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「イエスの生涯とその人格」

第一章 イエスの生誕

四 星にみちびかれて

藤井武
Takeshi Fujii



今よりおよそ三百年前に、偉大なる天文学者ケプレルが天体の観測をなしてったとき、ある夜かれは双魚星座において、遊星中はなはだ光輝つよき木星と土星との交会こうかいを見た。一六〇三年十二月十七日のことであった。翌年の春に至り、少しく場所を変えて、右の二星のほかになお火星のこれに加わるを見た。また同じ年の九月には蛇遣座へびつかいざの足の辺にて、火星と土星との間に一つの新しき星の現わるるを見た。それは一等星級の光つよきものであった。前後一年の間かがやき続けし後、一六〇六年三月にはようやく衰え、遂に全く消えてしまった。この新星を最初に発見したる彼の弟子プルーノウスキーの記す所によれば、それは諸色交互に閃きてダイヤモンドのごとく、星雲や彗星とは全く似もつかぬものであったという。これらの珍らしき現象より、ケプレルはキリスト生誕当時に東方の博士が見たという星に連想し、試みに木星土星交会こうかいの年を計算しながら歴史を遡って見た。しかして彼は発見した、ローマ暦の七四七年すなわちキリスト生誕の前年には、同じ双魚座において少なくとも三回の交会こうかいが起こったことを、また翌年の春には火星がこれに加わったことを。この計算は爾来じらい幾人かの天文学者によって繰り返され、科学的に誤謬なきものと見られている。

また古き記録によれば、あたかもキリスト生誕のころ、処女座の近傍に一つの新星が現われたという。「それはすべての星にまさりて強く輝いた」とイグナシアスは記している。同じ時代の新星出現の記録が支那にも存すると称せられる。

天界における珍らしき現象が地上の重大事件ことに偉人の出現と結び付けて考えらるるは、古代および中世においては普通の事であった。遠き昔、モーセ生誕のおよそ三年前にも、双魚座における木星土星の交会こうかいが起こった(双魚座は昔よりイスラエルに特別の関係ある星座と見られている)。しかしてジョセファスによれば、右の交会こうかいが起こったときに、エジプトの学者らは王に告げていうたとの事である、曰く、これイスラエルより一人の小児の生まるるしるしである。もしその者を生かし置かば、エジプトの主権をいと低く降し、みずから徳と栄光とに秀で、イスラエルの子らを権力と名誉とにひき上げ、しかして世々永く記憶せられるであろうと。

ケプレル自ら両星の交会こうかいと歴史上の大なる変換期との偶合ぐうごうを指摘している。すなわちアダムに対する神の啓示、エノクの生誕、大洪水、モーセ、クロス、キリスト、シャーレメーン及びルーテルの生誕等である。

ダンテは自分の生誕の際に天体の配合がしるしを現わしてったといい、しかしておのが一切の天才をこれら栄光の星に帰している(天国篇二二)。

新星の出現についても、たとえば一五七二年の秋、天文学者チホー・ブラーエが発見したるものは、短かけれども輝かしき生涯の北方よりの出現を予告するととなえられた。果然ガスタヴァス・アドルファスの生誕があった。

キリスト生誕のときに東方の博士が見たという星は、果たして右の古き記録にのこれる新星であったかどうか、今より確知することが出来ない。あるいはそれとは別に一つの新星の出現を彼らは見たのであるかも知れない。しかしかくそのころ不思議にも一年に三回の木土両星の交会こうかいがあった事は確かであり、かつまたケプレルの時と同じように引きつづき、燦然さんぜんたる新星の出現があったものと推測せられる。

さてこれを見た東方の博士とは誰であるか。博士の原語マギーは、ペルシャ及びメヂヤにおいて卓越したる僧侶的階級を占め、主として天然の秘密および占星学、医学の知識に優れたる人たちの称呼であった。バビロン王朝隆盛のころにはバビロンにもこの階級があった(エレミヤ三九の三)。ダニエルがその統領となったといわるる「智者ども」とは彼らのことであろう(ダニエル二の四八)。後にはかの地方いずれの国たるを問わず一般に右のごとき学問の人々を呼ぶにこの名をもってしたらしい(マイヤーによる)。

聖書にいう東とはいずこか。あるいはアラビアであるといい、あるいはペルシアであるといい、あるいはパルテヤ、あるいはバビロン、あるいはメヂヤという。しかし確かには分らない。また彼ら博士の数のごとき、あるいは十二人といい、あるいは三人といい、中には三人の名やその容貌までを説くものもあるが、もちろん臆説に過ぎない。

いずれにせよ、彼らが異邦人であった事と、しかしてその優れたる知識をもって帝王および民衆の指導の任に当った人々である事とは疑いがない。いわば彼らは異邦人の国における預言者ともいうべき人々であった。

彼らは恐らくイスラエルの歴史についても相当の知識をもっていたであろう。従って旧約にのこれる異邦人バラムの有名なる預言のごときはこれを承知していたであろう。曰く「ヤコブより一つの星いでん、イスラエルより一条ひとすじの杖おこり、モアブを此方こなたより彼方かなたに至るまで撃ち破り、また騒立さわだつ者どもをことごとく滅ぼすべし」と(民数二四の一七)。

かくのごとき知識に加うるに、当時あまねく世にみなぎりし救主出現の要求があった。しかして頻繁なる両星の交会こうかいと、輝かしき新星の出現とを彼らは見たのである。「ユダヤ人の王とて生まれたまえる者は何処にいますか。我ら東にてその星を見たれば云々」というて、彼らがエルサレムに往いた事を、必ずしも怪しむことが出来ない。

また彼らがベツレヘムに近づきし時、「先に東にて見し星さきだちゆきて、幼児おさなごのいます所の上にとどまる」というについても、合理的の解釈を施すことが困難でない。J.A.サイスの説明によれば、ある星に従いゆくとは、正夜半においてその星が頭上垂直の位置にある場所まで往くことであるという。しかしてサイスはさらに、博士らがエルサレムよりベツレヘムまで僅か六哩の途上に、一つの深き井戸の傍にたたずんだとの古き伝説を取り上げて、興味ある説明を試みている。すなわちいう、彼らは星の位置を正確に知らんため、垂直に掘りげられたる井戸の水に映ずる星かげを探りて、もって時にかなう簡易観測を行うたのであると。

かくて東方博士が星にみちびかれてのベツレヘム巡礼の美しき記憶は、これを近代科学の名において抹殺すべき理由は一つもない。

しかし我らの特に記憶したきは、彼ら博士たちの心事である。

彼らはみずから卓越したる知識に満ち足り、またその国における高き地位をたもち、帝王ならびに民衆よりの尊敬を受けて、何ら乏しきことなき人々であった。しかるにたまたま天の異象を見、ユダヤ人の王を指示する新星の出現を見たればとて、何ゆえに黄金、乳香、没薬などその地方に産する最高の宝物を携え、山河幾百里を遠しとせず、古代の旅行の危険をも顧みずして、往いてひとりの幼児おさなごを礼拝せずにはやむことが出来なかったのであるか。

他なし、彼らは心のまずしき人々であったからである。

彼らは学問にひいでてった。しかしみずから罪人であることを覚っていた。彼らの胸に罪のなげきがあった。彼らは正義と愛との神が欲しくあった。しかし異邦人特有の暗き思いが彼らを去らなかった。ことはてしなき夜の蒼穹をうかがい、または見えざる世界の秘密をさぐれば、寂しさは一しお彼らを圧するをおぼえた。

一面においてまた彼らはしばしば天然にあらわるる神の偉大なるみわざを見、その限りなき栄光をおもうた。神が驚くべき秩序をもって宇宙と人生とをみちびきつつある事を、彼らは疑うことが出来なかった。

希望なく神なき寂しき生活、しかし天然のかがやきと良心のささやきとによって神を慕うの生活、これ異邦人の生活の典型的なるものである。博士らは生粋きっすいの異邦人であった。彼らはかの「しかり主よ、小狗こいぬも主人の食卓より落つる食屑たべくずを食らうなり」といいしカナンの女の謙遜をもって、神を待ちのぞんでいたのである。

かくのごとき心のまえに、天体の珍らしき異象、ことに新星の出現は、明らかなる喜びの音信おとずれでなくてはならかった。彼らの科学は彼らに神を示したのである。しかして彼らの良心はこれにむかって声たかき唱応を与えたのである。

良き真珠を求むる商人は、遂に最も価たかき一つの真珠を見いだした。彼は往きててるものをことごとく売りてこれを買わざるを得ない。心のまずしき異邦人は遂に神を見いだした。彼らはいと貴き宝をささげものにして、往きて幼児を拝せずしてやもうか。

ベツレヘムの見すぼらしき家の中に、遥々はるばるきたりて幼児のまえに跪坐せし博士ら、彼らは我らすべてに代わりて純なる異邦人の礼拝を神の子にささげてくれたのである。彼らにおいて異邦人の良心と学問とはその最高の役目を果たした。彼らにおいて東洋の民のまずしき心は神の最大の祝福にあずかった。我ら今より彼らをおもうて、あつく神の聖名みなを讃美する。