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「新生」

キリスト信者の境遇

藤井武



イエス・キリストを信じ彼に従わんとする者の現世げんせいにおける境遇は、決して安易やすらかなるものではない。いな彼には不信者の知らざる苦労がある。イエスを信ぜざりしならば遭遇そうぐうせざるべかりし種々しゅじゅなる特別の患難が彼をつのである。まことに彼のさいわいなる所以ゆえんは境遇以外においてある。イエスを信じて境遇の幸福を期待する者は、はなはだしく失望せざるをえない。しかしてこの失望のためにイエスをてし者は決して少なくないのである。もちろんしんにイエスにあらわれたる神の愛をりて彼に全生ぜんせいを献げたる者に取りては境遇の患難を恐るるの理由はないけれども、聖書にのこれるイエスの教訓を探りてその特別の意味を知ることは、又信者の大いなる慰籍なぐさめたるに相違ないと思う。

第一 迫害

我等はず山上の垂訓においてこの事に関する福音を発見する。イエスはここにさいわいなるかなとの冒頭ぼうとうもとに、心の貧しき者、かなしむ者、柔和なる者、飢え渇くごとく義を慕う者、あわれみある者、心の清き者、平和を求むる者及び義しきことのために責めらるる者を挙げたまい、しかしてこれらの人々のさいわいである理由はあるいは天国をつことができる、あるいは神を見る、あるいは神の子ととなえらるる、その他いずれも神又は天国と親しき関係に立つことをるによるとの意味を語りたもうた。すなわちこれを換言すれば、彼等はさいわいである何となれば信仰をつことをるからであるというに帰着するのであって、畢竟ひっきょう信者となるべき者の素質を説明したもうたにぎない。話題の主眼は信者その人にある。信者のさいわいについて述べんとするに先だち、まず如何いかなる人が信者となるべきかを説明したもうたのである。さればそのすぐ次には語調を変え、今までの三人称を棄ててただちに「なんじら」と二人称に移り、なんじらはさいわいなり、何となれば我がために人なんじらをののしりまた迫害し偽りて各様さまざま悪言あしきことをいわんと、露骨に明言したもうた。「なんじら」と呼びかけられしは群集にあらずして、特に彼を慕うて山の上まで従い行きし弟子たちである。ことにわがために迫害せられんとあれば、信者が特別に信仰のために受くる迫害の意味であることは疑うよしもない。ゆえにいわゆる山上の垂訓なる福音の中心は信者そのものにあることは明らかにして、しかもこの説教はイエスのガリラヤ伝道の初期に属するものであるから、すなわちイエスはその伝道の最初より信者の患難に関する福音を高唱こうしょうしたもうたのである。しかり福音である、ただし患難の福音である。「さいわいなるかな、何となれば我がために患難を受くればなり」と、これ山上垂訓の根本精神である。イエスの眼には患難を離れて信者はなかった、迫害は信者のきものである。我がため、すなわちイエス・キリストのための迫害である。信者はイエスのために迫害を受けてもって、いよいよ明らかに彼についてあかしをすることができる。又迫害は信者自身をイエスにつなぐがためにも必要である。我等は彼のために苦しむだけ多く彼の愛をるのである。ゆえにこの迫害は信者ならでは経験することができない。又もし真正ほんとうの信者であるならばどうしてもまぬかるることができない。イエスは今何をも知らずにただ自分を慕うて足下そくかひざまずいている少数の弟子達をかえりみて、彼等が自ら天国をぐがために又神の子についてあかしをするがために避くべからざる患難を思い同情の念にえざると同時に、彼等の人にまさりて特別にさいわいなる理由もまた其処そこにあることを教えずしてはやむあたわざるを感じたもうたのであろう。従ってこの事に関する彼の言葉はいたく高調こうちょうに達している。

わがために人汝等をののしりまた迫害せめいつわりて様々さまざま悪言あしきことをいわん、その時は汝等さいわいなり、喜び楽しめ、天において汝等の報賞むくい多ければなり、そは汝等よりさきの預言者をもかくせめたりき(マタイ五章十一、十二節)

「天において報賞むくい多ければなり」と、我等が特別の迫害を忍びる最大の理由は此処ここにある。我等はイエスを信じてより最早もはやこの世に望みをつなぐものではない。此世このよ彼世かのよるがための準備である、短き間の準備である。しかして此処ここる間に患難を受くることがひとり自分のみならず他人が彼世かのよるがために必要なりとして、特に神よりこれを負わせらるるならば、我等は感謝して受くるのほかはない。これを避くるは、此世このよの幸福のために彼世かのよの栄光をつるのである。イエスの名のための迫害であるから、イエスをさえつるならばこの迫害はやむ。ただ彼をてよ、しからばこれも得られぬ、かれも得られぬ、しかりあるいは万国をもるかも知れない。かかる試惑こころみはしばしば信者を襲うのである。しかしながらイエスをてんとして、彼のみをつることができない。彼と共に我が望みをなげうたざるをえない。いな彼をてて、我は我が現在げんせい及び将来の生命いのちをことごとくつるのである。何となれば我等の生命いのちは今やイエスを泉としてあふれて来るものであるからである。我等は天における報賞ほうしょう此世このよにおける幸福との軽重けいちょうをよく知っている。かれててこれを与えんというとも応ずることはできない。いわんや迫害のうちに神は必ず我等を助けたもう。イエス御自身が我等と共に今もなおなやみたもうのである。しからば迫害はむしろ我等に賜う特殊の恩恵おんけいである、必要なる恩恵おんけいである、我等はそのうちに在りて感謝しつつ栄光をあらわすべきである。

第二 簡素なる生活

信者は富者ふしゃたるあたわずとはイエスの明言したもうたところではない。しかしながら彼はまことたからの何であるかを我等に示したもうた。しみ喰いさびくさ盗人ぬすびと穿うがちて盗むところの地にたからたくわうるなかれ、しみ喰わずさびくさらず盗人穿うがちて盗まざるところの天にたからたくわうべしとは彼の教えであった(マタイ六章十九、二十節)。まことたからは地上に積みべきとみではない、天にたくわうべき聖霊のたまものである。汝等のたからのある所に心もまたり。地上のとみを積まんとするものは、神の事を思わずして地の事を思うものである。人は神とマンモンとにね仕うる事は出来ない(同二十四節)と、これ明白なるイエスの教えである。我等はたからを天に積むと共に地上の富をたくわるものとは思わない。富者とめるものの天国にるよりは駱駝らくだの針の穴を通る方がやすいと彼はべたもうた(マタイ十九章二十四節)。もちろん富者とめるものは絶対に天国にり得ないのではない。しかしながら富者とめるものもし信者であるならば、彼は地上の富に自分の心を置くものでない事は明らかである。ゆえに彼はその富をもって自己の生活の裕福を計ることは出来ない。富者とめるものは財産をもって神のためにつかうべし。自己の身をしょするに簡素なりやいなやは財産の多寡たかとはおのずから別の問題である。イエスの教えは明らかに生活の簡素を説いておる、

生命いのちのために何を食い何を飲み又身体からだのために何をんと思い煩うなかれ、汝等空の鳥を見よ、野の百合ゆりを見よ(マタイ六章二十五節以下)

と。すなわち自己の生活の裕福をはかるものは信者たらざるの証徴しょうこである。しかしてこの事はイエス御自身の生活をおもえば一層明らかである。彼を多くの御馳走ごちそうもて饗応きょうおうせんとて心乱れていたマルタに対して、「汝は多端おおくの事により思い煩いて心労こころづかいせり、されど必要なるものはわずか、いなむしろただ一つなり」(ルカ十章四十一、四十二節)と教えたまいしは、イエスの日常の生活のじつに簡素きわまるものでありしことを示している。さればイエスと一つになり、イエスのごとく父の聖旨みむねを行う事をもってかてとし、現在すでにあふるる恩寵おんちょうと未来に享受すべき永生えいせいの希望とにて心輝ける信者に取っては、簡素質朴かんそしつぼくの生活にやすんずる事の決して偶然でないことをおもうのである。

第三 いつわりの信者との共存

信者を迫害するものはひとり不信者のみではない。信者と名のるものの間にもある。いなこれら偽りの信者より受くるまことの信者の患難はかえって遥かに大きいのである。もし不信者を狼にたとうべき場合があるとすれば、彼等は狼のよそおいをなせる狼であってまぎれもなき猛獣であるが、偽りの信者はこれにはんし羊の皮をかむりたる狼である。そのよそおいは柔和にして気高い。しかし裂けたる口と鋭き爪とがその下に隠れている。なれなれしく人に近づいてじつはこれをまんとするのである。口には主よ主よととなえてイエスに頼れるもののごとく見せかけ、実はこの世に頼っているのである。その名は信者であるけれどもじつは全くこの世の奴隷である。しかもかかる偽りの信者が信者中の最大部分をむると聞いては人あるいは驚くであろうけれども、それが事実であることは少しく今日の教会の内情又はいわゆるキリスト教国なるものの状態を知るもののこばむあたわざるところである。しかして彼等に取ってはまことの信者はの上のこぶである。これを恐れはばかり忌み嫌うこと蛇蝎だかつのごとくである。彼等はむしろ不信者を好む。この世はじつは彼等の慕うところであるから、不信者と提携してこの世の勢力をあさり、又まことの信者を駆逐くちくせんと欲する。古来こらい誠実単純なる信者を迫害したものはむしろ彼等に多かった。しかしてその手段や実に陰険悪辣あくらつである。教会の歴史はその恐るべき幾多いくたの実例を我等に示している。預言者を殺してその墓をつる者が彼等である。しかるに彼等はキリスト教の初期以来今日に至るまでえた事がないのみならず、その勢力はすこぶあなどがたいものがある。我等は時として疑わざるをえない、神はかかる余計なるものを何故なにゆえ存置そんちしたもうのであろうかと。彼等は確かに信者の重荷である。これゆえにイエスは慰めていいたもうた

天国はひと畑にき種をくに似たり。人々のいねたる間にそのあだ来たり麦のうち稗子からすむぎきて去れり、なえみのりたる時稗子からすむぎも現われたり。主人のしもべ来たりて曰いけるは、主よ畑にはき種をかざりしか、如何いかにして稗子からすむぎあるか。僕に曰いけるは敵人あだびとこれをなせり。しもべ主人にいいけるは、しからば我等行きてこれを抜き集むるはよきか。いな、恐らくは汝等稗子からすむぎを抜き集めんとて麦をも共に抜くべし、収穫かりいれまで二つながらそだて置け、我収穫かりいれの時稗子からすむぎを抜き集めてかんためにこれをつかね、麦をば我倉わがくらおさめよと刈る者にいわん(十三章二十四―三十節)

収穫かりいれまで二つながらそだて置けとある。我等は収穫かりいれまで辛抱せねばならぬ。麦なる信者はキリストによって天国にれらるる時まで、すなわちこの世にる限りは、稗子からすむぎなる似而非にてひなる信者との共存はまぬかれないと明言したもうのである(収穫かりいれに至って彼等が如何いかにして抜き集めらるるかは、おのずか別個べっこの問題である)。我等は常に偽りの信者と闘いつつただ収穫かりいれの日を待つべきである。何故なにゆえ稗子からすむぎが早く刈り取られないのであろうか。もちろん理由が無くてはならない。イエスはいいたもうた、稗子からすむぎを抜き集めんとして麦をも共に抜くの恐れがあるからであると。すなわち稗子からすむぎを麦と共に収穫かりいれの時まで畑に共存せしむるは、麦を害せざらんがために必要であるというのである。稗子からすむぎが成長するは稗子からすむぎのためではない、麦のためである、麦が収穫かりいれを待たずしててらるるがごときおそれのないために置かるるのであると。これは深く味わうべき教えであると思う。偽りの信者は我等の重荷である。しかし彼等あるがため我等には又特別の恵みがある。彼等と闘いつつある間に、我等は知らずしてイエスの福音のじゅんじゅんなる核子がいしを現わし、又これを我がものとしつつあるのである。彼等より受くる迫害を忍ぶ間に神の栄光を輝かすこと多きのみならず、我等自身の信仰もまたこれによってきたえらるるのである。しかして収穫かりいれの日が近づけば近づくほど彼等と我等との差違はいよいよ明白となり、遂に最後に彼等は必ずことごとくかるるために抜き集めらるるのである。現世げんせい来世らいせいのための準備の場所にぎない。もし来世らいせいのために必要ならば我等は如何いかなる闘いをも喜んで闘おう。稗子からすむぎの抜かれざるは一には麦の収穫かりいれを害せざらんがためである、二には稗子からすむぎそのものを抜くに容易ならしめんがためである。かくて偽りの信者はその悪戯あくぎをもって、じつまことの信者の幸福と自己の滅亡とのために準備をなしつつあるのである。

第四 近親よりの孤立

イエス・キリストを信じて次に来たる問題は自家屋内じかおくないにおける悲劇である。彼を主と仰ぎたる者はその身辺しんぺんを囲む温かき近親の団欒だんらんに一大波瀾はらんを起こさざらんとするもあたわない。これもとより彼の本意ではない。しかしながらイエスは言いたもう、

地に泰平おだやかいださんがために我来たれりと思うなかれ。泰平おだやかいださんがためにあらず、やいばいださんがために来たれり。それが来たるは人をその父より、女をその母より、嫁をそのしゅうとより分かたんがためなり。人のあだはその家のものなるべし。我よりも父母ちちははいつくしむ者は我にかなわざる者なり、我よりも子女むすこむすめいつくしむ者は我にかなわざる者なり(十章三十四―三十七節)

これまことえがたき事である。たれかイエスを信じてこの事のために泣かざる者ぞ。信者の悲しみはここにある。ここに彼は血肉の愛情と神の子の要求とのディレンマにおちいるのである。イエスに従わんとして払うべき最大の犠牲はこれである。これを恐れて遂にイエスをてた者は決して少なくない。しかし我等はイエスをてることはできない。わが救いはただ彼にるのである、わが希望はただ彼にるのである。しからば立ちて彼に従わんか。わが福音は泰平おだやかにあらずやいばなりと彼は明言したもう、その家の者をあだとするにあらざれば我に従うを得ずと彼は教えたもう。しかしてイエスによって神の我等に賜う特別なる恩恵の代価として、これはじつにやむをえざる犠牲である。イエスはこの谷を一つへだてて我等を待ちたもう、我に従わんと欲せばその谷を超えて来たれと。我等は一度ひとたびはここを超えなければならない。しからずんば彼のおわせるところいてまことに彼を主と仰ぐことはできないのである。我等のイエスを信ずるは決してただに自分の救いのみのためではない。もし彼に従う事は自分のみの救いのみちであって、が愛する父母ふぼ子女しじょとその首途かどでにおいてたもとわかったきり永久に再会の望みがないならば、我はひとり救わるるの恩恵をあるいは拒絶するかも知れない。まことに「もしわが兄弟わが骨肉のためにならんには、あるいはキリストよりはな沈淪ほろびに至らんもまたが願い」である(ロマ九章三節)。しかしさいわいなる事にイエス・キリストはわが救い主であって、又わが骨肉の救い主である。彼を離れてわが骨肉の救いはない。彼はず近親中より我を選び我を召したもう。しかしてが彼に従うは、これやがて又骨肉の救いのみちが開かるるもとであるに相違ない。彼はげんに約束したもうのである、

すべてが名のために兄弟きょうだい姉妹しまい父母ふぼ妻子さいしを離るる者は百倍を受けん(十九章二十九節)

と。ここに百倍とあるは失いたる父母ふぼ妻子さいし同胞どうほうを回復するの意味であることは、同じ教訓を伝えしマルコ伝 の記事を見れば疑うことができない。そこにはさらに註釈ちゅうしゃくを加えて、「すなわち兄弟きょうだい姉妹しまい父母ふぼ児女じじょを迫害と共に受けん」とある(マルコ十章三十節)。すなわち近親を離るるはのちにこれをんがためである。この希望ありて我等の悲しみは癒さるるのである。えがたき悲劇、しかしながら避くべからざる悲劇。我等は神の特別なる恵みを彼等のために祈りつつ、しばらく近親より孤立せねばならぬ。これ我等自身のためである、又彼等のためである。

第五 地上の天国

イエス・キリストを主と仰ぐものは世よりの迫害をまぬかれないのみならず、近親との禿離かいりという最もつらき経験をめ、貧窮ひんきゅうの生活に甘んじ、偽りの信者と闘いつつ、しかもなお日に日に新たなる恩恵を感謝し、かつその前途に輝く希望を懐いてこの世の一生を送るのである。少なからぬ犠牲を払い軽からぬ苦痛を負わせらるるうらには、又特別なるさいわいを恵まるるによりてすべてこれらを忍び得てなお余りあるのである。しかし彼の境遇はこれにはとどまらない、その上にもう一つ特別のものがある。信者同志の間に出来る温かき社会である。これは地上の天国と称すべきものである。もちろん人数は少ない、又この世の人の作る社会のような立派な規則制度はない。いなその社会には規則なるものは一もない、ただ愛のみである。イエス・キリストにりて結ばるる愛のみである。キリストがその社会の唯一の支配者である。彼は常にそのうちりて我等を慰めかつ励ましたもう。しかして彼よりの慰籍いしゃ奨励しょうれいとをもって、我等もまた互いに慰め励まし合うのである。我等は必ずしも人よりの同情を欲するものではない。しかしこの世に旅人とし寄寓者やどれるものとして存在し来世らいせいかぎりなき栄光のみを目あてとして進むものが二三人もしくは数十人互いに相るときは、ここに特別の深き同情は湧き来たらざるをえない。これは不信者の間には見ることのできない深き愛である。かかる愛につながれて、彼等はたとえ諸方しょほう散在さんざい孤立こりつすといえども、そのあいだかたき団結はおのずか出来上できあがるのである。彼等のまことの国は天にる。そこを望んで彼等は生くるのであるけれども、その天国の小なるものをげんにこの世において握ることをて彼等は歓喜と感謝とにあふれざるを得ない。この社会あるがために彼等の信仰と希望との強めらるることは決して少なくないのである。しかしながら誤解するなかれ、これは今のいわゆる教会ではない、

もし汝等のうち二人のもの地において心を合わせ何事なにごとにても求めなば、天にいます我が父は彼等のためにこれを成したもうべし、そは我が名のために二三人の集まれるところには、我もそのうちればなり(十八章十九、二十節)

これは今の教会と根本においてその性質をことにするものである。これはイエスの名のために二三人のもの心を合わせているのである。ゆえにまた必ずイエスがそのうちりたもう。すなわち我等の小なる家庭がそれである。またそのほかに少数の同志がある、しかり少数ではあるが、イエス御自身が加わっていたもうのである。しかして彼の我等を愛したもうその深き愛をもって又互いにあい愛するのである。この社会はこれを実験せずしてその味を想像することはできない。イエスを信じ天国の希望を共にするもののみがこれを味わうことをるのである。

迫害、ひん信者との共存、近親者との禿離かいり、しかして地上の天国、これ必ずしも信者の境遇のすべてではあるまい。しかしその主要なるものたるは明らかである。しかしていずれもそのよって来たる所以ゆえんを尋ぬれば、一として深き聖旨にづる恩恵ならざるはない。これをつらしとしえがたしとするはいまだイエスを主と仰がざる人である。我等はすでに自己にくだりし恩恵とのちあらわるべき栄光の絶大なるをおもうときは、この短き一生の間における暫時ざんじの軽き苦しみを忍ぶがごときは何でもないのみならず、これらの苦しみそのものが又恵みであることを知ってただ感謝の声を発するのほかないのである。(マタイ伝研究の一節)