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「新生」
誘惑
藤井武
人はこの世に在りて種々の誘惑に悩まされねばならぬ。本来神に象られて造られし人が自ら進んで罪を犯すのはずはない。彼の罪はことごとく誘われるのである。人類堕落の起源なるアダムの罪がすでにそれであった。しからば我等は誘惑の絶滅せんことを願うべきか。否我等は誘惑なき世にただ安然と置かれんことを欲しない。我等は誘惑と闘いこれに打ち勝たんことを願う。自由の意思をもって誘惑に引かれず、これを拒絶排斥するの力を与えられんことを願う。すなわち我等の祈りは、
我等を試探に遇わせず悪より救い出したまえ(マタイ六章十三節、ルカ十一章四節)
ではない。邦訳聖書にかくあるは誤訳である。「試探に遇わせず」ではない、
我等を試探の中に引き入れたもうことなく却て悪より救い出したまえ
である。誘惑来たらば来たれ、我等は彼に遭遇することを恐れない。ただその中に引き入れらるることなく、彼をして空しく退却せしめんことを欲するのである。彼の特性は誘いではなくして試みである。彼に試みらるるを恐るるに及ばない、ただ彼に誘われざるを要する。試みらるれども誘われず、これ我等の願いである。しかり願いであるけれどもその力が無い。試みられて誘われざることは稀れである。しからば如何にしてその力を得ることができるか。
我等はこれを自己の経験に照らして知る、試惑に遭いて誘われんとするときに我等の理想や良心や知識は何の力ともならざることを。自らその事の余りに卑しくかつ愚かなるをよく弁えつつも、なお誘われ行く我を引き止むるあたわざるは我等の実験である。この時我に向かって教訓を説くも風馬牛である。我等はただかつて同じような試惑に遭遇してしかも遂に誘われざりし人が、その切実なる経験をもって我等に同情してくれんことを要求する。彼が側に立ちて我を慰め、我が左の手を悪魔に渡した時に緊かと右の手を握ってくれるならば、我は誘われんとして誘わるるをえない。我のみではない、彼もかかる痛切なる試惑に悩んだのである、彼もこの堪えがたき心持ちを味わったのである。しかも遂に動かなかった、遂に踏み止まった、誘惑は空しく彼より手を退いたのである。その彼がいま我を助くるのである、彼はわが心持ちを隈なく解してくれる。彼の同情は適切である、かつ有力である。かかる伴侶が我と共に在るならば、我は試みらるるとも決して誘わるることはないのである。
しからばかかる伴侶が世に存在しているか、あらゆる試惑に遭遇してしかもことごとくこれに打ち勝ったという人が果たして在るであろうか。曰く在る。ただしただ一人である。天上天下、古往今来ただ一人しかない。彼はすなわちイエス・キリストである。
イエスは神の子である。しかし彼は同時に紛れ無き人間であった。我等と均しき血と肉とを備え、空気を吸いパンを噛りたもうた。人たるの要素はことごとくこれを具備したもうた。彼が神の子であるとはその聖善の霊性についていうのであって、肉によればすなわちダビデの裔であったのである(ロマ一章三、四節)。従って彼にももちろん誘惑が臨んだ。しかり実に我等と全く同じように様々の試惑が常時彼を悩ましたのである。ただにユダヤの野の四十日間のみではない。決してそうではない。現に彼の晩年においても大いなる試惑が時々彼を襲うていることを我等は四福音書の記事によって窺い知るに難くない(マタイ二十章二十節、ヨハネ六章十五節、十章二十四節等)。否ただに又晩年のみならず、三十年の隠れたるナザレ生活もまたそうであったろう。聖書はその事につき何の記録をも残さないけれども、我等はそう信じて差し支えはない。彼は何処までも人に相違なかったのである。その故郷にて伝道をなしたまいし時、彼の生立以来の生活を熟知せる隣人は、あの普通人と別に違わなかったイエスに「すべてこれらの事は何処より来たりしや」といいて信ぜざりしに徴しても、思い半ばに過ぐるものがある(マタイ十三章五十四節以下)。マタイ伝四章等に載せられたるいわゆるイエスの試惑は決して一時の物語ではない。彼の全生涯を通じての試惑とそれに対するイエスの態度との縮図に外ならぬことは、その記事を翫味して知る処である。
第一ここに試惑の種類が三つ示されている。四十日間の飢餓の後に来たれるパンの試惑はその一である、聖殿の頂上より身を躍らして万人の喝采を博せんとする名誉の試惑はその二である、悪魔に跪拝して全世界を手に入れんとする富の試惑はその三である。肉慾と名誉と富と、これはこれ人類試惑の三大代表者ではないか。我等に迫り来る凡百の試惑は畢竟この三のものをもって代表させることが出来るのである。我等はユダヤの野におけるイエスの三試惑を偶然のものとして見逃し去ることは出来ない。ここに深き意味がある。痛切なる肉慾の試惑と赫々たる名誉の試惑と強大なる富の試惑と、この三に遭遇するはすなわち一切の試惑に遭遇することである、この三に打ち勝つはすなわちあらゆる試惑に打ち勝つことである。かくのごとくに見てこの四十日間のイエスの経験は、実は我等の一生に深き関係ある大事件である。
イエスは四十日四十夜食らうことをせず遂に飢えたりとある。イエスもまた人である。永き間の絶食によって彼の感じたまいし飢餓の程度はよくこれを想像することができる。実に飢餓の前には徳義も恥もないのが人の例である。肉の糧に対する痛切なる要求の下には霊の糧を憶うがごとき余裕はない。イエスは今この飢餓に陥りたもうた。しかして彼は人であると同時に神の子である。彼はその飢えを癒すに難くない。小石の累々たる曠野も彼に取っては穀物の倉に均しい。彼一たびその神の子たるの能力を揮いたまわんか、石を変じてパンとなし得べく、もってその堪えがたき飢えを癒すに足る。事は容易にしてかつ刻下の急である。悪魔の心付きしはここであった。ゆえに来たり囁いて云う、汝もし神の子ならば命じて石をパンとなせと。人なるイエスの心は動かざらんとするもあたわなかったであろう。しかし彼は知りたもうた、自己の肉慾の満足のために奇蹟を行うは神の子たるの特権を濫用するのである、その時霊が形を潜めて肉が跋扈するのである、これすなわち霊の肉に対する降服である、飢えのために神を忘るるものであると。彼はたとえ一瞬の間たりとも父なる神を忘るることはできない。彼の心は動かんとして又父に一瞥を与えた。しかして限り無き慰籍と力とはたちまちそこより流れ来たった。肉慾は暫らくその要求を撤回した。すなわち
人はパンのみにて生くるものにあらず、ただ神の口より出づるすべての言による
と。信仰である、信仰である。神を信ずる者は神を忘れ自己の手をもて肉の糧を獲んと欲することはできない。神は我等の必要物をことごとく知りたもう。我等は一片のパンといえども神与えたもうにあらずんばこれを口にすべきではない。まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆汝等に加えらるべしである。(マタイ六章三十二、三十三節)
第一の試惑は見事に斥けられた。しかしたちまち又第二の試惑がやって来た。それは肉慾ほど痛切ではなかったかも知れない。さりながら赫々たる光輝をもって眼を眩せんとする聖殿の絶頂よりの飛躍と天使の奉仕、これ救い主に有り得べき奇蹟であって神の子にふさわしき名誉である。しかのみならず聖書の言葉までが裏書をしている。如才なき悪魔は今やイエスの武器をもって却て彼を刺さんとするのである。彼の心は又も迷わざるをえない。事は単に自分の肉体の満足のみではない、世を救うための奇蹟である、聖書の言葉の実現である。ここに再び霊性と野心との戦いが開かれた。しかしながらイエスは遂に自己の野心を充すがために、一瞬時たりとも父を忘るることが出来なかった。人なる彼が自己に事うるときは、すなわち父なる神を離るる時である。これ彼の忍ぶあたわざる処であった。彼は神をして自己に仕えしむることは出来なかった。主たる汝の神を試むべからずと、父に対する一瞥は又も彼をして試惑に打ち勝たしめた。
肉慾彼を誘うべからず、名誉また彼を惑わしむるに足らず。ここにおいて残る処は唯一あるのみである。富!肉慾ほど痛切ではないかも知れない、名誉ほどきらびやかではないかも知れない。しかし人の心を誘う力の強大なるかくのごときは又少ないのである。今の世において殊にそうであるが、二千年の昔においても多く異なる処はなかったであろう。富は実力である、権威である。肉慾に淡く空名に憧れざる着実の士にしてこの試惑の前に膝を屈したる者は幾何ぞ。悪魔に取りて今は最後の手段に訴うべき時である。このゆえにその提供は思い切って大きくあった。一時の満足一時の冒険ではない、万国とその栄華、これ彼の奥の手である。これを尽くして最早彼の手は空しくなるのである。従ってその要求は今や最も露骨であった。曰く汝もし俯伏して我を拝せばこれらをことごとく汝に与うべしと。代価は極めて廉い、ただ俯伏して彼を拝するのである。かくのごとくして万国とその栄華は得られるのである。救い主の使命を完うするの捷径はここに在るのではないか、万国を一日も速く神に献げんがためにただの一度悪魔を拝することは果たして忍び得ざることであろうか。人なるイエスは確かにかかる試みを感じたもうたに相違ない。彼は我等の感ずるすべての試みを感じたもうのである。ここに三たび霊性と欲望との戦いが戦われた。そして三たび父の一瞥が彼を救うた。殊に悪魔の態度の鮮やかでありしだけ、イエスの心に醒めたる父の姿もまた鮮やかであった。彼は今や聖書の言葉のみをもってしては物足りなかった。彼自身の霊性は先ず激語を放って悪魔の面貌に痛棒を喰らわしめた。曰くサタンよ退けと。実にこれで足りるのである。しかし聖書の言葉はさらに彼のために最後の止めを刺してくれたのであった、
主たる汝の神を拝しただこれにのみ事うべし
と。これである、これである。これで事がきまるのである。肉慾の試惑も名誉の試惑もはた富の試惑も、これさえあれば恐るるに足りない。
かくのごとくしてイエスの試惑は終わった。ついに悪魔彼を離れ天使たち来たり事うとある。しかし誤解してはならない。繰り返して言う、イエスの一生中再び試惑が臨まなかったのではない。彼の地上の生活は何処までも人としての生活であった。ゆえに幾多の試惑が絶えず彼を悩ましたに相違ない。ただ闘いの結果はいつもこれであったのである。勝利は常に彼に在ったのである。試みらるれども遂に罪を犯さず、弱き肉体をもってして霊性の勝利を謳歌したもう。その秘訣は外にはない、ただ彼の眼が父を離れなかったからである。父の温顔こそは実に一切の試惑に勝る力であった。これを見守りて悪魔の声は耳の底に達かないのである。イエスは我等の受くべきすべての試惑を受けて、しかもただ常に父と共に在りたまいしがゆえに、かつて一度も誘われたまわなかったのである。
そのイエス・キリスト今は聖霊により我等の心に宿りたもう。我等は彼の姿を見ない、その声を聞かない、しかし確実にその力を感ずる。彼が十字架上に顕わしたまいし愛を見て彼の前に跪きしより、今まで有ちしことなき不思議なる力が現実に我を支配しておることを実験する。眼にて見るあたわざる彼が常に我が伴侶として側に在り、我を助けたもうことを実験する。彼はわが唯一の伴侶である。事毎に我が訴うる者は彼である。訴えて慰められざるはない。殊に彼は我等の受くべき一切の誘惑をすでに経験したもうたのである。我等は如何なる誘惑をもって訴うるも彼の応えたまわざるものとては無い、熱き涙と温かくして緊き手とが常に我を待つのである。
我等が弱きを思いやることあたわざる祭司の長は我等に在らず、彼はすべての事に我等のごとく試みられたれど罪を犯さざりき(へブル四章十五節)
実に恃もしきものにして彼の同情のごときはない。何となれば弱き我等のすべての経験を自ら嘗め、しかもことごとくこれにうち勝ちたもうたからである。彼を伴侶とすることを得て、我等はもはや誘惑を恐れない。来たれ、肉慾、名誉、富の試惑。我はただわが友イエスに赴く。我はただ仰いで彼に訴うる。しかして彼の同情を受くるときに、誘惑の手は自ら我を離るるのである。力は我にない、しかし勝利はある。彼によって我は如何なる誘惑にもうち勝つのである。