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「イエスの生涯とその人格」

第六章 イエスの死

四 十字架に対する私の要求

藤井武
Takeshi Fujii



私は今なおしばしば罪に陥ることをかくすことが出来ない。しかして罪に陥るごとに、少なくとも三つの事がひしひしと私を撃つ。

第一に、私は何故なぜか神をまともに見得なくなるのである。自分の罪の意識が鋭敏であるためではない。罪そのものを痛むにさきだち、私の心は何よりも先ず神を回避しようとする。しかもほとんど無意識的に。まことに不思議なる経験である。

我らは旧約聖書の始めにおいて読む、我らの祖先が始めて神にそむいた時に、日の涼しきころ園の中を歩みたもう神の声をきいて、彼ら夫妻は「神の顔を避けて園の樹の間に身を匿した」と。神話か、譬喩ひゆか。しかし私自身の現実の経験が無条件にこれを受け入るるをいかにしよう。

憐むべきアダム夫妻に対して、私は今より深き同情を感ずる。恐らくはこの代表人の経験において、その子らの一人なる私自身が共に林間に身を匿したのであろう。しかして同じ経験を今なお自分ひとりの上に再現し三現しつつあるのであろう。

いずれにもあれ、神の顔を正視し得ぬその禍いよ、そのとき光明は私の目より消え失せ、歓喜は私の胸より逃げ失せる。人としてこれにまさる不幸はない。まさしく地獄ののろいである。神を避けて「いずれのみちに私は飛ぶともそこに地獄がある、私自身が地獄である」(ミルトン)。

第二に、罪を犯せば犯すほど、罪の感じが私のうちに鈍りゆくのである。罪が直ちに深刻なる苦痛として良心に反動する間はまだよい。始めには戦慄をさえ禁じ得なかったほどのものが、何時いつしか事も無げに済まされ得るに至っては、何たる恐ろしき堕落ぞ。すべて罪は繰り返さるるだけますます悔い改めを困難ならしめる。神にそむく者の心はいよいよかたくなにせられる。この辛辣なる厳粛なる道徳的法則の存在をおもうて、私は 悚然しょうぜんたらざるを得ない。

第三に、いつまでも同じようなる罪より脱却し切れない事に、何となく滅亡の予感がある。神を信じながら、キリストの霊を受けながら、しかしてすでに二十年近くも過ぎながら、今なおふるき罪を犯すがごときは何という事であるか。かくてもなお私は果たして神の国を嗣ぎ得るのであろうか。

以上の三つはいずれも重大なる思い煩いである。それはさながら磐石ばんじゃくのごとくに私の良心を圧迫する。

もしこの難局より私を救うものがないならば、私はいかなるみちを選んでいるかも知れない。人生、道徳的苦痛にまさる苦痛が何処どこにあろうか。

私は絶望に近き谷より仰いで救いをもとめる。そのとき常に私の目に映ずる唯一つのものこそ、実に十字架である。

ああ、十字架よ、わが主イエス・キリストの十字架。なんじの意味は説明されるには余りに深い。しかし汝の存在は罪人の良心にとっていかばかりさいわいなる実在であるか。なんじの上に神の子が最大の苦しみを苦しんだというこの一事のゆえに、私は再び神を正視するの勇気と平和とを取りかえしてはばからず彼にすがるのである。この一事のゆえに、私はまた新たに罪の重さを感じて、私のかたくななる心は砕かれるのである。しかり、この一事のゆえに、私ごとき者もまた滅亡の恐れを投げ棄て、臆することなく、希望を天の国につないで、しかして彼の来たりたもう日を待ちこがれるのである。

贖罪の説明の形式は時と共に移るであろう。私みずから古き解釈にも新しき説明にも満足しない。しかし今の私としては、説明はどうでもよい、とにかくキリストの十字架は私の良心の絶対的必要である。この私の道徳的要求と、この要求を満たして余りある十字架のくすしき実力とは、これを如何いかんともすることが出来ない。