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「砂漠はサフランのごとく」
第七 静かに移されし人――不死の経験
藤井武
アダムの伝の書は是なり……
アダム百三十歳に及びて……子を生み、その名をセツと名付けたり。
アダムのセツを生みし後の齢は八百歳にして、男子女子を生めり。
アダムの生存したる齢はすべて九百三十歳なりき、しかして死ねり。
セツ百五歳に及びてエノスを生めり。
セツ、エノスを生みし後八百七年生存して男子女子を生めり。
セツの齢はすべて九百十二歳なりき、しかして死ねり。
エノス、九十歳に及びてカイナンを生めり。
エノス、カイナンを生みし後八百十五年生存して男子女子を生めり。
エノスの齢はすべて九百五歳なりき、しかして死ねり。
カイナン七十歳に及びてマハラレルを生めり。
カイナン、マハラレルを生みし後八百四十年生存して男子女子を生めり。
カイナンの齢はすべて九百十歳なりき、しかして死ねり。
マハラレル六十五歳に及びてヤレドを生めり。
マハラレル、ヤレドを生みし後八百三十年生存して男子女子を生めり。
マハラレルの齢はすべて八百九十五歳なりき、しかして死ねり。
ヤレド百六十二歳に及びてエノクを生めり。
ヤレド、エノクを生みし後八百年生存して男子女子を生めり。
ヤレドの齢はすべて九百六十二歳なりき、しかして死ねり。
エノク六十五歳に及びてメトセラを生めり。
エノク、メトセラを生みし後三百年神と共に歩み男子女子を生めり。
エノクの齢はすべて三百六十五歳なりき、エノク神と共に歩みしが、神かれを取りたまいければ居らずなりき。
メトセラ百八十七歳に及びてレメクを生めり。
メトセラ、レメクを生みし後七百八十二年生存して男子女子を生めり。
メトセラの齢はすべて九百六十九歳なりき、しかして死ねり。
レメク百八十二歳に及びて男子を生み、その名をノアと名けて、云々
レメク、ノアを生みし後五百九十五年生存して男子女子を生めり、
レメクの齢はすべて七百七十七歳なりき、しかして死ねり
ノア五百歳なりき、云々。(創世五)
ここにアダムよりノアまで、すなわち人類歴史の黎明期――洪水以前の時代の最も簡単なる摘要がある。記者の目的は主として人類の救贖に関する神の計画の進行を示そうとするにあるゆえ、記録せらるる事実は、約束の系統(カインならぬセツの選ばるる所以)における各族長の生涯をその年齢によって示すものに過ぎない。始めに子の生まれし時までの年齢を、次にその後の生存年数を挙げ、しかる後にこれを通算している。いずれも驚くべき長命である。しかして最後に一々繰り返していう「しかして死ねり」と、さながら韻をふむがごとくに、長き生涯の一つ一つの終わりにさびしき背景を描いて。
しかにこの平凡なる目録のなかに、何人も見逃すことの出来ない不思議なる二節がある。アダムより七代目にあたるエノクの生涯である。記者はこの人に限りて常用の文句を斥け、特に意味深き叙述をなしている。エノク、メトセラを生みし後三百年「生存して」と言わずして「神と共に歩み」という。また最後に「しかして死ねり」と言わずして「エノク神と共に歩みしが、神かれを取りたまいければ居らずなりき」という。アダムとセツとエノスとカイナンとマハラレルとヤレドと、またメトセラとレメクと、彼等はみな生存して死んだ、その間にただエノクのみは神と共に歩み、また終に神に取られて居らずなった。平凡なる生涯と寂しき背景とを示す韻は二つながらエノクによって破られたのである。
神に取られて居らずなったとは如何なる出来事を意味するか。如何なるにもせよ、一事は明白である。エノクは死なずしてこの世を去ったと記者は云うのである。人類の普遍的経験たる死に対する一つの珍らしき例外である。しかしてこれが理由として示さるるところは、すなわちその人が神と共に歩んだとの事実である。
エノクは長き生涯のあいだ神と共に歩み、しかして最後に死を経ずして、神に取られてこの世を去ったという。果たして歴史的事実として受け取り得べき事であるか。理性と常識とを賭けずして信じ得べき事であるか。
答えていう。少なくとも私はこれを信ずると。しかして私がこれを信ずるに、もちろん相当の理由がある。
第一に、事は私自身の経験に訴えるからである。私は死を怖れる。死は暗黒である。呪誼である。しかるにしばしば私は死を怖れない。それは死に特殊の解釈を施すによって私の主観的心理を緩和するのではない。かえって私の生命に新しき活力の注入せらるるによって、死そのものが私に対して暗黒たり呪誼たる性質を失うのである。私の生活の水準が高められて、死の実力を超越するのである。しかして私は知る、かくのごとき経験の私に臨むは、必ず私の霊魂が特別に神と親しくある時であることを。私が父よと呼びて神と語りあう時、私が満腔の信頼を彼に繋ぐ時、私が彼の霊をもって人を愛する時、又は彼に励まされて義を行う時、その時死は我等(私と神)の間に立ち入りて暗黒の影を私に投げかけることを許されない。その時私の生命は死の呪誼を超えて永遠の祝福の国にある。その時私は「死よ、汝の刺は何処にあるや」と叫ぶことが出来る。私もまた神と共に歩む時に、死の刺の届かない所に連れ往かれるのである。この小さき経験においてエノクの経験の暗示を見るは不当の事であろうか。
第二に、多くの聖徒の死が死の無力を説明するからである。聖徒といえどもみな死を経験した(エノクに以たる最期をもったものは後にエリヤあるのみ)。しかり彼らは死んだ。彼等はその肉体を脱いでこの世を去った。彼等はその肉体において死の苦痛を味わった。彼等はたしかに死を免れなかったのである。しかしながら彼等のいかに死にゆくかを実見するものは、誰かその経験を普通の呪われたる死と同じ範疇に入れることが出来ようか。彼等が世を去る時近づくと共に、彼等の目には天の国の光輝いよいよさやかに映ずるのである。彼等は暮れゆく日のかなたに己を呼ぶ明らかなる声を聴くのである。彼等は沙洲を超ゆる間もなく懐かしき水先案内と相見ることを待ち望むのである。彼等の経験は死といわんには余りに明るい、余りに力強い、余りに恵まれたるものである。それは何と言っても陰府への没落ではない、天のパラダイスへの飛翔である、父のもとへの凱旋である、「遥かにまさる」福祉への上進である。これを死と呼ぶは果たして適わしくあるか。霊魂と肉体との分離という意味においてそれは死に相違ない。しかし全くただそれだけである。死の本来の特質たる神よりの呪誼、陰府への墜落、亡滅の前味等の意味において、それは断じて死ではない。死は彼等に対してすでにその道徳的意義を失うたのである。しかして僅かに機械的意義を残存しているに過ぎないのである。素ともとその使命を道徳的意義に帯びて出現したる人間死が、かくのごとくなるに至って、それは最早や存在の主なる理由を喪失してしまったものではないか。事実上、死は彼等を禍いすることが出来ない。彼等は恐れなく死の蔭の谷を歩む、神と共に歩み、主イエスに手を引かれて、歓びつつ、望みつつ、感謝しつつ、彼等もまた静かにきよき国へと取られてゆく。エノクは彼等の完全なる典型である。
しかしながらここに何人かあるいは疑うて次のように言うであろうか。いわく彼ら聖徒の経験まことに美わしいとはいえ、所詮一個の主観に過ぎない。その客観的確実性は何処にこれを求むべくもないと。「もしその根拠を尋ねんか、願望よりほか何もない。人は死ぬ時に滅びざらんことを願う。このゆえに滅びざるべしと信ずるのである」とストラウスもいうている。それらの人にこたえて私は言う、よし、しからば諸君は諸君の懐疑の小刀をもって彼等の経験をことごとく抹殺せよ。罪の束縛より解かれ、神と共に歩みて、万世不滅の光明の生涯を送りし数多の聖徒の、その最後の最も輝かしき経験を、ことごとく憐むべき幻覚であるとして、一斉にこれを抹殺せよ、私はひとり諸君の理性と勇気とを有たない事を感謝しつつ、励みて彼等の跡を追うであろう。私はストラウス又はルナンと共に覚めずして、ダンテ又はミルトンと共にいつまでも夢みるであろう。
第三に、キリストの復活の事実がエノクの経験を証明するからである。
キリストの復活その事を証明するは場所がらでない。ただ私は多くの疑うべからざる理由によって、キリストがその身体をもって復活した事を確信する。彼は一たび死んだとはいえ、直ちに復活して、再びその身体を纏い、これをその聖き霊にふさわしきものと化せられ、かくて天に昇ったのである。彼の場合に、死は生の逆襲を受けて、一たび占領したるものを残りなく奪還せられ、全然降服してしまった。イエスは死の谷底よりさえ起きて天に昇った。しからば彼に似たる途を辿りしエノクが生の嶺よりそのまま、より高き世界に移ったとしても、それが何とて信じがたくあろうか。
思うにエノクの経験を怪しむこころは、罪の呪いに慣れたる錯覚に外ならない。罪に基づく呪いは宇宙の秩序を転倒せしめ、その結果、多くの場合において我等をして錯覚を懐かしめる。不死が人に取って本来不自然の事であるとはそもそも誰が教え始めたのか。神はもちろんかつてかかる啓示を与えない。自然もまたこれを暗示しない。成るほど動物に取って、死は自然である。すべての生物は説明なしに黙々として死にゆく。しかして彼等の生命そのものを探り見るも、永生を要求すべき何らの理由を発見することが出来ない。しかし人はちがう。人の生命の中には、死をもって不当の事として抗弁する多くの声がある。
まず知性の声に聴け、知性は限られたるいと短き時をもって己に適当なる領分として満足し得るか。知識の目的物は偉大である。それは全宇宙である、そのすべての秘密である。一輪の花に学者の一生を費してなお足らぬ秘密がある。一滴の血に永遠の驚異がある。一個の星に莫大なる問題がある。そのすべてを知性は探らんと欲する。天の事、地の事、人の事、動植物の事、哲理の事、数理の事、倫理の事、物理の事、宗教の事、芸術の事、政治の事、経済の事、しかり、事という事、物という物の一切、もし出来るならば無限または永遠そのものにつきてさえ知り尽くそうとするのが知性の要求である。誠に偉大なる要求である。このゆえに知性の進歩にどこまでも満足はない。進めば進むほど新しき前途を発見するのみ。如何なる学者も未だかつてすでに得たる智識をもって足れりと感じたものはなかった。ニウトンすら己が拾いし真理を海浜における数粒の礫にくらべ、なお未知の大海の渺茫として横たわるを歎ぜざるを得なかった、永遠の前進は知性の本能である。知性の目に死はない。たとえそれが明日に迫っているとも、知性はさながら見識らぬ者のごとくに、これを顧みずして、ひたすらその前進を続ける。しかしてこの沈黙の無関心こそ、死に対する知性の最も有力なる抗弁でなくして何か。
あるいはまた愛の要求に耳を傾けよ。愛は死を認め得るか。愛はいわゆる刹那の充実のみをもって満足し得るか。ああ、再会の望みなくして、愛する者の死に堪え得る者は誰であるか。永遠の世界ならずして愛は生きない。あたかも水の世界ならずして、魚の生きないと同様である。人は愛し得る者に造られた。しからばまた死なざることを得る者に造られなかったであろうか。永生こそ彼に取って自然の目標ではなかったであろうか。
神を慕うこころは如何。絶対の人格者にして永遠の存在者なる彼を慕い、彼と交通し、彼に結び付こうとする偉大なる霊的野心を思え。かくも優れたる性質を植えつけられながら、狐や蝗と同じように死が彼の本来の運命であるとは!余りに不合理である。
能力は環境を預言する。鰭あり、すなわち水がある。翼あり、すなわち空気がある。眼あるところ、必ず光がなくてはならぬ。耳あるところ、音がなくてはならぬ。この微妙なる適合は自然界の大法則である。しからばここに知性あり、愛あり、神を慕う心ありて、しかして永生なきを得ようか。人のみこの普遍的法則に例外を形づくるべきであろうか。
人は本来死すべきものではなかったのである。不死は彼にとって可能であり、自然であり、また須要でもあった。土の塵より取られしその身体は、何らかの方法によりて朽ちざるものに化せられ、かくて永遠に、神より吹き入れられしその霊の機関として生くべきであった。言い換えれば、人は死を経ずして、より高き世界に移るべきはずであった。死こそ怪しむべき不自然事である、秩序の混乱である、法則の破壊である。
始めの人アダムより歴代の子孫みな幾年か「生存」したるのち、「しかして死ねり」、また「しかして死ねり」という。この悲しき折返しに、我らは軌道を踏みはずしたる人生の軋りを聞く。あるまじき事が実現したのである。秩序が覆ったのである。自然が曲げられたのである。
しかるにひとり神と共に歩みしエノクのみは、神に取られて居らずなったという。怪しむべきであろうか。疑うべきであろうか。
万人が不義を行うとき、一人の義はかえって怪しとせられる。万人が誤謬に陥る時、一人の真理はかえって疑われる。いま万人みな死ぬがゆえに、一人のエノクの不死は信ぜられない。何ぞ知らん、ここにこそ人生本来の運命の現示があることを。我らはみな彼のごとく成るべきはずであったのである。アダムを始めセツもエノスも、みな彼のごとく神に取られて、より高き国に移るべきはずであったのである。人類を代表してひとり目ざす山の頂に不死の旗を樹ておおせたる戦士エノクに、ねがわくは名誉あれ、祝福あれ。
しかし疑問はまだ尽きない。不死の理論は仮に徹底したとして、実際エノクの経験は如何なる内容を有するものであるか。彼は如何にしてこの世を去ったのか。何処へ往ったのか。そして今は如何なる状態においてあるのか。かく尋ね来たりて、弱き信仰は再び理性のまえにみじめにもよろめくを覚えざるを得ない。
まことにエノクの経験は現代の科学をもって未だ適当にこれを説明することが出来ない。しかしながらすべてこの種の問題に遭遇する毎に注意すべきは、科学が説明し得ないからといってその真実を疑うの愚である。進歩したる近代科学は多くのものを説明する。しかしその未だ説明しあたわざるものはもちろんさらに遥かに多くある。現在我等がそのうちに生活するところの通常の環境についてすらそうである。まして人の霊的生活の異常なる高潮にもとづく変化においてをや。地の世界の開拓にすらなお甚だしく不十分なる科学が、天の世界の秘密を解き得ないのに何の不思議があろうか。
説明は未だ下すことが出来ない。しかし少なくとも暗示はこれを与え得る。こころみに現代知名の天文学者フランマリオンが、宇宙における数多の世界に我等と異なる状態において生存する人類のあり得べき事を論ずる言の一端を、ここに引用せしめよ。曰く「地球の人間は五感(あるいはむしろ六感という方がよいかも知れぬ)を賦与せられている。自然は何ゆえここに止まらねばならぬであろうか。例えば何ゆえある者に電気感、磁気感、方位感、又は赤外線紫外線のエーテル振動を感知し得べき機関、もしくは遠距離における聴覚、壁を透しての視覚等を与え得ないであろうか。我等は粗野なる動物と同じように食事し消化する、我等は消化管の奴隷である。しかし何処かに営養に富む雰囲気があってこの馬鹿々々しき手順を省略せしめる世界がないであろうか。いと小さき雀または穢らしき蝙蝠すら空中を飛翔し得る事において我等にまさる。偉大なる天才、美しき婦人さえ変態前の蝶――醜き毛虫のように、土に釘けられているとは、如何に浅ましき状態ではないか。自ら欲するところに翔りゆくことの出来る世界、生々したる花は充ちて芳香あふるる世界、風は嵐を孕むことなき世界、色さまざまの幾つかの太陽――ルビーと共に燃ゆるダイヤモンド、サファイヤと共にかがやくエメラルド――が昼も夜も永遠の春の栄光に照らす世界、月もまた多色の光を水にやどし、山は自ら青光りする世界、また完全なる形をもち、多くの感覚を備え、思うままに光を放ち、石綿のように不燃性であり、かつ恐らく不死であるところの男女又は他の性の人々が空中に住む世界を想像せよ。しかも我らをして確然と自認せしめよ、望遠鏡によって瞥見するだに難き無限の宇宙のただ中に、原子よりも小さき我等の想像は、甚だ貧弱なるものに過ぎぬことを」。
神の能力は無限である。自然の資源もまた尽きない。生命の保存せらるる途に限局あることはない。狭き地上においてすら実に千態万様である。光なき所には自ら燐光を発する魚があり、空気なき所にはかえって酸素を嫌うアネロピアがあり、深海の底、如何なる有機体をも圧壊すべき恐るべき水圧の下に、不思議にも最も柔らかき組織の動物がある。しかのみならず、今日に至るまで地上における生命発達の跡を尋ぬれば、あらゆる変態の歴史であることを知る。環境は生命に適従する。いやしくも生くべき者あらば、自然は何等かの状態においてこれを生かさずには措かないのである。たとえその状態が我等の通常実験するところと甚だしく異なることあるとも、何ぞ怪しもうか。
エノクは死の苦痛を味わうことなくして去った。生けるまま、その身体に変化を施され、人知れず罪と禍いとの世界の外に取られてしまった。その経験はキリストの復活または終わりの日の生存者が経験すべきいわゆる栄化とよく似ている。ただし彼はここに最後の栄光を被せられたのではない。何となれば復活の初穂たるキリストはまた当然栄光の初穂たるべきであるからである(前コリント一五の二〇)。エノクもまた多くの聖徒と共に、かの日に賜わるべき冠冕を待たねばならぬ(後テモテ四の八)。彼もまた我らと共ならざれば全うせらるることはない(へブル一一の四〇)。しかしながら天のパラダイスにある多くの聖徒のうち、彼と及び後に又彼のごとくに召されしエリヤとのみは、一段まさりたる状態において生存しつつあるを疑うことは出来ない。彼らふたりの霊魂は裸ではない。彼らは脱ぐことなくして着せられたのである(後コリント五の三)。彼らの着せられしものは何か。それは未だ「朽ちざるもの」、「死なざるもの」と呼ばるる完全なる霊体ではない(前コリント一五の五三)。しかし少なくとも霊体に近きものであるに相違ない。潔められたる霊魂の機関として、それは我等の肉体よりも遥かに優秀なる自由なるものであろう。彼らはパラダイスにありてすでに後に実現すべき永遠の天国の生活に稍や髣髴たる生活を送りつつある。
このエノクの経験はキリスト者の死後の生活に小なからぬ側光を与えることを私は思う。神と共に歩んだとはいえ、エノクもまた人である、罪人である。彼が恵まれたる門出を許されたのは、イエスに復活の許されたと同じ理由にはよらない。イエスの生涯は我等と範疇を異にした。エノクはそうでない。「すべての人、罪を犯したれば、神の栄光を受くるに足らず」(ロマ三の二三)。エノクのみ他の人の与かり得べからざる特別の恩恵に与かるべき理由がない。彼の受けたる祝福は、すべての聖徒の受くるところと、程度をこそ異にすれ、性質までをも異にするものと見ることが出来ない。
このゆえに、エノクもしパラダイスにありて、優れたる身体を纏うて生きるならば、すべての聖徒の霊魂もまた何らかの状態における衣を纏わないであろうか。彼らはすでにその肉体を脱いだとはいえ、神は彼らのために、ある種の身体――復活体を受くるまでの仮の体――又は少なくともそれに代わるべき何らかの機関を備えたまわないであろうか。かくて彼らもまたかしこにありて唯に意識なき睡眠状態を続けるのでないのみならず、神への奉仕のため、また相互の交通のために、たとえ現世における活動よりは遥かに劣るとも、なおある積極的の生活を営むのではないか。
聖書によれば人の生命は三元的である。身体あり、霊あり、しかしてその間に位すべき血気がある。血気と霊との区別は容易でない。しばしば人の非物質的部分の全体を総称するために、この二語は混用又は併用せられる(創世四五の二七、同三四の三、ルカ一の四七)。しかしその間にただ一つ紛れなき区別がある。身体に関連する意味においてでなくして血気なる語は用いられない事これである。例えば原則として身体を着けざる天使又は悪鬼は、聖書中常に霊と呼ばれて一度びも血気とは呼ばれない。しかるに聖徒はその死後なお血気の語をもって表わされるのは何を意味するか。「かつて神の言のため、又その立てし証のために殺されし者の霊魂(原語 tas psychas = 血気)の祭壇の下にあるを見たり。彼ら大声に呼ばわりて言う云々」(黙示録六の九)。それはかつて身体を着けたることある者との意味か。しかしすでに全然それを喪失して現に片影をだに留めないならば、血気そのものが中絶の状態においてあるのである。従って祭壇の下に大声に呼ばわるものは明らかに純霊であって血気ではない。しからば何を苦しんでかこれを霊と呼ばずして、わざわざ血気と呼ぼう。霊とこれを呼び得ない理由は一つもない(前ペテロ三の一九を見よ)。血気は血気である、広き意味においても狭き意味においても、それは身体を活かしむる要素である。身体を着けざる血気なるものかつてあることない。使徒ヨハネは殉教者の血気を見た、彼等が復活の日を待つまでもなく世を去りてキリストと共に在るその時よりすでに白き衣を着せらるるを見た(黙示録六の一一)。聖徒らはパラダイスにありて白き衣を着て神と共に歩む。彼らの受くる恩恵はエノクの経験と性質を同じうするものと見ねばならぬ。
デリッチはこの身体を非物質的現象的のものと見倣し、しかして次のように言う「この現象的の身体はいわば来たるべき栄化の福いなる望みを具体化したるものである。しかしてその保証として彼は白き衣を受ける。彼が現世においてすでに内的に着せられたる救いの衣はこの白衣において外的に現われる。かくて彼の救いの衣の潔さを守りし忠実がその報償を見出すのである。黙示録は余りに頻繁にかつ継続的にこの白き衣のことを記して、註釈学上それをただ形容の辞と見るを不可能ならしめる。しかのみならず、何時にても永遠の国の瞥見を得るにふさわしとせられし人々は皆、主にありて死にたる人の霊が着せらるるところのこの天の白衣を、いかに讃美するもなお足らぬを思うたのである。ダンテがいみじくも第一の衣と呼びて、第二の衣すなわち復活体と区別する衣はこれである云々」(ダンテはこの問題についても比いなき神学者であるとデリッチはいう)(聖書心理学六章五節)。
しかしダンテは、デリッチよりもさらに一歩を進めて、白き衣を身体と同視し、かつこの身体を物質的のものと見ている(その点においてデリッチはもちろん抗議している)。
魂は……彼処(死後の国)に容れられるや、直ちに
形成力が周囲に射出し
活ける肢体と同じ形を採る。
……………………
隣接せる空気は
止まりし魂の能力に
印せられてかかる形をつくる。
…………かくてまたこれにより
あらゆる感覚の機関を獲、見ることさえする。
これによって我等は語り、またこれによって笑う。
これによって涙し、またなんじが
山中に聞き得た嗟嘆を発する。(煉獄篇二五曲)
思うに現世においても最後の天国においても、キリスト者の生活に数多の階級があるように、復活に先だつパラダイスにおいてもまた同様であろう。そこには影のごとき形を採りてあるいは語りあるいは笑う無数の聖徒があるであろう。しかして彼等の間に、一段と優れたる身体を纏うて自由に仕うる二人があるであろう。しかしてすべての中心に、完き栄光の体を帯ぶる主がいますであろう。畢竟、体は霊の表現である。霊の聖潔の高低に従って、体の能力又は組織に優劣あるは自然である。
エノクは神と共に歩んだ。人は「みな羊のごとく迷うて、おのおの己が途に向かい往」いた時に、ひとり彼のみは牧者の跡を追うて、何処までも共に歩んだ。アダムとその妻とは神の声を聞いてその面を避け、林間に身を匿した。カインは神の前に面をふせ、その問いに対して「我れ知らず」と答えた。「カインのために七倍の罰あれば、レメクのためには七十七倍の罰あらん」とレメクは自らカインに擬えた。セツにエノスの生まれし頃より、人々ようやくエホバの名を呼ぶことを始めた。しかし何時の代にもそうであるように、神の名を呼びながら彼と共に歩まない者が、恐らくその時代にも如何ばかり多くあった事であろう。すでにノアの時に及びては、「エホバ、人の悪の地に大いなると、その心の思念のすべて図る所の常にただ悪のみなるを見たまえり。ここにおいてエホバ地の上に人を造りしことを悔いて心に憂えたまえり」とある。神と道徳への公然の叛逆者にあらずば、すなわち二主に仕うる偽りの信者である。今も昔も変わらぬこの世である。
ひとりエノクは神と共に歩んだ、もちろん彼もまた罪びとのひとりであった。彼は自らその事をよく知っていた。知っていたがゆえに、彼は独り歩むの寂しさに堪えなかった。世と共に歩むは神への叛逆でもあり、また自己の(世と共なる)破滅でもあった。途は彼にとって唯一つしかなかった。神と共に歩まずして、彼は生くるすべを知らなかった。
神の途は高い、神の歩みは大きい。誰か自ら足を動かして彼に追随し得ようか。エノクはただ彼を呼び、彼を捉え、しかして彼に縋った、縋りついて彼に垂れ下がった。しかる時に神は自ら歩みながら彼を運んだ。
朝、目さめて、エノクは神われと共にいますを見た。一日の仕事に就く時、神われを祝福したもうを見た。疲るる時、神その手をわが頭の下に置きてわれを支えたもうを見た。食らう時、神わが前にわが感謝を受けたもうを見た。寝所に入りて、神わがたましいに平安を与えたもうを見た。
誘わるる時、責めらるる時、戦う時、喜ぶ時、エノクはただ彼にのみ訴えた。ある時は狂うもののごとく、ある時は甘えるもののごとく、しかし何時も信頼ぶかき子供のごとくに。
彼は信頼した、ゆえに求めた、求めて、求めて、与えらるるまで。ゆえに与えられた、善きものはみな与えられた。
絶対信頼の生活、断えざる祈りの生活、従って聖潔の生活、それが神と共に歩むの生活である。言いかえれば、信仰によって、そして信仰のみによって、義とせられ、聖霊によって、そして聖霊のみによって、潔めらるるの生活である。自己もない、人もない、世もない、ただ神、神、神である。神第一である、神全部である。生くるも神である。死ぬるも神である。彼の聖旨の成る事が至上善でありまた一切善である、彼と共に在る事が最大幸福であり、幸福の全部である、彼を識る事が真理の極致であり、またそのすべてである。私の人生観をここに置いて私は始めて確実に神と共に歩む。
神と共に歩むは容易であってまた容易でない。多くの場合においてそれは大いなる患難を条件とする。人の心は余りにも根ぶかくこの世にまつわっている。その執着を断つために、深刻なる試煉の必要がある。撃たれ、また撃たれ、愛着をつなぐすべてのものを残酷にも剥奪せられて、我らの目はようやく天の一方に向かう。神と共に歩む生活に入るの門として、患難に無量の意味がある。
エノクは如何なる患難を経験したか、我らはこれを知らない。しかし神が己れの悦ぶすべての人に当つる愛の鞭を、エノクにのみ避けたであろうとは考えられない。エノクは古き預言者であったとユダは言う(ユダ一四)。しからば恐らく一しお大いなる患難が彼を見舞うたであろう、しかして彼をただ神へと追いやったであろう。
神と共に歩むは単純であってまた偉大である。エノクはその生涯の事業として何ら偉大なるものを成し遂げたとは伝えられない。彼はカインのごとき都市の建設者でもなく、ヤバルのごとき牧畜の開拓者でもなく、ユバルのごとき音楽家でもなく、またいわゆる「勇士にして古昔の名声ある人」のひとりでもなかった。むしろ彼は「世の塵芥のごとく、万の物の垢のごとくせらるる」使徒又は預言者階級に属する者の典型であった。彼はただ静かに日々、神と共に歩んだ。ひとり神と共に歩んだ。まことにこの世に見栄えなき生涯であった。しかしながら人の成就し得る事実にして、神と共に歩むの生涯よりも偉大なるものが何処にあるか。罪の大浪が澎湃として逆かまき、すべてのたましいを呑みつくしつつある時に、神と共にいと高き所を歩みてこれを脚下に見さぐる生涯、暗黒が世を蔽うて人みな亡滅の谷に転落しようとする時に、永遠の光明をもてこれを照らす生涯、この聖潔の生涯にまさりて貴き何の事業があるか。
最後に、神と共に歩むにまさる幸福はない。エノクは「その移さるる前に神に喜ばるることを証せられたり」とへブル書記者はいう(へブル一一の五)。彼は如何にしてその証明を受けたか。彼の生涯そのものが最大の証明であった。すべて神と共に歩む者は自ら知る、かかる生涯そのものの中に最高の歓喜があることを。おのが愛する者に喜ばるるよりも大いなる歓喜はない。神に喜ばるるは人の経験し得べき最高の歓喜である。しかして聖潔の生涯はそれ自体をもってこの証明を我等に提供するのである。
エノクは神に喜ばれた。しかして人生の旅路なかば(その頃の人の平均命数はおよそ七八百年であった。エノクは移されし時三百六十五歳)、生涯の真昼時、すなわち肉体における生命の発達の絶頂に達した時に、俄然として取り去られた(イエスもそうであった)。神と共にこの世を歩みし彼は、また神と共にこの世を去った。しかり、地の生涯の絶頂よりそのまま天の国へと。しかして彼処に輝く白衣を着て今なお神と共に歩みつつある。彼処に聖座の近くにありて、いよいよ神に喜ばれつつある。彼処に主と共にありて来たるべき復活の朝を侍ち望みつつある。