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「新生」

蛇のごとくさとく鳩のごとく単純

藤井武



この世にしょして如何いかに振る舞うべきか、すなわちいわゆる処世術しょせいじゅつ又は世渡りの道に迷うのはひとり世間普通の人のみではない、いな我等イエス・キリストのしもべとして一種特別の人生観を抱く者は一入ひとしばこの問題に苦しむのである。まことに我等は金力きんりょく権力その他何等なんらの勢力をたない、我等はいわば裸一貫はだかいっかんである、我等に何の権謀けんぼう術数じゅっすうもない。かかる者が複雑なる世に投ずるはあたかも「狼の中に羊のるがごとき」ものである。ここに大いなる危険がある、我等は如何いかにして身をまっとうするのであるか、羊は如何いかにして狼に打ち勝つことが出来るのであるか。

イエスの十二弟子が初めて福音を宣べ伝えんがためにおくられた時は丁度ちょうどこれであった、いな当時の社会の状態と彼等の立場とを考えれば一層危険なるものであった。彼等の処世術しょせいじゅつじつにクリスチャンのそれの初穂はつほである。イエスは何と彼等を教えたもうたか、どんな餞別せんべつをもって彼等をはなむけたもうたか。

われ汝等をつかわすは羊を狼の中にるるがごとし、ゆえに蛇のごとくさとく鳩のごとく単純なれ(マタイ十章十六節)

と(邦訳聖書に鳩のごとく馴良おとなしかれとあるは確かに誤訳である)。曰く、「蛇のごとくさとく鳩のごとく単純」、もしこれだけの短き言葉にとどまっていたならばその意味は明瞭ということは出来ない。蛇のごとくさとくとはどんな風にさといのであるか、鳩のごとく単純とはどんな性質の単純であるか。世にはクリスチャンと称する人々までがイエスの教えを深く味わわないで、自分の浅はかな考えに当てはめてこの言葉を解しているものがないではない。すなわち彼等のある者は言う、我等が世にしょして利口に振る舞うは決して悪いことではない、むしろキリストの要求したもうところであると。彼等はかくのごとくとなえて身の危険をのがくるにはなはだたくみである。しかしこれ果たしてこのことばの精神であろうか。いな、断じてそうではない。かえってその正反対である。そのことは少しくイエスの教えを注意して研究すれば明らかである。

イエスの教えは決して断片的ではない。四福音書のする教訓はいずれも深き含蓄がんちくと前後の脈絡みゃくらくとをっている。イエスが十二弟子を送りたもうた時の言葉もまたそうであった、彼はこの「蛇のごとくさとく鳩のごとく単純」をさらに親切に説明したもうたのである、

一 慎みて人に戒心こころせよ、そはひと汝等を集議所しゅうぎしょわたし又その会堂にてむちうつべければなり、又我がゆえによりて侯伯つかさおよび王の前にひかるべし、これ彼等と異邦人にあかしをなさんがためなり(十章十七、十八節)
二 兄弟は兄弟を死にわたし、父は子をわたし、子は両親を訴えかつこれを殺さしむべし、又汝等わが名のためにすべての人に憎まれん(二十一、二十二節)
三 弟子は師よりまさらず、僕は主よりまさらざるなり(二十四節)
四 地に泰平おだやかいださんがために我来たれりと思うなかれ、泰平おだやかいださんとにあらずやいばいださんがために来たれり、それわが来たるは人をその父に背かせ女をその母に背かせ嫁をそのしゅうとめに背かせんためなり、人のあだはその家の者なるべし(三十四―三十六節)

蛇のごとくさとくとはこれである。イエスは決して左顧さこ右眄うべんして巧妙に身をしょせよと教えたもうたのではなかった。彼はその反対に汝等は危険を避くることが出来ないのである、イエスの弟子はイエスの名のために苦しめられ迫害せられその近親より疑われ憎まれ敵として取り扱わるるの運命をっておるのであると宣告したもうたのである。しかしてこの事を明白に覚悟するのがすなわち彼のいわゆる「さとく」である。あたかも蛇がかしらをもたげて危険の所在を十分知り抜くがごとくである。イエスの弟子となった者は世にしょするに当たってず第一に、自己の将来の境遇は異常なる苦痛、迫害、危険であることを十分に知り抜かねばならぬ。これを知らずして自らイエスの弟子なりと信じつつ遂に世にとらわれた者の実例は数限りない。かつてき信者のごとく見えし者なかごろ心を変じて世にくだりし多くの紳士は皆これである。彼等には最初よりこの知恵が欠けていたのである。彼等はイエスの弟子としてこの世を通ることの如何いかに艱難危険なることであるかを知らなかった。これを知らずしてはすでにイエスの弟子たるの資格がないのである。この一事を知ることは確かに大いなる知恵である、すべての知恵にまさるの知恵である。それゆえイエスは又ある時「主よ何処いずこきたもうとも我従わん」と言いし学者に対して答えたもうた、「狐は穴あり空の鳥は巣あり、されど人の子は枕するところなし」と(マタイ八章二十節)。しかり人の子の枕するところ無かりしは我等十分これを知っておる、果たしてしからば彼の弟子もまた同じ運命にわずには済まない、これすなわち人にあかしをなさんがために必要である。イエスの弟子として世にしょせんとする者がず明白に覚悟せねばならぬのはこの事である。これを知った者は処世術しょうせいじゅつにおいて何よりも大いなるものを知ったのである。

次に鳩のごとく単純なれとはどういうことであるか、イエスは前の四の教訓のおわりごと各々おのおのことばを附け加えたもうたのである。

一 ひと汝等をわたさば如何いかに何を言わんと思い煩うなかれ、その時言うべき事は汝等に賜わるべし、これ汝等自ら言うにあらず汝等の父の霊その内にりて言うなり(十九、二十節)
二 されど終わりまで忍ぶ者は救わるべし…我まことに汝等に告げん汝等イスラエルの諸邑まちまちめぐり尽くさざる間に人の子は来たるべし(二十二、二十三節)
三 弟子はその師のごとく僕はその主のごとくならば足りぬべし、……このゆえに彼等をおそるるなかれ。そはおおわれてあらわれざる者なく隠れて知られざる者なければなり。我幽暗くらきにおいて汝等に告げしことを光明あかるきに述べよ、耳をつけて聴きしことを屋上やのうえひろめよ。身を殺して魂を殺すことあたわざる者をおそるるなかれ、ただ汝等魂と身とを地獄に滅ぼしる者をおそれよ。二羽の雀は一銭にて売るにあらずや、しかるに汝等の父の許しなくばその一羽も地につることあらじ。汝等のかしらの毛またみな数えらる、ゆえにおそるるなかれ汝等は多くの雀よりもまされり。さればおよそ人の前に我をると言わん者を、我もまた天にいます我が父の前にこれをると言わん(二十五―三十二節)
四 我がために生命いのちを失う者はこれをべし(三十九節)

イエスはずその弟子が世の人に見ることの出来ないような大いなる艱難、苦痛、迫害、危険にうことをまぬかれないという警告を発して、しかる後これに対するの心得こころえを述べたもうた。彼は決して「ゆえに汝等十分研究してあらかじめ避難の道を講ぜよ」とは教えたまわなかった、彼は決して「汝等の智嚢ちのうを絞り汝等の手段方法を尽くして身を全うせよ」とは教えたまわなかった。むしろその正反対である。彼は言いたもうた、「自ら思い煩うなかれ、ただ愛の父にまかせよ。父を信頼して終わりまで忍ばば必ず救わるべし。いな、終わりまでといわず、中途にしてすでに我汝を救わんがために来たらん。我自身汝等以上の経験をめて汝等に模範を示す者である。ゆえに我と同様の運命にうことをむしろ満足せよ。かくのごとく愛の父なる神と我とに絶対的に信頼せば汝等なんの恐るるところもない。いな、ただに迫害を耐え忍ぶのみならず、さらに進んで戦いをいどむべし。帷幄いあくうちに聞きし福音を進撃喇叭らっぱをもって吹奏すいそうしつつ野外に突進すべし。神は常に汝等を守りたもうのである、しかして汝等の報いは必ず天において得らるるのである」と。なんと勇ましいかつたのもしい命令ではないか。そこに何の利害の打算もない、何の策略も方便もない、何の恐怖も躊躇ちゅうちょもない。ただ神!キリスト!彼に対する信頼あるのみである。すべてをおまかせして全くかえりみないのである。何等なんらの単純!その単純なるだけそれだけ力は強い。この単純無垢むくの信仰あるによって我等の処世術しょうせいじゅつまるのである。ほかに何もらない。金力きんりょく権力はもちろん、友さえもらない。ただ主イエス・キリストあれば足りるのである。キリストそのものが我等の処世術しょうせいじゅつであるのである。何となれば「これ汝等自らなすにあらず、汝等の父の霊そのうちりてなすなり」であるからである。我等が世に勝つのではない。聖霊我等のうちりて、我等をして世に勝たしむるのである。我等の処世術しょせいじゅつとはただ聖霊を迎えることがそうである。

ああ、蛇のごとくさとく鳩のごとく単純なれと。語は短くして意味はじつに深遠無量である。その前半に大いなる警告の鐘を聞き、その後半に絶対的信頼の福音を聞く。この警告とこの福音とに送られて首途かどでを立つにあらずば、我等の征戦せいせんに勝利の望みはない。迫害を必期ひっきしただ一筋ひとすじに主にのみたのむによって、前途は磐石ばんじゃくのごとくに堅いのである。