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「イエスの生涯とその人格」

第一章 イエスの生誕

二 言は肉と成れり

藤井武
Takeshi Fujii



い 神のかたちより僕のかたちへ

ある冬の日、私は六甲山麓の野を東に向うて走りゆく電車の中に坐していた。その日大阪にてなすべき講演の準備に、山に登り祈りをしての帰るさであった。祈りの心もちはなお継続してった。ふと一つの思いが電光のように私の脳中に閃いた(しばしばこのようにして新しき思想が私に臨む)。それはイエスの人格のたぐいなき美しさより思い及ぼして、彼を知ったというこの一事に私の生涯の意義が尽きるという事であった。その事を今さらのように思わせられて私は新しき大真理を発見したかのように感じ、幾度いくたびか心の中にみずから「アーメン、しかり、しかり」を繰り返した。

実際私にとってはキリスト・イエスがすべてである。彼において私は完全なる満悦を覚える。私のように人の欠点に目のつきやすき者、人格に対する不満のこころ多き者、いかなる偉人に向かっても没頭的尊敬をささげ得ざる者が、ひとり彼をおもうときには何らの物足りなさはもとより、かりそめの批評的感念をすら抱くことあたわず、ただ限りなき歎美と思慕と崇拝とに心みつるは何故であろうか。

私にとって、イエスがただの人でない事ほど明白なる事実はない。福音書に記さるる彼の言行の印象は余りに鮮やかである。イエスは確かに人の中の独一なるものである。すべての人と彼との間に性質上の差別があるは、荊棘いばらのなかに百合花ゆりのあるがごときである。イエスの人格は道徳的の奇蹟である。

イエスは処女より生まれたという。もしそれが彼ならぬ他の人について言われるのであるならば、私は到底信ずることが出来ない。たとえばカントが、あるいはソクラテスが、あるいは釈迦が奇蹟的に生まれたと言うは似合わしからぬ事である。彼ら偉大なりといえども、神の前に罪人たるにおいては我らと異ならない。しかしひとりイエスの場合においては問題は全く別である。彼の奇蹟的生誕を弁護すべきふさわしき道徳上の理由がある。彼自身が奇蹟的人格者である。奇蹟を生むに奇蹟をもってする。これ信じがたき事であるか。かえって彼のごとき独一の人が神の特別の干渉によらず、我らと同じようにただ「血脈により、肉の欲により人の欲によりて」生まれたとしたならば、それこそむしろ不合理の事ではなかろうか。

けだしイエスの生誕は被造物なるひとりの人が世に出る事ではなかったのである。普通の人は生まれぬ前には存在しない。しかしイエスはそうではなかった。彼は自ら言うた、「まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生まれいでぬ前より我は在るなり」(ヨハネ八の五八)。自分はおろか、二千年前のアブラハムさえ生まれぬ前より、すでに彼は在ったという。また言うた、「父よ、まだ世のあらぬ前にわが汝と共にもちたりし栄光をもて、今みまえにて我に栄光あらしめたまえ」(ヨハネ一七の五)。なんぞアブラハムといおうか、実に世のあらぬ前より、天地創造の前よりして、彼は在ったのである。すなわち知る、イエスは永遠の存在者であったことを。かくて彼の生誕は尋常の生誕ではなくして永遠の存在者の出現にほかならなかったのである。すべての人が「地より出」たに対し、彼のみは「上より来」たのである(ヨハネ三の三一)。

まことに彼は上より来た。彼は永遠より天において存在した。天において、神と共に存在した。彼みずからが神であった。「太初はじめことばあり、ことばは神と共にあり、ことばは神なりき」(ヨハネ一の一)。

神のことばとして、あるいはその子として、キリストみずから神たるの性質を保有してった。従って当然彼は神たるの状態においてあった。彼の知識は全知であり、彼の能力は全能であり、彼の存在は遍在であった。従ってまた彼に神としての栄光があった。すなわち全知者、全能者、遍在者にのみ備わるところの言いがたき輝きがあった。「近づきがたき光」を「衣のごとくにまとうて」彼は存在した。この光は限りなく豊かにかつ限りなく高き智慧と能力と存在との状態に伴う輝きであって、聖なる神の性質の如実に外に発現したものである。すなわち神たるものの本来の姿である。ゆえに聖書にこれを呼んで「神のかたち」という。

キリストは永遠の昔より神であり、従って彼は神のかたちにおいて存在した。彼がかく神と等しき状態にある限り、彼は自らうちに足りて、何一つ欠くるところ無き者であったのである。彼の富は測るべからざる富であり、彼の位はいと高き位であった。父なる神と共同の生活の中に、彼は在りて在る者であった。

我らが慕うナザレのイエスの前身は実にかくのごとき者であった。かくのごとき者の出現であればこそ彼の人格は全然ほかのすべての人を超越して美しくあったのである。「我らその栄光を見たり、げに父の独子ひとりごの栄光にして、恩恵めぐみ真理まこととに満てり」と使徒ヨハネの讃歎したとおりである。

しかしながら地上にある間のイエスに見たこの栄光は聖書が「神のかたち」と呼ぶところのものではなかった。それは神(の独子ひとりご)たるの性質より発する栄光には相違なかったが、しかしその性質の如実の発現ではなかった。神たるものの本来の姿ではなかった。何となればイエスはもはや神たるの状態において存在しなかったからである。地上におけるキリストにもはや全知もなく全能もなく遍在もなかった。彼はある場合に驚くべき智慧と知識とを現わしたとはいえ、また幾度いくたびか自分の無知を告白した。「彼を何処に置きしか」、「誰が我の衣にさわりしぞ」、「その日その時を知る者なし……子も知らず、ただ父のみ知りたもう」。彼はしばしば奇蹟を行ったとはいえ、これを「父の我にあたえて成し遂げしめたもうわざ」と呼び、自分は常に神に祈り求めた。彼の存在は言うまでもなくその弱くして不自由なる肉体に縛られていた。このように、地上のイエスには神の性質はあったけれども、神の状態はなかったのである。従ってこの状態にともなう輝きもまた彼には無かったのである。彼の神たる性質は如実には外に発現しなかった.神としての本来の姿――神のかたちはすでにイエスにせてった。

それは神のかたちではなくして僕のかたちであった。神と等しき状態ではなくして、人の状態であった。人のごとくに彼は考え人のごとくに彼は語り人のごとくに彼は行動した。彼は飲食し、疲労し、睡眠した。彼がかかる生活状態において神に奉仕し人にさえ奉仕するその姿はまさしく僕のそれであった。

かくのごとく神なるキリストは人の状態に入り僕のかたちを取った。しかしてそれはただに状態またはかたちのみの事ではなかった。人そのものに彼は成ったのである。神の子が同時に人の子と成ったのである。処女マリヤより生まれしキリスト・イエスは紛れもなき人であった(ロマ五の一五、前コリント一五の二一、前テモテ二の五)。我らと同じ人間であった。

神の子はイエスにおいて人と成った。従って彼は神たるの状態をしりぞけ、神たるのかたちを脱いでしまった。彼はその智慧と能力と存在との限りなき富および限りなき貴さを棄ててしまった。しかしてこれに代うるに、快楽と苦痛との感受性に支配せらるる弱き肉体においての存在を取った。我らと同じくえずサタンの誘惑にさらされ、何時いつにても罪を犯し得べき生活に移った。はげしき試煉の火に投げ込まれ、えがたきほどの道徳的苦闘を経つつ、己が身を生ける祭物として神にささぐべき境遇に変わった。まことに彼は「大いなる叫びと涙とをもて、己を死より救い得る者に祈りと願いとをささげ、その恭敬うやうやしきによりて聴かる」べきほどの謙遜なる地位に身を降したのである(へブル五の七)。「彼は聖子みこなれど、受けしところの苦難によりて従順を学び、かつ全うせられたり」(へブル五の八、九)。しかり、かの永遠より神と共にありし全知、全能、遍在の聖子みこが!

何という驚くべき変化であろう。天地の創造以来、いかなる出来事があったとしても、その変化の大きさにおいてこれに及ぶものあるを知らない。使徒ヨハネはこのたぐいなき事実をいつものごとく簡潔、雄勁ゆうけいなる一言に表わしていうた、

ことばは肉となれり。(ヨハネ一の一四)

パウロはまたパウロらしき秀抜なる説明を加えて、

彼は神のかたちにて居たまいしが、神と等しくある事を固く保たんとは思わず、かえって己を空しうし、僕のかたちをとりて人のごとくなれり、すでに人のさまにて現われ、己をひくうして死にいたるまで、十字架の死にいたるまで従いたまえり。(ピリピ二の六〜八)

いずれも聖書中古典的の名句である。ヨハネの一言に天地と競うべき重みがある。パウロの文章は「その描写の平静にして壮大なる、まさに一篇の叙事詩に類する。微細を穿うがつにおいてもまた叙事詩的面影を失わない」(マイヤー)。パウロはまた別の場合に次のようにも言うている。

富める者にていましたれど……貧しき者となりたまえり。(後コリント八の九)

ろ 道、真理、生命

さらば富める者が何故に貧しき者となったか。神のかたちにて在りし者が何故に己を空しうして僕のかたちを取り、死に至るまで、十字架の死に至るまで従うたのであるか。ことばは何故に肉と成ったのであるか。

その第一の目的は、人が神にいたるべき道を開くことにあった。

人が神にいたるべきはほのおが上に昇るべきよりもさらに当然なる宇宙の公理である。これが理由の説明をたない。しかるにその道はつとに閉ざされてしまった。大いなる障碍物しょうがいぶつが神と人との間に横たわって、永遠に動かすべからざるものとなった。すなわち罪である。罪の始末の完全につかない限り、人はいかばかり神を慕うとも、彼に帰りゆくことが出来ない。神は人を受け入れたもうことが出来ない。

罪の始末はいかにしてつくか。罪を罪とする永遠の義に対して、適当なる尊敬が人の側より確実に払われねばならぬ。人生にこの難かしき問題がある。さように難かしき事を問題とせずとも、神が赦せばそれでいではないかと今の人は考える。私自身もかつてはそういう風に考えたのである。しかし神がもし真実の神であるならば、彼は罪を罪ならぬもののごとく見ることが絶対に出来ない。罪の妥協は神には不可能である。それの可能なるものは神ではないのである。すでに罪がある、すなわち誰かが必ずその始末をつけねばならぬ、誰かが有効にこれを引き受けねばならぬ、誰かが全人類ののろわるるに等しきだけののろいを己に受けてもって義の律法の要求に対する、心からのアーメンを表示せねばならぬ。

誰があるか。この重き地位に当り得るものがもし何処かにあるとするならば、神自身よりほかに誰があるか。

キリストは我らのためにのろわるる者となりて、律法おきてのろいより我らを贖いいだしたまえり。(ガラテヤ三の一三)

我らに代わりてのろわるる者とならんがために、キリストは人として生まれた。罪のための苦難と死とを味わわんがために、神はみずから神のかたちを棄てて僕のかたちを取った。十字架につけられんがために、ことばえて肉と成った。

同じ事を別の方面より観察して聖書は次のごとくに言う、

子らはともに血肉をそなうれば、主もまた同じくこれをそなえたまいしなり。これは死の権力ちからつものすなわち悪魔を死によりて亡ぼし、かつ死のおそれによりて生涯奴隷となりし者どもを解き放ちたまわんためなり。(へブル二の一四、一五)

罪と死と悪魔との間には断ち切りがたき有機的の関係がある。罪の始末は同時にその結果たる死の始末であり、またその原因たる悪魔の処分である。キリストは己が貴き死によって悪魔を亡ぼさんがために来た。すなわち彼は死なんがために死に得べき状態を取り、我らと同じ血肉をそなえたのである。

かくのごとく、神の子の受肉はず第一に罪の始末のためであった。罪を始末して、人の神にいたるべき道を開かんがために神は人となった。

目的の第二は、神を人に啓示することにあった。

神を見んことを願うは人の本能である。「主よ、父を我らに示したまえ、さらば足れり」とのピリポの告白に、全人類はおのが代言を聞く。しかるに一たび神にそむきし人類は、その目くもりて、神を見失うたのである。爾来じらい、人は自然を見れどもそこに神を見ず、人を見れどもそこに神を見ず、自己を見れどもそこに神を見ない。見えざる神が見得べき形をそなえて友のごとく我等の前に現われないかぎり、我らは遂に彼を見ることが出来ない。

ピリポ、我かく久しく汝らと共にりしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり。いかなれば「我らに父を示せ」と言うか。我の父にり、父の我にたもうことを信ぜぬか。(ヨハネ一四の九、一〇)

神のみが神をあらわし得る。その言葉に行動に父の独子ひとりごの栄光をはなつところのキリストのみが完全に父をあらわした。彼を見た者は実に神を見たのである。「未だ神を見し者なし、ただ父の懐裡ふところにいます独子ひとりごの神のみこれをあらわしたまえり」(ヨハネ一の一八)。かくのごとく人をして明らかに神を見させんがために、神なるキリスト、父の懐裡ふところにいます独子ひとりごはみずから人と成って世に出たのである。ことばは真実にことばとして父を発表せんがために肉となったのである。ただ彼れキリスト・イエス、恩恵めぐみ真理まこととにち満つる彼のうるわしの極みなる超人的人格においてのみ人類はその至深いとふかき見神の要求を遺憾なくたすことが出来る。

目的の第三は、生命を人に提供することにあった。

真実の生命は罪なき生命でなければならぬ。肉において生くる人が、誘惑の大浪に幾度いくたびか呑まれんとしながら、なおその霊魂と肉身との聖潔をたもつところに、人としての生命がある。聖潔の生命は愛の生命である。我ら切にこれを慕う。しかしいかんせん、我らにかくのごとき生命はないのである。我らはこれを何処かに求めねばならぬ。

まことに誠に汝らに告ぐ……わが父は天よりのまことのパンを与えたもう。神のパンは天よりくだりて生命いのちを世に与うるものなり……我は生命いのちのパンなり……まことに誠に汝らに告ぐ、人の子の肉をくらわず、その血を飲まずば、汝らに生命いのちなし。わが肉をくらい、我が血をのむ者は永遠の生命いのちをもつ。(ヨハネ六の三二〜五四)

全人類のうちただ神の子イエスのみが、肉にありながら肉をうち伏せ、完き聖潔と愛との生活を送った。彼のみが真実の生命を生きた。しかしてそれは我らのためであったのである。我らをして真実の生命を生きしむべきパンとならんがために、神の子みずから我らと同じ肉を取ったのである。みずから弱き人となり、みずから誘惑になやまされ、みずから祈りによりてこれにうち勝ち、遂に肉において全く罪を征服して、すなわち人としての聖潔を完成して、しかる後にこの真実の生命を、キリストは我らに提供するのである。我ら彼を信ずる時に、この生命を己がものとすることが出来る。

同じ真理をパウロは次のごとく述べた。

(神は)己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣わし、肉において罪を定めたまえり。これ肉に従わず、 霊に従いて歩む我らのうちに、律法おきての義のまっとうせられんためなり。(ロマ八の三、四)

うこころは、神は罪ある肉になやむ我らに同情するのあまり、その独子ひとりごを同じ肉の人として遣わし、彼をして肉にありながら罪を犯さず、かえってこれを征服せしめたもうた、これ我らもまた彼の霊に従い彼の義しき生命を己がものとすることを得んがためであるとの事である。彼の霊が我らの中にやどり、かくて我らをして彼の生命をおのが身に再現せしめんがためには、先ず彼みずから我らと同じ状態においての生命、同じ性質の生命を経験せねばならぬ。このゆえに彼はその智慧と能力との限りなき富を棄てて、欺かれやすく敗れやすき肉と成ったのである。我らを確実に助け得るものとならんがために、我らの兄弟と成ったのである。受肉は同情の結晶である。「……すべての事において兄弟のごとくなりたまいしはうべなり。主は自ら試みられて苦しみたまいたれば、試みらるる者を助け得るなり」(ヘブル二の一七、一八)。

第一には人より神への道を開かんがため、第二には神を人に啓示せんがため、第三には生命を人に提供せんがため、道と啓示と生命と、この三つの目的のために、神なることばは人なる肉となった。このためにキリスト・イエスは世に現われた。まことに彼みずから言うたとおりである。曰く

我はみちなり、真理まことなり、生命いのちなり。(ヨハネ一四の六)

さらに説明を加えて彼はいうた、

(一)我にらでは誰にても父のみもとにいたる者なし。(一四の六)
(二)汝らもし我を知りたらば我が父をも知りしならん。(一四の七)
(三)我れ生くれば、汝らも生くべし。(一四の一九)

道ありて、人は再びその造り主なる神に帰る。真理ありて、人は神を知り、人生を知り、宇宙を知る。生命ありて、人はとこしえに聖潔と愛とに生きる。これはこれ人としてのすべてではないか。我らこのほかに何の望むところがあるか。

祝福すべきかな、イエスの生誕!彼来たりしがゆえにのみ人類に無限の希望がある。彼もし来たらずば人生は永遠の暗黒である、呪うべき絶望である。