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短くて簡単な祈りの方法
Moyen court et tres facile de faire oraison

◇◇ 副題 ◇◇
誰でもたやすく実行することができ、
短期間で完全の域に達することができる祈りの方法

ガイオン夫人 著


第二四章 神との合一

黙想、愛、祈りによって、神との合一に達することは不可能です。どれほど照らされていたとしても、それは神聖な合一とは無関係です。これには多くの理由がありますが、そのおもな理由は次の通りです。

聖書によると、「人は神を見て、なお生きている」ことはできません(出エジプト記三三章二〇節)。人々は多く祈ることや、活発に黙想することを目標にしています。そして、それらが受動性に至る準備にすぎないことを見落としています。しかし、どんなに多く祈り、どんなに活発に黙想しても、神を見ること――神と結合されること――はできません。人から出たもの、人の行いから出たものは、たとえそれがどんなに気高く、崇高だったとしても、最初にすべて滅ぼされなければならないのです。

聖ヨハネは、これに関連して、「天に静けさがあった」(黙示録八章一節)と言っています。ここで言っている「天」とは、魂の土台、中心を表しています。神の威光が現れる時、その中のすべてのものは静まらなければなりません。自己の努力は滅ぼされなければなりません。それどころか、自己の存在さえも滅ぼされなければなりません。なぜなら、自己だけが神に対立するものだからです。自己中心性は、あらゆる邪悪な性質の源であり、人のあらゆる邪悪な行いの源です。利己的でなくなればなくなるほど、魂はますます純粋になります。自己中心性は、魂と神との間に差異を生じさせます。しかし、利己的でなくなることによって、魂が純粋さと純潔さを獲得するとき、魂は利己的に生きていた頃の過ちから離れます。

神の純粋さと被造物の不純さ、神の単純さと人の複雑さは、まったく対立しています。このように対立しているものを一つにするには、被造物の努力以上のものが必要です。全能者の効果的な働きだけが、これを成し遂げることができます。二つのものが一つになるには、その前に、両者の間に何らかの関係、何らかの類似点がなければなりません。たとえば、汚泥と純金を一つにすることはできません。

それでは、神はどうされるのでしょう?神は地上に火を送って、不純な活動を滅ぼされるのです。この火の力に抵抗できるものはありません。火はすべてのものを焼き尽くします。この火は神の知恵です。神の知恵は、被造物の中にある不純物をすべて滅ぼします。それは、被造物を神聖な合一にふさわしい者とするためです。

合一にとって致命的な、この不純物とは何でしょう?それは、自己中心性と活動です。第一に、自己中心性は合一を妨げます。なぜなら、自己中心性はあらゆる汚れの源泉だからです。この汚れを清純さと一つにすることはできません。太陽の光が泥に降り注いでも、それは決して泥と一つにはなりません。第二に、活動は合一を妨げます。なぜなら、神は無限の静けさの中におられるからです。神と結合されるには、魂は神の静けさにあずからなければなりません。活動と静けさは対照的です。活動は同化を妨げます。

ですから、意志を静まらせない限り、魂は決して神聖な合一に達することはできません。安息と、最初に創造された時の純粋さの中に回復されない限り、魂は決して神と一つになることはできません。

精錬業者が金属を溶鉱炉の中で精錬するように、神は魂を火によって精錬されます。金を精錬することができるのは火だけです。この火は少しずつ、地的で異質なものを焼き尽くします。火は金をすべての不純物から分離します。不純物は火の力によって溶かされ、分解されなければなりません。このとき、金はあらゆる不純で異質な粒子から分離されます。金の中から不純物の痕跡がなくなり、もはやこれ以上精錬できなくなるまで、金は何度も溶鉱炉の中に投げ込まれなければなりません。

今や、金細工人は品質を落とす混ぜ物を見つけることはできません。なぜなら、金は完全に純粋で単一になったからです。火はもはや金に触れることはありません。金がさらに長く溶鉱炉の中にとどまったとしても、これ以上純度が上がることはありませんし、その実体が減じることもありません。今や、金は精巧な細工に適したものになりました。将来、金が曇ったり、汚れたとしても、それはたまたま表面に不純物が付着したにすぎません。この汚れは、その金を使う障害にはなりません。表面についた汚れは、金の中に腐敗が深く隠されている場合と比べれば、まったく問題ではありません。しかし、無知な人々は、表面が汚れている純金よりも、表面がピカピカの安物の金属の方をよく好みます。*

編者注
* 「神はご存知ですが、(表面についた汚れについて話した時)私はごく自然な外側の欠点について述べたにすぎません。神はそのような欠点を偉大な聖徒たちのうちにさえ残しておかれます。それは、彼らを高ぶりから守り、上辺だけ見て判断する人々の目から隠すためです。こうして、彼らは堕落から守られ、「主の臨在の秘密の場所」にかくまわれます(詩篇三一篇二〇節)。私があの文章を書いた時、「神と一つである人は、たとえ罪を犯しても、神と一つであり続ける」などと曲解する人はいませんでした。私は一度たりともそのようなことを考えたことはありません。単純な例証から、そのような推論を引き出すことができようとは、私にはまったく思いもよりませんでした」(法廷でのガイオン夫人の弁明より)

さらに、不純物を含む金と純金とは混ぜ合わされません。両者を一つにするには、まず両方とも同じ純度に精錬されなければなりません。金細工人は泥と金を混ぜることはできません。それでは、金細工人はどうするのでしょう?彼は泥を火で精錬します。そうすることにより、劣った方はもう一方と同じくらい純粋になります。こうしてはじめて、二つのものを一つにすることができるのです。聖パウロの次の言葉は、まさにこの思想を表しています。「この火が、それぞれの人の働きがどのようなものかを試します」(コリント人への第一の手紙三章一三節)。パウロはさらに付け加えて言いました。「もしだれかの働きが焼ければ、その人は損害を受けます。しかし、その人自身は、火の中をくぐるようにして救われます」。ここでパウロは、不純な混ぜ物によって価値を減じた働きがあることをほのめかしています。神はあわれみ深くそのような働きを受け入れて下さいますが、それでもなお、その働きは火の中を通って自己から清められなければならないのです。このような意味において、神は私たちの義を吟味し、裁かれます。なぜなら、律法の行いによっては、いかなる肉も義とされないからです。人が義とされるのは、神の義によります。人はイエス・キリストを信じる信仰によって神の義を受けます(ローマ人への手紙三章二〇節他)。

ですから、神の義と神の知恵は、情け容赦ない焼き尽くす火のように、地的で、感覚的で、肉的な、自己の活動を、ことごとく滅ぼさなければならないのです。魂が神と結合される前に、この清めが必要です。さて、被造物の働きによって、この清めを成し遂げることは決してできません。それどころか、被造物はなかなかこの清めに服そうとしません。なぜなら、すでに述べたように、被造物は自己の鎧で覆われており、それが壊されることを大いに恐れるからです。神が自分の上に力強く、権威をもって働かれない限り、被造物は決して同意しようとはしません。

ここで、次のような反論があるかもしれません。「神は決して人から自由意志を奪うことはありません。人はいつでも神の働きに抵抗することができます。ですから、『人の同意が無くても、神は絶対的に働かれる』と言うのは間違っています」。

しかし、言わせて下さい。神は、人の自由意志を犯すことなく、人に対して力強く働き、人を全く導くことができるのです。私たちが最初に回心した時のことを振り返ってみましょう。あの時、私たちは自分をまったく神の御旨に明け渡して、自分に対する神の御旨に積極的に同意したのです。しかし、焼き滅ぼして清める働きを神が開始される時、それが益のためであることに魂は気がつきません。反対に、魂は正反対の印象を持ちます。最初、金が火の中に入れられる時、それは明るく輝かずに黒ずんでしまいます。それと同じように、魂は「自分の美が失われてしまった」と考えます。この時、かりに積極的な同意を求められたとしても、魂はそうすることができなかったでしょう。それどころか、魂は同意することを差し控えたでしょう。魂は神の働きに逆らうことも、喜ぶこともできません。魂にできるのは、忍耐の限りを尽くして、神の働きを耐え忍ぶことだけです。このような状況の中、魂は主の御旨を受動的に受け入れます。

魂はこのようにして、自己から出る感覚的で複雑な働きから清められます。自己の働きは神と魂を大いに隔てます。この清めにより、魂は少しずつ神と同じにされ、神と一つにされます。そして、受動性の容量を大きくされます。しかし、この過程は隠されており、人の目には触れません。この過程は神秘的である、と言う人もいます。しかし、神がこの働きをなさっている間、魂は受動的に協力しなければなりません。最初、魂は活動しなければなりません。しかし、神の働きが強力になるにつれて、魂の働きは徐々に静まらなければなりません。神の中にまったく吸収されるまで、魂は神の霊の力に自分を委ね続けなければなりません。この過程は長期間続きます。

ですから、私たちは「活動する必要はない」とは言いません。なぜなら、活動は門だからです。しかし、私たちはいつまでも門にとどまっているべきではありません。私たちは究極的完成を目指すべきです。究極的完成に至るには、最初の頃に役だった助けを放棄しなければなりません。この道を歩み始める時、それらの助けが必要だったかもしれません。しかし、後になると妨げになります。それにもかかわらず、それらの助けにしがみつく人々がいます。彼らは目標に達することを妨げられています。そのため、聖パウロは次のように言いました。「私はただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞与を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ人への手紙三章一三節)。

例として、一人の旅人を考えましょう。彼は旅に出ましたが、最初の宿に住みついてしまいました。なぜなら、多くの旅人がこの道に来て、その宿に泊まったことを、彼は聞いたからです。その宿の主人たちですらそこに泊まったとのことでした。たったこれだけの理由で、その旅人は愚かにも最初の宿にとどまったのです。私たちの願いは、人々が目標に向かって前進することです。最短の道、最も容易な道を選びなさい。最初の段階で止まってはいけません。聖パウロの助言と模範に従いなさい。神の霊によって導かれなさい(ローマ人への手紙八章一四節)。そうするなら間違いなく、最終目標まで導かれるでしょう。その最終目標とは、神を享受することです。私たちはそのために創造されたのです。

私たちが創造されたのは、ただ神を享受するためです。神聖な合一と創造の純粋さに今生で達しない魂は、火の中をくぐるようにして救われることしかできません。それなのに、どうして私たちはこの過程を恐れ、避けようとするのでしょう?これはまったく奇妙なことです!この過程は来世において輝かしい完全さを生み出します。それなのに、この過程は今生において、悪と不完全さを生み出すとでもいうのでしょうか?

神は至高善です。究極的な祝福は神との合一です。この合一の完全さの程度によって、聖徒たちの栄光は異なります。自分の力から出る活動で、この合一に達することはできません。なぜなら、魂の受動性の容量に応じて、神はご自分を魂に伝達されるからです。神と一つにされるには、私たちは単純かつ受動的でなければなりません。この合一はそれ自体美しいものです。ですから、私たちを受動性に導く道は悪ではありえません。この道は最も危険の少ない、最善の道であるにちがいありません。

この道は危険ではありません。イエス・キリストは、いかなる道にもまして、この道を完全で必要不可欠なものにされました。もしこの道が危険だったなら、キリストはそうされたでしょうか?いいえ!誰でもこの道を旅することができます。すべての人が幸福に召されているように、すべての人が神を享受するよう召されています。今生だけでなく来世においても、私たちは神を享受するよう召されています。神を享受することこそ、唯一の幸福なのです。幸福をもたらすのは神を享受することであって、神の賜物ではありません。賜物は究極的幸福ではありません。なぜなら、賜物は魂を完全に満足させることはできないからです。魂はあまりにも気高く偉大です。そのため、神の最高の賜物ですら、魂を幸福にすることはできません。神がご自身を賜る時はじめて、魂は満足します。神たる方の願いは、すべての被造物にご自分を与えることです。神は、それぞれの容量に応じて、ご自分をお与えになります。しかし、ああ!人は神に引き寄せられることを嫌がります!人は神聖な合一に備えることをとても恐れるのです!

「自分を神と一つにしようとしてはいけない」と言う人もいます。これには私も同感です。しかし、私はさらに言いましょう。自分を神と一つにすることのできる人など、一人もいません。人がどんなに努力しても、それは無理です。魂を神と一つにすることは、ただ神だけがなしえます。無理なことに従事している人々に反対しても、空しいだけです。

また、「実際は神との合一に達していないのに、達したと主張している人々がいます」と言う声もあります。飢え死に寸前の人が「自分は満腹だ」と言ってみたところで、誰も信用させられないように、神との合一に達していない人が「自分は合一に達した」と言ってみたところで、誰も信用させることはできません。その人から必然的に漏れてくる願望、言葉、ため息などから、実際は全然満足していないことが明らかになります。

自分の働きでこの目標に到達できる人はいません。ですから、私たちは誰もそこに導こうとはしません。私たちはただ、そこに至る道を指摘し、道ばたの宿や外面的な実行に固執しないよう懇願するだけです。外面的な実行は、神との合一のしるしが現れたあかつきには、放棄しなければなりません。経験を積んだ指導者はこれを知っており、人々にいのちの水のありかを示して援助します。渇いている人に泉の場所を教えてから、その人を縛って泉に辿り着けなくし、乾き死にさせるなら、それは残酷で不条理なことではないでしょうか?しかし、これは現実に毎日起きていることなのです。

神聖な合一は存在します。そして、そこに至る道も存在します。これは議論の余地のない、明白な事実です。この事実に同意しましょう。この道には出発点があり、行程があり、終点があります。完成に近づけば近づくほど、私たちはますます出発点を後にします。一方を離れなければ、他方に到達することはできません。途中の行程を経ることなく、入口から遠くに進むことはできません。終点が良いものであり、聖なるものであり、必要なものである以上、そして入口も良いものである以上、どうして入口から終点に直接通じる道が悪いものでありえるでしょう?

おお、科学と知恵に傲る大多数の人類の盲目さよ!おお、わが神、あなたは本当に、これらのことを知恵ある者や賢い者から隠して、幼子らに啓示して下さいました!