我々の全生涯は「キリストは私たちを解放して下さった」という確信に根ざしていなければならない。しかし、これを実際に経験している人はあまりにも少ない。今日、「神は御民を解放して下さる」と意識して生きている人はどこにいるのか?人々がわめき嘆いているのは確かだが、この現実の中に生きている人が誰かいるだろうか?
私が心から言えるのは、私の父はイエスの勝利を意識して生きていた、ということである。しかし、人々がこの「勝利」という言葉を聞いた時――実際のところ、メトリンゲンの気風を決めていたのはこの言葉であった――そして実際に何件も解放が起きて、死からの解放さえも起きた時、凄まじい怒号と反対が生じたのである。「何と馬鹿げたことか!」と人々は叫んだ。もし中世に生きていたなら、私の父は間違いなく首を刎ねられていたであろう。最も敬虔なクリスチャンたちですら父から遠ざかった。そして、父は知恵と忍耐と愛の限りを尽くして、声望を取り戻さなければならなかったのである。これはすべて、「私たちの神は解放する神であって、イエスは勝利である!」という父の確信のためであった。
人々がこれに抵抗するのは、自分自身の力を手放すことを拒んでいるからに他ならない。神が救いの神であるからには、我々は自分で自分を解放することはできないのである。我々は自分の信仰に信頼することもできない。事実、私たちの信仰は、たとえどれほど信じていたとしても、重要ではない。ただ神だけが重要なのである。なぜなら、ただ神だけが我々を助け、顧み、イスラエルをエジプトから連れ出されたように我々を束縛の家から連れ出して下さることを示されたからである。我々の存在はこの唯一の神にまったく由来しているのであり、この御方に明け渡す人は誰でも、この御方には解放する力があることを発見するのである。
しかし、誰がこれを信じているのか?医学や何か新しい技術で新たな進歩があると、ほとんどの人は興奮する。しかし、神がなしうることに心を向ける人は誰かいるのか?これが現状である。我々がほとんど何も達成できないのはこのためであり、神とその王国のために真に前進できずにいるのもこのためである。
父がメトリンゲンで戦った霊的戦いのことを覚えている人なら、キリストの勝利をもたらしたのは単純な信仰であったことを知っているであろう。単純な信仰とは、ある有名人が述べたように、愚直な信仰である(一コリント一・一八〜三一)。「状況は後退しつつある」と我々が信じていた時ですら、神はこの信仰を守って下さった。子供のような信仰が勝利したのであり、今日に至るまで依然として勝利をおさめている。自分を欺かないようにしようではないか。我々がキリストの勝利の豊かさを経験しそこなっているのは、神に信頼することを拒んでいるからなのである。我々は「不可能なことは何もない」と信じる子供のようにならなければならない。
敬虔な生涯、教会通いの生涯を送ってきた人々が、死の床で確信なく動揺する様子に私はこれまで何度も出くわしてきたが、そのたびに私の胸は痛んだ。福音がありきたりの宗教的形式にすぎないものとなって、我々を慰めるために用いられるようになる時、悪の軍勢は猛り狂い続けるのである。というのも、あなたは、「クリスチャン的な見解や実行を軽い気持ちで受け入れるだけで、この堕落した世は消え去り、数々の罪も赦される」と信じているのだろうか?悪を正門から放り出してみよ――それは裏門から再びただちに入り込むであろう!
貴いものがすべて危機に瀕している時代に我々は生きている。我々の「クリスチャン」特別集会、宣教活動にもかかわらず、この世の国々や町々は良くなるどころかますます悪くなりつつある。今日、国内外でどれほど多くの宣教活動がなされていることか!これほど遠くまで広範に福音が宣べ伝えられたことはかつてなかったし、これほど成果のないこともかつてなかったのである。人々が徐々に後退して行き、ここかしこで少しずついなくなっていく様を見るのは衝撃的である――その人々はほんの数年前は「まじめな信者」だったにもかかわらず、クリスチャンの因習的儀礼によって疎遠になってしまったのである。このようなことから救いたまえ!もはやなにものも不信仰と呼んではならないとは、何と空恐ろしいことか!こうしたことの背景にあるものは、他のものへのこだわりに他ならない。実際のところ、キリストとその御旨に対する感覚が欠如しているのである。そしてその結果、我々の「キリスト教」の大部分は空しいおしゃべりにすぎないものとなってしまった。しかし、このままではいけない。我々の生活は永遠の命によって統治されるようにならなければならないのである。
我々には是が非でも単純な心が必要である。単純な心こそがこの世にイエスの力を解き放つのである。この世は千もの苦しみの下であえぎ呻いているのに、我々は決定的解決策もなくここに立ち尽くしている。戦争になると、戦争に勝利するために、いざこざをやめて、自分の命を危険にさらさなければならない。霊的戦いを戦うのも、これと違いはない。一つの願いを
メトリンゲンで新たな開始がなされた。我々は「イエスは勝利者である!」という叫びと共にこれに加わった。歴史を通して到るところで、いくつもの新しい開始がなされてきたのである。今日、単純な信仰により――自己愛によってではなく、個人の安寧を求める自己満足の道によってでもなく――我々も死と地獄の軍勢に立ち向かって、「イエスは勝利者である!」と叫ぶことができる。しかし、我々には幼子のような心が必要である(マタイ一八・三)。これを分析する必要はない。ただこれだけは確かである。我々のよって立つところの土台が脅かされており、我々の世界は、我々の自己中心的な欲望につけいる支配者たちや権力者たちの手の中にあるのである。それゆえ、我々は地獄に向かって「イエスは勝利者である!」と叫ばなければならない。なぜなら、地獄の門が教会に勝つことはありえないからである。
もし我々が自分から進んで信仰をもってどん底に下って行くなら、神は我々を守って下さるであろう。しかし、我々は自分から進んで戦わなければならない。もしそうするなら、たとえ最悪の状況を通ったとしても、キリストが我々を守って下さるであろう。なぜなら、最悪の出来事の中でキリストの勝利が啓示されるからである。しかし、ここでもまた、我々は幼子のように信じなければならない。仰々しい敬虔さやものものしい霊性によって、何かを成し遂げようとしてはならない。イエスがなさっていることにだけ目を向けよ。明日起きるかもしれない出来事について、考えることすらしてはならない。賢明に振る舞おうとしてはならない。また、あまり分析しすぎてはいけないし、すべてを円滑に進めようとしてもいけない。我々が弱い時だけ、我々は強くしてもらえるのである(二コリント一二・七〜一〇)。
確かに、たとえ弱くても、我々にはなすべきことがある。神の子供たちは何事かを成し遂げなければならない。山が移るかどうかは、我々によらない。もし何もせず山の前に立っているだけなら、山は移らないであろう。自分の前に障害物が見える時、悪という山の前に立つ時、キリストの従者たる我らは言わなければならない、「この山はどかなければなりません!この山がここにとどまるのを許しません」と。そうするなら、山は移るであろう。それでも、我々は人の力でこの世の悪を取り除こうとしてはならない。我々のなすべきことは、神はご自分の義を妨げるものをすべて取り除かれる、と信じることである。信仰の意味は、この山々に関して何かを行うことであるが、その何かとは、神がこの山々を取り除いて下さる、と信頼することなのである。
信仰は、「自分は救われた」という宗教的感覚に耽ることとはほとんど関係ないし、何かしらの理想的世界観を擁護することとも関係ない。もし関係していたなら、我々はずっと失われたままであったであろう。また、イエスが我々の生活に介入されるのを見ることも決してなかったであろう。イエスは私たちの邪悪な心や生半可な信仰、呑気な性格、内側から常に湧き起こる貪欲な欲望から、私たちを救って下さっていなかったであろう。
確かに、物事が改まるには、時には何年も待たなければならない。我々は誘惑に駆られそうになる。妥協して、「これはどうしようもありません。これが人の性質なのです」と言いそうになったり、自分自身の力で無理強いしようとしそうになる。我々には何も変えることができない。イエスだけが我々を救うことができる。イエスは理論上救うだけでなく、実際に、はっきりと、まさに今ここで救うことができる。確かに、我々を妨げる障害すべてに打ち勝つことは我々にはできない。我々の善い意図ですら、これを信仰と誤解する人もいるが、我々の助けにならない。クリスチャンの諸々の所感はさておき、キリストの力を経験しない限り、我々は以前同様贖われないままであろう。自分の力ではなくキリストの力が現れるよう、我々は戦うのである。
これによって我々は
贖いが我々の生活の中に訪れない限り、たとえ我々が自分をクリスチャンと称していたとしても、我々は王国に対する妨げなのである。罪の束縛、死の束縛、地獄の束縛は断ち切られなければならない。何か全く新しいことが我々に起きなければならない。何かが本当に神から到来して、我々の生活を新しい方向に転換させなければならない。これが信仰である。要するに、小さな事にせよ大きな事にせよ、我々はイエスと共に戦う者にならなければならないのである。その時、我々は永遠の希望の確かさを知るであろう。
それゆえ、心配するのではなく、戦わなければならない。たとえ多くのことで苦しみ、耐え忍ばなければならなかったとしても、我々は確信していることができる。なぜなら、死の中にさえ命は到来するからである。助けを求めて叫ぶ者は皆、暗闇の支配から救出されるであろう。我々のなすべきことはただ、自分自身を犠牲にして忠実であり続けることである。自分自身の願望に仕えて安楽な生活を求める代わりに、我々は物質的所有や霊的所有をすべて彼に明け渡して戦わなければならない。イエスが全世界を支配しておられるので、我々はこれを証ししなければならないのである。
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