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「イエスの生涯とその人格」
第二章 イエスの受洗
二 イエスは何故に受洗せしか
藤井武
Takeshi Fujii
ヨルダン川の河口のほとりに一人の預言者が出て、罪の悔い改めを叫び水のバプテスマを施しつつあるとの噂は、遠くガリラヤの地方にまで広がった。すでにその地方からも少なからぬ人々が往いてバプテスマを受けた。
何人にもまさる意味をもってこの噂を聴いたものはナザレのイエスであった。彼は旧約聖書において自分の使命を悟り、ひそかに時の来るを待っていた。しかるに今こそ自分のための先駆が始まったことを彼は知った。かくのごとき先駆者が必ず自分の前に出ねばならぬ事を、彼は旧約の預言にもとづき予期して居ったのである。時は遂に来た。イエスは起たねばならぬ。
三十年の生い立ちの家、親ゆずりの大工部屋を棄てて、イエスは起った。彼は先ず民衆と同じように、自分もヨハネの許にむかって往いた。
ある日ヨハネの前にひとりの青年があらわれた。その年まさに三十ばかり、心身ともに発達の絶頂にある人生の真盛りである。風態は労働者のそれであるが、しかしその面貌に漂う人格の気高さ。ヨハネは一見して尋常人ならぬを察した。自分の後に来たるべき「彼」、自分はその靴の紐を解くにも足らぬ「彼」は、あるいはこの人ではあるまいか――ヨハネには切りにそういう感じがした。
ヨハネの許に来てバプテスマを受けようとするものは、みな罪の「言い表わし」を要求せられた。これその人々の悔い改めの真実を確かめるために必要の事であった。今かれの前に立ちし疑問の一青年にむかってもまた同じ事をヨハネは要求した。
果然、驚くべきはその人の返答であった。彼は言い表すべき自己の罪をもっていなかった。自己の関するかぎり、彼には罪の意識なるものが全く無かった。しかしまた別の意味において、彼には山のごとく重き罪の意識があった。彼は罪を言い表した。それは彼自身のものではなくして、他人のもの、実に全人類のものであった。全人類の一切の罪を彼は自分の罪としてヨハネの前に告白したのである。
未だかくのごとくに告白した人をヨハネはかつて見なかった、また見るべくもなかった。今彼のまえにこの告白をなす人こそ、人類の、従ってまた彼の、救い主でなければならぬ。ヨハネの予感は適中した。彼はバプテスマを施すことを拒絶して言うた、
我はなんじにバプテスマを受くべき者なるに、かえって我に来たりたもうか。
あたかも後にペテロがイエスより足を洗われんとしてこれを遮り、「主よ、なんじわが足を洗いたもうか」と言うたと同じようなる心理である。それに対する青年イエスの答は左の通りであった。
今は許せ、我らかく義しき事をことごとく為とぐるは当然なり。
かく諭されて、ヨハネは許さざるを得なかった。遂にイエスは水に降りてバプテスマを受けた。
その公生涯の門出においてイエスの第一になした事はこれであった。従ってこの事は彼の生涯における最も意味ふかき経験の一つであったと考えねばならぬ。イエスはいかなる目的をもってヨハネよりバプテスマを受けたのであろうか。
彼みずからヨハネに答えたところによれば、この事は「義しき事」の一部であって、もしこれを欠くときには、イエスのなすべくあったある大なる事柄が完全になしとげられず、その中に一つの不足を遺すに至るのである。
しからば仮にイエスがヨハネよりバプテスマを受くる事をしなかったとしたならば、いかなる物足りなさが感ぜられるであろうか。
バプテスマを受けずとも、イエスが聖き生涯を送るにはもちろん差し支えがなかった。また神を顕わすにも別に不足はなかった。しかし人類が鋭き声により今さらのように罪を指摘せられて、珍らしくも厳粛なる心持ちをもってその罪を告白し、道徳的誠意の表現のために水のバプテスマを受けつつある時に、ひとりイエスのみ知らず顔にこれを見過したとするならば、少なくともその人類に対する連帯関係において、イエスらしくなき物足りなさが感ぜられないであろうか。罪人を救わんがために罪人の立場まで身を降した彼である。そのために自ら罪ある肉にひとしき肉となった彼、又そのために自ら誼わるるものとなって十字架に附けられようとする彼である。人類を愛するのあまりに、キリスト・イエスはこれと一つに成ってしまったのである。人類と自分との間に、ただ自ら罪を犯さないという一事のほか何らの区別をも認めがたきまでに、彼は人類と一つに成ってしまったのである。すべて人類のものを彼は自分のものと見、すべて自分のものを彼は人類のものと見た。殊に人類の罪は彼にとってはそのままに自分の罪であった。彼が肉と成って来たのも、また十字架の死を遂げようとするのも、みなこの罪を現実に自分の罪となさんがため、自ら犯したるもののごとくにその一切の結果を自ら負担せんがために他ならなかった。これすなわち神の旨にかなう「義しき事」であった。しからば同じ罪に対する誠意の表現の事においてのみイエスはいかにして自分を人類より区別し得ようか。もしこの事において彼が相関与しなかったとするならば、彼と人類との連帯関係に一つの欠乏が存るではないか。かくして義しき事の全部が遂に満たされぬではないか。
しかしイエスはなすべきをなしとげた。彼はみずから罪人の立場に立ちて、罪に対する誠実なる悲しみと、その当然の結果をことごとく引き受けんとする覚悟とを披瀝した。すなわち彼は悔い改めのバプテスマを受けた。
かくのごとくにして、イエスのバプテスマは彼の受肉および贖罪の死とともに「義しき事」の重要なる一要素であったことを知る。それは後に至りて彼の受くべき、さらに遥かに大いなるバプテスマの予表であった。「されど我には受くべきバプテスマあり」と彼の言うたとおりである(ルカ一二の五〇)。むしろ適当なる意味において、受肉その事が最大のバプテスマであったのである。神の子はヨルダンの水に沈むまえに、すでに肉の水準にまで沈んだのである。いずれも同じ愛にもとづく連帯関係の発現である。
しかしてこのキリストと人類との間の連帯関係こそは実に我らの救いの基礎である。
我らはいかにして救われるか。我ら自身にある資格を備えて、それによって救われるのであるか。否、断じてそうでない。救われんがために、我ら自身には何一つの資格も要らないのである。たとえ我らの品性がいかばかり穢れて居っても、人間としての堕落のどん底まで往って居っても、人の目からは到底望みなきものであっても、少しも差し支えがないのである。我らは少しも自分の功績によって救われるのでない。ただひとえにキリストの功績のみによるのである。キリストが義を完うしたゆえに、そのゆえにのみ我らは神に義とせられるのである。キリストが聖き生涯を実現したゆえに、その聖さがやがて我らのものとせられるのである。キリストが復活したゆえに、その復活の力に我らも与かりて、我ら自身がまた後に復活させられるのである。
汝らは神に頼りてキリスト・イエスにあり。彼は神に立てられて汝らの智慧と義と聖と救贖とになりたまえり。(前コリント一の三〇)
我ら自身に智慧も義も聖も救贖もない、又ある必要がない。キリスト・イエスがすなわち我らの智慧であり我らの義であり我らの聖と救贖とである。かくのごとくキリストとの連帯関係のゆえに、彼にあるすべての貴きものがそのままに我ら自身のものとせられる事、その事が救いである。それよりほかに救いはない。ゆえにもしキリストと我らとの連帯関係を拒絶せんか、我らは永遠に救われない。反対にもしこの関係を承認せんか、我らに何一つの善きものもなく、穢れたるこの身このままにして、確実に天国を嗣ぐことが出来る。何となればキリストのものはすなわち我らのものであるからである。
ここにおいてか信仰生活の要諦はいわゆる修養ではない事が明らかである。我らは自ら修めて徳性を養うに及ばない、又そうすべきでない。我らはただ何処までもキリストに結びつきさえすればよい。事毎に彼を見あげ、彼のふところに飛び込みさえすればよい。何ほど自分を見つめても、何ほどこれを磨きたてても、そこから美しきものは現われない。善きものはすべてキリストにある。ただ彼を受け入れよ、彼に親しめ、彼と一つになれ。しからば彼のものがみな我らのものと成るであろう。信仰生活は自己修養の生活ではなくして、キリストとの結合の生活である。近代人が口癖のように言う「自己を生かす事、自己を育てる事」その事は決して生命の途でない。それはかえって滅亡の途である。生命は自己になくしてキリストにある。ゆえに我らはただキリストを自己の中に生かし、彼を自己の中に育つべきである。彼との連帯関係の上にのみ生命の途は開く。
しかしてこの連帯の原理は必ずしもキリストに対する直接の関係にのみ限らない。たとえその関係は間接であるにもせよ、すべてキリストと結び付くものは救いから漏れないのである。キリスト自ら幾度びもその事を明言した。
汝らを受くる者は我を受くるなり。我を受くる者は我を遣わしたまいし者を受くるなり。預言者たる名のゆえに預言者を受くる者は預言者の報いをうけ、義人たる名のゆえに義人をうくる者は義人の報いを受くべし。およそわが弟子たる名のゆえにこの小さき一人に冷ややかなる水一杯にても与えるものは、誠に汝らに告ぐ、必ずその報いを失わざるべし。(マタイ一〇の四〇〜四二、その他マルコ九の三七、ヨハネ一三の二〇等参照)
あるいはキリストの使徒、あるいは預言者または義人、その他あるいは彼の弟子のいと小さき者でもよい。およそキリストに属する者を、その名のゆえに、すなわち使徒は使徒なるがゆえに、預言者は預言者、義人は義人なるがゆえにこれを受け入れるものは、自ら預言者ではなく義人でもないに拘わらず、あたかもそうであるかのように彼らと同じ報いを受けるのであると言う。言いかえれば、人はキリストと結び付ける者に結び付くことによって間接にキリストにまで結び付くのである。その仲立ちとなるものがキリスト者のいと小さき一人であってもよい。これを受け入るる方法が冷水一杯の給与に過ぎずともよい。とにかくキリストの者たるがゆえにこれをなすならば、すなわちその人はキリスト自身に対する誠意を表明したものであって、ひとしく彼に属する者としての報いを失わない。まことに驚異すべき連帯の福音ではないか。
終末の日における万国民の大審判は実にこの原理によって行われるのである。そのとき人の子、栄光をもて諸々の天使を率いて来たり、栄光の位に坐し、おのが前に諸々の国人をあつめて、あたかも牧羊者が羊と山羊とを別つごとくにこれを右左に別ち、しかしてその右にいる者どもに向かって言うであろう、「わが父に祝せられたる者よ、来たりて世の創より汝らのために備えられたる国を嗣げ。なんじら我が飢えしときに食わせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に宿らせ、裸なりし時に着せ、病みし時に訪い、獄にありし時に来たりたればなり」と。しかるにその人々怪しみて、「主よ、我ら何時なんじにかかる事をなしし」と尋ねるならば、審判者は答えて言うであろう。
まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なるこれらのいと小さき者の一人になしたるは、すなわち我になしたるなり。(マタイ二五の四〇)
彼らはキリストに属する者のいと小さき者の一人を受け入れた事によって、キリストと断ちきりがたき関係に入ったのである。しかしてそのゆえに世の創より備えられたる国を嗣ぐことを許されたのである。彼ら自身に何の善きものがなくとも関わない。いかなる善もキリストに結び付く事の善には及ばない。キリストはすべての善の源であるからである。キリストと一つになった者には、やがてすべての善が自分のものとして実現すべきはずであるからである。