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「砂漠はサフランのごとく」
第四 終わりのラッパ鳴らんとき――身体の復活
藤井武
一 復活と信仰
賢者かつて人生の空しきを歎じて曰うた、「先に有りし者はまた後にあるべし。先に成りし事はまた後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。見よ、これは新しき者なりと指して言うべきものあるや。それは我等の前にありし世々にすでに久しくありたる者なり」と(伝道書一の九、一〇)。新しというもの実は古きものに過ぎない。先にありしと同じ運命は又その者にも臨む。すべてのものが古びつつある、朽ちつつある。死は実に人生と万物とに通ずる普遍的法則である。何者かこの法則より免るるものがあるか。何処にか見よこれは新しき者なりと指して言うべき、朽ちざる死せざる者があるか。
答えて曰う、何処にも無い、しかしながら唯一つのものがあると。しかり、普遍的法則を破りて、唯一つの新しき者がある。宇宙間何ものをもっても適切に譬喩すべからざる絶対的に新しき者がある。何か。曰くキリストの復活これである。
キリスト・イエスは十字架に釘けられて死んだ。彼の屍体は議員ヨセフによって取りおろされてその墓に納められた。彼を慕いし女たちは、これに防腐法を施さんとて、三日目の朝まだき、香料と香油とを携え、涙ながらに墓を見舞った。しかるに見よ石はすでに転ばし除けられて、墓は虚しくあったのである。しかして彼等の耳に驚くべき音信は告げられた。曰く「何ぞ死にし者どもの中に生ける者を尋ぬるか。彼はここに在さず、甦りたまえり」と。生ける者とよ、甦りたまえりとよ。後に使徒等がこの言を伝え聞きし時、これを妄言と思いて信ぜざりしは怪しむに足らぬ。しかしながらイエスはその後此処彼処にて幾度びか彼等の前に顕われた。疑える者には殊に明瞭なる態にて顕われた。彼が一度び死にし後また甦りたるは、如何にしても打ち消すあたわざる歴史的事実である。死にし者が果たして復活し得るか否かの理論はしばらく措き、キリスト・イエスは復活したというこの一つの歴史的事実を遂に如何ともすることが出来ない。
しかして彼の復活はいわゆる蘇生ではなかった。彼は葬られし時と同じ状態をもってまた墓より出たのではない。復活のキリストの生活状態はナザレのイエスのそれと甚だしく異なるものであった。すなわち彼の身体の組織が全然一変したのである。死にたるものが再び死なざる者に、不完全にして不自由なるものが完全にして自由なる者に、一変したのである。「キリスト死人の中より甦りて復た死にたまわず。死もまた彼に主とならぬを我等知ればなり」(ロマ六の九)。
死より生へ、しかも再び死なず朽ちざる永遠の生へ。かくのごときものがキリストの復活である。しかしてそれは拒むに由なき歴史的事実である。「日の下には新しき者あらざるなり」と悲しき調子をもて歎ずる者は誰ぞ。聴け、イースターの喜ばしき音信を。「キリストは甦りたまえり!」と。黎明に鳥うたい朝風に鐘ひびきて、この嘉信を万人の耳に伝えつつある。天地創造以来の新しき出来事が今より千八百九十余年前の春ニサンの月十六日の日曜日の晨にいみじくも実現したのである。
「キリストは甦りたまえり!」如何に新しくかつ喜ばしき出来事よ。当時図らざる師の横死のために失望落胆し、ユダヤ人を恐れ戸を閉じて集まり居たる弱き弟子等は復活のキリストを見てより全く別人のごとくに変わった。彼等は雄々しくも起ち上り、民の前に又有司長老学者の前に憚らずしてキリストの復活を証明した。彼等は言うた「汝等不法の人の手をもて(彼を)釘磔にして殺せり。されど神は死の苦難を解きてこれを甦らせたまえり。……神はこのイエスを甦らせたまえり。我等は皆その証人なり」(行伝二の二三、二四、三二)。「汝等はこの聖者義人を否みて殺人者を釈さんことを求め、生命の君を殺したれど、神はこれを死人の中より甦らせたまえり。我等はその証人なり」と(行伝三の一四、一五)。また「我等は見し事聴きし事を語らざるを得ず」と(行伝四の二〇)。誠に使徒等の最初の宣伝はキリスト復活の証明に外ならなかったのである。彼等の高唱したる福音はすなわち復活の福音であったのである(使徒行伝を見よ)。
従って一般のキリスト者に在てもまた同様であった。彼等の信仰の重心は自らここにあった。彼等に取って最も記憶すべきものは主の磔殺ではなかった、彼の降誕でもなかった。さりとて又天地の創造でもなかった。主キリストの復活こそは天地の創造にまさる新しき創造であった。それは新人生の開始であった、旧世界の退去であった、新天新地創造の預言であった。彼等の讃美と希望とは自らここに集中せざるを得なかった。彼等はこの偉大なる宇宙的事実を永久に記念せずしては已むことが出来なかった。しかして復活の日は一週の初めの日であった。ゆえに彼等は毎週初めの日を聖別して、もってこの驚くべき新創造を実現したるエホバの神を讃美せんと欲した。かくて彼等の安息日は何時しか土曜日より日曜日にと移ってしまったのである。たとえこの日を安息日と呼ばずして主の日と称したとはいえ、その精神に至っては異ならない。すなわち神の創造において現われたる彼の愛と能力とを記念せんがためである。ただユダヤ人は天地の創造を記念したるに対し、キリスト者はさらに新しき創造なるキリストの復活を記念することを始めたのである。かく初代キリスト者をしてその安息日を変更するに至らしめたる一箇の出来事は、まさしく彼等の心に何よりも深き印象を与えたる事実でなくてはならぬ。しかして実にそうであった。「キリストは甦りたまえり」とは彼等が互いに相見ゆる時の挨拶にさえしばしば出でたる喜びの声であったのである。
しかるに近頃にありては如何。福音を唱うる者は多しといえども、復活のごときはほとんど顧みられない。近世において最も卓越の地位を占むる神学者シュライエルマッハーは曰うた「復活は聖書の記述に係わる事柄である。ゆえにその証拠について自ら満足し得る者はよろしくこれを受け入るべしである。しかしながらそれはキリスト者をしてキリスト者たらしむる所以の信仰には何の関わりもない。我等は全くこれと離れて、イエスを十分に我等の贖い主として認むることが出来る、又彼の救いに与かるの福いを十分に経験することが出来る」と。思うにかくのごときは現代多数のキリスト者の思想を代表するものであろう。彼等は必ずしも断然とキリスト復活の事実を否定しない。しかしながらこれをもって福音の真髄に関係なき問題となし、しかして自分はもちろんこれを信じないのである。今日のキリスト教は大体において復活(及び再臨)抜きのキリスト教であると言うて過言ではないと思う。
復活は果たして福音の真髄に関係なき問題であるか。キリスト死してまた甦らず、空しく墓の中に朽ちたるままにして、なおかつ我等は救われ得るのであるか。彼の復活をもって天地の創造にまさる絶大なる新事実となし、しかしてここにその希望を集中せしめたる初代信者等は、果たして愚かなる錯誤をなしたのであるか。この真面目にして重大なる疑問に対し最も明快なる解答を供するものは、けだしコリント人に与えたるパウロの書翰の一節である。コリントにおける初代信者の中にも復活そのものの可能を否定する者あるを聞いて、使徒パウロの熱き心は動かざるを得なかった。すなわち彼は特にその書翰中の数頁を割きて更めて復活に関する一篇の堂々たる論文を綴り、もってこれを彼等に致したのである。
復活は果たして福音の真髄に関係なき問題であるか。近世神学者及び多数のキリスト者はしかりという。しかしながら使徒パウロは言う、
兄弟よ、先にわが伝えし福音をさらにまた汝等に示す。汝等はこれを受け、これに頼りて立ちたり。汝等徒らに信ぜずして我が伝えしままを堅く守らば、この福音によりて救われん。
わが第一に汝等に伝えしは、我が受けし所にして、キリスト聖書に応じて我等の罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日目に甦り、ケパに現われ、後に十二弟子に現われたまいし事なり。次に五百人以上の兄弟に同時に現われたまえり。その中にはすでに眠りたる者もあれど、多くは今なお世にあり。次にヤコブに現われ、次にすべての使徒に現われ、最終には月足らぬ者のごとき我にも現われたまえり。我は神の教会を迫害したれば、使徒と称えらるるに足らぬ者にて、使徒の中いと小さき者なり。しかるに我が今のごとくなるは、神の恩恵によるなり。かくてその賜わりし御恵は空しくならずして、すべての使徒よりも我は多く働けり。これ我にあらず、我と共にある神の恩恵なり。
されば我にもせよ、彼等にもせよ、宣べ伝うる所はかくのごとくにして、汝等はかくのごとく信じたるなり。(前コリント一五の一〜一一)
彼は今コリントの信者に対して、福音の真髄の何たるかを示さんと欲するのである。ただしこは彼等に対する彼の最初の福音提唱ではない。パウロは先に一度びこれを彼等に伝えた。しかして彼等はこの福音を受け、これに頼りて立ち、又これによりてその救いを完うせられんとしつつあるのである。誠に彼等の信ずる所徒らならざる限り、換言すれば彼等の受けたる福音が虚しき物語にあらざる限り、又彼等にしてパウロの伝えしままを堅く守りて変わらざる限り、彼等を救うものは必ずやこの貴き福音でなくてはならぬ。
かく彼等が現在拠りて立つ所の礎石たり、未来における唯一の希望たるこの福音の真髄は何であるか。パウロが福音の第一の要素として先に彼等に伝えし所今また示さんとする所は何であるか。曰く「わが第一に汝等に伝えしは、キリスト聖書に応じて我等の罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日目に甦りたまいし事なり」と。キリストの死としかして彼の復活!これが福音の第一要素である、これがキリスト教の真髄である、これが救いの根柢である。旧約聖書に預言せられしごとく(イザヤ五三等)神の遠大なる経倫に従いて、キリスト・イエスは我等すべての人の罪を贖わんがために一度び死んだ。しかして墓に葬られた。しかるにまた聖書に預言せられしごとく(詩一六等)、三日目の朝に至りて、墓は虚しく、葬られしキリストはその身体をもって復活したのである。彼がかくのごとくにして我等の罪のために死にたる事と、しかして又かくのごとくにしてその身体をもって復活したる事と、この二箇の歴史的事実ありて、人類永遠の福いなる運命が定められたのであるとパウロは言う。彼の所説の是非は別として、少なくともその言語は明白である。近世神学者をして、復活はキリスト者の信仰の要素にあらずと揚言せしめよ。しかれどもパウロはコリントの信者等に告げて言うたのである、曰く「福音の真髄はキリストの死としかして彼の復活にある。汝等はこれを受けこれに頼りて立ちこれによりて救わるるのである」と。
パウロがかく言うはもちろん彼の独断によるものではなかった。彼は福音の真髄をかくのごときものとして「受け」たのである。誰からこれを受けたか。ここには明言せられない。しかしそれは素より人からの意味ではあるまい。キリストの死及び復活という歴史的事実はこれを人から聞知したであろうといえども、その福音の真髄としての意義に至っては、人よりにあらず人によらず、キリスト彼自身よりの直接の啓示としてこれを受けたのである。事は彼の霊的実験のいと深きものに係わる。果たしてしからば、神学者シュライエルマッハーの冷たき学究的論断と、使徒パウロの深き霊的実験と、信仰の事に関して、我等は二者の何れを多く重んずべきであろうか。
キリストの死としかして彼の復活である。共に歴史的事実である。しかしながら彼の死は何人もこれを疑わざるに反し、彼の復活に至っては超自然的出来事に属し、これを信ずるに甚だ難きを免れない。ゆえに少しくその確かさを証明するの必要がある。しかして歴史的事実の証明のために最も良き方法は、これが実見者を証人として引き出すにある。実見者にして信頼すべきものならんか、我等はその事実を受け入れざるを得ない。しからば復活の主キリストを見たる者は誰々ぞ。曰くケパである(ルカ二四の三四)、曰く十二弟子である(ルカ二四の三六以下、ヨハネ二〇の一九以下、ただしイスカリオテのユダを含まず、トマスもまた不在なりしと見ゆ、十二とはけだし実際の数に拘わらず、使徒の一団に対する公的称呼である)、曰く同時に五百人以上の兄弟である(これ多分ガリラヤにおける実験であろう)、曰くヤコブである(使徒の一人にあらず、主の兄弟ヤコブであろう。主在世の間未だ信者ならざりし彼をして後に教会の柱石の一人たらしめたる原動力はこの実験にあったのであろう)、曰くすべての使徒である(これ主昇天の日の実験であろう。すべての使徒とは十二使徒以外にヤコブ、バルナバ等をも含めたる広義の名称であろう)、又曰く最後にはパウロ彼自身である(言う迄もなくダマスコ近郊における実験を指す)。ケパといい十二弟子といいヤコブといいすべての使徒といい、証人としての彼等の権威には動かすべからざる重さがある。次に五百人以上の兄弟は素より無名の男女の一団に過ぎなかった。しかしながら彼等の中にすでに眠りたる者もありといえども、その大多数は当時なお生存しておったのである。ゆえに疑う者はよろしく往いて彼等に聴くべきであった。最後にパウロ彼自身の証人としての地位は如何。今に至って誰かこれを疑う者があろうか。彼こそは復活に関する証人中の証人である。しかしながら彼の良心は余りに鋭くあった。彼は自己がかつて神の教会に対する迫害者なりし事を忘れがたくあった。憐むべきパウロ!幾度びか彼はその事を憶うて心刺されたであろう。聴け、世にも謙遜なる彼の声を。曰く「月足らぬ者のごとき我」、曰く「我は神の教会を迫害したれば、使徒と称えらるるに足らぬ者にて、使徒の中いと小さき者なり」と(月足らぬ者とは適当の経歴なく迫害者より急に信者として生まれ出でたる事を意味するのであろう)。復活のキリストに関する最も光輝ある実験者にてありながら、証人の一人として自己を数うるに当たり、かくのごとき告白を附加せざるを得ざりしパウロその人の誠実さよ。この一事すでに彼の証明をして至高の権威たらしむるに足る。しかしながらパウロは証人としての自己の権威を何処までも自己に帰さなかった。彼は偏にこれを神の恩恵に帰した。すなわち曰うた「かく使徒の中いと小さき者であるに拘わらず、私に賜わりし神の恩恵は空しくなかった。私は遂に今のごとく異邦人に対する使徒となり、すべての使徒よりもなお多く働き得るに至った。これもちろん私の功ではない。神の恩恵である。しかしてこの恩恵によりて、私の証明もまた権威なきものではないのである」と。誠にそうである。彼に賜わりし神の恩恵によりて、使徒パウロの証明はキリストの復活に関する最大の権威たるを失わないのである。
キリストの死と彼の復活、パウロの高唱したる福音はこれであった。使徒等の宣伝したる所もまたこれであった。しかしてコリントその他における初代信者等の信じたる所もまたこの福音であったのである。曰う「されば我にもせよ、彼等にもせよ、宣べ伝うる所はかくのごとくにして、汝等はかくのごとく信じたるなり」と。知るべし、復活は実に福音中の福音であることを。
しかり、福音中の福音である。ゆえに復活の倒るると共に救いの途は消滅する。復活の起つと共に人生と宇宙との希望は確立する。誰かいう「我等はキリストの復活に関係なくして十分彼の救いに与かることが出来る」と。キリストもし甦らざりしならば果たして如何、キリストもし葬られたるままその身は墓の中に朽ち果てて遂に甦らざりしならば、しからば福音もなく、信仰もなく、救いもなく、全人類は今なお暗黒の中に彷徨せねばならぬであろう。
キリストは死人の中より甦りたまえりと宣べ伝うるに、汝等のうちに、死人の復活なしと言う者のあるは何ぞや。
もし死人の復活なくば、キリストもまた甦りたまわざりしならん。もしキリスト甦りたまわざりしならば、我等の宣教は空しく、汝等の信仰もまた空しからん。かつ我等は神の偽証人と認められん。我等神はキリストを甦らせたまえりと証したればなり。もし死人の甦ることなくば、神はキリストを甦らせたまわざりしならん。
もし死人の甦ることなくば、キリストも甦りたまわざりしならん。もしキリスト甦りたまわざりしならば、汝等の信仰は空しく汝等なお罪に居らん。さればキリストに在りて眠りたる者も亡びしならん。我等この世にあり、キリストに頼りて空しき望みを懐くに過ぎずば、我等はすべての人の中にて最も憫れむべき者なり。(前コリント一五の一二〜一九)
「キリストは甦りたまえり」。この一片の音信に含まるる意義の重さはまさに宇宙的である。しかるにコリント教会中、復活その事を否定する論者があった。彼等の主張は近代人のごとき浅薄なる唯物主義に基づくものではなかった。却てその反対に彼等の思想は余りに純霊的であった。彼等は霊魂の不滅の外に身体の復活なる概念を容すことが出来なかったのである。しかしながら彼等は未だかくのごとき否定が如何に重大なる結論に導くべきかを覚らなかった。
試みに彼等の言うがごとく復活その事なしと仮定せよ、しからばキリストの復活もまた事実でないと認めねばならぬ。キリストの復活もし事実ならざらんか、しからば如何。その結論の第一は重大なる道徳問題である。すなわちパウロその他の使徒等はみな自らキリスト復活の証人なりと称して、実は虚しき事を伝えつつあるのである。従ってこれを受け入るる者もまた虚しき事を信じつつあるのである。かくて使徒等は赦すべからざる虚言者かつ欺瞞者である。否、唯にそれのみでない。彼等は言う「神キリストを甦らせたまえり」と。しかるにキリストの復活事実ならずんば、彼等は取りも直さず神について偽証を立つる者ではないか。ああ公然虚偽を宣伝して切りに人を欺くのみならず、神をさえ詐りて憚らざる者、かくのごとき者がパウロであり、ペテロであり、ヨハネであり、ヤコブであるか。過去二千年に亙りて人類に最高の理想を提示し、尽きざる道徳的活力の供給を媒介しつつある彼等キリストの使徒たちは、実は最も憎むべき破廉恥漢に過ぎないのであるか。復活否定論者はまずこの途方もなき結論を男らしく承認せねばならぬ。
道徳問題はなお忍ぶべし。忍ぶべからざるは信仰問題である。もし復活その事なく、従ってキリストの復活も事実ならざらんか、その結論の第二は最も重大なる信仰問題である事を知らねばならぬ。何か。曰く復活なくんば全然救いの無きことこれである。「もしキリスト甦りたまわざりしならば、汝等の信仰は空しく、汝等なお罪におらん」。もしキリスト死して葬られたるままならんには、キリスト者の信仰というも実は全然無益のものに過ぎずして、人は何人も未だ罪より脱せず、未だ新しき生命に入らないのであるという(一四節にある空しの原語は目的物の虚無なるの意、本節にある同じ訳字の原語は無益又は無効の意)。換言すれば、キリストの復活なくんば人類の救いなるものは絶対に無いのであるとの意である。誠に重大なる提言である。これそもそも何故であるか。
人の子イエス・キリスト、その罪なき聖き身を十字架に懸けて死したる時に、全人類の罪の贖いはすでに果たされたのではないか。しかして我等は十字架の上の彼を信ずるによって罪より脱して永遠の救いに入るのではないか。すなわち救いの成就はキリストの死をもって足るのではないか。現にパウロ自身が同じ書翰の初めの部分において「イエス・キリスト及びその十字架につけられたまいし事のほかは、汝等の中にありて何をも知るまじと心を定めたり」と明言しているではないか。しかるにも拘わらず、ここに至りてまた「もしキリスト甦りたまわざりしならば、汝等の信仰は空しく、汝等なお罪におらん」というはそもそも何故であるか。
これを一言にして答えしめよ、曰く、神は生を悦びて、死を悦びたまわざるがゆえである。「主エホバ言いたもう、我は生く。我は悪人の死ぬるを悦ばず。悪人のその途を離れて生くるを悦ぶなり。汝等翻り、翻りてその悪しき途を離れよ。イスラエルの家よ、汝等何ぞ死ぬべけんや」(エゼキエル三三の一一)。神は我等のためにキリストを死せしめて、もって我等の罪を処分したもうた。彼はまたキリストを復活せしめてもって我等の新生を可能ならしめずんば已みたまわない。彼の悦びたもう所は生にある。救いの目的は新しき生命の創造にある。唯に我等の罪を贖うのみならず、さらに我等をして新しき生命に入らしむるに及びて、神の救いは始めて成就するのである。しかして死はもって罪を処分するに足るも、未だもって生命を産むに足らず。何人も死せるキリストを信ずるによりて新たに生まるることは出来ない。生命を産むものはまた生命でなくてはならぬ。贖罪は十字架の主にあり、されども新生はこれを復活の主に求めねばならぬ。我等は死したるキリストを要求すると共に、さらに切に、生けるキリストを要求する。生きて再び死せざるキリストをわが主と仰ぎ、確実に彼と結び付くによりてのみ我等の新しき生命は実現するのである。ゆえに救いはキリストの死のみをもっては未だ成就しない。死と共に必ず復活を必要とする。神は彼の死にまさりて彼の復活を悦びたもう。本来その独子を世に遣りたまいし神の目的が死よりもむしろ復活にあったのである。「これによりて父は我を愛したもう。それは我れ再び生命を得んために生命を捨つるゆえなり……我れこの命令をわが父より受けたり」(ヨハネ一〇の一七、一八)。生命を捨つるその事が生命を得んためであった。死そのものが復活のためであった。贖罪そのものが新生のためであった。ここにおいてか知る、キリストにしてもし甦らざらんか、すなわち人類の救いは失敗に終ったのである事を。しかして我等の信仰は全く無効にして、人は何人も未だ旧き罪の生涯を脱しないのである事を。
復活なくんば救いなし。ゆえに万人がなお暗黒の中に在るのみならず、なかんずく禍いなるはキリストに頼りて救いに与かりたりと信ずる輩である。彼等のある者はすでに主に在りて永遠の望みを懐きつつ安けく眠った。ああ、かのステパノ、ヤコブを始めとしてすべて美しき信仰的最期を遂げたる聖徒等は、実は欺かれて悲惨にも亡びたのであるか。またはなおこの世にありてキリストに頼りつつ艱難を忍び聖き生涯を送る者もまた実は空しき望みを懐くに過ぎずして、人の中最も憫むべき者に属するのであるか。かのアウガスチンとルーテルとダンテとミルトンとクロムエルとグラッドストーンと、その他万世に亙りて世界歴史を照らしつつある諸名星は、実は何れも全人類中最大の愚者狂者に過ぎないのであるか。誠に復活の倒るると共に救いの途は消滅して、あらゆる貴き生涯は全くその意義を失わざるを得ない。復活否定論者は必然この恐るべき結論をもあえて承認せねばならぬ。
これに反して、復活の起つと共に、人生及び宇宙の限りなき希望は確立する。
されどまさしくキリストは死人の中より甦り、眠りたる者の初穂となりたまえり。それ人によりて死の来たりしごとく、死人の復活もまた人によりて来たれり。すべての人アダムによりて死ぬるごとく、すべての人キリストによりて生くべし。しかして各人その順序に随う。まず初穂なるキリスト、次にその来たりたもう時キリストに属する者なり。
次には終わり来たらん。その時キリストは諸の権能権威権力を亡ぼして、国を父なる神に付したもうべし。彼はすべての敵をその足の下に置きたもうまで王たらざるを得ざるなり。最終の敵なる死もまた亡ぼされん。「神は万の物を彼の足下に服わせたまい」たればなり。万の物を彼に服わせたりと宣べたもう時は、万の物を服わせたまいし者のその中に無きこと明らかなり。万の物彼に服う時は、子もまた自ら万の物を己に服わせたまいし者に服わん。
これ神は万の物において万の事となりたまわんためなり。(前コリント一五の二〇〜二八)
キリストはまさしく甦ったのである。彼の復活は疑うべからざる歴史的事実である。彼は今もなお神と共に生きつつある。この一箇の事実の中に寵めらるる意義の深さよ。そは唯に我等の霊的新生の基礎であるばかりでない。さらに二重の最も重大なる出来事の預言である、その保証である。何ぞ、曰く人類の復活、曰く万物の革新。
死は実に人類の累いである。如何にしてかくのごときものが人生に臨んだか。これを癒さるるの途は無いか。曰く有る。死の輸入者はアダムであった。彼は人類の一員にしてかつその代表者であった。ゆえにすべての人は彼の性質を嗣ぐによりて、また彼と均しく死せざるを得ないのである。しからばここに何人か第二のアダムたる者ありて、人類の一員にしてかつその代表者たり、しかして死人の中より復活したる者あらんか、すなわちすべて彼の性質を嗣ぐ者は、また彼と均しく復活せざるを得ないであろう。しかして人の子イエス・キリストこそ実にその人であった。彼は紛れもなき人であった、人の代表者なる者であった。しかして彼は見事に復活したのである。ゆえにあたかもすべての人アダムの性質を受けて死ぬるがごとく、今より後、すべての人ただキリストの性質を受くるによりて生くべきである。この意味において、キリストの復活はいわば人類の復活の初穂であった、その先駆であった。復活に自ら順序がある。初穂なるキリストは言う迄もなく先頭である。しかしてすべて彼に属する者は、彼の再び来たりたもう時に必ずこの大いなる恩恵に与からしめらるるのである。
かくて再臨の日に人類の復活がある。しかる後に「終わり」が来る。終わりとは何か。万物の終わりである(前ペテロ四の七)、現在の世界の終わりである、旧き天地の終わりである。天地はもちろん消滅しない。しかしながらその存在の状態を一変する(七の三一参照)、世界は何時までも今日のごとき不完全なる状態を続くる事をしないのである。今は我等の世界に言うべからざる悲痛がある。これみな罪を原因として出でたる、神に逆らう所の諸々の権能権威権力が、人生と宇宙とを撹乱しつつあるからである、あるいは人の心の中に毒を盛るもの、あるいはその身体を冒すもの、あるいは社会的秩序を乱すもの、あるいは自然界の調和を破るもの、何れもみな神の敵である。彼等は今しばらくその勢力を恣にするであろう。世界はなお彼等の蹂躙に委ねられて、人の目よりは今しばらく涙が消えぬであろう。しかしながらやがて時が来たる。すべての敵の亡ぼされて、限りなき平和の実現すべき時が来たる。キリスト再び来たりてこの絶大なる改造の事業を始むるのである。しかしてこれを完成するまで彼は必ず世界の王としてその権力を発揮せずしては措かないのである。かくのごとくにして罪とこれに基づくすべての力とは絶滅せしめられ、罪の最後の結果にして敵の中の最終のものたる死もまた亡ぼさるるであろう。しかして万物がキリストの足下に服するに至るであろう。けだしかつて詩人の歌いしがごとく、人は素と万物を支配すべきものとして造られたのである(詩八の六)、万物は人に従い人は万物を率いて神に従う所の大調和の世界が神の理想であったのである。神のこの理想は人の罪のためにしばらくその実現を妨げられたとはいえ、しかも決して廃滅には帰さない。造化当初の神の遠大なる理想は、何時か遂に実現せずしては終らない。アダムの躓きたる途はキリストによりて再び貫かるるであろう。アダムの足の下に従わざりし万物はキリストの足の下に必ず服うであろう。しかして後にキリスト彼自身はその国を父なる神に付して、己もまた万物と共に彼に服うであろう。万物はキリストに服い、キリストは万物を率いて神に服う。これすなわち神の古き理想の成就であって、万物の革新である、新天新地の出現である。謂う所の「終わり」はすなわちこれである。呪われたる万物の終わり、不完全極まる現在の世界の終わり、不義をもって充つる旧き天地の終わりである。
しからば万物革新の晨における世界の状態は如何であるか。曰く「神は万の物において万の事となりたまわん」と。万の物における万の事、すべてにおけるすべて、万物の存在及び活動の原理として唯一にしてかつ全部なるもの、それが神であるという。如何に光栄ある状態よ。ここに人は誰も彼もみな神に肖たる者と成りてただ彼の心をもって心とするであろう。従って社会生活はただ聖き愛のみの発動となるであろう。また一切の天然物は各々みなその中心より外殻に至るまで偏に神の感化をもって浸潤せられ透徹せられ盈満せらるるであろう。従って天地の間何処にも不調和を孕むの隙なく、全宇宙が限りなき歓喜と讃美とをもって充さるるであろう。「神はすべてにおけるすべてと成りたまわん」。貴きかな新世界の理想。しかしてこの理想を実現せしむべき原動力こそ実に主イエス・キリストの復活にある。甦りたるキリスト再び来たりて、己が最終の使命としてこれを成就するのである。ゆえに曰う、彼の復活は新天新地創造の預言でありその保証であると。誠にこの一事実の倒るると共に救いの途は絶滅し、その起つと共に人生及び宇宙の希望は始めて確立するものである。
キリストの復活が福音の真髄であることの論証は終った。パウロはさらに進んで復活そのものの理論的説明を試みんと欲する。ただしこの第二段に移るに先だち、彼にはなお一言附加せずして済まざるものがあった。すなわち復活否定論の実際生活に及ぼす影響である。事は単に信仰の内容の問題としてのみ止まらない。復活の希望の有無によりて日々の実際生活の基調が全然相反するものとならざるを得ない。如何。曰く、復活の希望ありて初めて犠牲的生涯がある、もしこの希望なからんか、人は何人も最も卑しき享楽主義に陥るを免れないのである。
もし復活なくば、死人のためにバプテスマを受くる者何をなすか。死人の甦る事全く無くば、死人のためにバプテスマを受くるは何のためぞ。また我等が何時も危険を冒すは何のためぞ。兄弟よ我等の主イエス・キリストに在りて汝等につき我が有てる誇によりて誓い、我は日々に死すと言う。我がエペソにて獣と闘いしこと、もし人のごとき思いにてなししならば、何の益あらんや。死人もし甦る事なくば、「我等いざ飲食せん。明日死ぬべければなり。」
汝等欺かるな。悪しき交際は善き風儀を害うなり。汝等醒めて正しうせよ。罪を犯すな。汝等の中に神を知らぬ者あり。我がかく言うは汝等を辱しめんとてなり。(前コリント一五の二九〜三四)
「死人のためにバプテスマを受く」とは何の謂か。旧新約聖書中、かくのごとき事実に言及する処は一つもない。実に聖書中最難解の句の一つはこれである。ベンゲル曰く「この一句の解釈の多様なるもまた甚だし。人もしその異なりたる意見の目録のみを編纂せんと欲するも、なお一個の論文を綴らねばならぬ」と。我等はかくのごとき雑多なる学者の解釈を探査するの無益を知る。むしろ本文の前後関係より推断して単純なる信仰的解釈を下すに如かない。思うに後の数節の明示するがごとく、パウロのここに附言せんと欲するは、復活の希望なくして犠牲的生活は無意義であるとの事にあるのであろう。果たしてしからば、謂う所のバプテスマは水をもってする普通の洗礼にあらずして、恐らくキリストが「我には受くべきのバプテスマあり」といい(ルカ一二の五〇)「汝等我が受くるバプテスマを受け得るか」といいたまいし(マルコ一〇の三八)がごとき殉教の死を意味するのではないか。しかして「死人のために」とは死せる聖徒等の列に加わらんがためにの意にこれを解し得ないことがない(学者ゴーデーは如上の解釈の権威である)。かくてこの一句は使徒時代においてすでに始まりし壮烈なる殉教の死と復活の希望との関係を示すものとして、極めて深き意義を発揮するのみならず、後の数節に対する脈絡は素より完全である。すなわちパウロは言う、「もし復活なからんか、しからば我等の多分遭遇すべき殉教の死は何のためぞ。又唯に最期のみならず我等が常時冒しつつある危険は何のためぞ。しかり兄弟よ、私は私の伝道の結果たる汝等の信仰をもって私の誇となし(もちろん主にありて)、しかしてこれがためには日々に死を期しつつあるのである。現に私はエペソにおいて獣とも称すべき人々より大いなる迫害を受けた。もし私に復活の希望なく、普通の人のごとき現世主義の思想をもってしたらんには、これらの経験は私のために果たして何の益をなそうか。誠に復活なくんば、古き諺に言うがごとく、死なざる中に飲食して楽しむに如くはない。明日にも我れ死なば、万事は虚無に帰するからである」と。犠牲的生活の動機を復活の希望に結び付くる事をもって卑しとなす者は誰か。永遠の立場を離れて如何にして犠牲そのものの価値を認識することが出来るか。パウロの経験したるごとき多難の生涯に意義を附与するものはただ来世の希望あるのみ。復活を信ぜずして人の実際生活は遂に憐むべき享楽主義にまで堕落せざるを得ない。
このゆえにパウロはコリントの信者等を戒めて曰うた「汝等空しき哲学によりて自ら欺くことなかれ。汝等の詩人もまたかつて言うたではないか、悪しき交際は善き風儀を害うと(紀元前一二世紀の頃に出でしメナンデルの語の引用であろう)。不信なるこの世の声に耳を傾けて復活を疑うの結果は憐むべき堕落に至らねばならぬ。ゆえに汝等儼然として醒めよ。しかして享楽主義のごとき罪を犯すことなかれ。汝等の中復活を信ぜざる者は実は未だ神を知らざる者である。我れ汝等を辱しめてその覚醒を促さんと欲するがゆえに、敢てこの忌憚なき言を発するのである」と。復活の信仰の事たる、畢竟するに教理の問題ではない、そはキリスト者の道徳的生活の死活に関する最も重大にして真剣なる実際問題である。
二 復活の理論的説明
死より生へ、しかも再び死せざる永遠の生へ、こは誠に喜ばしき音信である。しかしながら明らかに自然の法則に対する逆行である。我等は自らこれが理論的説明を求めざるを得ない。理性もまた貴き神の賜物であるものを。たとえそれはある高さ以上には及ばずといえども、また神秘の境には到底渡り行くを得ずといえども、なおその許されたる範囲において十分なる存在を認められん事はけだし当然の要求である。しかして神はこの要求を軽しめたまわない。「エホバ言いたまわく、いざ我等共に論らわん」と(イザヤ一の一八)。彼は我等と共に論らう事をさえ諾いたもう。彼は己が聖業をして我等の理性にも訴えしめたもう。エホバの神は如何なる場合にも断じて信仰の名の下に明白なる背理を我等より要求したまわないのである。復活もし神の聖業ならんか、少なくともその原理の一端については整然たる理論的説明が可能でなくてはならぬ。
復活の理論的説明とよ、今日一派の正統派信者等はその語を聞くだに眉をひそむるであろう。しかしながら福音は決してこれを人生の狭き一局部に祀り上ぐべきものではない。人の子イエスの福音は万人をしてこれに触れしめん事を要求する。エホバの神の真理は宇宙的真理である。すべての科学と哲学と文学と芸術と経済と法律とをして神の真理の前に跪かしめよ。しかして彼等をしてその謙遜なる説明者たらしめよ。人生及び宇宙のあらゆる事実をして福音の註解者たらしめよ。自然をしてイースターの嘉信を説かしめよ。歴史をして我等の復活を預言せしめよ。天文をして希望の福音を証明せしめよ。神の子等よ、汝等の目を挙げて野に注げ、若き芽の萌え出でたる、鳥の歌える、星の輝ける、みな福音の好註解である。我等は神の造りたまえる世界に住みて彼の新しき聖業を見んとしつつある。我等の環境に福音と没交渉なるものはない。万物が遂に神の讃美者とならねばならぬ。しかして真実にイエスの心をもって心とする者には必ずこの聖き野心があった。なかんずく代表的なるは使徒パウロであった。彼は宇宙の神の真理を証明せんがためには天を指し地に訴えた。復活の理論的説明何ぞこれを辞するに及ぼうか。パウロは喜びてこの任に当ったのである。
されど人あるいは言わん、死人如何にして甦るべきか、如何なる体をもて来たるべきかと。(前コリント一五の三五)
復活に関する疑問は主としてこの二点に在る。一度び死したる者が復た甦るという、如何にしてか。普通に行わるる自然的法則はみな生より死への遷移である。しかるに独り死より生への復帰は如何なる法則によるのであるか。またその法則は仮に可能であるとするも、復活者は如何なる体をもって来たるべきか。我等の現在の体と異なる如何なる珍しき体を我等は想像すべきか。畢竟これ徒らなる空想に過ぎぬではないか。
第一問に対して、パウロは極めて簡単なる答弁を与えた。
愚かなる者よ、汝の播く所のもの先ず死なずば生きず。(前コリント一五の三六)
死より生への復帰を怪しむというか。愚かなる者よ、その類例は我等の周囲に充ちているではないか。試に種子の発芽を見よ。種子地に落ちて先ず分解せずんば新しき生命は萌え出ない。しかして分解はすなわち死である。我等の日常経験するこの平凡なる事実がすでに汝の疑問に答えつつあるではないかと。誠にしかりである。自然的法則は決して生より死への遷移のみではない。まさしくこの事実に対抗して死より生への復帰もまた間断なく行われつつある。もししからずんば我等の世界は今に至るを俟たずしてすでに死滅に帰したであろう。この世におけるすべてのものが古びかつ死しつつある。しかしながらその蔭にありてまた絶えず新しきものが死より復帰しつつある。草と木とは生より死へ遷りつつある、しかし若き芽は死(種子の)より生へ萌えつつある。楽しき春は冬枯の中より帰りつつある。美しき朝は夜の闇より明けつつある。雪は一度び消えずしては復た上に昇らない。多くの場合において死そのものが却て新しき生のための条件である。復活の原理を怪しむことを罷めよ。死より生への復帰は自然界の法則において少なくともその預言を認むるに難くないのである。
復活の貴き所以はむしろその新しき生命の特質にある。復活は単なる死より生への復帰ではない。再び死を見ざる永遠の生の開始である。ここにおいてか第二問は起らざるを得ない、曰く、謂う所の新しき体とは如何なるものぞ。かくのごときものが果たして有り得べきかと。この疑問に対するパウロの解答は二段の要領より成る。神はかくのごとき体を創造し得というは前段である。神は必ずこれを創造すべしというは後段である。
又その播く所のものは後に成るべき体を播くにあらず。麦にても他の穀にてもただ種粒のみ。しかるに神は聖意に随いてこれに体を与え、各々の種にその体を与えたもう。すべての肉同じ肉にあらず。人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり。天上の体あり、地上の体あり。されど天上の物の光栄は地上の物と異なり。日の光栄あり、月の光栄あり、星の光栄あり、この星はかの星と光栄を異にす。
死人の復活もまたかくのごとし。朽つる物にて播かれ、朽ちぬものに甦らせられ、卑しき物にて播かれ、光栄あるものに甦らせられ、弱きものにて播かれ、強きものに甦らせられ、血気の体にて播かれ、霊の体に甦らせられん。血気の体あるごとく、また霊の体あり。録して始めの人アダムは生ける血気となれりとあるがごとし。しかして終わりのアダムは生命を与うる霊となれり。(前コリント一五の三七〜四五)
神は新しき体を創造し得ないか。誰か神の創造的能力を限らんとするものぞ。植物を見よ、動物を見よ、無生物を見よ。天体を見よ。神の造りたもう体の種類はまさに無限ではないか。しからば彼の我等に賦与したもう体もまた現在のごとき不完全なるものに止まらない。さらに優秀にして完全なる新しき体を神はもちろん創造し得ると、かくのごときがパウロの論旨の前段である。
彼は先ず第一問に対して答えたる種子の発芽の実例をそのままに襲用して、播く所の体と後に成るべき体との差違を指摘した。播く所の体は如何。麦にても他の穀にても、あるいはその他の草木にても、みな見るに足らざる小さき種粒に過ぎない。しかるに神は聖意のままにこれに美しき体を与えたもう。見よ、一粒の米と瑞穂豊かなる収穫の稲、微小なる罌粟粒と色も鮮やかなる虞美人草、見すぼらしき団栗と堅牢なる樫の樹、如何に驚くべき差ぞ。誰か前のものより後のものの生まれ出づべきを想像し得ようか。されども神は彼を播かしめて此を成らしめたもう。神はかの卑しき体に代えてこの優れたる体を与えたもう。彼は誠に全能なる創造の神である。
唯に播く所の体と後に成るべき体とのかくも異なるのみでない。神は又「各々の種にその体を与えたもう」。従って同じく草といい木といいながら、生まれ出づる各の体の相違の著るしさよ。菫あり百合あり、苺あり林檎あり、薔薇あり桜あり、楓あり松あり。熱帯植物あり寒帯植物あり、高山植物あり海中植物あり。かくのごとくにして全地の美しき装いは成る。およそ少しく野と山とを愛する者は、これを彩る所の限りなく多様なる植生の創造者を讃美せずしていらるべきか。
植物しかり、動物またしかり。均しく肉と言うも、その機能に至りては全く相異なる。「すべての肉同じ肉にあらず。人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり」。獣の肉は人の肉の代用をなすあたわない。ベートーベンをしてその交響楽を奏せしめ、ミケランジエロをしてその『ダビデ』を彫ましめ、ラフアエルをしてその『マドンナ』を描かしむるものは人の肉である。猛虎をして山上に長嘯せしめ、駿馬をして千里を疾駆せしむるものは獣の肉である。大空高く雲雀をして叫ばしめ、静けき谿間に鶯をして歌わしむるものは鳥の肉である。早瀬に鮎を遡らしめ、深淵に鯉を躍らしむるものは魚の肉である。何れも肉にてありながら、各々特異なる職分に適応すべく、全く別種の体として形成せられたのである。
無生物何ぞ独りその例に漏れようか。「天上の体あり、地上の体あり。されど天上の物の光栄は地上の物と異なり」。天に日あり月あり星がある。地に土あり気あり水がある。彼と此と、その本来の実質において必ずしも異ならない。しかもその光栄に至りては全く別種の趣に属する。富士は秀麗である。しかし旭光は荘美である。ダイヤモンドの閃きは我等の目を射る。しかし明星の輝きは我等の心を動かすに足る。所詮地の光栄は天のそれに敵わない。しかのみならず天上の物同士また互いにその光栄を異にする。「日の光栄あり、月の光栄あり、星の光栄あり、この星はかの星と光栄を異にす」。光明耀々天の涯より地の果までを照らし、万物をして燦然と輝かしむるは日の光栄である。水のごとき空に涼しく浮かび出で、清き光の薄衣をもて普く地を蔽うは月の光栄である。億万里外の世界より冴えたる光を送りて、点々として蒼穹を装うは星の光栄である。かつまた星相互の間においても、金星は火星とその光を異にし、北斗はオライオンとその輝きを異にし、その他全宇宙に散在する幾千万の巨大なる恒星みな各々特殊の栄えを具備するのである。
思え、名もなき野末の小草より、太陽八千倍の光輝を発射するリゲル星、又は太陽幾万倍の体積を有するベテルギウス星に至るまで、千姿万態の機能及び光栄を有する無数の体を創造して、もって天と地とに充たしめたる創造者エホバの能力の豊かさを。誰か神の創造的能力に際限ある事を想像し得るものぞ。しからば新しき復活体の実現また何ぞ怪しむに足ろう。神は常に播く所のものと全く別様なる体を生え出でしめたもう。我等の場合にありてもまたしかり。播かるる所のもの、すなわちアダムの創造以来すべての人の自然の出生に際して賦与せらるる所の現在の体は、朽つるものである、卑しきものである、弱きものである。すなわち早晩死して腐朽すべきもの、また卑しき生活に適する構造を有するもの、また多くの束縛を荷いかつ極めて破損し易きものである。しかるに甦らせらるる所の新たなる体は如何。それは朽ちざるものである、光栄あるものである、強きものである。すなわち再び死することなく永遠に生くるもの、最も貴き機能とそれに適わしき輝きとを有するもの、疲れず倦まず傷つかず何の束縛をも受けざるものである。
朽つる物、卑しき物、弱き物、これを一言すれば血気の体である。朽ちざる物、光栄ある物、強き物、これを一言すれば霊の体である。播かるるは血気の体、甦らせらるるは霊の体である。血気の体とは何か。血気的生活(血気を中心としたる生活)に適応する身体の謂に外ならぬ。人の生活に血気中心なるあり、また霊中心なるがある。前者は普通人の生活である。思索し感慨し努力ししかして自ら展ぶる事をもってその最大の任務となす。後者は真実なるキリスト者の生活である。信頼し感謝し祈祷ししかして愛する事をもってその至高の職分となす。神は人をして霊的生活を実現せしめん事を期しながら、その出発点を血気的生活に置きたもうた。従って彼は人の身体をまず血気の機関として造りたもうたのである。
血気的生活あり、ゆえに血気の体がある。そのごとくに霊的生活あらんか、すなわち霊の体が無くてはならぬ。血気的生活の代表者は言う迄もなく始めの人アダムであった。聖書に録して、彼は「生ける血気と成れり」とある(創世二の七、生ける者とあるは生ける血気と改訳すべきである)。換言すれば、彼は血気を中心として生活する者と成ったのである。従って彼のために備えられし体は血気の体であったのである。しからば霊的生活の代表者は誰か。イエスである。彼の生活の中心は霊であった。彼は不断に神と交わり、飽くまでに人を愛した。ただ彼が世に在りし間はまた我等と異ならざる卑しくして弱き血気の体を纏いしがゆえに、その純乎たる霊的生活はなお大いなる束縛を脱れなかった。これ素より甚だしき不自然事である。神は長くかくのごとき不調和に堪えたまわない。彼はやがてイエスの貴き霊的生活に最も適切なる体を備えて、彼を復活せしめたもうた。しかして見よ、その時よりイエスの霊的生活は完全の域に入ったのである。今や彼は終わりのアダムとして、始めのアダムと好箇の対照においてある。始めのアダムが生ける血気なりしに対し、終わりのアダムは生命を与うる霊である。すなわち唯に自ら生くるのみならず、人にも新しき生命を与うる者である。彼によりて人はみな新たに生まるることが出来る。この測るべからざる恩恵は、彼の復活を俟ちて始めて実現した。すなわち彼が霊の体を纏うて己が霊を自由に働かしめ得るに至って、我等の新生は始めて可能となったのである。霊の体の特徴は霊の自由なる活動にある。ゆえに霊的生活の実在以上、霊の体もまた実現せねばならぬ。
神は限りなく多種の機能と光栄とを具備する諸の体を天地の間に創造したもうた。我等は彼の能力の富がすでに尽きたと思惟すべきであろうか。否、彼はさらに優れたる機能と光栄とを有する新しき体を創造し得る。霊の体に躓くものは人の小さき思索のみ。これを神の創造的能力の方面より見んか、その実現に何の難き事があろうか。
しかり、神は確かにこれを創造し得る。しかのみならず、彼は必ずこれを創造したもうであろう。
霊のものは前にあらず、反て血気のもの前にありて、霊のもの後にあり。第一の人は地より出でて土に属し、第二の人は天より出でたる者なり。この土に属する者に、すべて土に属する者は似、この天に属する者に、すべて天に属する者は似るなり。我等土に属する者の形を有てるごとく、天に属する者の形をも有つべし。(前コリント一五の四六〜四九)
神の造らんと欲したもう各種の体はすでにことごとく造られたのではない。造化の事はすでに全く終ったのではない。宇宙の形成に一つの大いなる法則がある。進歩の法則すなわちこれである。曰う「霊のものは前にあらず、反て血気のもの前にありて、霊のもの後にあり」と。神はまず低きものを造りて、遂にこれを貴きものに化せしめたもう。始めに不完全なるものを現出して、終わりにこれを完成せしめたもう。不完全より完全へ、これ万物と人類と個人とを問わず、普く神の創造に通じて行わるる所の偉大なる法則である。何故に神は完全のものをもって始めたまわないか。けだし自由の意思を賦与せられたる人類が宇宙の中心たるの地位に置かるる以上、神は機械的強制的完全を喜びとせずして、宇宙と人生との完成を人類の責任に繋ぐをもって最も善しと見たまいしがゆえであろう。何れにせよ、我等の世界は進歩的世界である、希望の世界である、未来多き世界である。天地も人も今はなお完全でない。しかし「何ものも目的なくしては歩まない。いつか遂に善が万物の上に臨みて、すべての冬は春と化するであろう」(テニスン)。神は必ず新しき創造によりて世界を完成せしめたもうであろう。造化は未だ終らない。我等の目未だ見ず耳未だ聞かず心未だ思わざりしものが何時か必ず実現せんとしつつあるのである。
不完全より完全へ、血気のものより霊のものへ、我等の体もまたこの宇宙的法則によって進まねばならぬ。血気の体の典型は第一の人アダムにある。彼はその体によれば地より出でたる者にして、土より成る者であった。霊の体の典型は第二の人イエスにある。彼の体(地上に存在せる間の体ではない。復活後の体についていう)は天より出でたるものにして(後コリント五の一、二)神の新しき創造に係わるものであった。神はかく我等の典型として、始めにアダムの血気の体を造り、後にイエスの霊の体を造りたもうたのである。しかしてこの典型はやがて普く人類の上に実現せねばならぬ。すべてアダムのごとく土に属する者、すなわち自然の出生のままなる者は、アダムに似て血気の体を有たねばならぬ。しかしイエスのごとく天に属する者、すなわち信仰により新たに生まれて天国の市民と成りたる者は、イエスに似て何時か霊の体を有たねばならぬ。キリスト者もまたもちろん本来は土に属する者である。ゆえに現に不完全なる肉体を賦与せられている。しかし同時に彼等はまた天に属する者である。ゆえに必ずや遂に完全なる復活体を賦与せらるるに至るであろう。宇宙の歴史は進歩的である。神の創造は不完全に始まりて完全に進む。血気のもの前にありて霊のものは後にある。神はその愛する者のために何時か遂に、弱く卑しく朽つべき肉体に代えて、強く貴く朽ちざる復活体を創造せずしては已みたまわないのである。
死者の復活という、単なる霊魂の不滅ではない、再び死せざる身体の復活である。この驚くべき嘉信を伝うるものは独りキリスト教あるのみ。如何なる哲学も宗教もこれを唱えない。多くの科学者はこれを聞いて嘲笑する。しかしながら事は理性をもって全然捕捉すべからざる秘密であるか。否、神の聖業は超自然的でこそあれ、決して反自然的ではない。人類を救いたもう神はまた自然を導きたもう神である。同じ法則はあるいは高くあるいは低く彼にも行われ此にも行われる。贖罪といい復活といい再臨といい、その原理においてみな宇宙間一つの類例を見ざる孤独の出来事ではない。自然はこれがために偉大なる解説を供しつつある、歴史はこれがために有力なる証明を立てつつある、我等の霊的本能もまた深き共鳴をもってこれに応じつつある。救いは個人の事であり、人類の事であり、又宇宙の事である。それは霊魂の問題であり、又身体の問題である。復活の信仰を怪しとするものは誰か。万物の深き観察者は、天にも地にも、これが鮮やかなる預言の声の響きつつあるを聴かざらんと欲するもあたわない。
三 復活の希望
復活!復活!如何に大いなる希望ぞ。これ人類最後の勝利の獲得である、これ理想国実現の発端である。救いは遂にここまで及ばねばならぬ。我等の希望は少なくともこれを目指さねばならぬ。
兄弟よ、我れこれを言わん、血肉は神の国を嗣ぐことあたわず。朽つるものは朽ちぬものを嗣ぐことなし。
見よ、我れ汝等に奥義を告げん。我等はことごとく眠るにはあらず。終わりのラッパの鳴らん時、みなたちまち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて、死人は朽ちぬ者に甦り、我等は化するなり。そはこの朽つる者は朽ちぬものを着、この死ぬる者は死なぬものを着るべければなり。
この朽つるものは朽ちぬものを着、この死ぬるものは死なぬものを着ん時、「死は勝に呑まれたり」と録されたる言は成就すべし。死よ、汝の勝は何処にかある。死よ、なんじの刺は何処にかある。死の刺は罪なり。罪の力は律法なり。されど感謝すべきかな、神は我等の主イエス・キリストによりて勝を与えたもう。
されば我が愛する兄弟よ、確くして揺ぐことなく、常に励みて主の事を努めよ。汝等その労の、主にありて空しからぬを知ればなり。(前コリント一五の五〇〜五八)
「兄弟よ、我れこれを言わん」との強き発語をもってパウロはその雄大なる復活論の遂に結論に達した事を暗示している。彼はすでにキリストの復活なる歴史的事実が福音の真髄である事を論じた。又復活その事が唯に詩人の空想にあらずして、自然の事実と歴史の法則とによりて確実に証明せらるる客観的希望である事を明らかにした。ここにおいてか最後に彼はこの希望を我等各自の立場より高調して、その信仰の兄弟等を励まさんと欲するのである。
我等の復活の価値如何は復活なき場合を仮想するによりて最も明らかである。復活なからんか、我等は如何にして神の国に入ることが出来るか。神の国、すなわち神がすべてにおけるすべてと成りたる国、理想の国、完全の国、愛の国、それは「神の幕屋、人と共にあり、神、人と共に住み、人、神の民となる」の国である。それは万物ことごとく霊化(もちろん霊に化するの意ではない、完全なる霊的感化に与かること)せられて聖き光栄に充つるの国である。ゆえに未だ霊化せられざるものは一つもここに地位を見出すことが出来ない。血と肉との香失せざる旧き肉体は新しき装いをなしたる聖国を嗣ぐことを許されないのである。何となればかかる卑しき体を纏うて、我等は「聖顔を見、容光をもて飽き足らん」と欲するも、なほ面覆いなきがごとくにまの当り彼を仰ぐことが出来ないであろう。又その国において永遠の奉仕に当らんと欲するも、弱き肉は徒らに煩いをなすのみに過ぎぬであろう。朽つる器は朽ちざる生活を盛るに足らぬ。我等をして現実に神の国の光栄ある市民たらしむべき最後の条件は復活である。復活あるによりて始めて我等の生活状態は聖き永遠の世界に適わしきものと成ることが出来る。
しかしながらここに一つの疑問がある。我等の復活は世界の歴史がある階梯に達したる時、すなわちキリストの再び来りたもう時、たちまちにして実現するのであるという。しからばその時なお生ける信者は如何にすべきか。これを徒らなる好奇的疑問となすことなかれ。再臨の時機の全く秘めらるる限り、すべての時代における信者がこの大いなる出来事に対して備えをなさねばならぬ。血肉は神の国を嗣ぐことあたわず、復活がその唯一の条件であるとするならば、生ける者は如何にすべきか。
答えて曰う、生ける者は生けるがままにその身体を変化せしめられて、復活的状態に入るのであると。これパウロのいわゆる奥義(神の啓示により新たに明らかにせられし真理)であって、誠に信じ易からざる提言である。しかしながら少しく復活の原理より推究せんか、その疑うべからざる真理であることを知るに難くない。けだし復活は我等をして神の国に住ましめんがための条件である。復活の特質はここにある。すなわち我等の血肉に代えて栄光の体を、朽つるものに代えて朽ちざる生活機関を賦与せらるる事である。しかして朽つる者はたとえ未だ現実に朽ちずといえども、永遠に朽ちざる者とは全然その性質を異にする。殊に我等の体は罪によりてすでに死にたるものである(ロマ八の一〇)。ゆえに未だ生理的死に遭遇せずといえども、神の国の立場よりこれを見て、一箇の死屍と選ぶ所がない。問題は未だ死せざるか否かにあらずして、永遠に死すべからざるか否かにある。歴史にあらずして原理にある。復活は原理の変更である。死の原理を撤廃して、これに代えて生の原理を樹立する事である。ゆえにその我等に臨むや、死者生者の区別がない。死者は復活する、生者は栄化する。しかして生者の栄化もまたその実質上復活の一種に外ならないのである。
ここにおいてか復活の希望はいと鮮やかである。我等をして少しくその光景を想望せしめよ。世界歴史の進展ある所に達して、現在の時代のまさに終わらんとするや、神はある大いなる宇宙的合図を与えたもう。そはあたかもかつてイスラエルの間において会衆を呼び集め又は営を進め又は喜びの日を告ぐるがために響き渡りたるラッパのごとくに(民数一〇の一〜一〇)全世界を震い動かすであろう。しかして見よ、すべての神の子等はすでに眠れるとなお生けるとを問わず、みなたちまち瞬間のうちに化するであろう。すなわち死者は一斉に新しき霊体を賦与せられ、これを纏うて、限りなき歓喜に溢れつつ現われ出づるであろう。生者はその血肉に驚くべき変化を施され、見る間に栄光の姿と化して、躍りつつ神を讃美するであろう。かくて愛する者等再び相見て、言うべからざる歓呼を交わすであろう。福いなるかな復活の晨。その時朽つる者は永遠に朽ちざるものを着、死ぬる者は再び死なざるものを着て、我等の世界は全く新しき紀元に入るのである。
預言者イザヤかつて我等の欲求の最も深きものを代言して曰うた「エホバ……とこしえまで死を呑みたまわん」と(イザヤ二五の八)。「とこしえまで」と訳せられし語は、完全にして害うべからざる状態を意味する。ゆえにまたこれを「勝に」と訳することが出来る、「死は勝に呑まれたり」。死はエホバによりて呑み尽くされて、勝利すなわちある完全にして害うべからざる状態のこれに代わる時が来たるとの預言である。今は死が万人を襲いつつある。そは我等の目より熱き涙を引き出しつつある。しかしながらエホバはことごとく我等の痛みを知りたもう。彼は遂にある時に至りて死を撤去したもうであろう。しかして我等の目の涙を拭いたもうであろう。しかして再び死すべからざる完全なる状態をもって死に代わらしめたもうであろう。この偉大なる預言の成就は何時のことであるか。曰く復活の晨である。死者は甦らせられ、生者は化せられて、この朽つるもの朽ちざるものを着、この死ぬるもの死なざるものを着る時、死の原理が撤廃せられて、代わりに生の原理が樹立せらるるのである。その時以後、死は我等の運命たることを罷めて、永遠の生がこれに代わるのである。イザヤの古き預言はこの状態を指ささずして何を意味するか。二千六百年前ユダヤの預言者によりて代言せられし全人類の最も切なる祈求をして、遺憾なく充されしむるものは実に我等の復活である。
復活の確実なる希望ありて、死はすでに無きに均しい。「死よ、汝の勝は何処にかある。死よ、汝の刺は何処にかある」。汝は今しばらくその鋭き刺を揮いて我等を倒し我等を呑むであろう。しかしてその勝を誇るであろう。しかしながら何ぞ知らん、汝の勝は復活の晨までに過ぎない。その時に至りて汝は却て生の勝に呑まれねばならぬ。しかして己が呑みたるものを再び吐き出さねばならぬ。汝の刺にさされし傷はことごとく癒されて又害うべからざるに至るであろう。はかなきかな、死の勝。憐むべきかな、死の刺。さらば今しばらく思うがままに刺せ、呑め。我等は甘んじて我等の体を一度び汝の手に渡すであろう。しかしながら遠からず汝自ら死せしめられて、我等の体は汝の手を離れ、永遠の栄光に移るのである。
そもそも死は何処よりその痛き刺を得たのであるか。死が我等を刺すに至りしは何のゆえであるか。罪である。もし罪なくば死の刺なるものは無かった。人は素と死し得べき者として造られたるも、死せざるべからざる者としては造られなかった。しかるに人一度び神にそむきてより、死は彼の必然の運命となってしまったのである。死は我等の罪を己が刺となして、これをもって我等を刺すのである。しからばさらに問う、罪をしてかくも恐るべきものたらしむる所以は何処にあるか。罪は何故に死に価するほどの重大事であるか。罪の力は何に基くか。曰く律法である。神の聖き律法の儼然として我等を支配するあり、しかしてこれを蹂躙するものがすなわち罪である。律法の蹂躙である。ゆえに重からざるを得ない。誠に「死の刺は罪なり。罪の力は律法なり」である。宜なるかな、死の痛さの堪え難きこと。律法の蹂躙という最も重大なる出来事の反動を、我等は死において経験しつつあるのである。
しかるに感謝すべきかな、神は我等の主イエス・キリストによりて我等に勝を与えたもう。彼は先ずその罪なき聖き身を十字架に懸けて、律法の神聖に対する十分なる尊敬を払いたもうた。神の独子の死という法外なる事実のみよく律法の蹂躙を償うに足る。次に彼はさらに復活して我等に新しき生命を賦与し、我等をしてみたまに従って歩ましめ、もって罪より離るる事を得しめたもう。先ず律法に対する責任より我等を解放し、次に罪に対する隷属より我等を解放したもう。かくて彼は死の原因たる二重の深刻なる事実を消滅せしめたもうたのである。ここにおいてか死はその刺と刺の力とを失い、我等は死に勝ちて復活せざるを得ない。復活の道徳的理由はここにある。我等の復活の希望はイエス・キリストの死と復活とをもって勝ち得られし壮大なる勝利の余韻である、その反響である。ゆえに自ら高き調子を帯びざるを得ない。
見よ、後ろにはキリストの死としかして彼の復活。前には彼の再臨としかして我等の復活。この福いなる宇宙的事実の間に挟まれてこれによりて支持せられ保証せられ奨励せらるるものが我等の現在の生涯である。しからばまた何にか目を注ぎ何にか動かされよう。我等はただ主キリストの中に確く立ちて、常に彼のための仕事をもて溢るるであろう。彼の喜ばしき救いを播め、一人の霊魂をも彼に導かんがために全力を注ぐであろう、たとえそはこの世より見て如何に空しく愚かしく見ゆるとも。何となれば主にありての労作は主の聖意にかなうものであって、唯にそれ自身において尽きざる価値を有するのみならず、又永遠の生涯において何時か必ず実を結ばしめらるるからである。