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「新生」

共働者きょうどうしゃイエス

藤井武



今や人はみな重荷を負うて暮している、あえぎながら人生の行路を辿っている。実にこの世に多くの艱難がある、心配がある、失望がある、又むずかしき謎がある。吾等われらはかかる荷を負うてその重きにえがたきを感ずるのである。もちろん時に我を忘れて苦しまぎれの気焔きえんを吐かぬでもない、雄大なる自然のふところに抱かれて心腸しんちょうを一せんすることもないではない。我を慰むるに歌あり、我を励ますに友あり、家庭の和楽わらくあり、事業の快味かいみあり、しかもすべてこれらのものをもってして到底みたすことの出来ない深い深い要求があるではないか。見よ何人なんびとの唇に感謝の歌がいているか、何人なんびとひとみに希望の光が輝いているか、何人なんびとほほに歓喜の色があふれているか、何人なんびとの腕に死をも恐れない勇気がちているか。紳士とよ、彼等は社交にけている、しかし真の友をたない。学者とよ、彼等はあるいは万巻の書を渉猟しょうりょうしたかも知れない、しかし真個ほんとうの真理を知らない。実業家とよ、彼等は霊魂のかてとぼしき乞食こじきである。政治家とよ、彼等は政権のために売られたる奴隷である。宗教家とよ、彼等は神とたからとにつかえんとする二頭の怪物である。吾等われらはただあちこちの労働者すなわち平民のうちわずかばかりの人らしき顔を見るのである、彼等は無用の虚栄心に悩まされない、生活問題もその低き生活と高き道念どうねんとに追い付かない、彼等には世の政治家実業家学者はいに見ることの出来ない喜色きしょくがある、がしかし彼等にも実は苦労のしわびる暇とてはないのである、彼等に卑屈のそうはない、しかし真個しんこの独立 と自由との気象きしょうを見ることが出来ない、彼等に心配は少ない、しかし絶対の平安はまだその手に握っていない、彼等もやはり労する者重荷を負える者である、その日に焼けたるまぶたにもしばしば涙のつゆが宿るのである、そのたくましき筋肉にもしばしば倦怠けんたいの色が現われるのである。ああ、吾等われらはみな鹿の渓水たにみずを慕うよりも切に平安を慕うてやまない、労働者と貴族と学者と政治家と、いな全人類の背に負わされたる重荷を取り去ってその渇ける心に歓喜の泉をみたすべきものは果たして誰であるか。

すべて疲れたる者また重きを負える者はわれに来たれ、我れ汝等をやすません(マタイ十一章二十八節)

喜べ楽しめ、汝のえたる手を強くし弱りたるひざすこやかにせよ。明白なる福音は吾等われら耳朶じだを打ちつつあるのである。その声に世の常の生温なまぬるき響きはない、絶対的である、無条件である、しかも最も個人的である。「け救いのみち彼方かなたにあり」ではない。「来たれ、我に来たれ」である。指図ではない、招待まねきである、親友を呼ぶ言葉である、これよりもやさしき声を聞くことは出来ない。「我れ汝等をやすません」という。「我れ汝等にやすみを与えん」ではない、我自身汝等のやすみとならんである、我自身をやすみとして汝等に与えんである。驚くべきかな、吾等われらいまだかつてかかる申し出を受けたことはない。そは余りに嘘らしくある、何となればもしこの約束がまことであるならば「我」とはもちろん人以上のものでなくてはならない、しかもそのとうとき身を贈物おくりものとしてえて我等ごときものに提供せんとは果たして真実であろうか、吾等われらはかかる逆説パラドックスを信ずるに躊躇ちゅうちょするのである。しかしながら彼は又いう、

我は柔和にして心の謙遜なる者なり(同二十九節)

「偉大なる者は我なり」とはいわない、「高潔なる者は我なり」とはいわない、「柔和にして謙遜なる者は我なり」と、しかりこれ実に彼の名である。これよりもふさわしき名を彼にすることは出来ない。

見よ、学者、パリサイの、政治家、軍人の恐れし彼にはばからず近づきて、満腔まんくうの敬愛をささげたる者の多数は婦人であったではないか。姦淫をなせる女の捕えられて彼のもとに来たりし時の彼の裁判さばき如何いかがであったか。おのれを敵に渡さんがために裏切らんとせる弟子を彼は如何いかあつかいたまいしか。兵卒および下吏したやくどもたいまつつるぎとを携えて彼に迫りし時如何いかにして捕われたまいしか。つばきせられ鞭うたれいばらの冠と紫のうわぎとをせられあらゆる嘲弄ちょうろう侮辱を受けたまいし時の彼の態度はどうであったか。しかしてついには十字架にけられてかえって敵のためにその罪の赦されんことを祈りたもう。これ実に柔和の中の柔和であって吾等われらあやしとするところである。そこに微塵みじんも自己の主張を見ることが出来ない。無限の信頼絶対の帰依きえとはこの事である。けだし柔和とはおのれの力を殺して神の力の発現はつげんを待つことである、一切を神の御手にまかまつるがゆえにおのれの手をぐるを要せざることである。イエスのこの世に来たりたまいしは神の聖旨みむねを成らしめんがためにほかならなかった、ゆえに彼は最初よりして信頼の人帰依きえの人であった、彼の柔和はすなわち神の聖旨みむねの進むべき軌道であった。吾等われらはイエスの柔和に信仰の典型タイプを認むるのである。吾等われらは柔和の人イエスに人の子―神に酔える人の子を見るのである。柔和とは畢竟ひっきょう人の神に対する絶対の信頼にほかならぬのである。

イエスは又神の子であった。彼の神格は彼の罪無き生涯の証明するところである。彼は天において神と共にあった。人類にしてもしかくまでに堕落せざりしならば彼はその国を棄ててこの世に降臨こうりんするに及ばなかったのである。しかしながら人の罪を救わんがために神は遂にその独子ひとりごを送りたもうた、神の子は人としてこの世にり立った。しかも王侯の宮殿にあらず、天下の首都にあらずして、ユダヤの片隅かたすみである、大工の家庭である、馬槽うまぶねの中である。何たる謙遜!さらにその地上の一生を見よ。税吏みつぎとりおよび娼妓あそびめの友、らい病人に親しみ、弟子の足を洗い、遂に十字架を負うて雪よりも白き身に世の罪をことごとく引き受けたもう。神の子が人として生まるるすでに驚くべき謙遜であるのに、人として死するに至っては余りに極端であるといわねばならぬ。しかしながらこれ実にやむをえぬことであった。彼は最初よりして世の罪を負うこひつじである。親が子の苦しみを自分のものとして苦しむがごとく神が人の罪を自ら犯せしものとして処分したもうのである。神たるの栄光を棄てて人たるの恥辱を甘受かんじゅしたもう、神の独子ひとりごたるの幸福を棄てて罪人の贖い主たるの不幸を選びたもう。「それ神はその独子ひとりごを賜うほどに世を愛したまえり」。吾等われらはイエスの謙遜に恩寵おんちょうの結晶を見るのである。吾等われらは謙遜の人イエスに人煩悩の神の子を認むるのである。謙遜とは畢竟ひっきょう神の人類に対するせつせつ々の同情にほかならぬのである。

この柔和にして謙遜なるイエス・キリストは今げん吾等われらと共にありたもう。吾等われらは彼の姿を認むることは出来ない。しかし彼の霊の力を切実に感ずることが出来る、彼の呼び声をさやかに聞くことが出来る、彼は今もなお万人に向かって呼びたもうのである、「来たれ、我れ汝等をやすません」と。しかして心の貧しき者は最もさとくこの声を聞きつける。こひつじよりも柔和なる彼の招きを受けて吾等われらは何をいても彼にかざるをえない、限り無き親しみを感じて急ぎたって彼にかざるをえない。「我がくびきを負うて我に学べ、汝等心に平安をべし」と(同節)、すなわち謙遜なる彼は吾等われら共働者きょうどうしゃとなりたもうのである。吾等われらと同じくびきを共に負いたもうのである。世の罪を自己おのれ双肩そうけんにないたまいし彼は今もなお吾等われらの重荷のすべてを引き受けたもうのである。しかして吾等われらはただ彼のくびきとしてこれを負い、彼が絶対の信頼をもって父にまかせたまいしごとくにすべてを彼にまかせてやすんずればよいとのことである。彼の異常なる謙遜によってはばからずして彼を共働者きょうどうしゃと呼び、吾等われらの重荷を彼の肩にうちけ、しかして彼の柔和に学び、彼のごとく神に信頼すればよいとのことである。すなわち彼を共働者きょうどうしゃとするによってすべての重荷に打ち勝ち、かつ神にれる深き平安を味わうことが出来るのである。彼自身がわがやすみとなるのである。彼をいてかかる共働者きょうどうしゃはない。ただ彼のみはあしたよりゆうべまで、昨日も今日も永遠までも変わらず、我と共に同じくびきの下にある。しかして我れ疲るる時に我がために歌い、我れつまずく時に我を起こし、我れ前途を見失うとき我に希望の光を与う、我れ死の海に出でんとする時もなお我を離れず我が水先案内となりて神の国まで我を導いてくれるのである。実に彼と共にありて我はしばらくも神を忘るることは出来ない。彼と共にありて彼のごとく神と語らざるをえない。彼あるがゆえに神の愛は常にわが心をうるおし、神の平安はわが胸にみなぎるのである。ああ、親しき共働者きょうどうしゃイエス、彼はわがすべてである、我に賜いし神の恩恵めぐみのすべてである。世の労働者よ、彼を友として汝のひたいしわたいらかにせよ。学者、貴族、政治家、宗教家、なすべて疲れたる又重きを負える者よ、往きて彼を友とせよ。しからば初めて汝等の深き要求はみたされるであろう。