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「イエスの生涯とその人格」

第六章 イエスの死

三 イエスの贖罪死の根本観念

藤井武
Takeshi Fujii



高くあがれる聖座みくらにエホバの神の坐したもうを、若きイザヤは幻に見た。神彼自身は到底見るべくもなかった。ただその裳裾が殿に満ち居るかのように見えた。すべてが荘厳そのものであった。幾人かの天使セラピムが裳裾の上を高翔こうしょうして居った。彼らは生物の中のいと聖き者であるにも拘わらず、素面すがおにて神の前に出ることが出来ない。彼らは各々六つの翼をそなえ、その二つをもってかおをおおい、その二つをもって足をおおい、残りの二つをもって飛びかける。限りなき畏敬の態度は見る目にも著るしい。それのみでない、彼らは互いに呼ばわって言う、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍のエホバ!その栄光は全地にみつ!

森然としてその声ひびき渡れば、相応じて殿のしきいのもといは大地震のごとくに揺り動くのである。しかして家のうちに濛々もうもうと白煙はち満つるのである。何らのおごそかさぞ。イザヤは衷心ちゅうしんより戦慄した。彼は思わずも叫んでいうた、

禍いなるかな、我れ滅びなん。我はけがれたる唇の民のなかに住みて、けがれたる唇の者なるに、わが眼万軍のエホバにまします王を見まつればなり。

神を見たる心に、何よりも鮮やかに浮かび出でしものは自己の汚穢おわいであった。それはまさに滅亡に値する禍いであった。「禍いなるかな」。これ「聖なるかな」の三唱に対する人よりの反響であった。

神は聖にして聖にして聖である。この大いなる事実をいかにして明らかにしようか。「それ神はその聖者にすら信を置きたまわず、諸々の天もその目の前には潔からざるなり」、「見よ、月も輝かず、星もその目には清明きよらかならず」(ヨブ一五の一五、二五の五)。およそ聖または清明きよらかなどいう語をもって形容せらるる一切のものも、神の目の前にはみな汚穢おわい暗黒にひとしい。さほどに絶対に神は聖い。

このゆえに神と相合わぬものにして罪のごときはない。神は罪と共に住むことが出来ない。神は罪を看過し終ることが出来ない。罪あり、すなわち神ののろいがなければならぬ。神もし罪を罪として扱うことを遂に廃止せんには、これ取りも直さず神の自己叛逆である。その日より神はまた神たらざるに至る。

聖なる神は永遠の愛にいます。彼はいかにして人類の罪に対するのろいを実現しようか。これ恐らく神がかつて逢着したる最大難問であった。しかし神には神らしき解決のみちがあった。彼はその生みたまえる独子ひとりごを犠牲にすることによってこの難問を見事に解決した。十字架のうえのイエスにおいて、罪は罪としての正しき待遇を受けた。しかして罪びとは滅亡を免れて救いにあずかり得るに至った。

ここにおいてか知る、イエスの死を必要とするところの二個の大いなる理由があったことを。すなわち人が救いにあずからんがために。また神が神たらんがために。

しかしてこれら二個の理由のうち、最も重きものは前者ではなくして後者である。何となれば彼は人の必要であり、此は神の必要であるからである、人が救わるるか否かはもちろん大いなる問題たるに相違ない。しかしながら神が神たるか否かはさらに遥かに大いなる問題である。これまことに一切の問題の中の第一問題である。人はやむを得ずば救われずともよい。しかし神は永遠に神でなければならぬ。

ゆえにパウロは明白に言うた、

すなわち神は忍耐をもて過ぎ来しかたの罪を見のがしたまいしが、己の義をあらわさんとて、キリストを立て、その血によりて信仰によれるなだめ供物そなえものとなしたまえり。これ今おのれの義をあらわして自ら義たらんため、またイエスを信ずる者を義としたまわんためなり。(ロマ三の二五、二六)

先ず神自ら義たらんためである。彼もし何時いつまでも罪を見のがし過さんには、神は自ら義たるを得ないのである。かくのごとき神は自己欺瞞者または自己叛逆者である。神は自己に忠実でなければならぬ。神は罪を罪として扱わねばならぬ。そのゆえに彼は敢えて独子ひとりごを十字架につけた。ゴルゴタの悲劇はすなわち神自身の性格の必然的発露であった。神が自ら義たらんがためにはかくせざるを得なかったのである。その意味において贖罪は何らかの結果を収穫せんと欲する手段ではなくして、それ自体に目的であったのである。しかり、罪の正当なる処分は、罪人を救わんがための手段ではない、処分そのものが目的である。処分せんがための処分である。罪が神に対してどれだけの存在であるか、これに対する神の反動は何であるかを、事実をもって現わし得たらば、すなわちその目的は達せられたのである。贖罪には先ず第一にこの根本的の意味がある。

近代人は歴史と経験とに重きを置く。彼らは人為的または独断的なる観念を受け入れない。これ確かに近代の長所である。従って近代の贖罪観にもまた古きものに見られざりし真実味がある。冷たき法廷の用語や乾きたる簿記の術語などをもって表わさるる非人格的機械的贖罪観はほとんど跡を絶つに至った。

贖罪の理由をキリストと我らとの結合に求むるものはシュライヤーマッハーである。彼によれば、我らがキリストと相交わりてうちに彼を宿すときに、彼の実現したる義が我ら自身の衝動となり、従って我らもまた神の喜びの対象となり得るのであるという。その理由をキリストの同情の力に求むるはプシネルである。すべての同情に代贖的の力がある。しかしてキリストの我らに対する同情よりも大いなる同情はない。この心に備わる自然の代贖力によって我らは救われるのであると彼は説く。また重きをキリストの召命に置くはリッチュルである。キリストは神の目的を自己の目的となし、その召命のために生きかつ死んだ。かくのごとき召命に対する忠実さをもって彼は我らを感化し、我らをしてまた彼にならい神の目的を我ら自身のものたらしめる。

以上はみな真理である。贖罪はこれらの考え方によりて一しお我らに近づく。しかしながらここに見逃すあたわざる著るしき事実がある。近代の贖罪観は一様に主観的であり、人本位であることこれである。近代人は宇宙と人生とを自己中心にして見る。彼らにはすべてのものが自己のために存在する。実にキリストの死という大いなる事実さえ、彼らはこれを自己のため、人の救いのためとよりほかには考えることが出来ないのである。

これに反して、古き贖罪観はもとよりその表現の方法において幼稚であったとはいえ、その中心に深き真理を蔵して居った。たとえばアサナシウスは言うた、神は彼の言を守らねばならぬ。ゆえに罪のためにその独子ひとりごを遣って死を味わわしめねばならなかったのであると。またアンセルムは言うた、神は毀損せられたる名誉のための満足を得ねばならぬ。ゆえにキリストを十字架につけたのであると。彼らはキリストの死を見るにいずれも神の側よりした。彼らはその事の理由として主として神の必要を感知した。神が神たらんがために、是非ともかくのごとき悲劇なしには済まなかったのであるというのが彼らの贖罪観である。それによって人の霊魂を獲得しようとする打算ではない、方便ではない。それ自身が真理であり目的である。しかして十字架を先ずこの立場より見るは、これをもっぱら人の必要として見るにまさりて、遥かに深き観察であること言うまでもない。

「キリスト教の解釈者を結局において福音的および非福音的、すなわち新約に忠実なるものとこれを消化しあたわぬものとに分つ所以ゆえんは何処にあるか。他なし、この神の必要、すなわち罪をただ赦すのではなく、神は悪と相れざるものであって、悪を悪ならぬもの又は悪より小さきものとして扱うことの絶対に出来ないものである事を示す方法においてこれを赦すべき神の必要、それを認識するか又は認識し得ないかによって定まるのである」とゼームス・デニーは言う。まことに至当の断定である。けだし神が神たるところにのみ福音はある。人が救われるか否かは至上の問題ではない。

思うにこの差別はただに聖書解釈の福音的非福音的の差別であるばかりでない、実に万人の人生観を右か左かに両分するところの生活原理の分水嶺である。人生に二つの大いなる生活原理がある。神か人か、真理か打算か、必然か方便か、客観か主観か、信仰か行為か。二者の相違は程度の事ではなくして性質の事である。ゆえに二者は永遠に相闘う。パリサイに対してパウロは闘い、ペラギウスに対してアウガスチンは闘い、カトリックに対してプロテスタントは闘い、アルミニアン主義に対してカルビン主義は闘う。我らはみなこの二つの大いなる潮流のいずれか一つを選ばねばならぬ。我らは我らの人生観の基調を神本位か人本位かに定めねばならぬ。