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「イエスの生涯とその人格」

第七章 イエスの復活

一 マグダラのマリヤに現われしイエス

藤井武
Takeshi Fujii



ゴルゴタの地に最後まで踏みとどまって十字架上のイエスを見守っていた数人の婦人があった。マグダラのマリヤもそのひとりであった。

彼女はいかなる婦人であったか。くわしき事は知るよしもない。その経歴として聖書に記さるる所はただ二つである。すなわち彼女は先に「七つの悪鬼」に悩まされていたがイエスによって救われたものであること(ルカ八の二、マルコ一六の九)、ならびにその後彼女は他の婦人たちと共にイエス及び十二弟子の巡廻伝道に従いおのが財産をもて彼らに仕えたこと(ルカ八の三)である。しかしてその奉仕婦人団中にはヘロデの家司の妻など社会的身分のやや高きものもあったに拘わらず、マリヤは最も重き地位を占めていたと想像せられる。特に呼びて「マグダラの」というは他のマリヤと区別せんがためにその出身地の名称を取ったのであろう。マグダラとはガリラヤ湖の西岸にさかえた町であった(マタイ一五の三九)。タルムード(ユダヤ口伝律法集)によれ ば、それはエルサレムヘみつぎいたす富裕なる三都市の一つであったという。しかしてまたすべての富裕都市と同じように、マグダラは堕落のちまたであったそうである。かかる都市に住んでいた若き婦人マリヤの前半生は何であったか。その七つの悪鬼に悩まされていたというは、生理的疾患のことであるか、あるいはむしろ道徳的堕落の意味ではなかろうか。たとえタルムードに記さるる彼女の富や美貌や不身持や夫パプス情人パンデラ等のことは顧みるに足らぬ作り話であるとしても、キリスト教会に伝えられし一つの伝説は、全く真実らしからぬ臆測として斥けることが出来ない。それは彼女をルカ伝七章に記さるる罪の婦人と同視するの説である(アムブローズ、ジェローム、アウガスチン、大グレゴリー等みな暗黙に又は明白にこれに同意している)。もちろんここに確定的の根拠はない。しかし彼女の後半生のたぐいなく香り高き信仰的心調より推定するときは、マグダラのマリヤのイエスに対する感謝は単に病気の治癒にもとづくものと見ることは不可能である。マリヤの愛は癒されし者の愛ではなくして、赦されし者の愛であった。彼女こそは「赦さるることの多き者はその愛することもまた多し」と言わるるにふさわしき者であった。彼女こそはイエスの足もとに立ちて涙し、その足に接吻して香油をぬるにふさわしき者であった。恐らく彼女は堕落のちまたマグダラにおいてはなはだしき罪の生活を送った婦人であろう。七つの悪鬼というはその情慾にすさみたる浅ましき状態を形容した語であろう(マタイ一二の四三以下参照)。しかるに一たびナザレのイエスを知るや、彼女の生活に見事なる革命が起こった。彼女は最早もはや何故かみずから自分の罪にえざるを覚えた。罪を憎む新しき心が自分の中に生まれ居るを見た。イエスを受け入れたその瞬間に罪の女マリヤは更生したのである。同時に彼女の罪はことごとく赦されたのである。しかして赦さるることの多くあっただけ、それだけ彼女の感謝は深くあった。それだけ彼女のイエスに対する愛は強くあった。更生のマリヤに取りてはイエスが一切であった。すべてをささげて彼に仕えることのほかにマリヤの未来の生涯はなかった。このゆえに彼女は来たりて彼と十二弟子との巡廻伝道に従い、これに奉仕する婦人団の柱石となるに至ったのである。

マリヤに取りてイエスは一切であった。イエスが十字架につけられた時に、この世は最早もはや彼女に用なきものとなった。イエスが遂に息絶えた時に、一切のものが彼女から失われた。

彼女は最後まで踏みとどまって、イエスの屍体の葬られるところをまで見届けた。もし許さるべくば、そのままそこに留まって墓守にでも成りたくあった。しかし日暮れて聖安息日がまさに始まろうとしていた。とにかく一先ず彼らは引き挙げねばならなかった。

イエスは逝いた。今や残るところのものはただ彼の屍体あるのみである。むなしき亡骸なきがらを何にしようと言わば言え、せめてはこれにかぐわしき香料香油をぬりてもっていささかなりとも愛の要求をたさんことが、彼女に残されし唯一の願いであった。

安息日を越えて朝まだき、彼女はまた他の婦人たちと共に墓をさして急いだ。しかるに往いて見れば、意外にも屍体は見当らない。

生命を奪われしのちに、屍体までも!彼女の胸はさらに痛んだ。直ちに一人して馳せ帰り、使徒団の重鎮ペテロ、ヨハネの二人にこれを報告した。

怪しき報告に接して飛ぶがごとくにでゆきし二人の後より、マリヤは遅れながら再び墓に向うた。彼ら二人が現状を実見した上は、何らか新しきみちも開かれるであろう。彼女のたのみはただ彼らにあった。

しかしながら二人は前後して岩穴の中に入り、まさしく屍体のない事実を突きとめたまま、何ら施すところの処置もなしに帰り去った。

マリヤの心たのみはみな消えた。主は十字架の上に殺された、その屍体は奪われた、使徒たちは空しく引き返した――かくて彼女に何が残るのか。今こそは一切無である。彼女は茫然として墓の外にたたずんだ。

そのとき、世に彼女ほど寂しい人はなかった。赦さるることのたぐいなく多かっただけ、愛することたぐいなく多かった彼女は、今その愛を名残もなく奪い去られて、おのが魂のうつろになった事を覚えた。世界ははてしなき砂漠のように感ぜられた。春のあしたの輝きも永遠の悲歌の調べかと疑われた。一滴また二滴、水晶の玉に似たる濃き雫を眼にうかべつつ、り込まれし天然岩の墓のまえに、さながら呪いすくめられしもののごとくマグダラのマリヤは立った。それは誠に人の「寂しみ」の塑像的そぞうてき表現であった。

ややありて彼女はまた我にかえり、窺うともなくかがみて再び墓の中を見た。もちろん屍体はなかった。しかしその跡に何者かのいるが見えた。白き衣を着た二人のものであった。それが普通の人間でないことは彼女にも直ちにわかった。しかしながらこの時マリヤはすべて生きおる者に対して興味を失っていた。彼女の求むるものは死者であった。屍体であった。それが見当らないかぎり、たとえ輝かしき天使たちが百人千人現われようとも、彼女の心を引くべくもなかった。

「おんなよ、何ぞ泣くか」。問われてマリヤは全く反射的機械的に答えた、「誰かわが主を取り去れり。何処に置きしか我知らず」と。これ彼女が先に往いて二人の使徒に告げた言葉そのままである。もっていかにただ一つの思いが彼女の心を全く占領していたかを知ることが出来る。

マリヤはさらに振り反った。彼女の眼はただ一つのものを求めて、自ら意識することなく折々に此方彼方こなたかなたを追いかわしつつあるのである。

振り反れば背後に身ちかく、ひとりの人の立っているを見た。しかし生きおる者には興味なき彼女である。それが誰であろうかとも特に注意さえしなかった。「おんなよ、何ぞ泣く、誰を尋ぬるか」。声かけられて、彼女は思うた、今頃かかる場所に現われるものは恐らく園守などのほかにはあるまいと。引きつづき第二の想念が彼女に浮かんだ――この人がどうかしたのであるかも知れない。すなわち答えていうた、「君よ、汝もし彼を取り去りしならば、何処に置きしかを告げよ、われ引き取るべし」と。

「マリヤ!」意外な声に彼女は愕然とした。たとえば強き電気にでも撃たれたかのよう。「ふるわぬ血とては一ドウラムマ(一匁)も彼女に残らなかった」。えがたかりし悪夢から忽然として彼女はび醒まされた。マリヤはひたすらに死せるイエスを求めて、思いがけずもここに生ける彼を見いだしたのである。

「ラボニ!」(師よ)その叫びが無意識のうちに発せられたとき、彼女はすでに飛び伏しひざまずきて、彼の足をいだこうとしていた。愛しまつる者をかくのごとくに取り返し得た彼女としてはまさにさもあるべき態度であった。

しかしたちまち厳然として制止の声がきこえた。曰く、「我にさわるな、我いまだ父のもとに昇らぬゆえなり」と。

マリヤはいまだ復活の意義をさとらなかった。死せるイエスを求めて意外にも生けるイエスを発見した彼女は、ただ回復の喜びをもって満たされた。失せたる愛はよみがえったのである、奪われたる喜びは取り返されたのである。マリヤにとって復活はすなわち復旧であった。十字架と墓とは今は消えて跡なき一夜の悪夢に過ぎなかった。

しかしながらそれは大いなる誤解であった。イエスは再び元の地上生活を始めんがために復活したのではなかった。彼はその十字架の上にて果たしし大いなる贖いのゆえに、まず自ら天に昇り、かしこに神たるの栄光と能力とを回復して、しかるのち人々に全く新しき生命を与えんがために復活したのであった。事は復旧ではなくして新たなる創造であった。彼を信ずる者は今よりのち彼と共に甦りて現世を超越したる生活に入るべきであった。彼を愛する者は今よりのち霊的に彼と一つに結びついて、彼れ我におり我れ彼におるとの親しき関係に入るべきであった。これみな彼が地上にありし時の経験よりは遥かに高くしてさいわいなる事であった。復活の意義はここにあった。ただしすべては昇天の後であった。昇天によって復活は完うせられる。その時に先だちてイエスが己をあらわすは、彼の弟子らをして復活の事実を確認せしめんがために他ならない。このゆえにマリヤがいま喜びのあまり、ありし日のごとくひざまずいて彼の足をいだこうとしたのは、二重の意味においての間違いであった。彼女は彼の身に触らんとせずして彼の霊を迎うべきであった。彼女はまたそのために今ただちにあせらずして彼の昇天の日を待つべきであった。かくてかの「我にさわるな、我いまだ父のもとに昇らぬゆえなり」との制止の声は彼女にきこえたのである。

しからばマリヤは今は何をすればよいのか。イエスは続いて教えた、「我が兄弟たちに往きて『我はわが父すなわち汝らの父、わが神すなわち汝らの神に昇る』といえ」と。

マリヤに今ただちになすべき大いなる任務があった。それは復活の事実とその意義とに関する音ずれを、弟子たちにもたらすことであった。彼らもまた復活の意義を解しないことにおいては彼女と何の差異もなかった。マリヤは先ずおのが啓示せられし真理を往いて彼らに伝うべきであった。

「我が兄弟たちに」という、こは耳新しき言葉であった。イエスは肉においてありし日の間、一度だにかかる呼び方をしなかったのである。十字架の夕まで、彼らは彼の弟子であり僕であった。復活のあしたより、彼らはたちまち彼の兄弟と呼ばれる。何故か。他ではない、十字架の贖いによって罪の処分の済むまで、人はひとりも神の子となるの資格がなかったのである。復活によって一切が新たにせられるのである。罪人はイエスと共に神を父と仰ぐことを許されるのである。今よりのち弟子たちはイエスの兄弟である。彼らと彼との関係はイエスが地上にありし時とは全く異なる。この一語の中にすでに復活の意義の暗示を見る。

イエスは復活して天に昇る。すなわち彼の父、彼の神に昇る。これは偉大なる事実である。かつて神のかたちにおいてありしその独子ひとりごが、一たび己を虚しうし僕のかたちをとりて人として現われ、遂に十字架の死に至るまで己をひくうしたが、今彼は再び高く高く元の座に帰ろうとするのである。宇宙のいまだ造られぬ前に神と共にもっていたところの栄光をもって、彼は再び神の前に栄光づけられようとするのである。かくてイエスの復活は彼の地上生活よりは遥かに高き所への飛躍であった。

しかしながらイエスがかくのごとくにして天に昇るは、人々より遠く離れんがためではなかった。かえって彼らとこの上もなく密切に結びつかんがためであった。今や彼の父はすなわちすべて彼を信ずる者の父であり、彼の神はすなわちすべて彼を受け入るる者の神である。彼がその父その神に昇るは、彼らの父、彼らの神に昇る事であって、やがてまた彼ら兄弟をして同じ所に昇らしめんがために他ならない。イエスの復活昇天によって人類の革命は始まるのである。人類は神の前にイエスと同じ待遇を受けようとするのである。すべて彼の所有は彼らの所有たろうとするのである。彼の新しくして永遠なる生命そのものが彼らの生命たろうとするのである。

それは余りに大いなる嘉信であった。しかしマリヤの単純にして深き愛の心には、これを信ずるの喜びよりほかに何ものもなかった。彼女は命ぜられしままに往いて、「主は甦りたまえり、われは主を見たり」と、イースターの朝の音づれを声たかく最初いやさきに人々に伝えた。

十字架――墓――屍体の喪失――使徒たちの無為。マリヤは暗黒より暗黒へ、失望より失望へと陥った。遂に使徒たちの去りしのちただひとり墓のまえに立って泣いていた彼女の姿は、実に悲哀そのものであった。そのとき彼女を慰め得るものとては宇宙の間に何一つだになかった。イエスを失いしマリヤは一切の慰安を拒んだのであった。

天の使いの幻影――復活のイエスの出現――その昇天の音信おとずれ。慰安より歓喜へ、歓喜より希望へ。一たび陰府よみにまで落されたマリヤは、たちまちまた天にまで挙げられた。栄光の主にまみゆることを許されし最初の人、希望の嘉信を伝うべく遣わされし最初の使徒こそは、罪より甦りしマグダラのマリヤであった。

悲しむ者はさいわいである。何となればその人は復活のイエスの慰めにあずかり得るからである。生ける彼の手をもってしなければ人の涙は拭われない。しかして復活のイエスを認め得る眼は真実に泣くことを知る眼でなければならぬ。