多くの人が、勃興しつつあるもののゆえに恐れている。地獄が煮えたぎっているように思われる。我々は戦争と流血を恐れている。我々は革命的運動を恐れ、日常生活に必要なもののために心配している。このようなご時世なので、明日何が起きるかわからない。我々の足下がことごとくぐらついている。まるで地獄が解き放たれようとしているかのようである。産業は壊滅しつつあり、多くの人がそれで生計を立てている商業も衰退しつつある。農業は打撃を受け、国々が同盟を結ぶことにより、すべてが変わりつつある。そのため、我々は「どう生活していけばいいのだろう?」と思い悩んでいる。
しかし、何に直面しようと、私は一瞬たりとも恐れない。文明開化の頃から、人間生活はこのように変化に富んだ不確実な状況にあったのである。概して、神の王国を求める者にとって、こうした状況には二次的重要性しかない。さらに言おう。我々の世代が滅んだとしても、それが何だというのか?我々は祖先に優る者なのだろうか?これまで多くの世代が過ぎ去ってきたが、それと比べて我々のどこに優れた点があるというのか?我々が神の王国を求めて生きる人々でないなら、神は我々からいかなる善きものを引き出せるというのか?私は我々自身の世代を憐れんでいるが、それ以上にこれまで過ぎ去った世代を憐れむ。もし我々の世代が目覚めて、神のためにいちずに生きることに失敗するなら、いかなる政治家、組織、運動、他のなにものも、我々を滅びから守ることはできないであろう。神の王国が到来する時だけ、我々は安全なのである。
神の王国は間違いなく必ず到来する。しかし、この王国に向かって前進を始めて、そのための基礎を据える世代が来るのだろうか?我々の世代はそうするのだろうか?なぜなら、我々の現状は神の訪れのために道を備えるものではないからである。我々の救い主はなりたいものに自由になれずにいる。イエスが何者か理解する必要を感じている人は誰もいない。地獄の門はまだ滅びずにいる。
結局のところ、地獄を征服できる唯一の御方はイエスである。我々はイエスのために場所を設けなければならない。彼の中に我々は生き、存在しなければならない。我々は、悔い改めて自分の意志を砕き、我々の持ち物や存在をすべて犠牲にして、イエスのために立たなければならない。もし我々が自分自身を身も魂もイエスに明け渡し、自分自身からのものがなくなるなら、地上であれ他の場所であれ、たとえ最悪の地獄であったとしても、イエスが勝利されるであろう。イエスは生きておられる。我々はこれを知っている。我々が神の御前でイエスのために自分自身を犠牲にする時、イエスは我々と共に生きて下さることを、我々は知っている。我々はイエスと共にいるので、恐れることはないのである。
黙示録の六章で、ヨハネは屠られたばかりのような神の小羊と、七つの封印で封印された一冊の書を見た。この書には将来地上に起きることが記されていた――王国が栄光のうちに現される時、諸々の災いが神の勝利に先立たなければならない。誰がこの書を開くのか?救い主をおいて誰もいない。この御方は屠られた小羊のように天に現れた――この御方だけが封印を解くことを許されたのである。人類の歴史にたとえ何が起きたとしても、救い主はやって来られる。彼は白い馬に乗ってやって来られる。彼は英雄であり、征服者である。多くの苦しみが我々を襲うかもしれない。しかし、一つのことは確実である。イエスは主なのである。イエスに逆らうものはみな滅び失せ、彼の勝利によって飲み尽くされなければならない。
注目すべきことに、ヨハネによると、この世の諸々の災いは勝利――イエスの勝利――と共に始まる。これはあまり驚くべきことではない。なぜなら、イエスが征服しに出て行かれる時、敵の全軍勢が彼に抵抗し、こうして暴露されるからである。神の敵は敵意の霊、戦いの霊である。何度も何度も、神の敵はキリストの統治権に抵抗する。そして、そうすることによって、この世の罪をあらわにする。歴史を支配する主がおられず、どこにも助けはなく、諸国民が互いに殺し合う戦争が不可避であるかのように、常に見えるものである。
キリストの勝利が完全に成就される時、悪の何たるかが明らかになる。それが明らかにされない限り、教会はどうして地獄を征服することができよう?これは常にそうである。人々が御霊によって動かされる時はいつも、恐るべき時がそれに続くのである。宗教改革はその偉大な例である。その直後に何が起きたか?史上最悪の戦争である三十年戦争である。それにもかかわらず、イエスは忠実であり続ける。銃砲が幅をきかせている戦場ですら、イエスは勝利である。イエスはどの戦場にもいて下さる。また、戦争の後の飢えや病などの諸々の苦しみのただ中にいて下さる。イエスの敵がイエスを攻撃するのは、まさにこのために他ならない。
この理由により、世界史はイエスの歴史なのである。こう言うのは、もっと良い表現がないからである。しかしこれは、イエスは戦争を承認しておられる、ということではない。それどころか、イエスの戦いはこの世の霊に対するものなのである(エペソ六・一〇〜一八)。イエスの側に最強の武器がある。その武器とは和解の霊である。平和が来るであろう。平和を我々全員が望んでいる。終末の時代の真のしるしは、救い主が手を差し伸べることのできない人や国民がどこにもいなくなることである。あらゆる妨げ、心や霊のあらゆる足かせが取り除かれるときはじめて、終末の時代が到来するのである。その時、全地は滅びるであろう。今日、その兆候をすでに見ることができる。
イエスは常に戦っておられる。第一の封印が解かれた後、イエスはこの地上で戦うために前に進まれた。イエスが抵抗をお受けになる時、「イエスは負けてしまう」と思ってはならない。否、我々はますます確信するべきである。どれほど戦いが荒れ狂うとも、地獄の軍勢がどれほど解き放たれようとも、それはイエスの勝利を現すための機会なのである。流血がどれくらい続くのか、我々にはわからない。数々の恐ろしい出来事が起きたし、さらに多くの出来事が待ち構えている。最後まで、国々の間には間違いなく不和があり続けるであろう。殺人的衝動が生じるであろう。福音はほとんど忘れ去られてしまうであろう。しかし、それにもかかわらず、我々は新しい時代が到来しつつあるのを知っているので、全き確信と完全な喜びを持つことができる。戦争の霊がこの世の上に注ぎ出される時、それは神の霊の傾注に至るものであることを、我々は信じなければならない。イエス・キリストに味方するところではどこでも、神の霊が傾注されるのである。
もちろん、征服すべき地獄はまだたくさんある。私自身、そうした地獄をたくさん経験してきたが、それらは終わりを迎えたのである。十分すぎるほどおびただしい死があるが、それには終わりがある。また、十分すぎるほどおびただしい罪があるが、それにも終わりがある。私は暗闇に耐えることができる。報いと刑罰、恵みと裁きは神の義に属すことを、私は知っているからである。善と悪が混同されている限り、暗闇は神の裁きの下にとどまり続けるであろう。しかし、最終的に暗闇はなくなるであろう。
では、地獄の軍勢はなぜこんなにも荒れ狂っているのか?なぜ国々はこんなにもいがみあっているのか?なぜ、何事も希望がなく薄暗いのか?実際のところ、それは救い主が近くにおられて、地獄が最後の無益な試みをしているからなのである。それゆえ、これほど多くの勢力が神に敵対していても、自分自身や他の人々のことを気の毒に思う必要はない。喜べ。この難局の中に入って耐え忍べ。今、我々はかつてなかったほど、信仰を持ち、自分の頭を上げる必要があるのである。
たとえ次々に世代が堕落し、次々に社会が崩壊したとしても、堕落するものにはそうさせようではないか。ただイエスにしがみつけ。イエスに勝利がある。我々はイエスと共にこの世を神に立ち返らせるのである。たとえ全世界がイエスを軽蔑していたとしても、もし我々が――たとえ信者の小さな団体にすぎなくても――イエスの力によりこの希望を持ち続けるなら、全地が我々の報償となるであろう。全被造物が万物のかしらであるイエス・キリストの教会の下に来るであろう(エペソ一・二二〜二三)。これは間違いないことである。これは神の御言葉なのである。
ご意見、ご感想などメールでお寄せ下さい。メールの宛先はです。