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「新生」

イエスの神性

藤井武



それ神はその生みたまえる独子ひとりごを賜うほどに世を愛したまえり(ヨハネ三章十六節)

イエス・キリストは果たして神の独子ひとりごであるかどうか。彼は生誕の時よりすでに聖霊によって生まれたまえりという、余はその事実を信ずる。しかし人ありもし精緻せいちなる歴史の研究の結果をひっさげて余が目前にこの事実を否定せんか、この奇蹟的誕生に関する余が信仰はあるいは転覆てんぷくするかも知れない。パウロがロマ書において彼をダビデのすえ(男系)よりづと明言せるがごときはげんに余を悩ませる問題の一つである、余は処女懐胎の一事のみをもってイエスの神性を立証することはもちろん出来ない。

彼は死してのち復活し処々ところどころにおいて幾度いくたびもその弟子の前にあらわれ又一時いちじに数百の人々に姿をあらわしたもうたという、余はこの事実を信ずる。イエスが復活たいをもって、ことにその弟子たちに再びいたまいし事実を信ずる。しかしながらこれまた奇蹟である。奇蹟は我自身の上に又はわが眼前にて行われ自らこれを実見じっけんしたるものでない以上万一まんいちこれを否定するの新事実が発見せられたときに我は立って争うだけの根拠がない。史上の奇蹟を信ずるの信仰を支うるものはさらに他になくてはならない。イエスの復活に関する聖書の記事のみが彼の神性に関する余の信仰の基礎とはならない。

彼は自ら神の子なりと称し又つねに父とあい抱くの生活をなしたもうた。彼の一生を見るときは、実に彼自身の言いたまいしごとく人として生活するイエスが生きたもうたのではなくして、父がイエスにありてこの世に働きをなしたもうたのであることを認めざるを得ない。父を離れてしばらくもイエスはなかった。これは驚くべき事実である。しかもいわゆる奇蹟ではない、神の子たるの自覚がかくも強大明瞭であったということは彼の神性を証明する有力なる事実である。しかしながらこれまたそれだけをもって動かすべからざる確証と見倣みなすことはできない。彼の自覚そのものがあやまりでないということを証明するものがさらに他になくてはならないのである。

彼は罪なき一生を送りたもうた、パウロのいわゆる聖善せいぜんの霊をもって生活したもうたのである(ロマ一章四節)。罪なき生涯、これ人の送り得ざるところである。何人なんびとも絶対に罪なき生涯を送り得たるものはないのみならず将来といえどもまた絶無ぜつむであろう。罪の原理に関する学説は如何いかにもあれ、人類がことごとくその中にとらえられておるものなるの事実は否定するよしもない、又古来こらいこの事実を否定せんと試みたるものはない。ゆえにもしここに全く罪より離絶きぜつしたる一生を送りたる人があるならば、彼はまさしく人ではない。しかしてイエスはかかる人であったのである。すなわち彼は人にして人にあらず、彼の神性を証明するにこれ以上の事実を持って来ることはできない。又この一事実がたしかである以上ほかに何の証拠がなくとも彼の神性を証明するに十分である。しかしながらここに悲しきは罪に雲りたる我等のである。自ら暗き罪の中にありて罪なき人を批判することは不可能である。何が罪であるか、そのことが明瞭にわからない。罪の罪たるは神の光に照らされて初めてあらわるるのである。神の側に立ちて罪を見て初めてその本体が明瞭にわかるのである。イエスの一生のうちには平和もあった、戦闘もあった、同情もあった、叱責もあった。いな彼は決していわゆる聖人君子のごとき円満なる生涯を送りたまわなかった。彼の行いの節々ふしぶしのみを見るときは彼は不孝者ふこうもののごとくにも見ゆる、不敬漢ふけいかんのごとくにも見ゆる、狂人のごとくにも見ゆる、乱臣賊子らんしんぞくしのごとくにも見ゆる、げんに彼はすべてかかる汚名をせられて磔殺たくさつせられたもうたのであった。彼の神性を認むる前に彼の生涯の罪なきことを証明せんとするは難中なんちゅうの難事である、いな不可能である、彼を主とあおぎ神の前に義とせられ聖霊の導きの下にある者にして初めてその事ができるのである。

しからば彼の神性は何にりてこれを確かめうるのであろうか。生誕の奇蹟必ずしも固守するあたわず、復活の事実またこれを信仰の唯一の基礎となすことはできない、彼の自覚も彼を信じて初めてその真なるを知る、彼の生涯に罪なかりし事は最上の立証たるに相違なきもこれまたその事自体がさらに証明を要するのである。いわんや彼をその弟子が何と見たか、聖書に何と明言してあるかというがごときは直ちにとってもって我の信仰の根拠とするに足りない事は言うまでもない。果たしてしからばイエス・キリストの神性は今ただ疑問のうちに封ぜられているのであるか、そもそも又これは各人の信仰に一任すべき主観的事実に過ぎないのであろうか。

いなと答えざるをえない。すべて以上のごとき事実のほかに我等は幸いにただ一つ何としても疑うことのできない火よりもあきらかなる確証を与えられている。それは何であるかと問うならば見よと言いて十字架を指すのである。そこに人は彼をけた、しかしてそこに彼は人のために祈りたもうた。最大の敵意、しかして至上の愛、彼の一生の同情に報ゆるに人は殺戮さつりくをもってした、しかして人の殺戮さつりくに報ゆるに彼はなおかつじゅんじゅんなる愛をもってしたもう。ここに至ってもはや人の彼に報ゆべきものは尽きた。しかり、主よと呼びておのれのすべてをささぐるよりほかに今や彼をあつかうべきみちはないのである。この十字架上の愛のみは説明を要しない、万人の胸に輝く大事実である、史上何人なんびとかかる愛を抱くことを得たるか、これは確かに人の領分を超越しておる、この愛をいだくことを得るものはこれを人と呼ぶことはできない。しかしてこれを知って彼の一生を探るときは彼の人に対したもうや常にこの愛であったことを発見するのである。彼の三年の公生涯は十字架の愛の連続である。実に彼は終始しゅうし十字架を負いたもうたのであった。彼の最後はその一生の縮図である、模型である。我等はかかる愛の所有者に罪を想像することはできない。彼が復活したと聞いて疑うべくもない、彼が処女より聖霊によって生まれたもうたと聞いてこれを打ち消すことはできない。しかして彼が自ら神の子であると言うのである、いかにふさわしき事よ、彼が神の子でないならば我等はもはや神を見るの望みをなげうつべきである。しかり彼のみが神の子である。彼はたしかに神の独子ひとりごである。しかして彼のこの世に来たりたまいしは最初より我等を救うがためであったという、すなわち神は我等を愛するの余りその独子ひとりごを人として世に遣わししかも我等の罪のために殺戮さつりくせらるるをも忍びたもうたのである。神はかくまでに世を愛したもうのである、実にその生みたまえる独子ひとりごを賜うほどに。しかしてその確証は十字架にある、我等の信仰と希望との根拠はいつかかって十字架にあるのである。