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「イエスの生涯とその人格」
第四章 イエスの人格
五 生命の顕現として見たるイエス
藤井武
Takeshi Fujii
イエスの生活には定まれる形式というものが一つもなかった。まず外側の事から考えて見ても、彼の衣食は甚だ自由なしかし簡単なものであったらしい。彼みずからバプテスマのヨハネに対照をもとめ「ヨハネ来たりて飲食せざれば云々、人の子きたりて飲食すれば『見よ、食を貪り酒を好む人』と言うなり」といい、また「口に入るものは人を汚さず……すべて口に入るものは腹にゆき遂に厠に棄てらるる事を悟らぬか」などと言うているように、彼は飲食の物を選ぶことなく、人の彼に供するままにこれを取ったらしい。ある時は彼は婚姻の祝宴に臨んで、葡萄酒を飲んだと考えられる。何となればその尽きんとするに当りて特にみずから奇蹟を行い水を酒に変えて提供したくらいであるから。またある時は路傍の無花果に果をもとめ、ある時は麦畠をとおりながら弟子たちが穂を摘みてこれを食らうをゆるした。彼はしばしば人に招かれて共に食事した――あるいは税吏マタイと、あるいはパリサイ人シモンと、あるいはらい病人シモンと。その弟子たちを伝道のために遣わさんとして彼は言うた、「いずれの家に入るとも……その家にとどまりて与うる物を食い飲みせよ……いずれの町に入るとも、人々なんじらを受けなば、汝らの前に供うる物を食し云々」と(ルカ一〇の五〜八)。しかしまた彼の食事は原則として極めて簡単なものであった事は、彼のために饗応の備えをなせるマルタにむかい「無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ」といいし言によって暗示せられる。
彼はいかなる服装をなしておったか。恐らく必ずしも一定のものではなかったであろう。彼に仕える婦人たち(ルカ八の二、三、マタイ二七の五五)よりささげられし有り合わせのものを彼は着用したのであろう。ロマの兵卒どもが彼を十字架につけし後、その衣をとりて分けたとき、下衣は縫目なく上より惣織のものであったから、これを裂かず籤引きにて取ったとある(ヨハネ一九の二四)。かくのごとき下衣は、ジョセファスによれば、祭司の衣に類するやや高価のものであって、普通の平民の用いないものであった。疑いもなくかの婦人たちよりの贈物であった。
彼の住所は?一たびナザレを出てから、住所なるものは彼に無かった。「狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし」。誰にもあれ、彼を迎える者の屋根の下に彼は臥した。ペテロの家に、ザアカイの家に、マルタ、マリヤ姉妹の家に。しかしまたしばしば彼は手にて造りし屋根ならぬ涯なき大空の下に宿った。あるいは山上に、あるいは湖畔に。「かくて各々おのが家に帰れり、イエス、オリブ山にゆきたもう。夜明けごろまた宮に入りしに云々」というヨハネ伝の一句(七の五三、八の一、二)は、人々の家に対してイエスの枕する所の何処にあったかを最も美しく言い表わしている。神の造りたまいし自然はそのままに彼の家であった。
彼の経済は右にいいし婦人たち――その財産をもて彼に仕えしへロデの家司クーザの妻ヨハンナ、及びスザンナ、マグダラのマリヤ、その他多くの女の手に委された。彼の財嚢はイスカリオテのユダに預けられた。
かくてイエスは人に教えたとおり、みずから「何を食い何を飲み何を着んとて思い煩」わなかったのである。彼の衣食住は父なる神の備えたもうままにその日ごとに新しきものであった。
彼は幾たびか律法または古伝にそむくような事をなした。安息日に人を医した、その弟子たちが食事のときに手を洗わぬを黙認した。
彼はまた当時の教養ある人々が見て眉をひそめるような事をなした。すなわち売国奴と嘲られし税吏の客となり、穢れたる遊女を近づけ、そのほか人々より指弾せらるる罪人らの友となった。また手をのべてらい病人に触れ、あるいは宮にて牛羊鳩を売るもの、両替する者などの坐するを見るや、「縄を鞭につくり、羊をも牛をもみな宮より逐い出し、両替する者の金を散らし、その台を倒し」などした。
その行動においてそうであったように、その思想においてもまた彼は伝統をやぶって全く新しき途に出た。山上に口をひらいて、いかなる人が幸福であるかを教えたときに、彼は言うた、「福いなるかな心の貧しき者、福いなるかな悲しむ者、福いなるかな柔和なる者、福いなるかな義に飢え渇く者、福いなるかな憐憫ある者、福いなるかな心の清き者、福いなるかな平和ならしむる者、福いなるかな義のために責められたる者」と。かくのごときはいまだかつて地上に聞かれしことなき音づれであって、まさに革命的思想と名づくべきものである。聴くもの「その教えに驚」いたのは素より当然である。
イエスの思想はこの世の立場より見るときは逆理に満ちておった。世に不幸なるものは彼には幸福なるもののごとく、世に幸福なるものは彼には不幸なるもののごとく、有るものは彼には無きもののごとく、無きものは彼には有るもののごとく、強者は弱者のごとく、弱者は強者のごとく、死者は生者、生者は死者のごとくあった。人が軽んずるものを彼は重んじ、世が尊ぶものを彼は卑しめた。あるとき彼は幼児を呼び弟子たちの中に置いて言うた、「汝ら慎みてこの小さき者の一人をも侮るな。我れなんじらに告ぐ、彼らの天使たちは天にありて、天にいます我が父の顔を常に見るなり」と。またみずから罪人らの友となりていうた、「悔い改むる一人の罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しき者にもまさりて天に歓喜あるべし」と。世よりラビと呼びて敬わるる学者、パリサイ人らを彼は責めて言うた、「禍いなるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、なんじらは人の前に天国を閉じて自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。禍いなるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ云々、禍いなるかな、禍いなるかな、禍いなるかな」と。また神の選民と自ら称えて誇るところのユダヤ人を戒めて言うた、「まことに汝らに告ぐ、多くの人東より西より来たり、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天国の宴につき、聖国の子らは外の暗に逐い出され、そこにて哀哭切歯することあらん」と。実にイエスの思想は人類の古き価値判断をその根底より転倒せしめずにはやまぬものであった。
新しき酒は新しき革袋に盛られた。イエスの思想を発表する言語そのものがまた飽くまでも新鮮なものであった。彼の説教にいわゆる説教くさき味は少しもない。彼は学者のように組織を立てて述べず、宗教家のように特殊の調子を帯びて語らず、芸術家のように修飾して表わさず、ただ平明に率直に簡潔に、真理をその純粋なる本質のままにいささかもこれを損うことなくして伝えた。試みにこれをパウロの言と比較せよ。かの大いなる異邦人の使徒が千万言を費して漸く立証するところの真理を、人の子はいかに訳もなくただ一言をもって言い破っているか。浩澣なるロマ書一巻は「福いなるかな心の貧しき者、天国はその人のものなればなり」の一語の註解に過ぎないと言うことが出来る。しかもこの一語をかの書翰の著者の口より聞くことは到底望まれないのである。多くの術語と複雑なる論理とをもって盛られしパウロ書翰に対して、イエスの説教の素人らしさ!彼は祈りのほか何の準備もなしに語った。彼の真理を説明すべき譬喩は到るところに充ち満ちていた。およそ彼の目に触れ耳に聞こゆるほどのものはことごとくそのままに説話の材料となった。いわゆる山上の垂訓のみを見ても、塩と燈火、日と雨、空の鳥と野の百合、塵と梁木、真珠と豚、パンと石、魚と蛇、茨と葡萄、薊と無花果、磐と砂、風と水、これらのものが自由に取り入れられて、驚くべき真理を織りなしている、イエスの短き一語一語はいかなる詩人哲学者宗教家の言にもまさって直に強く人のハートを衝く。パウロの話を聞きながら居睡りして三階の窓から墜落した若者があったが(行伝二〇の七〜一二)、イエスについてこのような場合を想像することは出来ない。
かくのごとくイエスの生活には形式もなく伝統もなかった。彼は一切この世の約束を見事にも蹴散らしながら歩いた。彼のように自由の歩みをなした人を私は他にひとりも知らない。しからばイエスはひとえに古き真理を破壊せんがために来たのか。彼は一個の極端なる自由思想家革命家であったのか。否、断じてそうではなかった。最も自由なる彼の歩みはかえって最も正しき軌道を辿った。彼によって粉砕せられるよと見えし古き律法は、かえって彼においておのが理想の実現を見たのである。彼みずから山上に新しき音づれを伝えてのち引き続きその消息を明らかにした。曰く「われ律法また預言者を毀つために来たれりと思うな。毀たんとて来たらず、かえって成就せんためなり。誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎゆかぬうちに、律法の一点一画も廃ることなく、ことごとく全うせらるべし」と。毀つがごとく見えし彼の思想や行動はかえって古き真理を成就したのである。安息日に彼が病者を医したのは、律法を犯したのではない、反対にその真精神を発揮したのである。何となれば「安息日に善をなすは可い」からである。律法を行う者を福いとする律法に対して(申命一七の二〇、レビ一八の五)、それらの力の全く無い者、心の貧しき者を彼が福いとしたのは、律法を破ったのではない、反対にその目的を貫徹したのである。何となれば心の貧しき者のみが「聖霊によりて律法の義を完う」することが出来るからである。イエスは律法の外殻を砕いてその中にひそめる正味を引き出したのである。彼は死せる儀文を破って生ける霊をこれに注ぎ込んだのである。古き律法はイエスによって一たび十字架につけられまた彼によって新しき福音に復活した。福音はほかのものではない、イエスによって変貌した律法である。葡萄酒に化せられた水である。イエスは律法の破壊者でなくしてかえってその完成者であった。律法の理想は彼において完全に成就した。
このゆえにすべての伝統を破って最も自由に歩みしイエスの足は、実は律法の一点一画をも踏みはずすことなくことごとくこれを全うしていたのである。イエスにまさりて正しく律法を行うたものは一人もない。また彼にまさりて律法の貴さを人に教えたものも一人もない。彼みずから前掲の言に引きつづき言うた、「このゆえにもしこれらのいと小さき誠命の一つをやぶり、かつそのごとく人に教える者は、天国にていと小さき者と称えられ、これを行い、かつ人に教える者は、天国にて大いなる者と称えられん。我なんじらに告ぐ、汝らの義、学者パリサイ人に勝らずば、天国に入ることあたわず」と。
破壊と完成、進歩と保守、自由と服従、これらの矛盾せる二つの要素が、イエスの人格において不思議にも揮然と調和した。実に驚くべき大調和である。誰が彼のように新しき真理を提唱したか。しかしまた誰が彼のように古き理想を成就したか。イエスの大胆なる一語のまえにはニイチエも戦慄せねばならぬ。同時に彼の正しき歩みを見てはセネカも穴に入るであろう。いかなる否定もイエスの否定の深刻なるには及ばず、いかなる肯定もイエスの肯定の徹底的なるには及ばない。彼の中に天と陰府とは相結び、東と西とは一つに出逢うたのである。
この不思議な調和は何を意味するか。それはイエスが生命そのものであった事を証明する。
生命に形式はない。生命は自由である、新鮮である。それは泉の溢れるように溢れる。何ものも外よりこれを束縛することが出来ない。形式の要求は生命の衰弱に始まる。内なる生命おとろえて、その空虚を充すがために、外なる形式が欲しくなるのである。形式はすなわち生命の化石である、ミーラである。我らの信仰生活においても我らは時として荘厳なる儀式を慕う。蒼空にそびゆるゴシック式の会堂、大気をゆるがすパイプオルガン、重々しき祈祷と高らかなる合唱、それらのものによって編み出される特殊の雰囲気の中に浸りたくおもうことがある。それは敬虔なる宗教的情調でもあろう。しかし一事は確かである。かくのごとき要求をいだくとき、我らの内に生命の充実がない事これである。生命の充ち溢れるときには、我らは決して儀式を慕わない。会堂が何か、奏楽が何か、説教が何か、我らは野に出でて、樹かげに佇みながら聖名を呼び、街頭を歩きながら感謝する。まことに我らの祈祷は広小路にあり、停留所にあり、電車の中にある。我らの讃美は書斎にあり、工場にあり、台所にある。「病める子どもを看護りて不眠の一夜を明かす母のいのりは、夜もすがら修道院の礼拝堂の敷石にひれ伏す尼僧のそれに勝るとも決して劣らない」。生命はあらゆる羈絆を断って動く。雛は内より卵殻を破って現われる。いと柔らかき筍の芽は堅固なる幾尺の地層に縦横に亀裂を刻んで萌え出る。イエスが目覚ましくも世のすべての伝統を踏みにじって歩いたのは、みずから生命そのものであったからである。歴史も習慣も律法も、この生命の躍動のまえには何等の権威に値しなかったのである。
生命は神から出て神のものである。ゆえに全く神の意思に従うて動く。我らが神の意思に従わずして乱れたる我がままの生活をなすとき、我らは確かに生命を失うていることを自覚する。その時われらは霊的の死者である。「汝ら前には咎と罪とによりて死にたる者にして云々、我らも前には……肉の慾に従いて日をおくり、肉と心との欲するままをなし、他の者のごとく生まれながら怒りの子なりき」とパウロの言うとおりである(エペソ二の一〜三)。これに反して一たび我らの中に真実の生命が芽ばえてくれば、我らは不思議にも神の意思を喜悦とするようになる。救われし者の徴候の一つは、よろこびて善をなし得る事にある。かつては自分の性質と heterogeneous(異質)であったものが今は congenial(合性)なものとなり、みずから意識せずして道徳を実行する事が多くなるのである。
しかしてこの原理の完全に実現しておったものがすなわちイエスの生涯であった。彼が最も大胆なる自由を行いながら、かえってそのままに律法の理想を全うしたのは、みずから生命そのものであったからである。イエスにとって父のみこころは完全に合性なものであったのである。「我を遣わしたまえる者の聖意を行う……はこれ我が食物なり」と彼はいうた。
イエスは生命であった。ゆえに自由であり、断えず新鮮であった。ゆえに彼は律法を毀たずしてかえってこれを成就した。生命においてのみ見るところの破壊と完成、進歩と保守、自由と服従との奇しき調和を我らはイエスにおいて遺憾なく見る。「我は生命なり」と彼みずから言い、「この生命すでに顕われ云々」と使徒ヨハネの言うた通りである。彼よりほか何処にもかくのごとき生命の顕現を求めることは出来ない。