョージ・マテソンの有名な歌詞はこう述べています。

「私を虜にして下さい、主よ。
その時、私は自由を得ます。」

これは矛盾です――しかし、大いに真実です。自由奔放を許すとき、そこまで自由が度を超す時、私たちは自由ではなくなります。そうです、この手紙とローマ人への手紙とヘブル人への手紙は無法の書ではありません。たとえこれらの手紙がユダヤ教の体系全体を排除していたとしても、無法の統治を導入しているわけではありません。聖霊の命と統治を極めて明確に導入しているのです。覚えておいて下さい――聖霊によって統治されていて、御霊の命によって実際に生きている神の子なら、神のいかなる原則も破ることはありません。実に、聖霊によって統治されている生活は、霊的な数々の原則に関していっそう慎重に注意を払うものなのです。

神の諸原則は変わることがない

律法が変わったわけではないことがわかります。この点に関して大きな間違いがありました。十字架に付けられたキリストは律法を変更するわけではありません。キリストご自身、律法を変えることはありません。聖霊は律法を変えることはありません。律法が変わったのではなく――人が変わったのです。「あなたは律法の下にいないので、殺人を犯してもかまいません。好きにしなさい。今や盗むこともできます、あなたは律法の下にいないのですから。今や姦淫を犯してもかまいません、あなたは律法の下にいないのですから。今やむさぼってもかまいません、あなたは律法の下にはいないのですから」と恵みが言うことはありません。恵みはこのようなことを言うことはありません。このようにほのめかされるなら、あなたはゾッとするでしょう。

しかし、神の原則のあらゆる点についてこれを行い続けて下さい――そして、モーセの律法は神の諸原則の具体化に他ならないことを思い出して下さい。さて、主イエスはモーセの律法を取り上げて言われました、「殺してはならない、とモーセは言いました。しかし、私はあなたたちに言います。もしあなたが自分の兄弟に対して怒るなら、あなたには裁かれるおそれが大いにあります」(マタ五・二一、二二)。使徒ヨハネはさらにこれを推し進めて言います、「もしあなたが自分の兄弟を憎むなら、あなたは人殺しです。もしあなたが自分の兄弟を憎むなら、たとえ殺すために何もしていなかったとしても、あなたは心の中ですでに殺人を犯しているのです」(一ヨハ三・一五)。主イエスの御言葉を再び引用しましょう、「姦淫を犯してはならない、とモーセは言いました。しかし、私はあなたたちに言います。あなたが悪しき意図を抱いて見つめるなら、あなたはこの戒めを破ったことになるのです」(マタ五・二七、二八)。これが事の原則であることがわかります。これは大いに心を探ります。

そうです、キリストも、聖霊も、十字架も、律法の性質や律法の原則を変えることはありません――変わったのは人なのです。こうして律法は私たちから除かれたのです。なぜなら、私たちは変えられた民だからです。律法を守られる御霊が、今や私たちの内におられます。もし私たちが御霊によって、御霊の中を歩むなら、私たちは決して肉の欲を満たすことはありません(ガラ五・一六、二五)。これは人が変わる問題なのです。

御霊によって歩くことは律法を守ることである

ですから、恵みは次のように言うことはありません、「あなたは律法の下にはいないのですから、安息日を守る必要はありません」。安息日はある原則の具体化であることを、私たちは理解しなければなりません。安息日は日のことではなく――原則です。この原則に基づいて、神は被造物を構築されました。どの領域にも、休息の期間がなければなりません。それは何か新しいものをもたらすためです。自然界でも、何か新しいもののために備えをするために、休息の期間がなければなりません。私たちの体でも、何か新しいものが生じるためには、休息の期間がなければなりません。霊的事柄や霊的奉仕にも、休息の期間がなければなりません。この休息の期間の間に、主は語って、私たちに何か新しいものを与えることができます――これが安息日の原則です。しかし、この点に関して、主は大いに恵み深く、なおも多くの人が週に一日休めるようにして下さいました。この休日は他の事柄を手放すためのものであり、霊的刷新のために、その日を主のために聖なるものに保たなければなりません。

ですから、大切なのは外側の形式ではなく原則であることがわかります。この原則を変えるものはなにもありません。神の律法の諸原則は永続します。廃止されたり、取り除かれたり、無効にされることは決してありません――依然として有効です。イエスはこの法体系の背後に回り込み、その各部が示す原則を指摘されます。彼は言われました、「今やあなたたちは、『あなたは……すべきである』『あなたは……すべきではない』という外側の体系によって支配されるべきではなく、これらの事柄を守られる聖霊によって治められなければなりません。聖霊はなる霊です。ですから、御霊の中に生きている人は、聖くない事をいつまでも常習的に行うことはありませんし、聖くない者になることもありません。聖霊はの霊です。御霊の中に生きている人は、愛の御霊以外の何ものも持つことはありませんし、愛の律法を守ることにしくじったり、愛を破ることもありません。聖霊は真理の霊です。御霊の中に生きている人、御霊によって生きている人は、いかなる意味においても不正直ではありません――不正直とは、本当ではないことを言うことだけではありません。生活の中に存在する、絶対的に真実で、実際で、純粋で、誠実で、透明でないものは何であれ、不正直なのです。男であれ女であれ、御霊の中に生きている人は真実な男女であり、本物です。聖霊は知恵の霊です。御霊の中に生きている人は、自分の生活を治める神の知恵を得ます」。

ここに示されているのは、十字架による、御霊の中にある生活です。また、十字架に付けられた男や、十字架につけられた女――あるいは会衆や教会――を示しています。彼らは御霊によって歩み、生きます。そのような者たちに対して主の御腕が現されます。私たちは神の力を知ることを望むでしょうか――神が私たちと共におられること、神が私たちの味方になってくださることを望むでしょうか?もし望むなら、次のようでなければなりません――すなわち、十字架を私たちの立場とし、御霊を私たちの命として、神の子供たちとして歩み、生きなければならないのです。