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「砂漠はサフランのごとく」

第五 砂漠はサフランのごとく――万物の復興

藤井武



それ造られたる者は切に慕いて神の子たちの現われんことを待つ。造られたる者の虚無むなしきに服せしはおのが願いによるにあらず、望みをもてこれに服せしめたまいし者による。そは造られたる者自ら滅亡ほろびしもべたるさまより解かれて、神の子たちの光栄の自由に入るべければなり。何となれば我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に嘆き共に苦しむことを。(ロマ八の一九〜二二)

ナザレのイエスが自然の親しき友たりしは人のよく知るところである、彼には野の花も空の鳥も限りなき真理の象徴であった。預言者イザヤ、エレミヤ、改革者ルーテル、彼等もまたみな一面において偉大なる自然詩人であった。すべて神を愛する者はまた自然を愛する。何となれば自然は神の心をめたまえる聖業みわざであるからである。すべて人生の深き観察者は又自然の同情者である。何となれば人生と自然とはその生命の根底において相通あいかよう所があり、従って同じ運命がかれこれとの上にかっているからである。

使徒パウロは自然について語ることはなはれであった。ゆえにある有名なる記者はパウロの自然観について次のごとき言をなしている、「単にその人の著作より判断して、パウロのごとく外界の美に動かされなかった記者も少ない。彼は幾度いくたびか地中海の青波に浮かび、美しきギリシャ諸島の影を望みたるに拘わらず、また幾度いくたびか松林鬱蒼うっそうたる小アジアの山峡を往来し、アイダ、オリムパス、パルナッサス諸山の雄姿を仰ぎたるに拘わらず、また小児のおりしばしば故山の流の畔を逍遙さまよい、その岩角に堰きては瀑のごとくにとどろく所を見たるに拘わらず、彼のたましいは余りに深く道徳的心霊的真理に没頭し居たるため、彼はそのすべての書簡中一言も自然美について語る所がない。僅かにルステラにおける彼の演説中の一節(行伝一四の一七)を除いては、パウロが自然に対するいささかの感受性をすら有したる事を表わすべき片言隻句へんごんせきくをも見い出すことが出来ない」と(ファーラー、パウロ伝第二章)。しかしながらこの種の批評家に対して大使徒を弁護せんがためにはロマ書註解の権威たるゴーデーの鋭き一語をもって足りる。曰く「かく言う人(サバチエーを指して云う、彼もまたファーラーに似たる言を公にした)は多分ロマ書第八章を読んだことがないのであろう」と。もし自然に対する最も同情深き声、自然美をその最高の理想において見たる声、自然の心の最も深き所に自己を没入したる声がかつて記録に上ったとするならば、それは疑いもなくロマ書第八章十九乃至ないし二十二節である。

パウロはここに「造られたる者」という。その原語he ktisisはあるいは造化の行為あるいは被造物の全体又はその一部を意味する。この場合においては被造物中キリスト者(二三節)その他の人類(一九、二〇により)及び天使又は悪魔等(二〇により)を除きたる生物無生物の全体すなわちいわゆる「自然」のいいである。パウロはロマ書第八章において神の子たる者の壮大きわまりなき未来の栄光を描かんとするにあたり、この栄光に参与してこれが背景を供すべき「自然」の現在と未来とに対し深き同情の一瞥いちべつを与えざるを得なかったのである。

事物の正しき観察はまずこれを愛するにある、次にこれを絶対者との関係において取り扱うにある。自然に対するパウロの態度はそれであった。彼は必ずしも多島海の波とタウラスの峯とを讃えなかった。自然は必ずしもその小さき部分をもって又はその表面の姿をもって彼の心に訴えなかった。しかしながら彼は神の造りし大自然そのものを見た。彼はその中心に喰い入るばかりの同情をもってこれに対した。またその姿を神との関係に照らして見た。彼は自然のために己が心腸を琴としてその無声の叫びをこれに響かしめたのである(イザヤ一六の一一)。又自ら永遠の立場に立ちて、自然美の如何いかにして完成すべきかを予見し憧憬どうけいしたのである。熱愛者パウロ!彼の前に自然は少しも自己を偽ることが出来なかった。大自然はその赤裸の姿をひらいて残りなく彼の眼底に投じた。かくてワーヅワースとブライアントとの詩の及ばざる所をパウロは声高く歌いでた。

人は言う、自然と人とは最も著るしき対照である。かれに真実がある、調和がある、自由がある。ここに虚無がある、混乱がある、束縛がある。完全はかれりて不完全はこれる。美しきはかれであって醜きはこれである。人の欠陥はことごとく自然においてみたされる。自然の中に神の声あり、人の中に悪魔のささやきがあると。何人もこれらの語に共鳴するを禁じ得ないであろう。しかしてもちろんその中に真理がないではない。しかしながらパウロの自然観ははなはだしくこの普通の思想と異なる所があった。彼は明白に言うた「造られたる者は虚無むなしきに服せり」と。虚無とはすべて恩寵と真実との源なる神を離れたるの状態である。造られたる者すなわち山と水と花と星とをもっていろどられたるかのうるわしき大自然は、実は神にのろわれたる者であると彼は断言した。こは余りに大胆なる言い方ではないか。事実が果たしてこれを裏書うらがきするか。そはかくとして、注意すべきはこれひとりパウロの観察たるに止まらず、旧新約を通じて現わるる一貫せる聖書的自然観なる事である。聖書は決して自然と人とを切り離して取り扱わない。又これを相反するもののごとくに対照せしめない。聖書にありては自然はその創造の始めより人と離るべからざる関係において置かれた。自然の造られたる目的の一つは人の生活をまったからしめんがためであった。自然は環境にして人は中心であった。自然は従者にして人は主者であった。霊と物とより成る人は自ら神と自然との連鎖たる地位に立ったのである。自然をつかさどるべき者は人にして、人を飾るべき者は自然であった。人は自然のかしらにして自然は人の誇りであった。かくも密接なる関係をもって始まりしがゆえに二者はまた共同の歴史を形成せざるを得ない。神は自然をして人の運命に従わしめたもう。主たる人の上に臨む事はまた従たる自然の上にも臨む。中心の波瀾はらんは自ら環境にまで及ぶ。人一度ひとたび神の前に罪を犯して、自然もまた大いなる恥辱を招いたのである。人、神との結合より堕ちて、自然もまた神よりのろわれたのである。例えば若き芽の砕かれて枝全体のしぼむがごとし。かくて虚無に服せし者はひとり人のみではなかった、罪なき自然もまたその時より虚無に服した。調和と自由とは人に失せて、混乱と束縛とは自然にも臨んだ。欠陥は人にあり又自然にある。しかり、美しく見ゆる自然の根底に実は大いなる欠陥がある。今や不完全なる者は人のみではない。大自然そのものが神の前にはなはだ憐むべき状態においてあるのである。――かくのごときが聖書の自然観の一部にして又パウロのそれである。

事実は果たして如何いかん。人と自然との連帯関係は、生物学者はもとよりこれを認める。彼等は曰う「すべての生命は同一のものである。同じ源泉より出発し、同じ道程を取って進み、同じ終局に帰着する。人の生命も畢竟ひっきょうその根底は自然の中にある」と。しかして人の堕落に伴う自然の敗壊に至りてはさらに顕著である。聖書の伝うる所によれば、人の罪を犯すやまずのろわれたるものは土であった。曰う「又アダムに言いたまいけるは、汝その妻のことばを聴きて我が汝に命じて食らうべからずと言いたるを食らいしによりて、土は汝のためにのろわる。汝は一生の間労苦してそれより食を得ん、土は荊棘いばらあざみとを汝のために生ずべし。……汝は汗して食物を食らわん」と。すなわち人をして労苦せしめんがためにのろいはまず食物を産すべき土の上に落ちたのである。その時以降土は楽園におけるがごとき豊かなる生産力を失いて、かえって荊棘いばらあざみとを生ずべく、人は額に汗して労苦するにあらざれば食物を獲るあたわざるに至るという。誰かこの見易き事実を疑うものがあろうか。「試みに従来ただ野生の草木の自然に繁茂するのみなりし処女的森林又は原野を取りて見よ。ここに種をかんと欲してその樹木を伐採しその下草を刈り取らんか、たちまちあらゆる種類の忌むべき臭き雑草やとげある蕁麻いらくさの類がづるであろう。これを除けば除くに従いて又しても前のごとくに勢いよく生ゆるであろう。かかる所に良き種を下すともその発育は不可能である。げに土ののろいと闘わんがためには最も勤勉なる労力を必要とする。同じように多年適当に耕作せられたる一画の土地も、もししばらくそのままに放任せられんには、無数の硬き雑草や荊棘いばらなどが尺寸の余地もなくこれを占領するであろう。すべてこれらの悪しき種はそもそも何処から来たのであろうか。土はまさしく堕落したる人心と同様である――汚れているのである。あたかも人の心がこれを注意して開発するにあらざればいかにき境遇にあるとも十戒のすべての罪を生むがごときである」(F・C・キムバリー)。その他土地に生産逓減ていげんの法則の行わるる事も人のみな知る所である。何故に人の労力を増加するに拘わらず土地はこれにむくいないのであるか。また何故に広袤こうぼう数百万又は数十万方哩に及ぶサハラ、ゴビ等の大砂漠が空しく地上の彼方此方かなたこなたに横たわっているのであるか。かかる現象は地の創造の当初においては見るあたわざりしものであった。人、神にそむきてより土は人のためにのろわれたのである。貧しくして汚れたる土、衣のごとくに古びゆく地、そは確かにのろわれている、虚無に服している。

しかしながらのろわれしものはひとり狭き意義における土のみではなかった。人に従たる大自然そのものがことごとく虚無に服せしめられたのである。見よ植物界の絶えざる苦闘を。その発芽より結実に至る迄の各階梯において幾多の敵と戦いこれに打ち勝つにあらざれば植物はその生をまっとうすることが出来ない。各種の害虫は根を切り葉を噛み皮下に潜伏し花底に産卵しあらゆる隙を狙うてこれを枯れしめんとする。加うるに天候の不順なるあり、旱魃かんばつ、烈風、降霜、氾濫等の諸害交々こもごも襲い来たりて、多くの愛すべき草木をうちたおすのである。また目を転じて動物界に向けんか、そこにはさらに恐るべき不断の戦争の行わるるを見る。鋭き牙とまされたる爪とは至る所に出没して、襲撃、掠奪、格闘、流血、食肉等の惨劇が日々に繰り返されつつある。すなわち陸には狼は羊を襲い獅子は鹿を裂き毒蛇はうさぎを噛み、空には鷲と鷹とは小禽しょうきんを捉えてむさぼり食らい、水には鮫とわにとは小魚を呑んで楽しむ。誠に強者の専横なる跋扈ばっこである、弱者の悲惨なる犠牲である。されば猜疑さいぎ逃奔とうほん何時いつしか多くの動物の習性となってしまった。彼等はささやかなる物音にすらただちに耳をそばだて身を構えて戦慄しながらあるいは岩蔭の穴へとせ去りあるいは森の茂みへと飛び往くのである。平和らしき山と海との装いの下に深大なる不安と激烈なる恐怖とがちている。かかる不完全の世界をしも自然という美名の下に漫然として讃美せんとする者は誰であるか。自然を讃美せよ、されどもずこれを愛せよ。愛は皮相に満足することが出来ない、自然の根底に大いなる欠陥がある。自然はのろわれている、自然は確かに虚無に服している。

パウロは大自然の虚無を見た。彼の熱き同情はすべての造られたる者に向かって傾注せられた。しかして世に同情者の耳にのみ聞こゆる衷心ちゅうしんの声がある。大自然の衷心ちゅうしんの声。そんなものが果たしてあるか。無心の自然に何の声ぞ。かく疑う者はあるいは学者あるいは実際家あるいは宗教家であるにもせよ、少なくとも彼等は自然の同情者ではない。自然は彼等の前に沈黙を守るであろう。しかしながら同情者に向かって自然は訴える、虚無に服せる憐むべき自然はその衷心ちゅうしんみなぎる無量の感慨を潮のごとくに注いで彼女の同情者に向かってこれを訴える。誰か、自然をもって無心となす者は。自然の重要なる構成者は動物である。中天に飛んで声の限りにさえずわす雲雀ひばりも、重きくびきの下に呻吟しんぎんし長鳴する牛も、みな自然の一員である。しかして彼等によりて代表せらるる精神はまた植物の中に動いている。日蔭にありて光を慕う一茎の草にだに機械的作用とすべからざるある心的衝動を認め得るではないか。しかしてまたこれら有機体の生活と離るべからざる関係にあるすべての無生物にもある種の本能なきを誰か断言し得よう。しかり、山にも海にも深き欲求がある。路傍に横たわる一個の石塊すらひとしく大自然の一員として天地にみなぎる無声の叫びに響応し共鳴しつつあるのである。すべての自然の同情者はこれを感得した。彼等は自然の美を讃美するのみをもってむことが出来なかった。彼等の目は外なる装いをとうして内なる心に触れた。自然の心に言いがたき歎きがある、苦しみがある。虚無に服しつつも虚無にえざるの歎き、敗壊に縛られつつも敗壊をのがれんとの苦しみこれである。「私はしばしば自然がなげき悲しみつつ私に何物をか求むるを感じた。その求むる所の果たして何物なるかを解せざるはわが身にむ痛みである」と詩人ゲーテは曰うた。「いとうららかなる春の日、自然はその艶美えんびの限りをあらわす時、我等の心これに酔わされつつもなお苦き悲哀の毒をも吸うではないか」と自然哲学者シエリングは言うた。深き自然の観察者は詩人又は哲学者ならずとも皆これを知る、ゆえにパウロは彼等を代表して言うたのである「我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に歎き共に苦しむことを」と。自然は一度ひとたび虚無に服せしめられてより今に至る迄えず歎き苦しみつつある、野も山も樹も草もとりも獣も「地とそれにつるもの、世界とその中に住む者」はみな共に声を合わせて。

造られたる者は虚無に服して歎き苦しみつつある。目ある者は見よ、耳ある者は聴け。これ宇宙につる大いなる事実である。パウロはすべての自然の同情者と共にこれを見これを聴いた。しかし彼はただに同情者として隠れたる事実に触るるのみではなかった。彼は又キリスト者としてその事実の根本的意義を捉えざるを得なかった。自然の虚無と煩悶とは神の目にありて如何いかなる意義を有するか。パウロはこれを探りこれを解した。彼は自然を愛したる上にこれを神との関係に照らして見たのである。この立場に立たずして詩人も哲学者もいまだ自然を解したということが出来ない。誠に詩人ゲーテの解せざりし所を使徒パウロは明白にさとった。自然は虚無に服している、しかしこのままにして滅び往くのではない、造られたる者は今に至るまで歎き苦しみつつある、しかしその声は決して空しく消ゆるのではない。虚無に服せるその事、煩悶しつつあるその事の中に深き意義がある。

「造られたる者の虚無むなしきに服せしはおのが願いによるにあらず、望みをもてこれに服せしめたまいし者による」。自然に罪なし。自由の意思を賦与せられざりし彼女の自ら求めて神に背くべくもない。造られたる者の虚無に服せしはすなわちこれに服せしめられたのである。神は人の罪のゆえにやむを得ずして自然をのろいたもうた。もとより彼女をして遂に滅亡に終らしめんがためではない。彼女を支配すべき人を辱めんがためである。ゆえに人にしてもし罪より救われんか、彼女もまた全くのろいの束縛より解放せられねばならぬ。人の罪を犯すやいなただちに救贖きゅうしょくみちを備えたまえる神はまた自然をのろうに先だちてすでにその復興を予期したもうた。彼は「望みをもって」自然を虚無に服せしめたもうたのである。おもう、その時造物者の胸にあふれし感慨(もしかく言うを得べくば)の如何いかばかりであったかを。造化の事全く終りて幾許いくばくもなき頃である。天地を環境とし人を中心としたる彼の偉大なる傑作はいみじくも神の前に横たわった。「神その造りたるすべての物を見たまいけるにはなはかりき。……すなわちその造りたるわざえて七日に安息やすみたまえり」。しかるに見よ、偉大なる傑作は突如としてその中心より破壊し始めたのである。これに応じて聖なる作者はやおらあがった。彼の安息は破れその満面のほほえみは消えた。彼は今しも聖手みてを挙げて、成りしばかりの苦心の作品に対し、その環境たる部分を自ら撃たんとしつつある。しかもその熱涙を宿せる瞳の中にはさらに新たなる理想の輝けるを見る。彼に、言うべからざる失望の痛みがあった。同時に新しき希望の慰めがあった。神はこの時おの独子ひとりごを犠牲にして、失われたる人と自然とを回復せん事を決心したもうた。人類の救贖きゅうしょくと万物の復興、この貴き希望をもって、神はあえて自然をこぼちたもうたのである。ゆえに造られたる者の虚無に服せしその事の中に、すでに無限の希望がある。しかしてこれ神の備えたまいし所なるがゆえに必ず実現すべき希望たるは言う迄もない。

こぼたれし自然は爾来じらい今に至るまでえず煩悶しつつある。虚無に服しながら虚無にえざるの煩悶、すなわち新たなる状態に移らんとする欲求の声である(共に苦しみと訳せられし原語 sunodinei は産みの苦しみを意味する)。そのみたさるべき日の何時いつなるやを知らず、かえって虚無の状態はますますはなはだしからんとするの徴候あるに拘わらず、自然はしばらくもその煩悶をめない。まことに熱烈にして執拗なる欲求である。自然もまたアブラハムのごとく「望むべくもあらぬ時になお望み」て、欲求を続けつつあるのである。そもそもかくのごときは果たして空しき望みに過ぎぬであろうか。もちろん欲求必ずしも確実なる希望を意味しない。いな、空しきものにして堕落せる人類の欲求のごときはない。しかしながら罪なき自然の衷心ちゅうしんの声は純粋である、正直である。こはある意味においてなお霊の声のごとく一種の預言的性質を有する。自然は全く望みなきものを欲求しない。その数千年にわたりてえざる欲求は、何時いつか実現すべき希望の反映である。思うに神は自然を虚無に服せしめんとするに当り、その復興の希望を彼女に暗示したもうたのであろう。あるいは彼女の欲求そのものが素々もともと神の植え付けたまいしものであろう。いずれにせよ、造られたる者の歎き苦しみの中に確実なる希望の預言がある。

希望、自然の前途に横たわる確実なる希望、そは果たして如何いかなる希望か、「そは造られたる者自ら滅亡ほろびしもべたるさまより解かれて、神の子たちの光栄の自由に入るべければなり」。僕(奴隷)より自由へ!滅亡より光栄へ!しかり神の子等の光栄へ!貧しくして汚れたる土と、闘争又は荒廃に苦しめる諸生物とは、共にそのとらわれたる状態――滅びゆく現在の状態より解放せられて、自由の状態――新しき光栄をせられたる状態へと移るであろう。すなわち全地は化して最も豊かなる園となり、すべての植物は限りなき生気にちて栄え、動物界にもまた貴き平和があまねく行き渡るであろう。

荒野あれのと潤いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランのごとくに咲き輝かん。盛んに咲き輝きて喜びかつ喜びかつ歌い、レバノンのさかえを得カルメル及びシャロンのうるわしきを得ん。彼等はエホバのさかえを見、我等の神のうるわしきを見るべし。……そは荒野あれのに水湧きで砂漠に川流るべければなり。やけたる砂は池となり、潤いなき池は水の源となり、野犬のいぬの臥したる住所すみか蘆葦あしよししげり合う所となるべし。(イザヤ三五の一、二、六、七)
山と岡とは声を放ちてみまえに歌い、野にあるはみな手をうたん。松樹まつのきいばらに代わりてえ、岡拈樹もちのきおどろに代わりてゆべし。こはエホバの頌美ほまれとなり、またとこしえのしるしとなりてゆることなからん。(同五五の一二〜一三)
狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、こうし小獅子おじし、肥えたる家畜けだもの共におりて小さき童子わらべに導かれん。(同一一の六)

かくて自然の虚無はことごとく癒され、天地は荘美の極に達し、万物の歎き苦しみの声は消え果てて、絶大なる歓喜の歌がこれに代わるであろう。しかもそは自然の独唱ではない。彼女の側に立ちてこれを導きつつ声を合わせて共に永遠の讃歌を唱うる優秀なる伴侶がある。神の子――贖われたる人――キリストに似たる光栄をせられたる聖徒等がそれである。自然は彼等の随従者として彼等の光栄に参与するのである。これ始めに彼等の罪のゆえにのろわれたる自然のまさに受くべき特権である。又彼等(人)がその救いを成就せられて永遠の生活に入る時、これにふさわしき環境を提供してもって彼等の生活をまったからしめん事は自然の最後の使命である。ゆえに自然はただに自然として完成せらるるのみではない。さらに一段優秀なる神の子等の受くべき恩寵に自ら参与する事を許される。すなわち曰う「神の子等の光栄の自由に入る」と。ああ、のろわれたる今の天地は何時いつかキリストの光をもっておおわれ、燦然さんぜんとしてこれを反射するに至るであろう。その限りなき荘美にしては、今の地中海の青波も小アジアの緑蔭も数うるに足らない。パウロの目に映じたる自然はこれに非ずして、かれであった。パウロは自然の理想を見て心躍った。しかしてこの高遠なる理想は何時いつか必ず事実となりて現わるるのである。

神の子等の光栄に参与するという、この理想の実現は何時いつであるか。神の子等は今はなお光栄をせられていない。彼等はすでに新しき生命に入りて、神との関係においては恩寵に恩寵を加えられるといえども、この世の立場より見ては、キリストと共に十字架につけられたる死者にほかならない。彼等は無視せられ嫌悪せられ排斥せられつつある。しかしながらやがてある驚くべき時が来たるであろう。すなわち終わりのラッパ忽焉こつえんとして鳴り響かん時、イエス・キリストその栄光の体をもって我等の前にあらわれたまわん時、その時神の子等もまたみな栄光の姿に化せられて大いなる権威を帯びて顕現するのである。「汝等は死にたる者にして、その生命いのちはキリストと共に神のうちに隠れあればなり。我等の生命いのちなるキリストの現われたもう時、汝等もこれと共に栄光のうちに現われん」(コロサイ三の三、四)。しかしてその時こそまた自然の理想の実現すべき時である。自然は神の子等の顕現をちて初めて完成せしめられる。このゆえに自然の待望は神の子等の栄光の姿における顕現にある。「それ造られたる者は切に慕いて神の子たちの現われん事を待つ」、「切に慕いて」と訳せられたる apokaradokia の語義は頭を挙げて(kara)遥かに(apo)窺う(dokeo)の意である。「いかに塑造的の表現よ。彫刻の天才はこの一字のギリシャ語より希望の像を彫むであろう」(ゴーデー)。見よ大自然はその頭を挙げて「神の子等はいまだ顕れずや」とひたすら窺い望みつつある。天地の思慕、万物の待望は一に我等人類の救贖きゅうしょくに集中しているのである。

「地球は単に数学的法則の下に支配せらるる死物ではない、今日まですでに幾多の自己変形を経過し今なお絶えざる進歩の途上にある生活体である」とは地質学の唱うる所である。しからばその進歩の終局においては遥かに秀逸なる変形を期待せねばならぬ。学者のこの提言はたまたま聖書の教えと暗合する所がある。聖書にありては自然の生命は希望にある、万物はみなある光栄ある未来を望んで動きつつある。山に希望あり、海に希望あり、さえずる鳥に希望あり、散り行く花に希望あり、新緑に希望あり、紅葉に希望あり、旭光きょっこうに希望あり、夕陽に希望あり、誠に宇宙そのものが一つの大いなる希望である。キリスト者はここに現われんとする新しき宇宙を予見し憧憬する。彼の自然観は純然たる希望的自然観である。しかして彼はその希望の実現が自己のまった救贖きゅうしょくかかることを知るがゆえに、彼の自然に対する同情はいやが上に深きものたらざるを得ない。