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「新生」
教理と信仰
藤井武
ナザレのイエスの説きたるキリスト教の教理は何であるか。詮じ詰むればただ神の愛である。しかしてこれはイエスが説きたるがゆえに真理であるのではない、何人が説きたりとも神の愛は永久の真理である。釈迦もこれを説いた、仏教の教義また詮ずるところこれに外ならぬ。この真理を明らかにするがための説き方には色々あったかも知れぬ。皮膚の色は異っていたかも知れぬがしかし骨は同一である。その教理より見てキリスト教と仏教とは必ずしも別物ではない。神の愛はすべての宗教の帰するところである。磁石が北極を指すように宗教という宗教は皆この真理を目指しているのである。
しからば何ゆえ独りキリスト教のみが余を救うてその他の宗教は余を救うことが出来ないのであるか。
余は素と仏教に負うところ甚だ多い。ことに我が国の親鸞上人の称えたる真宗のごときはその単純にして深奥なる教理が強く余の心を引きつけるのである。そのただ聖名の奉唱すなわち信仰のみによりて救わるという思想や罪人ほど一層深く如来に愛せられるという信念のごときは、これを余の手に握り占め余の胸に抱き占めたく欲うのである。現に余は幾度び仏教の教えによって慰安を獲たかも知れない。余の失望せる心に向かって親鸞上人の手より温かき同情を投ぜられたる事は決して少なくない。それにもかかわらず仏教は遂に余の力となることは出来なかった。彼は光明の所在を示してくれたけれどもそこに達すべき途を教えてくれなかった。彼は余の心に高き理想を抱かしめたけれども余の全心に大革命を起こし、旧きは去って皆新しく成らしむるの力は無かった。余をして余の所有物をことごとく棄て去り、赤裸々となってただ神の愛にのみ頼らしむる力は無かった。痛切なるあるいは強大なる誘惑の襲撃に対して泰然として「サタンよ退け主たる神を拝しただこれにのみ仕うべし」と言わしむるの力は無かった。いわんや死の手が今や余を拉し去らんとする時に、
ああ日没、明星見ゆ
我を喚ぶ声のあざやかさ
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大潮は遠く我を運ばんも
我一度沙洲を過ぎなば
我が水先案内を面の当に見ん(テニスンの詩、畔上氏訳による)
と歌わしむるだけの力がないことは明らかである。実に余は仏教の招きに応じ余の傷手をつつんで彼に赴くも、彼は安からざるに安しと宣言するのである。彼の言葉は甘くかつ清い、しかし彼の手は余の五尺の体を支うるに足りない。彼は平常無事の日においてあるいは余の友らしく見ゆるかも知れない、しかし余の心の顛倒せんとする時に余の杖たるの用をなさない。これを要するに仏教の提供するものは陰影であって実体ではない、救いの宣言であって救いの綱ではない、彼に頼って救いに入らんと欲するも遂に失望に終るの他なきはまことにやむをえないのである。
蓋し信仰は信念ではないのである。信仰は信頼である、依頼である。神を信ずるとは単に神は愛なりと思惟することではない、自己の身体財産は素より心霊までをも賭して神の愛にうち頼るのである。自分という自分を一切投げ出してお委せするのである。万一間違ったとするならば実に永久取り返しのつかざる最大の冒険である。何人がこの冒険の保証をするか。宗教家の説教や預言者の預言ではとてもこの重大なる保険に値しないのである。いわんや一教一派の教理のごときは空虚の響きである、これに自己を託するは氷に火を託するよりも危険である。我等に対して神の愛の保証をするものは又それ自身神に等しき信用を有するものでなくてはならない、しかも我等と同じ血と肉とを備え我等の眼をもって見、手をもって触れうべき生きたる人格者でなくてはならない。人にして罪なき者、神にして肉を備えたる者、もしかかる者が世にあってその行いをもって神の愛を保証してくるるならば、我等は安んじて信頼することが出来るであろう。もしかかる者が我等の罪のためにその生命までをも犠牲にしてくれるならば、我等は最早神を疑わんと欲するもあたわない。もしかかる者が神の独子であって、神が我等を愛したもうの余りその独子を我等に賜うたのであるとしたならば、我等は今や彼自身を我等の主と仰ぎ、自ら彼の僕となって一切を彼に委せ、ただ彼の命のままに服従することが出来るのである。彼の霊を我等の霊の内に迎え、彼をして我を征服し支配せしめ、我に死して彼に生くることが出来るのである。我の力なるものをことごとく棄て去り、彼の力をそのままに我がものとすることが出来るのである。従って彼と共に神に向かいアバ父よと呼びかくることが出来るのである。彼を伴侶としてあらゆる誘惑に打ち勝つことが出来るのである。彼を水先案内として死の瀬戸をも勇ましく打ち超ゆることが出来るのである。これすなわち信仰である。この偉大なる伴侶この力強き水先案内がなくして、何人が神の愛を疾呼するとも余は到底信ずることが出来ない。
ああ、この伴侶この水先案内は何人ぞや、神の子は果たして何人ぞや、ナザレのイエスこそはその人ではないか。我等と同じ肉を享けてしかも罪を犯ししことなく、十字架に釘けられてなお人を愛し、死して後甦りしイエス・キリストこそは紛うかたなき神の子ではないか。彼に依り頼み彼の肉を食らい彼の血を吸うて初めて永生は我等に臨み神の愛は我等のものとなるのである。救いの途はただイエス・キリストにのみあるのである。彼あるがゆえに救わるるのである。キリスト教の教理必ずしも優秀なるにあらず、イエスの教えは必ずしも釈迦の教えに勝らない。問題はただイエスその人を受くるか否かにある。彼を抜きにしたる仏教その他の宗教が余を救うあたわざるは少しも怪しむに足りない。ゆえに又たとえクリスチャンと称するも、イエスの教えを聞いたばかりで彼と一つにならざるものは到底神の愛を我がものとすることは出来ない。ただ全く彼と結び付いて初めて我等は磐の上に立ちしがごとく安全なることをうるのである。マタイ伝七章二十四節以下はすなわちこの事を教えるものに過ぎない。
このゆえにすべて我がこの言を聞きて行う者を磐の上に家を建てたる智き人に譬えん、雨降り大水出で風吹きてその家を打てども倒るることなし、これ磐を基礎となしたればなり。すべて我がこの言を聞きて行わざる者を沙の上に家を建てたる愚かなる人に譬えん、雨ふり大水出で風吹きてその家を打てば倒れてその傾覆大いなり。
「我が言を聞きて行う者」「行わざる者」とあるその「行う」という字は原語にてあるいは「獲得する」「創造する」「守る」等の意義を有する語である。ここに記されたるも畢竟「イエスその人を我がものにする」、あるいは「旧き自己を彼と共に十字架に附けて新しき自己を創造する」、あるいは「彼を主と仰ぎ彼の僕となりて絶対的に彼の命令に服従する」等の意義を寓するのであって、つまりイエスその人に対する信仰を意味するに外ならぬ。彼自身が真理であるから、彼の言を行うとはすなわち彼自身を身に体することである。