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「新生」
イエスの二大慰藉
藤井武
雪をいただくヘルモンの嶺は頭上に聳え、その尾を引きたる岩根こごしき渓間を伝うて清冽の水幾筋ガリラヤの湖さして流れ往くところ、イエスは親しき少数の弟子を引き連れて歩みたもうのである。彼の伝道も最早大分終わりに近づいた。その権威ある説教も熱愛より出づる奇跡も未だ睡れるガリラヤ人の眼を醒すことができない。しかも時は漸く近づきつつある。異常の苦しみを受けて遂にこの世を去りたもうべきその時は今や程遠からぬを自覚したもうた。人は未だ彼の何人なるやを知らざるに神は早やすでに彼を招きたもうのである。彼の恃みたまいしものは今その前後に手を携えて歩める少数の弟子あるのみであった。彼等はとにかく師を離れじと付きまとうている。たとえその中の一人が後に彼を渡すべき悪魔なることを夙に察知したまいしとはいえ、又たとえその多数はやはり彼を解すること一般人と多く異ならざるを知りたまいしとはいえ、一人あるいは二人の特別に神よりの黙示を受けて彼に関する真理を解し得た者がないであろうか。殊にかのぺテロは如何。かつて夜中海上を歩みて弟子等の舟に近づきたまいし時独り「主よ」と呼びてその許に至らんとせしペテロ(マタイ十四章二十八節)、たとえをもて福音を語りたまいし時その意味の明らかに解かれんことを欲うて熱心なりしペテロ(同十五章十五節)、少なくとも彼ぐらいは真理を見るの眼を開かれているのではあるまいか。イエスは人々についていたく失望したもうた、ただ一縷の望みを少数の弟子の上に繋ぎたもうた。
イエス、カイザリヤ・ピリピの方に到りし時その弟子に問うて曰いけるは人々は人の子を誰というや、彼等いいけるはある人はバプテスマのヨハネ、ある人はエリヤ、ある人はエレミヤ、又預言者の一人なりといえり(マタイ十六章十三、十四節)
人々は彼の尋常人ならぬを感じているはもちろんであるが、未だ何人もイエスのキリストである事を知る者はない。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ又預言者、これみな信仰の勇士、ユダヤ史上の最大偉人、人類中の理想的人物である。しかしイエスを称するに何人をもってすとも彼を人類中の偉人として見ている間は人の眼の曇は未だ拭われないのである。人々は果たして彼を了解していなかった。イエスは今更のごとくさびしみを感じたもうた事であろう。さながらこれ彼の予期したまわざりし事ではない。彼のいま知らんと欲したもう真意は「人々」にあるのではなくして「汝等」にあるのである。人々は素より未だ我を知らない、ただ汝等は如何、汝等のうちせめて一人又は二人の真に我を解し得た者はないのであるか。
彼等に曰いけるは、汝等は我を言いて誰とするか、シモン・ペテロ答えけるは汝はキリスト、活ける神の子なり(同十五、十六節)
果然、ペテロがおった。彼がそれであった。汝は人々の言うがごとくバプテスマのヨハネにもあらず、エリヤ、エレミヤ又は預言者の一人にもあらず、汝は偉人にあらず、汝イエスこそは偉人以上人類以上の救い主である、キリストすなわち活ける神の子であると、その答えは白日のごとくに明瞭であった。イエスの性格とそのこの世に来たりたまいし使命とは短き語句の中に十分説き尽くされた。我等の救わるべき途は彼をおいて他にないのである。ただ彼に従うて我等もまた神の子となることを得るのである。汝はキリスト活ける神の子なりと、これ真理中の真理、世界の最大真理である。しかしてこの大いなる真理は今初めて人類の口に上った、(ペテロより以前にイエスを称して神の子なりと言いし者はないではないが、その何れも彼のごとく明白なる了解に基づく言でない事は前後の記事を読みて直ちに察知しうるところである)(マタイ十四章三十三節、ヨハネ一章四十九節等)。シモン・ペテロ実によくも答えけるかなと言わねばならぬ。彼はこの時同じ弟子たちを代表して語りしのみならず、又実は我等全人類の代言者としてこの真理の表白をしてくれたのである。もし人類の言葉にして神の子イエス・キリストを慰むるものがあったとすればすなわちこの語であるに相違ない。
イエス答えて彼に曰いけるは、ヨナの子シモン、汝は福なり、そは血肉汝に示せるにあらず、天にいますわが父なり、我又汝に告げん、汝はペテロなり、我が教会をこの磐の上に建つべし、陰府の門はこれに勝つべからず、又われ天国の鍵を汝に与えん、汝が地において繋ぐことは天においても繋ぎ、汝が地において解くことは天においても解くべし(同十七、十九節)
と、もってイエスの満足を察すべしである。「福なるかなシモン」と言いたまいて彼の語調はさながら山上の垂訓のそれである。「天にいます父の黙示」、「教会の磐」、「天国の鍵」と、かかる多くの高調なる言葉もて報いられてシモン・ペテロは恐らく自己の福を喜ぶよりも、むしろ人類について重ね重ね失望をのみ繰り返したまいしその主を少しく慰めえたる事を感謝したであろう。世を挙げて彼を信ぜず、彼を責め苦しめ遂に殺さんとしている間にただ一人ペテロのかくのごとく輝くばかりの信仰の告白をもって憂いに充ちたる主の心に大いなる慰籍を献げたるを思うときは我等もまた衷心よりこれを悦びかつ感謝せざるをえない。イエスの感じたまいし最初の慰藷は実にここにあった。
しかしながらシモン・ペテロは感情家である。彼はもちろん終局においてはイエスの預言通り教会の磐となり使徒中最大者の一人となったけれども、そのここに至るまでには幾多の激しき動揺に遭遇するを免れなかった。彼はたちまち電光の閃くがごとくに神よりの啓示を受くるといえども、又たちまちその消えて跡なき闇に帰するがごとくに人らしき感情に支配せらるるのである。彼はイエスと寝食を共にし朝夕その深遠なる教訓に親しみ、その人らしからざる浩愛に動かされ、その驚くべき異能を目撃して、遂に彼の性格の何であるかを知ることができた。光栄ある神の子、それでなくてはならぬ、しかり我等を率いて神の許に至りその右に座したもうべき救い主キリスト、彼こそはそれであるとペテロは知った。かくて彼はイエスの光栄を解した。しかしながらその受難に思い及ぶことはできなかった。苦痛と恥辱との焦点に立ちたもうべきイエスの姿を想像することは彼にとって耐えがたき事であった。しかもこの時イエスの特に彼等に教えんとしたもうところはまさに来たらんとするその受難である、死である。
この時よりイエスその弟子に己のエルサレムに往きて長老、祭司の長、学者等より多くの苦しみを受けかつ殺され第三日に甦る等なすべき事を示し始む(同二十一節)
ペテロは躓かざるをえなかった。キリスト活ける神の子にいかでこの事あらんや、もしかかる苦き運命がエルサレムにおいて彼を待つならば主はこの際上りたもうべきにあらず、我等は力を尽くして彼の安全を護らざるべからずと、このように感じたのであろう。
ペテロ、イエスを引きとめて、主よよからず、この事汝に来たるまじといいければ、イエス反顧てぺテロにいいたまいけるは、サタンよ、我が後に退け、汝は我につまずくものなり、それ汝は神の事を思わず、人の事を思えり(同二十二、二十三節)
実にえらい相違であると言わねばならぬ。先には教会の磐をもって称せられ、今はたちまち聞くも忌まわしきサタンの汚名をもって叱せられんとは。ペテロといえども余りに事の意外なるに驚いたであろう。さりながら彼にも増して失望したまいしは主イエスである。「汝はキリスト活ける神の子なり」と告白しながらなおこの最も大切なる受難の真理、十字架の秘義を解するあたわざるか。我もし父の授けたもう苦き杯を飲まずんば人はいつまでも父を識ることができないのである。今我これがために往かんとして汝我を阻む、汝はすなわちサタンでなくてはならぬと。ああ、サタンか教会の磐か、シモン・ペテロは実にある時は磐であり、ある時はサタンであったのである。この後イエスの渡されんとしたまいし時にあたり、「みな汝に躓くとも我は終に躓かじ」(二十六章三十三節)とのいとも頼もしい告白をしたにもかかわらず、イエスは素気なく峻拒したもうた、「我まことに汝に告げん、今夜鶏鳴かざる前に汝三度我を知らずといわん」(同三十四節)と。しかして悲しいかなこの預言もまた見事的中した。さればペテロは遂にイエス昇天の後までなおその憂いの種であった。ヨハネの伝うるところによればイエス己を三度弟子等に現わしたまいし後、
シモン・ペテロにいいけるは、ヨナの子シモンよ、汝これらの者に過りて我を愛するや、彼曰いけるは、主よ、しかり、わが汝を愛することは汝知れり、イエス彼に曰いけるは、我が羔を牧え、また再び彼に曰いけるは、ヨナの子シモンよ、我を愛するか(ヨハネ二十一章十五節以下)
かくて三度まで同じ問いをもってペテロに訴えたまいしとある。その切々の愛情とその深刻なる憂愁とを思うて、我等はほとんど堪えがたきを感ぜざるをえない。そもそもペテロにこの蹟きありしは何の故であるか。イエスの光栄の一面を知ってその受難の一面を解しなかったからである。十字架上の死の真義を未だ味わいえなかったからである。しかしてイエスを知ってその受難と死とを解せざるは未だ彼を知り尽くした者ではなかった。否彼の救い主たる所以はすなわちその死にあるのであるから、これを解せずして彼をキリストと称うるも未だ真理の核子に触れないのである。カイザリヤピリピにおけるペテロの大告白もここに至って頓にその価値を減ぜざるをえなかった。ペテロにしてなおイエスの死を解するあたわず、しからば彼の在世中これを知って貴き慰籍を献げた者は絶無でありしか。
イエス、ベタニヤのらい病人シモンの家に居たまえる時ある婦蝋石の器物に価高き香油を盛りてイエスの食する所に持ち来たりその首に注ぎしかば云々(マタイ二十六章六節以下)
時は過越節の前二日、人の子の十字架に釘けられんために付されたもうべき時は目前の間に迫っている。祭司の長と民の長老等とは詭計をもって彼を執え殺さんと邸の庭に集まり評議を凝している。彼の弟子の一人は今や銀三十のために彼を付さんとて好き機を窺い待っているのである。しかしてイエス御自身はことごとくこれを知りたもうた。この苦き杯を父の聖旨ならば甘んじて受けなければならない。ああ、天国の福音を伝えたもうて三年、ユダヤの野にガリラヤの湖に彼の聖き姿は親しく影を印して、目あるものは見、耳あるものは聞きたるにもかかわらず、一人の真に彼を解するものなく、かえってその比なき真実と恩寵とのゆえに世は彼を置くに堪えないのである。この時イエスの心に限りなき寂寥なくして何があろうか。素より父の賜う聖き慰籍は彼の胸を充してなお余ありしとはいえ、まさに彼によって救われんとするその人類中の何人かが一輪の花をもって彼の寂しき心を飾らざりしならば、我等は深き憾に禁えざるを覚ゆるであろう。幸いにしてここに一人の婦があった。ヨハネの伝うるところによればそれはラザロ及びマルタの姉妹なるかのマリヤであるとの事である。かつてその家に主を迎えし時姉マルタは待遇の事多くして徒に思いみだれておったに反し、独り主の膝下に跪座して熱心に福音を求めていたかの婦であった。
マリヤは善き業を選びたり、こは彼より奪うべからず(ルカ十章四十二節)
と主の弁護したまいしそのマリヤであった。聖書の記事のみによって見ても彼女は無口にしてさびしみを帯びたる婦である。恐らく彼女の心を占めていたものは自己の罪に対する深き悔恨であったろう、天国に対する強き希望であったろう、心の貧しき者、哀む者、飢え渇くごとく義を慕う者、恐らくかかる人が彼女であったのであろう。しかしてイエスの受難と死とを解しうる者はかかる人でなくてはならない。もしペテロがここに蹟きしとならば彼に代わってイエスの死と復活とにいいがたき同情を寄せたる者はマリヤであるべきである。果たせるかな、彼女にペテロの雄弁はなかったけれども又特別のふさわしき告白の途があった。蝋石の器物に高価なる香油、これを注ぐは旧約時代以来の意味深き儀式である。しかしいまこれをイエスに注ぎかけて、ここに全く新たなるしかも最も深き真理が示された。この真理だけはペテロといえどもこれを掴むことができなかった。カイザリヤピリピにおけるペテロの雄大なる告白にいわば晴を点したる完壁の真理、イエスをその十字架の下より仰ぎ見て主よと呼ぶ真の叫び、これを吐露したる者が使徒ならぬらい病人の家にありし卑しき一婦人であった。しかして憐むべし常時主の側を離れず日夕その教訓に親炙したる使徒等はかえってその意味を読むことができない。
弟子等これを見て怒りを含みいいけるは、この費えの事をなすは何故ぞや、もしこれを売らば多くの金を得て貧しき者に施すを得ん(マタイ二十六章八、九節)
これ正しく俗人の宗教観である。自ら砕けたる霊を有たずして妄に人を批評するものの愚かさよ。真理の美わしさは彼等の眼の前には封ぜられたる謎である。これを解き得ずしてかえって自己の低き立場より免角の評語を放ちもってこれを汚さんとす、憐むべきは彼等である。
しかしながらイエスは素よりよく知りたもうた。心貧しき婦マリヤよ、汝は今我がために葬りの儀式をなすのである、二日の後の悲劇はたとえ未だ明瞭には汝の予見するところたるあたわずとも汝の貧しき心のうちに何者か我が死につき囁きつつあるは確かである、汝の聖き愛はその声に動かされてかくのごとき表現を取ったのである、福なる者よ、汝いま人の子にかかる同情を献ぐるがごとくに天において汝の受くる報償はいとも大いなるものがあるであろうと。イエスの感じたまいし慰籍は深かった、ペテロが与えたる失望の痕はマリヤによって癒されたのである。
イエス知りて彼等にいいけるは、何ぞこの婦を悩ますや、彼は我に善き事を行えるなり、貧しき者は常に汝等と共にあれど我は常に汝等と共にあらず、彼がこの香油を我が体に注ぎしは我の葬りのために行せるなり、我誠に汝等に告げん、天の下いづくにてもこの福音の宣べ伝えらるるところにはこの婦の行したる事もその記念のために言い伝えらるべし(同十一、十三節)
イエスの福音は十字架の福音である。十字架上に顕われたる驚くべき神の愛の福音、イエスの死によって我等罪人の上に降りし絶大なる恩恵の福音、これを離れてイエスの福音はない。ゆえに彼の死を解せずして彼を信ずることはできないのである。世の人素より解せず、弟子等すらなおこれを解するあたわざりし時、一人の弱きマリヤありて朧気ながらも彼の死を予感し悲痛やるせなく黙せんとして黙するに忍びず、語らんとして語るあらわず、遂に一壷の香油を主の首に傾け尽くして漸くその切実なる愛を表わすことができた。正にこれ美しき一篇の信仰詩、イエスは多分その特愛のダビデの歌を詠む心地にて、否あるいはそれよりも一入深き感慨をもってこのベタニアの一夕を過ごしたもうたであろう。十字架は今や近し、しかして唯一人のこれを解するものあり、彼の心の寂寥は癒されざるを得んや。実に福なるはマリヤである、この名無き一婦人の繊手によりて我等全人類の真心篭めたる花環が栄光の主の前に献げられたのである。かくて神の福音は智者達者に顕われずしてかえって赤子に顕われたのである(マタイ十二章二十五節)
我誠に汝等に告げん、天の下いずこにてもこの福音の宣べ伝えらるる所にはこの婦の行しし事もその記念のために言い伝えらるべし。