私は今なおしばしば罪に陥ることを
第一に、私は
我らは旧約聖書の始めにおいて読む、我らの祖先が始めて神にそむいた時に、日の涼しきころ園の中を歩みたもう神の声をきいて、彼ら夫妻は「神の顔を避けて園の樹の間に身を匿した」と。神話か、
憐むべきアダム夫妻に対して、私は今より深き同情を感ずる。恐らくはこの代表人の経験において、その子らの一人なる私自身が共に林間に身を匿したのであろう。しかして同じ経験を今なお自分ひとりの上に再現し三現しつつあるのであろう。
いずれにもあれ、神の顔を正視し得ぬその禍いよ、そのとき光明は私の目より消え失せ、歓喜は私の胸より逃げ失せる。人としてこれにまさる不幸はない。まさしく地獄の
第二に、罪を犯せば犯すほど、罪の感じが私のうちに鈍りゆくのである。罪が直ちに深刻なる苦痛として良心に反動する間はまだよい。始めには戦慄をさえ禁じ得なかったほどのものが、
第三に、いつまでも同じようなる罪より脱却し切れない事に、何となく滅亡の予感がある。神を信じながら、キリストの霊を受けながら、しかしてすでに二十年近くも過ぎながら、今なお
以上の三つはいずれも重大なる思い煩いである。それはさながら
もしこの難局より私を救うものがないならば、私はいかなる
私は絶望に近き谷より仰いで救いをもとめる。そのとき常に私の目に映ずる唯一つのものこそ、実に十字架である。
ああ、十字架よ、わが主イエス・キリストの十字架。なんじの意味は説明されるには余りに深い。しかし汝の存在は罪人の良心にとっていかばかり
贖罪の説明の形式は時と共に移るであろう。私みずから古き解釈にも新しき説明にも満足しない。しかし今の私としては、説明はどうでもよい、とにかくキリストの十字架は私の良心の絶対的必要である。この私の道徳的要求と、この要求を満たして余りある十字架の
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