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「新生」
来世の希望
藤井武
我が行先は何処であるか、我はこれを知らない。これを隣人に問えば皆指さして言う、彼処である、彼処にて永き眠りが我等を待つのであると。その指さす処はすなわち墓である。ああ、果たしてしかるか。
もし隣人の言をして真ならしめよ、人生五七十年決して長しと言うことはできない、しかしてその間にありて我等の求むべきものは何であるかが分らない、何を求むるとも僅かに墓までの間、しかしてその入口にてすべてを投げ出さなければならぬならば畢竟これ空である、しかりその時は我等もまた伝道の書の記者と共に「空の空、空の空なるかな、すべて空なり」と叫ばざるをえない。知識の探究?哲学の奥義を究め人生の目的を探りて、よし我はわが知嚢の重きにささやかなる誇りを感ずとも、帰するところ自己の行先の墓に過ぎざるを確かむるのみならば知識はむしろ詛うべき憂患ではないか。
われ心を尽くし智恵を用いて天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ調べたり……われ心の中に語りて言う、ああ、我は大いなる者となれり、我より先にエルサレムにおりしすべての者よりも我は多くの智恵を得たり、わが心は智恵と知識を多く得たり、……それ智恵多ければ憤激多し、知識を増す者は憂患を増す(伝道の書一章十三、十六、十八節)
知識求むるに足らず、さらば逸楽か。しかりこれ現代最大多数人の求むるところである、否単に現代のみと言わない、「我等飲みかつ躍ろう、明日死ぬかも知れぬから」と古人がすでに言うておる。実に現世を終局と見て逸楽以外のものを求むるは愚である。墓を界として万事休するならば霊性の向上畢竟何物ぞ、社会の改良畢竟何物ぞ。道徳とよ、それは享楽のための方便に過ぎない、博愛とよ、それは利己のための手段である、真の目的は逸楽にある、短きこの世の日の暮れぬうちに一杯の酒をも多く飲みたる者が利口者である。しかしこれ実に徹底したる論理ではない。その前提すでに絶望である、自暴自棄である、人生の意義の否定である、かくして逸楽がその目的であると言うとも論理を成さない、人生無意義ならば逸楽また無意義たらざるをえない。
来たれ我試みに汝を喜ばせんとす、汝逸楽を極めよと、ああ、これも又空なりき、……およそ我が目の好む者は我これを禁ぜず、およそ我が心の悦ぶ者は我これを禁ぜざりき(二章一、十節)
事業は如何。政治、産業、土木、慈善、社会改良、風紀矯正、その名美わしくその実もまた少しく意味あるもののごとくである。しかしながらこれら現世の改善により人の幸福を増す畢竟幾何ぞ。穀は倉に充つるも心は義に飢え、制度完備するも罪の癒さるる途なくんば、事業の価値また知るべきのみ。事業のための事業ではない。もし霊のための事業にあらずんばすなわち肉のため、逸楽のための事業である。誰かいう事業の成功と。現世のみを目的として事業の成功はまた人生の失敗たるに外ならない。
われ我が手にてなしたる諸の事業を顧みるに皆空にして風を捕うるがごとくなりき、日の下には益となるものあらざるなり(二章十一節)
幸福なる家庭!これは慕うべきものであるに違いない。しかしこれを人生の目的とするには余りに貧弱である。わが霊と肉とのすべての活動すべての労苦がただ家庭の幸福を中心として動くのであると聞いて、我等はその報償の過小にしてその目的の自己本位なるに驚かざるをえない。しかのみならず家庭の幸福はいかにして獲得せられ、いかにして維持せらるるか。患難、死別、愛情の冷却等の害虫が喰い入らんとするときに、現世主義の人生観はよき門守たるに適しない。
日の下に汝が賜わるこの汝の空なる生命の日の間汝その愛する妻と共に喜びて暮らせ、汝の空なる生命の日の間しかせよ(九章九節)
しかりこの書の記者の繰り返して言うがごとくすでに「汝の空なる生命の日の間」である、家庭の幸福のゆえにこの生命が空ならざるを得るというのではない、愛する妻と共に喜びて暮らすまた空なりというのである。
実にもし墓が我等の行先であるならば、この世にありて我等の目的となしうべき価値のあるものは一も無い。この世の提供するものは我等の最も欲する処のものでない。しかして我等の最も願う処のものは現世のみでは充されないのである。我等は生まれながらにして二三の大いなる要求を荷うて来ている。墓に至るまでの短き暗き旅路にては何処にもこの荷を卸して安らうべき処はない。もし墓の彼方に美わしき園があって、そこにてこの重荷がことごとく取り除かれ心の疲れが隈なく癒さるるにあらずんば、我等の一生は全然失敗である。
我等はまず第一に罪よりすっかり潔められたいとの、いとも切なる要求を有っておる。十重二十重に我等の身を縛れる罪の絆を見事に断ち切って雪よりも白きものとなりたい。朝より夕まで罪の悩みに泣かざること幾時ぞ、愛すべき人を愛せんとして愛することをえず、汚れたる物より眼を反けんとして却て心奪われ、あるいは黒しと知りつつこれを白しと言い、利己、倣慢、冷酷、虚偽、卑怯、嫉妬、虚栄、情慾……数知れぬ頭をもたげて罪の蛇は我に纏うのである。我は罪を憎まざるにあらず、否その醜陋汚穢に戦き恐れつつしかもなおこれを棄て去ることができない、罪との悪縁全く絶え果つるにあらざれば我は枕を高うして眠ることができないのである。憎むべき罪よ、汝は実にわが憂患である、汝だになかりせば我は短き現世のみにても満足せんものを。
我は罪の下に売られたり、そは我が行う所のものは我もこれを善しとせず、我が願う所のものは我これをなさず、我が憎む処のもの我これをなせばなり……われ内なる人については神の律法を楽しめども、我が肢体に他の法ありて我が心の法と戦い、我を虜にして我が肢体の中におる罪の法に従わするを悟れり、ああ、われ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰ぞや(ロマ七章十四節以下)
ああ、われ悩める人なるかな、何人によりていかにして救われるのであるか。我は知る、この短き現世において人は罪より全然潔め尽くさるることのできない事を。我は幸いにしてややに罪より遠ざかりつつある、しかも日既に午を過ぎて行途はいとも遥けし、この世の日没までにはとても旅行は終らないのである。有史以来五千年、生をこの世に享けし者幾百億にして未だ神の子イエス・キリストを除く外、一人の完全に罪より絶縁したる者あるを聞かない。実にこの世は罪の宿である、我等はここに客たる限りその臭気の多少にても身に染むるを免れ難いのであろう、罪より潔められんとして我等の望みはこの世に繋がるをえないのである。
要求の第二は永生である。死の手が無理やりに我を拉して往こうとする時、ただ「さようなら」と言った切り我なるものが全く消えてしまうとは堪え難きことである。すでに我を遺して飄然として去りしかの愛する者と最早永久に再会の機がないのであったらば如何。肉体の朽ち果つるは実にやむをえない、しかしそれと共に「我」なるもの「彼」なるものが朽ちてしまうのであるならば、
人の世に在る何故か
無限に吸われ死に呑まれ
意味なき過去と消えんためにか(テニスン詩、「愛吟」訳出)
これ実に我等の堪うる処でない、
受造者の空虚に帰せらるるはその願う処にあらず……我等も自ら心の中に歎きて身体の救われんことを俟つ(ロマ八章二十、二十三節)
すなわち肉体の朽ちたる後になおそれに代わる朽ちざる生命の与えられん事を切望する。この世の向こうになお彼世のあらん事は我等の深き要求である、祈求である。
要求の第三は神――真の父なる神を見たい事がそれである。神とよ、そんな者は我が胸の中に影も見当らないと言う者があるかも知れない。よし卿は暫く無神論者としてあるがよい、しかしながら卿もまた人である、今に時が来るのである――何かは知らず慕わしさに堪えざる時が――その時卿の頭は豪然として言うであろう、我何ぞ神を要せんと、しかし卿の心が裏切るのである、そしてそっと胸の戸を開いて彼を迎えんとするであろう。人の神を慕う要求は必ずしも痛切ではあるまい、実に人は多く彼を忘れている、しかしながら放蕩息子も遂に父を憶い出すの時が来る。その時父見たさは何よりも深き要求となるのである。その時彼もまたピリポと共に叫ばざるをえない、
主よ我等に父を示したまえ、さらば足れり(ヨハネ十四章八節)
と。しかして我等はこの世にありて朧ろに神を見ることはできるけれども残る隈なく明白に彼の姿をうち仰ぐことはできない、鏡をもて見るごとく昏然には見るを得とも未だ面を対せて相見ることはできない。肉に繋がれておる限り薄き顔覆いが全く取り除かるる時はないのである。しからばその時は何時になったらば来るのであろうか。墓の此方かはた彼方か、そもそもまたその時が永久に来ないのであるか。
無罪と永生と見神と、かくも大いなる要求を荷うて我等はその充さるべき処を捜すもこの世には到底見当らないのである、もし墓より先に行先がないならば、我等はただ的もなく歩を運んでいるのであるか。パンを求めて石を与えらるるも我等の飢えの癒さるる筈がない。この世がその尊ぶすべての宝を我等の眼の前に羅列するとも、この三のものが得られないならばただに悦びでないのみならず、そは徒に憂いの種である。我等の望みをこの世にのみ繋いで、絶望はわが人生観とならざるをえない。しからばすなわち眼を挙げて来世を望まんか、誰か墓の彼方につき確実なる保証を与うるものぞ。
それ神はその生みたまえる独子を賜うほどに世を愛したまえり(ヨハネ三章十六節)己の子を惜しまずして我等すべてのためにこれを付せる者はなどか彼に添えて万物をも我等に賜わざらんや(ロマ八章三十二節)
神は我等を愛するの余り、我等を救わんとの熱心の余り、すでにその独子を賜うたのである。見よ十字架上のイエス・キリストを。我等は未だかつてかかる愛を見た事はなかった。この愛はどうしても人の愛ではない、この愛を顕わしたる者は神御自身の代表者たるその独子より外ありえないのである。ああ、神はその独子を我等に賜いしか、恩寵と真理とに充てる栄光の独子をも我等のために惜しまずして付したまいしか。これは理想にあらずして史上の事実である。二千年前エルサレム郊外カルバリー山上に人の罪とそれに対する神の愛とは遺憾なく顕われたのである。神の我等に賜うべき恩恵を想像してこれよりも大いなるものに思い当ることはできない。最上のものを先ず賜うたのである、しかしてこれをもって神は保証したもうのである。その独子の流したまいし血をもって神は我等に約束したもうのである。すでに現われたるこの絶大の恩恵を見て、後に現わるべきすべての恩恵を疑うことはできない。神は必ず万物をも我等に賜うに相違ない。しかも必ず「彼に添えて」である。先ず最上の恩恵たる「彼」を受けずして、別に「万物」を受くることはできない。「彼」が万物を受くるの途である。彼を受けて初めて神と我との和睦が生ずる。神の先ず彼を賜いし理由はここにある。彼をだに受けんか、我等の眼は未だ見ざりし処に向かって開け、新しき望みは族々と頭をもたげて来る。その時より「我等の顧る処は見ゆる処の者にあらず、見えざる処のもの」となるのである。その時より我等は墓の向こう側に栄光の国を望むのである。その時より我等は自己の行先を発見して雀躍して喜ぶのである。「我等ここにありて恒に存つべき城邑なし、ただ来たらんとする城邑を求む」(へブル十三章十四節)。今や来世は神の賜うべき新たなる恩恵として最も確実なる希望を繋ぐ処である。己の子を惜しまずして賜える者はなどか彼に添えて来世をも賜わざらんやである。我等はイエスを信ずるがゆえに、又疑わずして来世を待ち望むのである。
来世!彼処にて我等の切なる要求がすべて名残なく充さるるのである、彼処にて親しく神と面の当り相接することができる、顔覆いは綺麗に除かれて神の栄光は隅々までも明白に輝き渡るのである。神の智慧の奥義に至るまで完全に我等のものとなるのである。
我等今鏡をもて見るごとく見る処昏然なり、されど彼の時には面を対せて相見ん、我今知ること全からず、されど彼の時には我が知らるるごとく我知らん(前コリント十三章十二節)
僕ども神の面を見、神の名彼等の額に在るべし、彼処には夜あることなく燈の光と日の光とを用いることなし、そは主なる神彼等を照らしたまえばなり(黙示録二十二章の四、五節)
彼処にて朽つべき身体は救われ朽ちざる生命に入ることができる、しかしてこの世にての難難はことごとく癒され、愛する者と再び手を握り永久に共に在ることができる。彼処にて死は再び我等の煩いとなることはできないのである。
この壊つる者は必ず壊ちざる者を衣、死ぬる者は必ず死なざる者を衣るべし(前コリント十五章五十三節)
我等これを知る、我等が地にある幕屋もし壊れなば神の賜う処の屋天にあり、手にて造らざる窮なく有つ処の屋なり(後コリント五章一節)
神彼等の目の涙をことごとく拭い取り、復死あらず、哀み哭き痛みあることなし、そは前の事すでに過ぎ去ればなり(黙示録二十一章四節)
かくて朽ちざるものを衣せられ面のあたり神を見ることを得て、罪はもちろん痕跡もなく消え去るのである。その時我等はすでにキリストの新婦である。
婦は潔くして光ある細布を衣ることを許さる、この細布は聖徒の義なり(黙示録十九章八節)
我等はその時全く神に肖たる潔きものとなるのである、すなわち彼処にて完全なる聖化が実現せらるるのである。
我等今神の子たり、後如何、未だ露われず、その現われん時には必ず神に肖んことを知る、そは我等その真状を見るべければなり(ヨハネ一書三章二節)
すべて我等顔覆いなくして鏡に照すがごとく主の栄を見、栄に栄いや増りて、その同じ像に化るなり(後コリント三章十八節)
罪なく死なく栄光の体に化せられ神と共にキリストと共に又愛するすべての人と共に永久に相愛して存在するの国、これすなわち来世である、これすなわち天国である、神はこの国を必ず我等に与えんと約束したもう、しかしてその保証はイエス・キリストの血にある、しかして又彼を信ずる者はなおその上に質として聖霊を与えられる。実に神は先ず十字架をもって我等に絶大の約束を立て、さらに聖霊をもってこれを堅うしたもうのである。イエス・キリストに頼りて我等の希望はただ益々確実を増すのみである。
イエス・キリストは是といい又非と言うがごとき事なし、彼にはただ是ということあるのみ、すべて神の約束は彼の中に是となり又彼の中にアメンとなり我等によりて神の栄の顕わるるに及ぶ、……神また我等に印しかつ質として霊を我等の心に賜えり(後コリント一章十九、二十、二十二節)
しかり、聖霊を与えられてより我等の罪は徐々に潔められ、神の姿は日々に鮮けくなり往くのである。この不思議なる変化の実現は正しく来たらんとする生活の質ではないか。その度においては遥かに及ばずといえどもその質においては全く同一である。天国の反映はすでに地上に現われておるのである。来世の香気はすでに現世においてこれを嗅ぐことができる。実に今辿りつつあるその途の果てに必ず我等の福なる行先があるのである。指して往く方向は確かに誤っていない、否歩一歩懐しき故国の面影はいよいよ偲ばれて来る。先導者イエス・キリストに信頼して我等は来世に入ることを少しも疑わないのである。
来世の希望、これありて我等は重苦しき現世の生活をも楽しむことができる。我等の国籍は今や彼処にありて此処にあるのではない。我等は「地にありて賓旅である、寄寓者である」。この世は宿である、幕屋である。此処に我等は永住するのではない、温かき屋が彼方に俟っている。神は我等のために新しき京城を備えたもうた、其処に入るがための準備をなす処が現世である。ゆえに我等の願いを露骨に言わしむるならばむしろ速やかに彼処に移ってキリストと共に在るの生活に入りたい、
我が願いは世を逝りてキリストと共に在らんことなり、これ最も美き事なり(ピリピ一章二十三節)
しかしながら肉体に止りてその準備をなすは刻下の急務である。ただに我自身のためのみではない。未だかの驚くべき大いなる恩恵を知らず、従って希望を墓より彼方に繋ぐあたわずして人生の空を歎じている多くの同胞のため我等は起て福音を伝えねばならぬ、十字架上に現われし神の愛を証して万国の民に示さねばならぬ。見渡せば逸楽と事業と虚しき知識とに悩まさるる人のみ多くして、真にイエス・キリストによる限り無き恩恵に与れる者とては雨夜の星のごとくに寥々たりである。しかのみならず却て偽りの証をもって福音の妨げをなすものまた決して少なくない。かかる間に我等は選ばれて一日も長く主の事業のために使われんことを祈らざるをえない。我等の希望は来世に在る、しかして来世のゆえに現世もまた貴きものとなるのである。