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「イエスの生涯とその人格」
第四章 イエスの人格
三 真理そのものなるキリスト・イエス
藤井武
Takeshi Fujii
イエスの愛せし弟子、彼の三年の公的生涯のあいだ常に彼に従い、入りては彼の胸によりそい、出でては他の弟子たちの許されぬ所にさえ伴われ、最後に十字架のもとに彼の母を託せられたところの使徒ヨハネ、その人がイエスについて証していうた、
我らその栄光を見たり。実に父の独子の栄光にして、恩恵と真理とにて満てり。(ヨハネ一の一四)
これはヨハネの実験の声である。彼はそのイエスとの親しき人格的交通の実験をもってこの事を確かめたのである。彼自身のいわゆる「耳にて聞き、目にて見、つらつら見て手触りし」結果の証明である。
エホバの神がそうであるように、キリスト・イエスもまた恩恵と真理(真実)とにて満つる者であった。彼の栄光は実に神の独子の栄光であった。
エホバの真実性は主としてその約束の忠実なる成就において現われた。イエスの場合にありては如何。イエスの場合にありては、神を顕わすこと、従って神の真実を顕わすことは彼の生涯の使命の一つであった。神の約束の成就という事さえイエスにおいてのみ完全に実現すべくあった。「キリストは神の真理(真実)のために……役者となりたまえり。これ先祖たちの蒙りし約束を堅うしたまわんため」(ロマ一五の八)。「神の約束は多くありとも、然りということは彼によりて成りたれば、彼によりてアーメンあり」(後コリント一の二〇)。かくのごとき生涯が、その全幅において真実性に充ち満ちているは当然である。真理はイエスの生涯の特にある方面に顕現することなく、その日々の言動のすべてに流露し横溢した。実にイエスのごときは「真実なるもの」と言わんよりは、むしろ真理そのものであった。すなわち彼は自ら言うた、「我は真理なり」と(ヨハネ一四の六)。
イエスは真理(真実)である。しからば「真理とは何か」。イエスを審判けるピラトが不用意に発したるこの疑問は、実に人類共有のものである(ヨハネ一八の三八)。人は真理または真実(原語は同一)の何たるかを知らない。またこれを知ることが出来ない。ただ真理そのものなるイエスを知ることによってのみ我らは少しくその面影を望み得る。
パウロはコリントの信者に書を送りて自己の真実につき証しようと欲うたとき、神とキリストを連想していうた、「神は真実にていませば、我らが汝らに対する言も、然りまた否と言うがごとき者にあらず。我らが汝らの中に伝えたる神の子キリスト・イエスは、然りまた否と言うがごとき者にあらず、然りということは彼によりて成りたるなり」と(後コリント一の一八、一九)。ここに立派なる真理の定義がある。真理とは何か。「然りということ」これである。キリストは然りまた否と言うことをなさなかった。彼にはただ純にして雑なき「然り」があるのみであった。キリストは「永遠の肯定」である。いやしくもこれを打ち消し、これを稀薄にし、またはこれを濁すところの一切の原因は彼の中に宿ることを許されないのである。純一無雑、絶対無条件、永遠不変、およそこれらの形容辞をもってのみ辛うじてその面影を伝え得るところの一つの「然り」、それがイエスの性格である。しかしてそれが我らの慕うところの真理または真実である。
真理の何たるかをこれ以上に積極的に説明することは難かしい。次に取り得る最も良き方法は、これを真実ならざるものと対比して見るにある。
真実ならざるものの第一は偽善である。真実が純粋なる「然り」であるに対し、偽善は然らざるものを然るがごとくなす事である。虚偽と虚栄との織り合える二重の不真実である。イエスの憎みたるものにして偽善のごときはなかった。かの酒杯と皿との外を潔くして内は貪欲と放縦とに満つるパリサイの徒、もしくは白く塗りたる墓のごとき学者たちに対して、恐るべき雷電に似たる「禍害なるかな」の誼いはイエスの口から爆発した(マタイ二三の一三)。
イエスに取っては貪欲は貪欲であり放縦は放縦であった。内なる穢れを外なる白色にて蔽うがごときは空の空でなくして何か。イエス自身はたとえば自分の弱さを人の前に包み匿そうと思わなかった。弱さは弱さである。すべては神の前に顕われているのである。しかして神の前における万象の姿こそ真理である。彼はその最期にのぞみ、十字架の上より憚らず苦悶の絶叫を挙げた。そのとき彼は神に棄てられていたのであった。ゆえに如実に叫んだ。誤解する者は誤解するがよい。嘲る者は嘲るがよい。躓くものは躓くがよい。人の目に映るべき自分の姿が何であるか。イエスはただその在るがままに在った。彼はおのが存在以上の表現を要求せざるはもちろん、かえってこれを峻拒した。彼は施しをなすとき、右の手のなすことを左の手にも知らせなかった。
真実ならざるものの領袖に二心がある。然りと言いまた否と言う。何らの背信ぞ。何故にむしろことごとく否と言わないのか。絶対の肯定に非ずんば絶対の否定に如かない。一切か然らずんば皆無である。人格の取り引きは不可分にきまっている。ハートの一部を他に委ねて残りをイエスに献げようとするとも何ぞ彼に受けられようか。彼はいうた、「人は二人の主に兼ね仕えることあたわず」と。また言うた、「我よりも父また母を愛する者は我に相応しからず、我よりも息子または娘を愛する者は我に相応しからず」と。また「手を鋤につけてのち後を顧みる者は神の国に適うものにあらず」と。また「我はむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温きがゆえに、我なんじを我口より吐き出さ
ん」と。
イエス自身はいかに己を神に献げたか。神よりほかに彼の幾部をだに要求し得べき人は一人もなかった。「おんなよ、我と汝と何の関係あらんや」。その母に対してさえかく言わざるを得なかった彼の心事をおもうて私は泣かされる。サタンの誘惑も彼の心をひくには足りなかった。神よりの甚だしき試みもついに彼を躓かすには及ばなかった。ゲッセマネの園に血の雫のごとく汗しながらなお彼は祈った、「されど我が意のままにとにはあらず、聖意のままになしたまえ」と。十字架の上に「わが神わが神なんぞ我を見棄てたまいし」と叫びながらなお彼は縋りついていうた、「父よ、わが霊を聖手にゆだぬ」と。しかして息絶えた。
二心の時間的に現われたものは変心である。然りと否とを同時に言わずして前後にいう。一旦然りといいながら後これを否に変えるのである。その信頼を裏切るの罪は異ならない。「背く」とは実にこの事である。背を向けるのである。後にいたりて取り消すくらいならば、何ゆえ最初から否定しないのか。イエスに従いし弟子たちのうち多くのもの彼に躓いて帰り去るを見て、彼は十二弟子に言うた、「なんじらも去らんとするか」と。実に悲壮の問いである。変心者に対する真実者の憤怒の声である。エホバもまたかつて呼ばわって言うたことがある、「エフライムよ、我なんじに何をなさんや。ユダよ、我なんじに何をなさんや。汝の愛情はあしたの雲のごとく、また直ちに消ゆる露のごとし」と(ホセア六の四)。
人は変わる。友は変わり、兄弟は変わり、弟子は変わる。何ゆえにかくも人の心は変わりやすいのか。恐らく我らはみなアダムの子であるからであろう。変心の元祖は彼であった。「人の最初の不従順」は神に対するアダムの変心に他ならなかった。ゆえにエホバは言うた、「アダムは誓いをやぶりぬ」と(ホセア六の七)。
人はみな変わる。変わらないものは一人もない。人はみな草である。草は枯れ花はしぼむ。しかしながらただイエスのみは変わらない。彼こそは「昨日も今日も永遠までも変わりたもうことなき」もの。「天地は過ぎゆかん。されど我が言は過ぎゆくことなし」である。実にありがたい事である。私にとってはこの一つの理由のみをもってしても、すべてのものに代えて彼を選び彼を懐くに十分である。
次に形式を重んずる精神もまた真実でない。「然り」は「然り」である。実体そのままである。形式は実体におのずから附き添うべきである。内より発する生命によって自然に形づくらるべきである。しかして是のごとき形式はその自然性のゆえに特に意識には上らないはずである。然らずして、形式を形式として慕うとき、見よそこには必ず生命の衰退がある。内なる空虚を外なる装飾にて補おうと欲するのである。神を拝するに会堂と音楽と儀式との必要はない。父よと呼びて心の底を水のごとくに注ぎいだせばよい。溌剌たる生命を伝統の形式に盛ろうとする者は誰か。新しき酒さえ古き革袋には盛り得ないではないか。もし然せば袋は張りさけ、酒は迸り出て袋もまた廃るであろう。定まれる形式は死物である、墓である。愚かなる者よ、「なんぞ死にし者どもの中に生ける者を尋ぬるか」(ルカ二四の五)。
イエスは十誠所定の厳かなる安息日をさえ慣例のようには守らなかった。彼は言うた、「安息日は人のために設けられて、人は安息日のために設けられず。されば人の子は安息日にも主たるなり」と(マルコ二の二七、二八)。しかしてそのように彼は行動した。一語移してもってすべての形式に適用することが出来る。曰く、形式は生命のために作られて、生命は形式のために作られない。ゆえに生くるものは形式に主たるのである。
結果あるいは効用に重きを置くこころもまた不真実である。ものの価値はその存在自体にある。本質が貴ければすなわちそのものは貴いのである。何ぞ他を顧みるの必要があろうか。しかるに価値を存在または本質において認めずして、その産出したる結果や、それが適用せらるべき効用などにおいて認めようとするは、畢竟「然り」をある条件に懸けることに他ならない。然りは条件に懸かるとき、もはや然りでなくなる。すでに本質にして善くある以上、たとえ果を結ぶこと絶無であろうとも何であるか。結果は神の聖手にある。よろしく彼に一任すべきのみ。効用などは環境によってさえ異なる。是のごときものを苦慮するは人格的存在者の恥辱である。イエスは群衆の己に附き従うた事をもってその伝道の成功とは夢にも考えなかった。かえって彼はこれを避けて寂しき所に退いた。またすべての人ついに彼にそむき彼を棄てた事をもって、おのが生涯の失敗とは思わなかった。かえって彼はその時祈っていうた、「我に成さしめんとて汝の賜いし業を成し遂げて、我は地上に汝の栄光をあらわせり。父よ、まだ世あらぬ前にわが汝と共にもちたりし栄光をもて、今みまえにて我に栄光あらしめたまえ」と。イエスの事業の成功は少しもその結果にはよらなかったのである。彼はいかに忠実に父の聖旨に従うたか。ただそれによってのみ事は定まった。しかして惨めなる失敗のなかにいと高き栄冠を彼は受けた。
打算的精神は不真実である。比較考量、或いは損といい或いは得といい、しかしてひたすら得を選んで損を拒む。現世意識と利己観念の異常なる発達。さかしくもまた病的でなくてはならない。なんじ永遠の肯定を識るか。はた絶対の信頼を知るか。然らば今さらに何の損ぞ、何の得ぞ。おのが生命を棄てたる者に、全世界を儲くるとも得ではない。キリストを獲たる者に、万物を失うとも損ではない。「然り、我はわが主キリスト・イエスを知る事の優れたるために、すべての物を損なりと思い、彼のためにすでにすべての物を損せしが、これを塵芥のごとく思う」(ピリピ三の八)。屑々たる損得の小学、素より蟻のごとき地上賢者らの事。天に生くる者の算盤は余りに桁高くして弾くに無用である。もし強いて打算すべくば、如かず、いつも損を選ばんには。イエスの商法こそはほぼ是の類であった。すなわち彼は勧めていうた、「なんじ昼餐または夕餐を設くるとき、朋友、兄弟、親族、富める隣人などをよぶな。恐らくは彼らもまたなんじを招きて報いをなさん。饗宴を設くる時はむしろ貧しき者、不具、跛者、盲人などを招け、彼らは報ゆることあたわぬゆえになんじ幸福なるべし。正しき者の復活の時に報いらるるなり」と。また「なんじら得る事あらんと思いて人に貸すとも何の嘉すべき事あらん、罪人にても均しきものを受けんとて罪人に貸すなり」と。また「与うるは受くるよりも幸福なり」と。しかしてかくいう彼自身は如何。「なんじらは我らの主イエス・キリストの恩恵を知る。すなわち富める者にて在したれど、汝らのために貧しき者となりたまえり。これ汝らが彼の貧窮によりて富める者とならんためなり」(後コリント八の九)。まことに彼は天には神とひとしき栄光を棄て、地にありては枕する所だになく、しかして遂にその生命をさえみずから損してしまった。
策略は不真実である。率直端的に歩まずして、或いは罠を設け或いは間道をめぐる。活動のうしろに機関があり、舞台の背後に楽屋がある。単刀直入、直説法の「然り」ではなくして、譬喩また諷刺のお膳立、接続法の小刀細工。何という小ざかしさぞ。パリサイ人ら如何にかしてイエスを言の罠に係けようと相議り、その弟子らを遣わして言わしめた、「師よ、我らは知る、なんじは真実にして真実をもて神の道を教え、かつ誰をも憚りたもう事なし。人の外貌を見たまわぬゆえなり。されば我らに告げたまえ、貢をカイザルに納むるは可きか悪しきか、如何に思いたもうか」と。イエスすなわち口を開いていうた、「偽善者よ、なんぞ我を試むるか。貢の金を見せよ云々」と。また彼を売りしユダは群衆とともに彼を捕えんとて丘に往くとき、予じめ彼らに合図を示していうた、「わが接吻する者はそれなり、これを捕えよ」と。かくて直ちにイエスに近づき、「ラビ安かれ」というて彼に接吻した。そのときイエスは言うた、「友よ、なんじの成さんとて来たれる事を成せ」と(マタイ二六の五〇改訳欄外)。イエスの前に策略は赤面し戦慄した。彼の足はすべての「からくり」を蹴やぶり踏みにじって堂々と前進した。
ああ真実なるものイエスよ、偽善と二心と形式と打算と策略と虚飾との群がり絡ろう人の世にただ汝、汝のみ単純無垢なる永遠の肯定をつづける。何たる清らかさ、何たる厳かさ、何たる頼もしさぞ。なんじは誠に真理そのもの。なんじにおいてのみ我ら「真実なるもの」の姿をみとめる。願わくはなんじのゆえに栄光、神にあれ。願わくは不真実の塊なる我らをして汝の真実の一端に与からしめよ。