◇◇ 副題 ◇◇
誰でもたやすく実行することができ、
短期間で完全の域に達することができる祈りの方法
ガイオン夫人 著
「この方法だと、奥義が心に刻み込まれない」という反論があるかもしれません。しかし、現実はその逆です。これこそ、奥義を魂に刻み込む特別な方法なのです。私たちはイエス・キリストに自分を明け渡しました。イエス・キリストは「道であり、真理であり、いのち」です(ヨハネによる福音書一四章六節)。私たちは主に従い、主に聞き、主からいのちを受けます。主はご自分を魂に刻み込み、ご自分の様々な性格を魂の中に造り込んで下さいます。イエス・キリストのすべての経験を負うことは、彼の経験を黙想することよりも、ずっとまさっています。聖パウロは自分自身の身にイエス・キリストの経験を負いました。彼は、「私はこの身にイエスの焼き印を帯びています」(ガラテヤ人への手紙六章一七節)と言いました。彼は、「私はそれについて考察しています」とは言いませんでした。
イエス・キリストは、この明け渡しの状態にある人に対して、ご自分の性質に関する特別な啓示をしばしば与えて下さいます。私たちは主の啓示を感謝して受け入れ、主の御旨に自分を明け渡さなければなりません。また、主が与えて下さるものを、選り好みせずに、すべて平等に受け入れなければなりません。熱心に主を追い求め、常に主と共に住み、主の御前で自分を無にし、主の賜物を分け隔てすることなく全て受け入れなければなりません。暗闇や光、豊かさや乏しさ、弱さや強さ、甘さや苦さ、誘惑、混乱、痛み、疲労、不確実さを、それが神からの賜物である限り、すべて受け入れなければなりません。これらのものが、一瞬たりとも私たちの歩みを遅らせることがあってはなりません。
神から何らかの奥義を受けて、それを数年間、黙想の中で享受し続ける人もいます。そのような人は、ただ一つの奥義だけを黙想します。その人をその奥義に忠実であらせなさい。しかし、神がその奥義を魂から取り去られる時、魂はそれが取り去られるのを黙って見ていなければなりません。ある奥義を黙想することができないと、そのことで非常に不安になる人もいます。しかし、神を愛して神に近づくことは、それ自身の内にあらゆる種類の祈りを含んでいるのです。ですから、ただ神だけに静かにつながっている人は、すべての神聖な奥義に容易に向かうことができます。だれでも神を愛する人は、神に属するすべてのものを愛します。
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