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「イエスの生涯とその人格」
第四章 イエスの人格
二 地に物書くイエス
藤井武
Takeshi Fujii
ある朝はやく、イエスはオリブ山を降ってエルサレムに入りその宮に足をはこんだ。それは仮庵の祭の果てし後の日であった。先日来かれの言動に心そそられし群衆は、この日もたちまち彼の許につどうた。イエスはこれを見て、坐してまた教え始めた。
暫くするうちに、ひとりの婦人をめぐる一団の人々が現われた。彼らは学者やパリサイの人たちであった。またその婦人というは、今しも姦淫の現場にて取り押さえられたる女であった。彼女は議会に訴えられんがために先ず彼ら学者パリサイ人に引き渡されたのであるかどうか、その辺は明らかでない。とにかくイエスを憎み如何にもしてこれを罪に陥れようと思いめぐらしていた彼らに取っては、それはあたかも好き材料の発見であった。彼らは直ちにこの女を利用した。すなわちとりあえず彼女を引き立ててイエスの語りおる処にやって来たのである。
彼らは群集の真中にその女を立たせた。しかしてイエスに向かって質問を発して曰うた、「師よ、この女は姦淫のおり、そのまま捕らえられたるなり。モーセは律法にかかる者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言うか。」
これは確かにイエスに取って切り抜けがたき難局であると見えた。レビ記二十章十節、及び申命記二十二章二十二節には、姦淫の男女は共に殺さるべしとあり、また申命記二十二章二十四節には、許嫁の処女が他の男子の誘惑に応じた時には二人を石にて撃ち殺すべしとあった。事は律法の明文にかかる。イエスもしかかる婦人をなおも生かし置こうと欲するならば、彼は明らかに律法への叛逆者として訴えらるべきであった。しかして彼らはよく知っていた、とにかくイエスは罪の婦人を直ちに撃ち殺すような人ではない事を。このゆえに彼らは今日こそ目ざましき勝利を期待して彼に迫ったのであった。
イエスは彼らに鋭き一瞥を与えると共に、無言のまま静かに身を屈めた。しかして指にて地の上に何か物を書き出した。
それは何の意味か。西洋の学者らは例によって様々の巧みなる臆説を提出する。あるいはいう、それは「録して……とあるがごとし」というの象徴であったと。あるいはいう、裁判の判決はただに宣告せらるるのみならずまた文書に記録せらるるものであるがゆえに、イエスは今より発言せんとする答(ヨハネ八の七)をまず地に書きしるしたのであると(ゴーデー)。あるいはいう、「律法は神の指にて書かれたが、心頑ななる民のゆえに石の上に書かれた。しかしイエスは実を求めたがゆえに地に書いたのである」と(アウガスチン)。しかし我らは静かに当時の光景を想い見て、イエスの行動にかくのごとき熟慮的意味を認める事の妥当ならぬを思う。この場合にイエスみずからその事の意味をまず意識して、しかして後に身を屈め指を下したとは考えられない。彼の行動は極めて自然的である。恐らく彼は特別の意識なしに、ほとんど本能的にかかる態度に出でたのであろう。学者らの想像は巧みではあるが、穿ち過ぎてあまりに学者くさい。
少なくとも一つ明白なる事は、この態度は沈黙の答弁である事である。しかして沈黙の答弁はやがて答弁の拒絶に他ならない。
イエスは彼らの一団を見て、多くの事を感じたもうたであろう。自分を陥れようと欲して罠を隠しもてる彼らの陋劣さを悪みたもうたであろう。罪の大なるものたる姦淫によってまたしても神の聖き律法が犯された事を悲しみたもうたであろう。しかし誘惑に敗れてこの罪に落ちし婦人の心に同情したもうたであろう。如何にかして彼女を新しきいのちに導くべく願いたもうたであろう。しかして恐らくは、たとえ罪人であろうとも憐むべきひとりの霊魂を利用しておのが奸計を果たそうとする彼ら学者パリサイ人の邪曲を、心から憤りたもうたであろう。いやしくも人のたましいをかくのごとくに取り扱う事は、イエスにとりては実に堪えがたき邪曲であった。
かかる好悪の群れに対しては、答弁の拒絶こそふさわしき答弁であった。このゆえにイエスは先ず彼らに背を向けて口を閉じたもうたのである。
しかし単に拒絶のみならばこれだけの態度にて足りるはずである。何故に彼はさらに身をかがめて地に物を書いたのであろうか。
学者らは地や石を書きものの材料とのみ見る。しかしイエスの自然観は少しくちがっていた。彼の眼には自然もまた生けるものであった。彼が都入りの節に、喜びのあまり声たかく讃美したる弟子らをパリサイ人が制止しようとした時に、彼は答えて曰うた、「われ汝らに告ぐ、このともがら黙さば、石叫ぶべし」と。それは単に譬喩とのみ見ることが出来ない。実際ある場合には石も叫び、土も語るのである。天地は決して無心ではない。「神はその民をさばかんとて、上なる天および地を呼びたまえり」(詩五〇の四)。「天よ、この事を驚け、おののけ、いたく怖れよ、とエホバ言いたもう」(エレミヤ二の一二)。「天よ、耳を傾けよ、我れ語らん。地よ、わが口の言を聴け」とモーセまたはイザヤは叫び(申命三二の一、イザヤ一の二)、「なんじ起ちあがりて山の前に争え、岡に汝の声を聴かしめよ。山々よ、地の変わることなき基よ、汝らエホバの弁争を聴け」とミカは呼ぶ(ミカ六の一、二)。
邪曲なる学者パリサイの徒には背をむけ口をとじて、イエスはその顔を地に向け、しかして指にて物書きたもうた。これ彼が前者に対しては答弁を拒絶すると共に、後者に対しておのが心をささやきたもうたのではあるまいか。そのとき何を書きたもうたかは、何人も知らず、またこれを知るよしもない。しかし何であったにもせよ、人には拒みし心を地にむかってイエスは披瀝したもうたと私は考える。
固き地をさえかように待いたもうイエスである。しからばたとえ罪に落ちたとはいえ、一人のやわらかき婦人の心を、いかばかり彼は重んじたもう事であろう。
しかし偽善者らは何時までも恥づる事を知らず、その奸策を遂げようとして切りに問うて止まなかった。ここにおいてイエスは一たび身を起こし、いとおごそかに口を開いて言うた、「なんじらの中、罪なき者まず石を擲て」。
一言かくいい放って、しかしてまた彼は身をかがめて地に物を書きつづけた。
何という徹底したる答弁であろう。それはただに律法に背かないばかりでない、かえって律法の真精神をつかみ、その一点一画までをも完うしようとするの態度である。まことに姦淫の女は石にて撃ち殺すがよい、ただしみずから罪ある者が人をさばき得ようか。律法は充たされねばならぬ、しかし自ら律法にそむける者が如何にしてこれを充たし得ようか。「なんじらのうち罪なき者まず石を擲て!」あたかも敵の刃をもぎ取りて逆に直ちにその咽喉に向かって擬するの趣き。
さすがの偽善者らも、飽くまで権威あるイエスの応酬に参ってしまった。彼らはイエスの行動と言語とが自分たちの胸中に不思議なる反応を喚び起こすことを感じた。彼らはすでに心の内側に痛みを覚えた。彼らはすべての意味において自分たちのみじめなる敗北をみとめざるを得なかった。かくて分別多き老人をはじめ、若き者に至るまで、一人一人にみな去ってしまった。
跡には群集のなかにただイエスと女とのみが残った。女はおのが思いに過ぐる事件の成り行きにただ驚き惑うたであろう。しかしてまた思うたであろう、このひとりの人こそは何という人なのであろうかと。かくて彼女はたましい抜けし者のように茫然とイエスの前に立っていたであろう。イエスとしては、偽善者らは去ったのである、今はこの憐むべきひとりの霊魂を待うべき時であった。すなわち彼は身を起こし、彼女に眼を注いで言うた、「おんなよ、汝を訴えたる者どもは何処におるぞ。汝を罪する者なきか」。
訴えたる者どもは何処におるぞ。彼らはみな去って、いま彼女の前におるはただイエスのみである。何故に彼らは彼女を罪せずして去ったか。彼らはみな自ら罪人であったからである。彼女を罪し得る者はただ一人のみである。女は明らかにその事をさとった。ゆえに答えていうた、「主よ、誰もなし」。
「主よ」との呼びかけは自然に彼女の口に上った。「主よ、誰もなし」である。主と彼らとの対照を無意識の間に告白している。彼女の心にいまその事が最も強く感ぜられるのである。罪する者は誰もない、ただこの主こそは真実に自分を罪し得る唯一の人である。かく思うてイエスのまえに彼女の良心は言いがたき畏怖をおぼえる。
「我もなんじを罪せじ。往け、この後ふたたび罪を犯すな」。
天の地よりも高きがごとくに彼らより高きイエスは、「我も」というて彼らと同じ立場まで身を降した。罪なき者が罪人と同じように、「我も汝を罪せじ」という。しかして「往け、ふたたび罪を犯すな」という。罪人の良心の髄にまで徹する声である。恐らくこの言葉を聴いて彼女は泣き伏したであろう。しかし彼女にもまさりて、この言葉を出せしイエスの心には無量の涙があったであろう。罪人の罪を己に引き受けるだけの同情なしにこの言葉は出ないのである。あがないというはすなわちこの心である。これあるによってのみ罪人に悔い改めはおこる。これあるによってのみ滅亡の霊魂が生きかえり得るのである。
この一段の記事(七の五三〜八の一一)はある無名の記者の筆に成るものであって、二世紀又は三世紀の頃ヨハネ伝中に挿入せられたものらしい。従ってその価値について様々の議論がある。しかしながらここに描かるるイエスの姿を見よ。その神らしさを想い見よ。誰が彼の態度を模作し得ようか。誰がそれを発明し得ようか。何人が書いたにせよ、この記事には真実性が満ちている。我らはここに歴然と神なるイエスを見る。たしかに霊感せられたる福いなる記録である。