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「イエスの生涯とその人格」

第三章 イエスの誘惑

一 誘われたるイエス

藤井武
Takeshi Fujii



イエスの人格こそは世にたぐいなきものである。我らは歴史上に多くの偉人を知るが、いずれの一人にも理想の人格を見いだすことは出来ない。偉人であればあるほどその半面に大いなる欠点がある。もし又これぞというほどの欠点の見えざるいわゆる円満なる人格者に至っては、その円満性そのものがかえって物足りなさを感ぜしめざるを得ない(まことに物足らぬものにして円満なる人格のごときはない)。人間としての熱血に富みながらなお神のごとき聖き歩みをなした人を、我らは他に一人だに知らないのである。ただイエスのみはその人であった。彼は最も強烈なる個性をもっていた。彼の言葉や態度になまぬるきふしは一つもなかった。彼の印象は常に何人よりも鮮明であった。彼の行動にはそのたましいが注ぎ出された。さほどに強烈なる個人的性格をそなえながら、彼の足はただ一度ひとたびも躓いたことがなかった。彼はいつもいと高きところを自由に歩んだ。彼のごとくに自らふるまい、また彼のごとくに人をあしろうた人はひとりもない。いかなる偉人の偉大なるよりもイエスはさらに偉大である。ほかの偉人はやかましく偉大であるが、イエスは静かに偉大である。彼らは人を支配して偉大であるがイエスは人に仕えて偉大である。彼らは成り上りし者のごとく偉大であるが、イエスは生まれつきのごとく偉大である。使徒ヨハネの言うたとおり、彼の栄光は実に父の独子ひとりごの栄光である。

イエスの人格のこの聖き偉大さは、しからば彼に独一なる天稟てんびんであって、我らの全くあずかり得ないものであるか。彼の人格全体に何ら彫琢ちょうたくの跡がなく、星のみずから輝くように、泉のみずから湧くように自然のおもむきあるを見ては、そういう風に想像せざるを得ない。しかしながら事実はそうではなかった。外より見て生まれながらのごとき美しさも、実ははげしき苦闘の産物に他ならなかった。イエスの静かなる人格の背後に、涙と血との生々しき記録があった。

彼は世にあるかぎり、己を誘うサタンと闘いつづけた。何となれば彼もまたひとりの人として、えず誘われたからである。イエスは我らと同じように、すべての事において現実に試みられた(ヘブル二の一七、四の一五)。彼には人としてのすべての感受性が備わっていた、しかり、何人よりも豊かに備わっていた。従って闘いは彼にありて最も激烈であった。彼がサタンに打ち勝つことは決して容易の業ではなかった。「キリストは肉体にいましし時、大いなる叫びと涙とをもて己を死より救い得る者に祈りと願いとをささげ、その恭敬うやうやしきによりて聴かれたまえり」(へブル五の七)。かの深山の湖水のごとく静かなる人格の底に、いかばかりの闘いが秘められたかを、何人も十分に窺い知ることが出来ない。それは誠に人の心のかつて経験したる最も深刻なる事実であった。

しかしながらこの秘められたる経験の一端を、我らは彼の生涯に関する二三の記事によって垣間かいま見ることが出来る。荒野の試みはすなわちその一つである。

ヨルダン川においてイエスは最も光輝ある経験をもった。聖霊は完全に彼に宿った。天よりの声きこえて、神の子の自覚は確実に彼の中に起こった。イエスは今や自己の身分とその使命とを明白に知った。それは旧約聖書を通してねて暗示を与えられておった事ではあるが、しかし今かように現実の啓示に解き明かされて見れば、さすがに言いがたき思いが彼の胸を満たさざるを得なかった。何となれば問題は人の子にとって余りに大きくあったからである。マリヤの胎から生まれた自分が永遠より神と共に存在したるその独子ひとりごであるとは!自分の生涯の如何によって全人類全宇宙の運命が定まるのであるとは!未だかつてかくのごとき問題を自分のものとした人はなかった。イエスは限りなく重き荷が自分の肩に負わせられたことを感じた。彼は考えねばならぬ。しばらく全く世より離れて、絶対の孤独のなかにただ神とともにありて考えねばならぬ。

「聖霊ただちにイエスを荒野にいやる」(マルコ一の一二)。彼はみずから目指すともなしに、うちなる力にいやられて、いつしかその足を荒野に踏み込んでいたのであろう。もしパウロすらおのが使命――イエスのそれとは比ぶべくもあらぬ――を授けられたときに「直ちに血肉と謀らず、先に使徒となりし人々にわんとてエルサレムにも上らず、アラビアの砂漠にで」ゆいたとするならば、ましてこの時のイエスがエルサレムにも上らず又ガリラヤにも帰らずして、ヨルダンの岸辺より一路さびしき荒野に立ち向うた事ほど当然なるはない。後の日にも彼はしばしばあるいは山上あるいは湖畔にさびしき処を求めて退いた。選ばれたる者の家は人なき荒野にある。寂寥を慕わざる霊魂は、未だ聖霊の接触を経験せざる、人くさき霊魂である。

いわゆる荒野とは何処か。伝説によれば、エリコの西南、エルサレムヘの上り路の右側に、焦げつくばかりの原よりあわただしくもそびゆる石灰石の磽埆こうかくの一峯、脚下には死の海のどろりとしたる瀝青れきせい的塩水をのぞむところ、まわりの岩には数多あまたの洞穴うがたれ、駱駝すみ牡山羊おどるあたり、カランタニア(Quarantania)と呼ばるる地がそれであるという。そこに彼は深き思いに耽りながら来た。ただ一つの問題に彼の全精神は集中せられていた。すべて外側の事から彼の注意はかれてしまっていた。「ときは夜長く、野獣飢え、天候きびしくして、木草の実りなき」頃であった(ベンゲル)。長き夜は今日も明けてまた暮れゆく。しかしイエスは失神したる人のように茫然と思いふけりつつある。野獣はさまよう。しかし不思議にも彼をそこなおうとしない。旬日また旬日、彼は食わず、また食おうともおもわず、かくて早くも四十日四十夜を経過した。

それは異常なる精神的緊張の期間であった。普通の場合には見がたき力が彼の肉体をも支えていた。しかしイエスとても人間である以上、際限なき緊張はゆるされない。六週日足らずを過ぎたころ、遂にその反動がやって来た。怖ろしき反動であった。精神ようやく疲労を覚え始めると共に、今までその圧迫の下に辛うじて耐え忍びたる肉体は、たちまち猛然として自己本来の要求を提出しだした。心霊の専制に対する天然の叛逆である、人の生命の中における革命戦争の勃発である。「日数満ちてのち、餓えたもう」(ルカ四の二)。人の子イエスは餓えた、狂気せんばかりに烈しく餓えた(誰か肉の要求を侮るものぞ)。彼は飢餓が己の身を食いつつあるを感じた。彼は実際そのために死に瀕したのである。

かかる所に何者の声か、一つの囁きが彼に聞こえた。曰く「なんじもし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」と。「もし」というは疑いではない、後の命題を生かすための条件である。「なんじは実に神の子にあらずや。果たしてしからば云々」の意味である。

餓えたるイエスの周囲に累々るいるいたる石ころがあった。その硅質の団塊は見るからにパンに髣髴ほうふつたるものであった。食物の想像は幾倍か飢餓を煽る。イエスの心パンをおもうこと切である。ここに聞こゆるこの囁き、彼に訴えない道理があろうか。まことに自分は神の子である。すでに完き聖霊を受けて、超自然の能力が自分に賦与せられたのである。自分がもし一度ひとたび命ずるならば、これらの石も直ちにパンと化するであろう。かくしてまず飢餓を癒すは、絶大なるわが使命の成就のために最も望ましき事ではないか。神みずからこれを欲してここにその使者を遣りたもうたのではないか。

誘惑の力はその甘さにある。サタンは光明の天使を装うて来る(後コリント一一の一四)。彼は有毒なる自分の言葉を美しき花環に飾りてすすめる。我らの心ひかれる所以ゆえんである。

しかしながら同時に人にはまたある奇しき霊能がそなえられている。彼はサタンをそれとなく嗅ぎわけることが出来る。少なくともこれを怪しとにらむことが出来る。サタンの囁きに対して、「心せよ」との別の囁きが必ずまた何処からか聞こえる。

このゆえに我らに苦しき闘いが始まるのである。敵は撃退せねばならぬ。しかし自己のうちにこれに内応せんとするものがある。敵を前にして自己そのものが二派に分裂するのである。しかして通常その内応派なる本能の声は撃退派なる霊能の声よりも一層高い。何となれば人は肉にありてさほどに強き本能の勢力の下に置かれるからである。

イエスもまた人としてこの悩みを十分に感じた。彼は誘惑の強さと肉の弱さとを遺憾なきまでに自ら実験した。

いかにして誘惑者サタンを撃退すべきか。曰く精鋭なる武器をもって彼の仮面を剥奪しその醜悪なる正体を曝露せしむるにある。彼の成功は詐欺にある。見破られて力は彼に失せる。その甘き囁きが実は神の赦したまわざる罪であることを、彼の前に権威をもって証明し得る時、我らは決して敗れない。誘惑との闘いにおいて武装はすべてである。我らがサタンに降服するは必ず武装を解除した時である。

イエスは直ちに剣を執り上げた。彼の剣は何か。神のことばである。すなわち旧約聖書中のことばである。それはただしるされたることばに過ぎない。しかし「神のことば生命いのちあり能力ちからあり、両刃もろはの剣よりもくして、精神と霊魂たましい関節ふしぶしと骨髄とをとおしてこれを分かち、心のおもいとこころざしとをためすなり」。サタンの詭計きけいを摘抉し粉砕するに足るところの武器はこれよりほか何処にもない。

餓えたる我にパンを勧むるはサタンのことばである。これを一蹴すべき神のことばは如何。たちまち一つの聖句が電光のようにイエスの心中に閃いた。曰く「人の生くるはパンのみによるにあらず、神の口より出づるすべてのことばによる」と。申命記八章の三節である。モーセがかく言うたのは、荒野に餓えんとしたるイスラエルが通常のパンによらず神のことばにもとづくところの特別の糧(マナ)によって生きた事を意味したのであるが、しかしすべて他の聖句と同じように、この言葉もまたこれを一層高く深き意味に解することが出来る。パンは肉の糧である。しかし人の生命は肉のみではない、さらに貴き霊がある。ゆえに人の生くるはパンのみによらない、さらに貴き糧による。イエスみずから後にこれを生命のパンととなえた。すなわち神の口より出づるすべてのことばである。霊は肉にまさる。後者は前者の機関に過ぎない。我らはいかなる場合にも霊の事をいて肉の事をおもんばかるべきでない。我らをしてまず神のことばを求めしめよ、ことに彼の国と彼の義とを求めしめよ。しからばすべて肉の要求は適当に我らに満たされるであろう。これに反して、ひくき原理をして高き原理を支配せしむるは、これ神の定めたまいし秩序への叛逆である、すなわち罪である。

この鋭き剣を執って身をまもった時に、イエスは新しき力の己に加わるを覚えた。飢餓は依然としてはなはだしとはいえ、彼の心はもはやパンを思わず、ただ神の事を思いつづけた。肉の問題をもってするサタンの試みは全く失敗に終った。

しかしながら誘惑はなおやまなかった。パンを思わずして神をおもう彼の心は、いつしか荒野を去って聖なる都エルサレムの神の宮にあった。その宮の頂上に立つと彼は覚えた。それは恐らく宮の南面ケデロンの谷にのぞみてそびゆる Stoa Basilike すなわち「王の歩廊」ととなえらるる部分の屋根でもあったであろう。人もしそこより見下せば、測り知られぬ深さのために眼もくるめくとジョセファスは言うている。あるいは東側より同じ谷のかいやくする「ソロモンの歩廊」 Stoa Anatolike でもあったであろう。そこより彼の兄弟ヤコブが後に突き落されたと伝説はいう。いずれにせよ、イエスは神の宮の頂に立って、おのずから自分の地位の暗示せらるるを感じた。聖くして高き場所である、あたかも天ひらけて聖霊鳩のごとくに降り、しかして「汝はわが愛子」との声を聴きたる彼の霊的地位を象徴するがごとくに。

その時ふたたび彼は囁きを聞いた、曰く「なんじもし神の子ならば、ここより己が身を下に投げよ。それは『なんじのために天使みつかいたちに命じて守らしめたまわん。彼ら手にて汝を支え、その足を石にうち当つることなからしめん』としるされたるなり」と。高ぶりの誘惑である。いわゆる百尺竿頭ひゃくしゃくかんとう一歩を進めて、神の子たるの証拠を奇跡において示せという。しかもこのびは彼の慕う神のことばまでが彼を誘うものの加勢をなすかと見える。それは詩篇九十一篇の十一、十二節であって、もとより彼が愛誦の句である。イエスの心躍らざるを得ようか。

しかしながら前のようにこのたびもまた彼は神のことばのなかに飛び込んだ。神のことばはある時サタンにも利用せられるであろう。しかし構わない。聖書はそれ自身の中に偉大なる調和をもっている。足らざることばに対しては補うことばがある、枝葉の真理に対しては根幹の真理がある。げられたる章句に対しては打ちかえす章句がある。サタンの引きしことばのように神は彼に依り頼むもののために天使みつかいたちに命じてこれを守らしめたもうであろう。しかし神の聖意みこころによらずしてほしいままに宮の頂より身を投ぐるは果たして善き事か。かくて己に問いかえした時、一つの聖言みことばが彼に与えられた、曰く「主なる汝の神を試むべからず」と。申命記六章の十六節である。神に対する信頼は絶対服従のかたちに現われる。ただ彼の聖旨みむねに従うてこれを行うこそ人の分である。かりそめにも神を試験の対象とするに至っては赦さるべからざる高ぶりの罪でなければならぬ。かくのごとくサタンがさかしくも引きし神のことばに対し、イエスは「またしるされたり」と言うて、何処までも静かにただ神のことばをもって応戦した。しかしてその力により誘惑者の詭計きけいみにじると共に、不思議にも高ぶりの興味は彼に失われた。

しかしかくてもなお誘惑はやまなかった。彼の心は高ぶりの危機を脱したのち、また他の危機にのぞんだ。あたかもたぐいなき高山の上より望み見るがごとくに、またたくまに世のもろもろの国とその栄華とが彼に示された。偉大なるパノラマである。現に時めくローマ大帝国を始めとして、しぼみたりとも昔の名残なごりをとどむる美しきギリシャ、また東は安息国(パルテヤ)、大夏国(バクトリヤ)より印度を経て遠く漢国まで、あるいは政治に優れあるいは芸術に栄ゆるもの、あるいは軍事、あるいは産業を誇りとするもの、様々の栄華における世界万国を一眸いちぼうの下にイエスは見た。

そのとき三たび彼はサタンの声を聴いた、曰く「このすべての権威と国々の栄華とを汝に与えん。我れこれを委ねられたれば、我が欲する者に与うるなり。このゆえに、もし我が前に拝せば、ことごとく汝のものとなるべし」と。神の国を全地にうち建つべき彼にとって、このすべての権威と万国の栄華とは望ましきものでなかろうか。しかして人の堕落以来この世は実際にサタンの勢力の下にある。彼はこの世の君である(ヨハネ一二の三一)。この世を彼の手より救わんがために一たび彼に膝を屈するはなすべからざる事であるか。

しかしイエスはまたしても神のことばに援助を求めた。卒然そつぜん、力づよき一句が彼に示された、曰く「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕えまつるべし」と。今度もまた申命記(六の一三)である。主なるわが神にのみささぐべき服従!しかり、万国の栄光いかに望ましくとも、神に対する絶対服従を売りてこれを購うべきであろうか。私の国はこの世のものではない。キリスト私は必ずこの世の苦難を受けてのちに天の栄光に入るべきである。人の子はまず苦しめられかつ殺されんがために来たのである。私はサタンの詭計きけいに欺かれてはならない。「サタンよ、退け、『云々』としるされたるなり」。最後にかくイエスは大喝したのであろう。

ここに至ってサタンは一先ず離れ去った。イエスは見事に勝ったのである。しかして今まで勝敗いかにとうれいながら見守りつつありし天使らは彼に仕えた。

三つの誘惑はもちろんいずれも神の子たる彼に独特のものであった。実にサタンはすべての人にそれぞれ独特の誘惑を試みる。若き者には若き者に、婦人には婦人に、学者には学者に、宗教家には宗教家に。しかしまたすべての人の受くる誘惑はその種類において共通である。イエスが受けたる三つの誘惑は畢竟ひっきょう万人の受くべきあらゆる種類の誘惑の代表的なるものに他ならなかった。「悪魔あらゆる試みを尽くして云々」とあ る(ルカ四の一三)。その第一は肉の慾であった。第二は誇りであった。第三はいわゆる眼の慾であった。この三つは使徒ヨハネが、「おおよそ世にあるもの」として挙げたところの全部である(ヨハネ一書二の一六)。我らが世にありて経験するすべての誘惑は必ずそのいずれかに属する。

イエスの誘惑の経験が荒野の場合に限らなかった事は言うまでもない。「悪魔……しばらくイエスを離れたり」とある(ルカ四の一三)。その後彼が幾たびか新しき誘惑に遭遇した事実を福音書は載せている。

誘惑は強かった。イエスはなやんだ。何人よりも強き誘惑に彼は悩まされたのである。人として受け得るかぎりの試煉を彼は受けたのである。しかしながら彼は敗れなかった。ただ神のことばに頼って敵を撃退した。それはいつも苦戦であった。しかし勝利は必ず彼に帰した。