ホーム/目次

「イエスの生涯とその人格」

第一章 イエスの生誕

一 奇しき生誕

藤井武
Takeshi Fujii



い 処女の煩悶とその歓喜

海ぞいの国ガリラヤの、ナザレの町に住めるひとりの処女。その名はマリヤ。同じ町に住む大工ヨセフと許嫁いいなずけの間柄であった。千九百年の昔のこと。

およそ善き子の母たらんは若き婦人にかよう純なる願いである。ましてイスラエル婦人にとっては、この一事よりも切なる願いはなかった。彼等の祖先アブラハムが「多くの人の父」たるべく選ばれ、その妻サラが「国々の民の母」たるべく約束せられて以来、イスラエル婦人におのずから一種の民族的本能が発達した。人類の福祉の中心となるべき子孫を産むことは彼等の大なる特権として感ぜられた。従って子なきにまさる婦人の恨みはなかった。ラケルはそのうらみを夫に告げていうた、「我に子を与えよ、しからずば我れ死なん」と。子にあらずんば死である。それがまさしくイスラエル婦人の声であった。やがて祈りが聴かれて男子を産んだ時に、ラケルはまたいうた、「神わが恥辱をすすぎたまえり」と。ハンナもまた子なきによって敵になやまされ、自らいたく悲しんだ。しかして泣いて神に祈った。遂にその願いが聴かれるや、彼女は生まれし男子をサムエルすなわち「神に聴かる」と名づけ、かつ神を讃美していうた、

我が心はエホバによりて喜び、わが角はエホバによりて高し。
わが口はわが敵の上にはりひらく、こはわれ汝の救済すくいによりて楽しむがゆえなり。
エホバのごとくきよき者はあらず、そは汝のほかる者なければなり。
又われらの神のごときいわはあることなし。
汝ら重ねていたく高ぶりて語るなかれ、汝らの口より慢言ほこりごといだすなかれ。
エホバは全知の神にして、行為わざ裁度はかりたもうなり。
勇者ますらおの弓は折れ、倒るる者は勢力ちからを帯ぶ。
飽き足れる者は食のために身をやとわせ、飢えたる者はいこえり。
石女うまずめは七人を生み、多くの子をもてる者はおとろうるにいたる。
エホバは殺しまた生かしたまい、陰府よみくだしまたのぼらしめたもう。
エホバは貧しからしめ又富ましめたまい、ひくくし又高くしたもう。
弱き者をちりのうちより挙げ、乏しき者をあくたの中よりのぼせて、
王公きみたちの中に坐せしめ、栄光の位をがしめたもう。
地の柱はエホバのものなり、エホバその上に世界を置きたまえり。
エホバその聖徒の足を守りたまわん。
悪しき者は暗黒くらやみによりてもだすべし、そは人、力をもて勝つべからざればなり。
エホバと争う者は砕かれん、エホバ天よりいかづちを彼等の上にくだし、
エホバは地のはてさばき、
その王に力を与え、その油そそぎし者の角を高くしたまわん。

ハンナのこの歌はイスラエル婦人の思いを遺憾なく代言するものとして、彼等の柔らかき心に深刻なる印象をきざみ、世々に誦し伝えられた。同じように、マリヤの親族エリサベツも久しく石女うまずめであったのち男子をはらんだ時にいうた、「主わが恥を人の中にすすがせんとて、我を顧みたもうときはかくなしたもうなり」と。

アブラハムの歴史に始まりしイスラエル婦人の古き願いは、ダビデに臨みし神の約束によって、一層鮮やかなる理想と進んだ。「我れ汝の身より出づる汝の種を汝の後に立ててその国を堅うせん。……我れながくその国の位を堅うせん。我は彼の父となり、彼はわが子となるべし云々」。ここに漠然と子孫にはあらぬ特定の一人についての祝福が約束せられたのである。ある一人がダビデの家から生まれるであろう、彼はダビデの座位くらいをついで永遠にその国を治めるであろう、彼は神の子と呼ばれるであろう。このひとりの君の母たるべきものは誰か、この君を産みまたはぐくむ事によりて、神と人類とに対する婦人の最大の貢献を果たすべきものは誰か、まことにその光栄のために選ばるべき恵まれし者は誰が家のむすめかと、イスラエルの若き婦人たちはみな思いあこがれた。

マリヤにももとより同じ理想がなくてはかなわなかった。ことに彼女はすでに許嫁いいなずけせられて、遠からず妻となり母となるべき身であった。またその夫の家は落ちぶれたりともまぎれなきダビデのすえであった。幾百年のあいだ数知れぬイスラエル婦人にむなしく幻滅を繰り返したものが、遂に我身の上に実現するのではあるまいかと、彼女はしばしば想いめぐらしたであろう。しかしてもしかなわばしもめをこの光栄に入らしめたまえと幾度いくたびか祈ったであろう。

ある日、彼女はいつものようにそれらの事を黙思していた。静かに祈りつづけるうちに、彼女の想いは次第に高きところへと導かれた。きよき処女の霊魂はいつしかこの世を脱けて栄光の国にあった。ふと気付けば、そこにひとりの輝く者が立っている、しかしてその声が聞こえる、「めでたし、恵まるる者よ、主なんじと共にいませり」。恐らくこの種の経験は彼女に最初の事であったのであろう。いかなる事かと思い惑うてあれば、「マリヤよ、おそるな、なんじは神のみまえに恵みを得たり。見よ、なんじはらみて男子を生まん。その名をイエスと名づくべし。彼は大いならん、至高者いとたかきものの子ととなえられん。また主たる神これにその父ダビデの座位くらいを与えたまえば、ヤコブの家を永遠に治めん。その国は終ることなかるべし」。

願うところの大いなる恵みが与えられるであろうとの告知である。祈りがまさに聴かれるであろうとの音信おとずれである。しかしそのようにして聴かれようとは、マリヤには余りに意外であった。まだ結婚もせぬうちに!彼女はただ驚くのほかなかった。「われ未だ人を知らぬに、いかにしてこの事のあるべき」。それは天使への答といえば答であったが、畢竟ひっきょう驚くべき告知に対するほとんど無意識の反響にほかならなかった。

しかし彼女の耳にはさらに力強き声がひびいた。「聖霊なんじに臨まん、至高者いとたかきもの能力ちからなんじをおおわん。このゆえになんじが生むところの聖なる者は神の子ととなえらるべし」。聖霊!至高者いとたかきもの能力ちから!神の子!これらの高調なる語を重ねて聞くに及んで、さながら曙の光のまえに逃げゆく暗黒のように、驚きはとみに消え去った。しかしてそこには不思議にももはや何の疑惑さえ残らなかった。未婚の懐胎を怪しとする常識のささやきすら聞こえなかった。否、かえってかかる奇蹟こそこの場合にいとふさわしく感ぜられた。人の生涯には幾度いくたびか奇蹟を怪しとせずかえってこれをふさわしとする瞬間がある。霊の生活が天的高調に達する時は常にそうである。奇蹟は天国の常識である。マリヤは驚くべき天使の告知に対して「見よ、われは主の婢女はしためなり。汝のことばのごとく我に成れかし」と叫んだ。異常なる奇蹟に応ずるに彼女はただアーメンをもってした。これ彼女の理性が低くあったからではない、彼女の霊性が高くあったからである。彼女はいま処女としておのが生命より重きものをさえ惜しみなく神にささげんとするほどの信仰的水準にあるのである。彼女の霊的状態そのものが奇蹟である。奇蹟はまた奇蹟を喜ぶ。奇蹟の否定者は誰か。その人は少なくとも霊的飛躍の無経験者ではないか。

幻のうちのマリヤは、かくて容易たやすく己が身に起こるべき大いなる奇蹟を受け入れた。醒めての後は如何。人は信仰の峯の頂にある時とその麓にさまよう時とにより、さながら別の世界におけるようにおのが判断や感情の変化することをしばしば経験する。マリヤとてもまた人である。彼女が祈りの最高調にあった時の心持ちをいつも間断なく継続し得たとは私は信じない。ことにその事のいよいよ実現するに及びては、妙齢の婦人として、はたまた許嫁いいなずけの身として、たとえ一方に信仰の声は聞こゆるとも、いかばかり心苦しさを覚えたであろう。きよき処女の煩悶!けだし人生最も厳粛なる経験の一つである。血を呼び刃に値する経験である。まことにもし信仰の助けだになかりせば、ヨセフはおのが美しき許嫁いいなずけの妻の、ある日ひそかに密室に刃に伏し居るを発見したであろう。自らきよき処女ならずして、誰が適当に彼女に同情し得ようか。

マリヤも人であった。彼女も何人かの了解と同情とが欲しくあった。絶対の孤独にはほとんどえられなかった。しかしこの異常なる経験を誰に向かって訴えようか。ただひとりの人が彼女の心にあった。それはかの時特に天使より示されし人であった。「見よ、なんじの親族エリサベツも、年老いたれど、男子をはらめり、石女うまずめといわれたる者なるに、今はみごもりてはや六月むつきになりぬ。それ神のことばにはあたわぬ所なし」。エリサベツ、彼女もまた小奇蹟をその身に受けつつあるとよ。さらば彼女のみあるいは私を解することもあろう――かく想うてマリヤは少しく自ら慰めた。しかしてこの唯ひとりの友を求むべく、四日路の山里を遠しとせずしてユダの町へと急いだ。

マリヤは目ざす家に辿り着いて、そのしきいまたいだ。果然、出でて迎えるエリサベツの容子ようすを見よ。輝くその顔、叫ぶがごときその声。

女の中にてなんじは祝福せられ、そのたいもまた祝福せられたり。わが主の母われに来たる、われ何によりてかこれを得し。見よ、なんじの挨拶の声、わが耳にるや、わが、胎内にて喜びおどれり。信ぜし者はさいわいなるかな、主の語りたもう事は必ず成就すべければなり。

何という深き了解と同情との声であろう。何という熱き慰めと励ましとの言葉であろう。いかなる人に向かってもこれにまさるものを期待し得べくはない。ここには確かに人以上の霊のはたらきがある。マリヤはむくいられたされて余りあった。きよき処女の煩悶は名残なごりなく癒された。「さながらものみな蔭を失う大陸よりの風に吹かるるや、イタリアの雪が直ちに水となってしたたるように」彼女の心に張りつめし氷も、たちまち息吹いぶきとなり歌となってその口から流れ出た。曰く、

わが心、主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びまつる。
その婢女はしための卑しきをも顧みたまえばなり。
見よ、今よりのち万世よろずよの人われをさいわいとせん。
全能者われに大いなる事をなしたまえばなり。
その御名は聖なり、その憐憫あわれみ代々よよかしこみ恐るる者に臨むなり。
神は御腕みうでにて権力ちからをあらわし、心のおもいに高ぶる者を散らし、
権勢いきおいある者を座位くらいよりおろし、卑しき者をたこうし、
飢えたる者を善きものに飽かせ、富める者を空しく去らせたもう。
また我らの先祖に告げたまいしごとく、アブラハムとそのすえとに対する憐憫あわれみ
永遠とこしえに忘れじとて、しもべイスラエルを助けたまえり。

それはおのが実験にもとづく讃美の歌であると共に、またその讃美より生まれし大いなる預言の声であった。彼女は神のまえに己をひとりの「卑しき婢女はしため」としか見ることが出来なかった。しかるに神はかかる者をさえ選びて、「万世よろずよの人にさいわいとせらるべき大いなる事」を行いたもうた。その事を始めより疑いはしなかったが、しかしまた苦しくもあった。しかるに今や己を解する者の同情を得て、苦悶はみな溶け去り、ただ歓喜と感謝とがうちみなぎった。しかして高き讃美の歌として溢れた、「わが心、主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びまつる」。かくて今彼女は一つの驚くべき革命的恩恵を見たのである、しかもそれが己が身の上に実現するを見たのである。この実験は彼女の心をいざのうて、さらに大いなるもの、やがて全世界の上に実現すべき革命的恩恵を予見させた、「神は御腕みうでにて権力ちからを現わし、……権勢いきおいある者を座位くらいよりおろし、卑しき者を高うし云々」。讃美の実験が彼女をして大いなる預言者たらしめたのである。いかにしてこの革命が実現するかをここには明言していない。しかし彼女の意味は明瞭である。「また我等の先祖に告げたまいしごとく、アブラハムとそのすえとに対する憐憫あわれみ(約束)を永遠に忘れじとて、しもべイスラエルを助けたまえり」とあるを見ても疑いがない。マリヤは選ばれし母として、おのが子のなお胎内にある始めの頃より、よく彼を了解した。マリヤはキリストを了解した。母としての彼女の準備は成った。

なお一つ残れる問題があった。夫ヨセフは何と思うであろうか。これもまた重大なる困難なる問題であった。ことに彼は義しくして同情ふかき人であることを知るがゆえに、マリヤの心は一しお痛んだであろう。果たしてヨセフは彼女懐胎の事実を知るや、深く憂慮し、これを公然にして彼女をはずかしむるを好まず、密かに離縁しようかと考えた。その時のヨセフの思いを私は次のように想像する――ああ彼女に限りてはと思い込みしものを、なおかつこの事があるか。何という痛恨の事ぞ。誠に限りなき痛恨!しかしながら自分は彼女を責めようと思わない。この事のゆえに彼女の品性そのものが堕落してしまったと想像するは、自分にはえられぬ事である。必ずや彼女は偶発的に誘いに落ちたのであろう、瞬間的にみちを踏みはずしたのであろう、しかして全く彼女らしからぬ事が実現したのであろう。自分は彼女を信頼する。自分はなお彼女を愛する。事ここに至りしについては、自分にも責任がないとは言えない。しかり、彼女の夫として、自分も共に神の御赦しを乞わねばならぬ。何とてひとり彼女のみをはずかしめることが出来ようか。ただしかしながら自分は疑う、結婚前にこの事ありて、我らはなお結婚を実行すべきであろうかどうかを。かくのごとくに始めより結婚の神聖を傷つくる事実の起こった場合には、断然思いとどまるがむしろ神の聖意ではあるまいか――

ヨセフはかくて思いなやんだ。純潔なるヨセフ、愛ふかきヨセフよ、今より汝のこころをおもいやって、私はうたた同情と尊敬とにえない。汝のごとき人格がマリヤの夫として選ばれた事は、何という奇しき摂理であろう。しかし汝の煩悶もまたマリヤのそれに劣らず厳粛にして深刻なるものであった。ああひとりの人の子が世に出でんがために、汝とマリヤとに臨みしこの苦しみのみにても、大いなる犠牲である。アダムとエバとの手が汝とマリヤとの心を掻き裂いたのである。この傷を人はつつむことが出来ない。しかし汝らを選びたまいし者は、必ずや汝らを慰めずにやみたまわぬであろう。

ある夜、ヨセフは夢を見た。天使が現われて彼に告げた、「ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤをるることを恐るな。その胎に宿る者は聖霊によるなり。かれ子を生まん。汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救いたもうゆえなり」。眠りから醒めたとき、ヨセフは多分床の中にて独語したであろう、「これあるかな。かくてこそ一切が解ける。ああいかにおそろしくもまた喜ばしき事ぞ」と。しかして多分そのまま祈祷へと彼は移ったであろう。

ろ うまぶれ

ヨセフとマリヤとは結婚した。しかしその子の生まれるまでは相知らなかった。

あたかもその頃、ローマ全帝国にわたりて戸籍登録の勅令が発布せられた。けだし中央集権は最初よりローマ帝国の国是こくぜであった。すでにジュリアス・シーザーの時に課税を目的とする大規模の国勢調査が行われた。この調査は前後三十二年の長日月を費し、アウガスタスの治世に至りてようやく終了したという。ヨセフ時代の皇帝はすなわちアウガスタスであった。彼はシーザーの遺業をいで、毎十四年に一回づつ、東はユフラテ河より西は大西洋まで、北はブリテンより南はナイル河まで、その権勢の下にある全版図の住民に対し戸籍登録を命じたのである。すなわち各世帯主はその氏名、年齢、職業、財産、ならびに子女の数を届でて公簿に登録せねばならなかった。ただしその方法はなるべく地方の慣習に従った。ことにユダヤは当時未だ全然独立を失ってはいなかったから、ユダヤ人の登録はその古き国風により、現住地においてせずして、故郷すなわち祖先の地においてすべきであった。ユダヤ人のごとき家系を尊重する民族にありては、この方法は統計の正確を期するがためにも適当であったのである。

ヨセフはダビデの血統であった。しかしてダビデの地は南、ベツレヘムであった。ナザレよりベツレヘムまで、三日路の旅を辿りてヨセフは戸籍登録を果たさねばならぬ。新妻は臨月に近き身である。しかし愛する彼女をひとり残して往こうとはヨセフは思わなかった。むしろ何処までも自らいたわるべく、彼女を励まして共に家を出かけた。

それはいわば聖き蜜月旅行であった。サマリヤの野に古き歴史の跡を踏みながら、彼らは選ばれし自分たちの奇しき運命について、ことにやがて生まるべき不思議なる子の将来について、色々と語り合うたであろう。

二人は無事にベツレヘムに着いた。折悪しく旅人の雑沓のために、旅宿はいずれも満員であった。やむを得ず、とある旅宿に附属する厩舎に入りて、その敷藁の上に二人は腰をおろした。汚き驢馬ろばや牝牛や駱駝らくだを友としながら。

多分その夜、産痛は突如としてマリヤに臨んだ。予期したる事とは言いながら、折も折とて、ヨセフは心騒いだであろう。しかしいつものように祈りによって平和を得たであろう。幸いにも産は安らかであった。マリヤは甲斐々々かいがいしくみずから嬰児をあり合わせの布に包み、しかして側に横たわれる馬槽うまぶねの中に臥させた。

産婦は旅先にて厩舎の土間に、かわゆき嬰児は馬槽うまぶねに!何というあわただしき出産であろう。しかもこれが聖霊によってはらまれし人類の救い主の生誕であるとは!これがダビデの座位くらいをついでその国を治むべき者、神の子ととなえらるべき者の出現であるとは!さすがにヨセフも何となく心重きを感ぜずにはいられなかったであろう。若き妻の初産にかかる憂き目を見せしことの痛ましさ、加うるに何か幻滅に似たる寂しさ。

しかしマリヤは一切を了解した。彼女はかえって夫を慰めて言うたであろう、「否とよ、かくてこそ善かったのである。すべては確かにみこころである。私としては、なんじと共にある所これ楽しきわが家である。たとえ厩舎であろうとも何かいとおう。ことにこの子のかくのごとき生誕こそは、かえって奇しき摂理ではあるまいか。先に私は聖霊による懐胎を知ったとき、歌うていうた、『神は御腕みうでにて権力ちからをあらわし、心のおもいに高ぶる者を散らし、権勢いきおいあるものを座位くらいよりおろし、卑しき者を高うし、飢えたる者を飽かせ、富める者を空しく去らせたもう』と。さればこの子はみずから権勢いきおいある者ならぬ卑しき者として、富める者ならぬ飢えたる者として世に現われねばならぬとの予感は、その時以来私に強くあった。われらがダビデの血統にありながら社会的にかくも零落している時に、思いがけなく選び出されし所以ゆえんもそこにある。この子にしてもし真実に約束の子ならば、必ずや金殿玉楼の中より生まれづべきでない。みずから貧しき者と成らずして、貧しき者に宣べ伝うべき福音はない。みずから暗黒の中にくだらずして、暗黒に坐する者を照らす光はない。よくぞこの子はかかる所にかくのごとくして生まれいでた。見よ、安然と馬槽うまぶねのなかに。その顔にこそ尋常ならぬ輝き!やがてはこの子のゆえに厩舎も神の宮と変わるであろう、牛、驢馬ろばに劣る人の心も聖き霊に甦るであろう。まことにこの子の在る所に祝福はやどる。われらは恵まれたるもの、われらはただ信じよう、信じて感謝しよう、一切を聖意のままに成したもう神に心より感謝しよう云々」。