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「イエスの生涯とその人格」
第五章 イエスの苦難
一 ゲッセマネの告白
藤井武
Takeshi Fujii
過越のまつりの前に、イエスは自分の殺さるべき時の遂に来たことを知った(ヨハネ一三の一)。
祈りなしにはいかなる時をも迎えなかった彼である。今この最後の大いなる時を迎えようとして、もちろん彼に特別の祈りがなくてはならなかった。ほかの目的のためではなく、ただ彼の死そのものについての特別の祈りなしに、イエスは十字架につけらるべきでなかった。
エルサレムの東半哩ばかりのところ、オリブ山の山腹に、区画せられたる一つの園があった。下には草土やわらかに、上にはオリブの枝しげり合うて、四辺閑寂、夜は殊に祈るによき場所であった。その名をゲッセマネというは、多分ヘブル語のガス・シエメン(油槽)から来たのであろう。すなわち全山を蔽うオリブの樹の果より油を搾る槽がかつてそこにあったものと想像せられる。枕するに処なきイエスは、エルサレムに滞在する間はしばしばここに宿ったらしい。「ここは弟子たちとしばしばあつまりたもう処なれば」とある(ヨハネ一八の二)。謂わばそれはイエスの祈りの家であった。
今宵も最後の祈りをなそうとして、これより適わしき所を彼は知らなかった。すなわちなすべき事をことごとくなしたのちに、彼は十一弟子を連れて(十二の一人ユダはその非望を果たさんがために先刻彼らのまといより脱して去った)エルサレムの城門を出で、ケデロンの谷に流るる小川を渡り(その夜過越祭のために都にて屠らるる羔の血が小川に流れそそぎ、水は物すごき紅色を呈しておった)、しかして少しく山に登りてゲッセマネの園に入った。折しも中春の満月さえわたり、樹かげ物暗く、粛然たる静謐は天地をこめていた。
その目的は特別の祈りにあった。ただひとりにて彼は祈りたくあった。園に入りしのち直ちに彼は弟子たちをその一隅に坐せしめた。しかし二三の親しきものがさらに近くありて祈りをもって援助してくれることを彼は望んだ。ゆえに彼らの中よりペテロおよびゼベタイの二子ヨハネ、ヤコブの三人のみを伴うて、一層奥ふかく進んだ。
その時イエスの心には譬えがたき悲哀が満ちていた。彼は三人にむかって隠さず告白して言うた、「わが心いたく憂いて死ぬるばかりなり」と。この言は一両日前にギリシャ人が彼に謁を求めた折に発せられし「今わが心騒ぐ」(ヨハネ一二の二七)の一語と共に、彼の唇に上りし最も悲痛の告白である。しかしてあたかも十字架上の叫び「わが神わが神なんぞ我を見棄てたまいし」の一語が詩篇(第二十二)の言そのままであったように、この二つの告白もまたそうである。すなわち「わが心いたく憂いて」というは詩篇第四十二篇の第五節「わがたましいよ、なんじ何ぞうなだるるや」の七十人訳の用語そのままであり、「わが心騒ぐ」というは同じ詩篇の第六節「わがたましいは……うなだる」の訳語そのままである(聖書中イエスが「わが心」というて Psyche なる語を自分について用いたのもこの二つの場合のほかにはない)。疑いもなく詩篇第四十二篇はその第二十二篇とともに彼の特愛の詩であったのであろう。しかして最後の言いがたき悲哀をあらわすに、おのずから古き言が自分のものとして溢れ出たのであろう。彼のたましいはうなだれてまさに悶死せんばかりであった(かくのごとき悲哀の重荷に堪えかねて多くの人は自殺を行う)。
この告白にひきつづき彼は三人に対して「なんじらここに止まりて我と共に目を覚ましおれ」というて、ただひとり彼らを離れてなおも進んだ。「かくて自らは石の投げらるるほど彼らより隔たり云々」(ルカ二二の四一)。「隔たり」の原語は「引き取られ」とも訳すべきつよき意味を有し、大いなる悲哀に圧せられ居る者の痛ましき行動を暗示する。
かくて恐らくさらに深き樹蔭へと進み往いて、彼は「跪き」(ルカ)あるいは「平伏し」(マタイ)「地に平伏し」(マルコ)て祈った。祈らんとて地にひれふすがごときもまた常ならぬ態度であった。しかして少なくとも始めのあいだ(彼らの目覚めおる間)その静寂の夜気をついて響き来たる沈痛の声を三人のものは聴き取ることが出来た。曰く
アバ父よ、父にはあたわぬ事なし、この酒杯を我より取り去りたまえ。されど我が意のままを成さんとにあらず、聖意のままを成したまえ。(マルコ一四の三六)
わが父よ、もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせたまえ。されど我が意のままにとにはあらず、聖意のままに為したまえ。(マタイ二六の三九)
父よ、聖旨ならば、この酒杯を我より取り去りたまえ。されど我が意にあらずして、聖意の成らんことを願う。(ルカ二二の四二)
伝えらるる言は福音書ごとに異なるも、意味に変わりはない。イエスはここにまず、もしかなわばその酒杯の取り去られんことを祈ったのである。今より自分に臨まんとする苦難の避け得べくんば避けられんことを願うたのである。
そればかりでない、ルカ伝の記事によれば、この時「イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈りたまえば、汗は地上に落つる血の雫のごとし」とある。血液が血管を泌み出て汗のなかに混り、紅色を帯びたる濃き雫として滴ったとの意である。また天よりひとりの天使現われ、彼に力を添えたと言われる。ある学者はこれらの記録をもって稗史的性質を有するものとなすも、十分の根拠ある推定ではない。かえってへブル書記者のごときはこの時の経験に言及しながら「キリストは……大いなる叫びと涙とをもて……祈りと願いとをささげ云々」というて、ルカ伝の記録をさらに補足している(へブル五の七)。あたかもホセアが古きヤコブの祈りの経験に言及するに当り、「彼は天の使いと角力い争いて勝ち、泣きてこれに恩を求めたり」というて創世記三十二章二十六節の記事を補足しているように(ホセア一二の四)。いずれにせよ、ゲッセマネにおけるイエスの苦悶は絶大なるものであった。それはほとんど人の測ることあたわぬほどの経験であった事は、疑いがない。
堪えがたき悲哀の告白、しかして続く祈り、いずれも思いの外なることである。今に至るまでイエスは幾たびか己が死について予言したではないか。動かすべからざる神の聖旨としてこれを教えたではないか。己の世に来たりしはそのためであるとさえ言うたではないか。ペテロが「主よ、しかあらざれ、この事なんじに起こらざるべし」と諌めた時には、振り反りて「サタンよ、わが後に退け、汝はわが躓きなり」と叱責したではないか。かつまた己が死について語るに当り、いつ彼は心みだれあるいは悲しみ憂えたことがあるか。現にこの夜も晩餐の席上の彼の言動といい、その後ゲッセマネの園への途上における垂訓または祈祷といい、迫りくる死に直面しながらいつもながらの底知れぬ静けさがいみじくも漲っていたではないか。しかるに今に及びてのこの告白とこの祈祷とは果たして何を意味するか。
死に臨んで怖れず騒がず、従容として世を去ったものは、昔から決して少なくない。ソクラテスの死が立派であった事は何人も知っている。その他多くの殉教者、多くの仏徒また異教信者、多くの武士殊に日本武士、あるいは多くの悪漢さえ、人々をして讃歎せしめではやまぬような死を遂げた。しかるにキリストたるものが末期に及んで死を怖れたとは!彼は絞首台上に微笑む世の囚徒たちにも劣る臆病者であったのか。
かくて例えばイタリアの哲学者ヴアニニは、その汎神論的信仰のゆえに教会の迫害を受け絞首台に連れゆかれたとき、自分をキリストに比較してその優秀を誇った。
また一方にはかかる誹誇に対してキリストを弁護せんがために、ゲッセマネの記事を抹殺せんとする聖書学者がある。ウステリのごときその一人である。彼はいう、もしこの伝説が真実ならば、自分はキリストをソクラテスの下位に立たしめねばならぬと。あるいはストラウスはゲッセマネの出来事とイエスの訣別の説話とを互いに矛盾するものとなし、いずれか一方は非歴史的の記事でなくてはならぬと主張する。
また多数の学者は次のように解釈する。キリストの苦悶は歴史的事実に相違ない。しかしそれは死の怖れではない。誰か彼の生涯に、殊にその絶頂においてかくのごときものを想像し得ようか。かえって「死の怖れによって生涯奴隷となりし者どもを解き放たんがため」に彼は来たのではないか(へブル二の一五)。しかして衰えたる老人や繊弱き婦人や臆病なる小児たち――ポリカルプ、ブランデナ、アッタルスなど――さえただ彼の名を信ずるがゆえに歎息も戦慄もなく死に直面したではないか。キリストを悩まししものは死ではない。「死よりも遥かに死的なるあるものであった。それは世の罪の重荷と秘密とであった」と。
まことにキリストの悩みは世の罪のなやみであった。確かにそうである。しかしそのゆえに彼の悩みは死の怖れでなかったというべきであろうか。迫り来し死のまえに当りて「この酒杯を我より過ぎ去らせたまえ」と彼が祈ったとき、死そのものに彼は着目しなかったであろうか。へブル書記者は明白に次のごとく言うた、
キリストは肉体にていましし時、大いなる叫びと涙とをもて、己を死より救い得るものに祈りと願いとをささげ云々。(五の七)
この言は厳密にゲッセマネの経験のみに関わるものではあるまい。しかし主としてそれを意味すること疑いを容れない。多くの矛盾と困難とにも拘わらず、へブル書記者はイエスの死の悲しみをここに明言したのである。
イエスに死の悲しみがあった。それは彼の聖さを損う事実であるか。死は悲しむべからざるものであるか。神が人を創造するに当り、彼はかくのごときものを当然の運命として期待したもうたか。罪の価なる死こそは人生にあるまじきものではないか。それは枉げられたる自然の最も著るしき姿ではないか。誰にもまして死を悲しむ者はむしろ創造者彼自身ではないか。
死を悲しむは人の本性である。これを恥ずべき理由はない。イエスはベタニヤのラザロの死に当り、その姉妹マリヤの悲しみに同情して涙をながした。同じようなる心をもって、己の死にのぞみてもまた彼はいたく憂え、血の汗を滴らせつつ祈った。まことに人らしき人はイエスであった。
イエスの途は多くの場合において普通人の途とは反対の方向にあった。人の悲しむときに彼は喜び、人の楽しむときに彼は憂えた。ある意味において、彼は人の自然性を蹂躙せんがために来たかのように見える。自然を貴ぶ近代人の彼に躓く所以である。
しかしながら一口に自然性とは言うものの、我らは二種の全く異なるものを区別せねばならぬ。神の植えつけたまいし本来の自然があり、人の堕落にもとづく偽の自然がある。両者はその性質をも価値をも互いに逆にする。前なるものは清い、後なるものは穢い。前なるものは生かさねばならぬ、後なるものは殺さねばならぬ。何となれば彼は人の人たるの本性であり、此は人の人らしさを損う害悪であるからである。イエスは人の子であった。ゆえに彼はすべて偽の自然と戦い、またすべて本来の自然を育んだ。「われ地に平和を投ぜんために来たれりと思うな。平和にあらず、かえって剣を投ぜんために来たれり」と言い、「人もし我に従い来たらんと思わば、己を棄て己が十字架を負いて我に従え」と彼が言うたのはすなわち偽の自然に対する宣戦の布告であった。「すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ。われ汝らを休ません」といい、「何ぞこの女(ベタニヤのマリヤ)を悩ますか、我に善き事をなせるなり」というたのは純なる自然に対する同情の発表であった。およそ虚偽なるものを排斥するに彼ほど大胆であったものはないと同様に、およそ真実なるものを認容するに彼のごとく憚らなかったものもない。
勇者とは誰であるか。徒らにその性情を矯めて悲しむべきものを悲しむことを知らざるがごときは、決して真正の勇者ではない。イエスはかくのごとき種類の人ではなかった。かえって彼は人として弱き者であった(後コリント一三の四、ヘブル五の二参照)。彼は人が本来感ずべきものをみな感じた。彼は限りなく生を慕い死を悲しんだ。しかるにも拘わらず、彼は苦き酒杯を飲まねばならなかった。ここに人の子としてのイエスの烈しき苦闘があった。しかして血の雫しながら、遂にこの苦闘に耐えて、「されど我が意のままにとにはあらず、聖意のままになしたまえ……わが父よ、この酒杯もし我れ飲までは去りがたくば、聖意のままに成したまえ」と祈り得たときに、始めて彼の勝利はあったのである。主にある勇者はすなわちこの苦闘の勝利者である。
パウロは人の道徳的生活の原則を示していうた、「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む、己が身を神の悦びたもう潔き活ける供物として献げよ、これ霊の祭なり」と(ロマ一二の一)。道徳的生活、畢竟一つの霊的祭事に他ならない。人はみずからその身を活ける供物として神に献げるときに、始めて道徳的存在者たるの生活を実現するのである。活ける供物はすなわち犠牲である。しかして犠牲は必然、苦闘の観念を含む。もし人として苦痛を悪み悦楽を愛するの感受性なく、我意と聖意との間に始めより距離がないならば、犠牲の実は何処にあるか。地のごとく低き我が意をみずから提供して、天のごとく高き聖意にこれを従わしむること、その事が真の献供である。我が意のないところに祭物はない。人としての人らしき性情のないところに道徳的生活はない。
このゆえにゲッセマネにおいてイエスが怪しきばかり苦しんだことは、断じて彼の聖さを損う所以ではない。反対に、これありて始めて我らは彼の勝利の貴さを解するのである。イエスは万人にまさりて死を悲しんだ。かくのごとき大いなる不自然事を想像するだに、彼のやわらかき全生命は堪えがたく反発を感じた。彼が神より受けたる霊魂と身体とは、これに対して一斉に無条件的抗拒の声を挙げたのである。これすなわち彼のいわゆる「我が意」である。
かくも強烈なる我意をいだきながら、苦闘数時、イエスは遂にこれを手づから父の祭壇に献げおおすことが出来た。彼は繰り返しいうた、「聖意のままに成したまえ」と。見よ、その下には比いなく生々たる我意が血まみれのままに永遠に釘うたれて横たわっているのである。最大の犠牲である。至上の献供である。