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「新生」

感恩かんおん残生ざんせい

藤井武



キリストの愛我等をゆ、我等思うに一にん万人ばんじんのために死したれば万人ばんじんすでに死したるなり、その万人ばんじんのために死したるは生ける者をして以後こののち自己のために生きず、己等おのれらのため死して又復活したる者のために生きしめんとてなり(後コリント五章十四、十五節)

キリスト世にりたまいし間、日々夜々ひびよよくるよりぬるまで、ただ我等を救わんとの愛よりほか何もなかった。彼は全く自己のために生きずして我等のために生きたもうた。彼に喜びありしか、すなわち我等のための喜びであった。彼に悲しみありしか、すなわちまた我等のための悲しみであった。彼はしばしばひとり山にりて深き祈りにふけりたもうた。その時彼の口にのぼりし言葉は、「我に」又は「我を」にあらずして、ことごとく「彼等に」又は「彼等を」であった。十字架上における最後の祈りはその最も代表的なるものである、

父よ彼等を赦したまえ、そのなすところを知らざるがゆえなり(ルカ二十三章二十四節)

彼の感謝もまた常に我等の救いのために喜びたまいし時であった(マタイ十一章二十五節、ヨハネ十一章四十一節)。彼に又大いなる苦しみの祈りがあった、

わが父よ、もしかなわばこのさかずきを我よりはなちたまえ、されど我が心のままを成さんとするにあらず、聖旨みこころまかせたまえ(マタイ二十六章三十九節)
が心憂えいためり、何を言わんや、父よ、この時より我を救いたまえと言わんか、いなこれがためにれこの時に至れるなり、願わくは父よ、汝の名のさかえあらわせ(ヨハネ十二章二十七節)

ただにこれのみではない、十字架上にて天地暗黒くらやみとなりしのち大声にて呼ばわりたまいしというかの有名なる

エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、何ぞ我を棄てたもうや)

のごとき、彼の最も深刻なる苦痛のほとばしりであって、その果たして如何いかなる心をもってかく叫びたまいしかは深き研究を要するのである。あるいはこれらの危機にのぞみては、イエスもまた自己の事をもって訴えたまわざるをえなかったのであろうか。「我」、「我」とのみいいて、毎時いつものように「彼等」のために祈りたまいしものではないように見ゆる。しかしながらこのとうとき祈りの意味をかいするがためには、彼を我等の立場に置いては大いなるあやまりである。彼の立場に我等を置いて見なければわからない。しばしのすきも無く始終しじゅう我等の救いのためにのみ心を砕きたまいし神の子イエスの立場に仮に我等を置いて見て、少しくその心持こころもちうかがうことができる。我等いうに足らぬものといえども、愛する骨肉こつにく又は友人のためにその救われんことを祈って心を痛めし経験がないではない。その時我等のまことめ涙を流しての祈りにもかかわらず、愛する者が益々ますます神を離れ暗黒あんこくの方へと進んでいたならば如何いかがであろうか。その時我に取って彼の堕落、彼の叛逆より苦しいものはないのである、彼のゆえに我は胸をえぐらるるのである、彼のゆえに我は神より棄てられしかのように感ずるのである。我の苦しみを癒すのみちほかではない、彼が神に立ち帰ることである。悪しき子をちたる親の心がそれである。かかる親が悲しみのあまり神よ何ぞ我を棄てたもうやと祈りしと聞いて、彼が自己の事を訴えたるものと解すべきであろうか。子ゆえに彼は生き甲斐がいあるを感ずるのである。彼が「我」というはすなわち彼の子のいいほかならない。子のそむく事すなわち彼の苦痛である。子の棄てらるる事すなわち彼の棄てらるる事である。キリスト三年のあかしをもってして、人はいまだ自己の罪と神の愛とをさとらず、かえってその叛逆を重ねて遂に神の独子ひとりご磔殺たくさつせんとす。ここに彼のえがたき苦痛なきをえんや、ここに彼の深き失望なきをえんや。もし聖旨みこころにかなわばこの時より我を救いたまえと祈りて、彼はすなわち我等の知らざる時に我等自身の最も願わしき事をわりて祈りたもうたのであった。

我等は祈るべきところを知らざれども、聖霊みずから言いがたきのなげきをもって我等のために祈りぬ(ロマ八章二十六節)

とはキリスト在世ざいせいの間よりすでに実現せられたる真理である。じつに愛の熱火ねっかは彼と我との区別を焼き尽くさずんばやまない。キリストの心に我等はもはや他人ではなくなった。「彼等」と呼びたもう余裕はなくなったのである。エリ、エリ、ラマ、サバクタニと訴えたまいし時キリストの信仰薄らいだのであるなどと言う者は何人なんびとであるか。親の心子知らず、みずから子をちて初めてこれを知る。自己のためでなくただ愛する人のために熱き涙をもって満腔まんくうの祈りをささげたる経験をたざる者は、キリストの苦しみについて語るをしばらく差し控うべきである。

その在世ざいせいあいだ常にかくのごとく人のすべて思うところぐる愛をもって我等のためにのみ生きたまい、しかしてついにその測り難き愛のためかえって我等のしいするところとなりたもう。しかも驚くべきは彼の愛である。事ここに至りて、彼はその我等を救うがために避くべからざる唯一のみちなることをむしろ喜びたもうたのである、

これがためにれこの時に至れるなり
我がくは汝等のえきなり(ヨハネ十六章七節)
れ汝等のためにところを備えにく(同十四章二節)
これ新約の我が血にして罪を赦さんとてすべての人のために流すところのものなり(マタイ二十六章二十八節)

汝等いまこの事をさとらずして我を無きものにせんとす、しかしながら我を離れては汝等は孤子みなしごとなるのである。これ我のえざるところ。ゆえに

われ汝等を捨てて孤子みなしごとせず、また汝等に来たらん
れ父に求めん、父必ず別に慰むる者を汝等に賜いてかぎりなく汝等と共にらしむべし(ヨハネ十四章十六、十八節)

ああ、愛し、憎まれ、いよいよ愛し、遂に殺さるるやなお捨て置くに忍びず、さらに慰むる霊によりて再び来たりたもう。その切々せつせつの愛、その執拗しつようの愛、その無私の愛。天下てんかいずくに又かかる大愛たいあいを見る事をえようか。こころみに万国ばんこく歴史をひもといて開闢かいびゃく以来の偉人、聖人、英雄、豪傑、その名は何であれ、人という人の胸を探りて見よ。ナザレの工人こうじんイエスの抱きたるこの愛だけは古往今来こおうこんらい絶対にその類例を発見することができない。これのみはまことに人らしきにおいの絶えてせざる純乎じゅんことしてじゅんなる愛そのものである。これよりも大いなる、これよりも深き、これよりも熱き、これよりも美わしき愛を想像することはできない。もし神が愛であるというならば、この愛こそはすなわち神の愛ではないか。

かかる愛をもって我等は愛せられたのである、又愛せられつつあるのである。我等のその事を知ると知らざるとにろんなく、かかる愛は我等のものとなっているのである。しかしてその絶大の恩恵を我等に知らしめんがため、神は又適当なる時にき師とき友とを送りて我等のために証人あかしびととならしめたもうた。我等は遂に眼がめた。十字架上のイエスを主よといいてうち仰ぐことができた。その時より従来じゅうらい想像もせざりし不思議なる恩寵は益々ますます豊かに加えられたのである。又げんに加えられつつあるのである。ああ、感激すべきキリストの愛!我等彼にむくゆるに何をもってすべきか。

我等は知らない、ほかに方法を知らない。ただ彼がそのとうとき身を我等に渡したまいしごとくに、我等の(汚れたりといえども)身をまた彼に渡すのほかを知らないのである。我等をして自己に対する所有権を放棄せしめ、ただキリストのしもべとして生きしめんがために、彼は生命いのちまでをも捨てたもうたのである。彼は御自身のとうと生命いのちを代価として我等を贖うがために提供したもうたのである。しからばすなわち我等はもはやすでにあたいをもって買われたる身ではないか。

汝等は汝等のものにあらざる事を知らざるか、そは汝等はあたいをもって買われたる者なればなり(前コリント六章十九、二十節)

じつにそうである。我等は今や我等のものではない。我等は自己に死してキリストに生きたのである。現在いま生命いのちはこれキリストの我等に預けたまえるものにぎない。すでに預け物であるならば、その預け主の欲するがままに使わではまぬではないか。これを少しなりとも彼の意思以外我がために使うは、彼のものをぬすむにことならぬ。彼が如何いかに欲したもうかと、それが我が残生ざんせいを使用するの唯一の標準である、規矩きくである、まことに「こののち自己のために生きず、我等のため死して又復活したまえる彼のために」生くるのほかないのである。さらば現在いま生命いのちを我等に預けたまえる彼の欲したもうところは果たして何であろうか。

一切すべてのもの神よりづ、れキリストにより我等をしておのれやわらがしめかつそのやわらがしむるつとめを我等にさずく、すなわち神キリストにりて世をおのれやわらがしめその罪をこれに負わせず、かつやわらがしむることばを我等に委ねたまえり、このゆえに我等召されてキリストの使者つかいとなれり(後コリント五章十八―二十節)
天のうち地の上のすべての権を我に賜えり、このゆえに汝等きて万国ばんこくの民にバプテスマをほどこしこれを父と子と聖霊の名に入れて弟子とせよ(マタイ二十八章十八、十九節)

神はキリストによって世をおのれやわらがしめたもうや、ただちに少数の人を召してそのやわらがしむるつとめをこれに授けたもうた。天上天下てんじょうてんかすべての権をキリストに与えたまいしについで彼の要求したまいし事は、これを万国ばんこくの民にあかしする事であった。万人ばんじん救済のみちはキリストによって開けたのである。今は此処ここに人を導く案内者を要するのみである。ちて万国ばんこくの民のためにキリストの福音をあかしするの仕事のみが残っているのである。しかも「収稼かりいれものは多くして工人はたらくものは少なし」(マタイ九章三十七節)。はたは色つきて豊かなる神の愛はふさふさとるるも、人これをかえりみずしてむなしく飢えに泣いている。骨肉こつにく同胞皆そうである。かかる間にひとり我等のみ召されて、なお暫時しばしのこの世の生命いのちを預けられたる所以ゆえんはもはや疑うべくもない。今や彼の我等に向かって要求したもうところは明らかである。政治、産業、富国強兵乃至ないし社会改良皆なり、ただいまだキリストの愛を知らざる兄弟を如何どうしてよいのであるか。彼等をもすべて我等と同じく召さんがために、キリストはそのとうとき血を流したもうたではなかったか。キリストの命にかけて愛したまいし彼等を我等が棄て置くことはできない。我等もまたパウロと声を合わせて叫ばざるをえない、

もしわが兄弟わが骨肉こつにくのためにならんには、あるいはキリストよりはな沈倫ほろびに至らんもまたわが願いなり(ロマ九章三節)

と。彼等が救わるるのみちほかにあることなし、我等のあかしつのである。しからば現在いま我等にゆだねられたる暫時しばし残生ざんせいはいともとうときものといわねばならぬ。肉体とよ、まことに「肉は益なし、生命いのちを賜うる者は霊なり」(ヨハネ六章六十三節)。しかしながら我等の肉体は今やキリストのえだである、

汝等のはキリストのえだなるを知らざるか、……汝等のは汝等が神より受けたる我等の内にある聖霊の殿みやにして、汝等は汝等のものにあらざる事を知らざるか(前コリント六章十五、十九節)

神聖なるかな我等の肉体、これをこの世の事のために消費してならんやである。我等の残生ざんせいまことにただ感恩かんおん残生ざんせいである。彼が我等のためにのみ生きたまいしごとくに、我等もまた彼のためにのみ生くるのほかはない。

わが生けるはキリストのため又死ぬるも我が益なり、されど肉体にりて生けることもしわがはたらきを結ぶ根本もととなるべくば、いずれを選ぶべきか我これを知らず(ピリピ一章二十一、二十二節)

ただ知る、ここになお何時いつまでかの残生のこるいのちゆだねられて、世にる限り聖霊の導くままに彼の事業にあたることを しめられたというその事の、また特別なる恩恵であっていいがたき感謝をかさぬるのほかなきことを。ああ、感謝のための残生ざんせいあり、しかして残生ざんせいのために又感謝あり。かくて感謝は感謝を生み、世を去る時までそのくるを知らないのである。