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「イエスの生涯とその人格」
第七章 イエスの復活
三 イエスがもし復活せざりしならば
藤井武
Takeshi Fujii
イエスがもし復活しなかったならば――
第一に、彼の生涯は失敗に終ったと言わねばならぬ。
イエスの心を痛ましめるものが二つあった。罪と死とであった。福音書の記事に表わるる所によれば、彼は前後二度泣いたことがある。その一度は罪のエルサレムを見てであった。他の一度はラザロの死に面してであった。
罪と死とは悪魔の二大業績である。しかして「神の子の現われたまいしは悪魔の業を毀たんためなり」という(ヨハネ一書三の八)。神の子イエスは罪と死とを毀たんがために地上に現われた。しかり、罪と共に死を滅ぼさんがために彼は来たのである。このゆえに聖書は「すなわち己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣わし」というと共に(ロマ八の三)、また「子らはともに血肉を具うれば、主もまた同じくこれを具えたまいしなり。これは死の権力を有つものすなわち悪魔を死によりて亡ぼし、かつ死の懼れによりて生涯奴隷となりし者どもを解き放ちたまわんためなり」という(ヘブル二の一四、一五)。
イエスは死を亡ぼさんがために来た。しかるにそのイエス自ら死に繋がれて、遂に復活しなかったならば如何。将帥みずから捕虜となっていかにして敵を亡ぼし得ようか。
人は復活せざるイエスの神性を疑ってもよい。パウロの言うた通り、彼は「死人の復活により大能をもて神の子と定められ」たのである(ロマ一の四)。
第二に(もしイエスが復活しなかったならば)、恩恵の神に対する人類の信仰は起こらなかったであろう。彼らは恐るべき失望の深淵に陥ったであろう。
「冬すでに過ぎてもろもろの花は地にあらわれ」と牧羊者はいう。春の来たりし証拠は他にあらわるるもろもろの花にある。たとえ冬の時すでに過ぎ去るとも、花なくして何の春か。
人は久しきあいだ罪に泣きながら恩恵の春を求めた。いかにもして神の前に義とせられて立つを得んことが、人類幾千年のいのりであった。この深刻なる涙と祈りとは遂に満ちた。アダムのすべての子らのために聖き人の子イエスがその血を流すにいたって、人生の冬は過ぎたのである。
贖いは果たされた。罪の赦しの途は開かれた。罪人がそのままに義とせらるべき恩恵の春は遂に来た。しからばその証拠は何処にあるか。
もしかの堪えがたく重苦しき十字架の後に、イースターの喜ばしき音づれを聴くことが出来なかったならば、罪人らはいかばかり失望したであろう。もしゴルゴタの丘に呪いの木の上に絶叫せしイエスが、再び「平安なんじに在れ」というて栄光の姿を現わすことをしなかったならば、恐らく神と正義とに対する人類の信頼は失せ果てて、世界歴史は怖るべき暗黒に彩られたであろう。
「見よ今は恵みの時、見よ今は救いの日なり」(後コリント六の二)。神は罪の人を受け容れんとて双手をひらいて待ちたもう。いかにしてその事は確かめられるか。答えていう、イエスは復活したからである。「もしキリスト甦りたまわざりしならば、汝らの信仰は空しく、汝らなお罪に居らん……されどまさしくキリストは死人の中より甦りたまえり」(前コリント一五の一七〜二〇)。
第三に(もしイエスが復活しなかったならば)、人の新しき生命は始まらず、従って真実の愛は実現しなかったであろう。
私は信仰によって新たに生まれたとき、その新生命はまさしくイエスから来たものであることを知った。それは自分の中から湧き出たものでないことはもちろん、また神から直接に来たものでもない。私の新生命には紛れもなくイエスの香いがある。私の受けた霊は確かに一度び人としての弱さを自ら経験したことのある霊である。しばしば私は弱くしていかに祈るべきかをさえ知らない。しかし私の胸の中に宿るところの霊はことごとくこれを了解しこれに同情して、言いがたき歎きをもって私のために祈ってくれるのである。私が純なる心をもって人を愛し得るとき、その心は人の子イエスの愛の反射である。すべて私にある善きものはみな彼のものである。新生の私には彼の烙印が押されてある。しかして私は私の内に徐々として彼の形の成りつつあることを知る。「キリスト我が内にありて生くるなり」とのパウロの言葉はまた私の言葉である。
イエスはいかにしてかく私の中に生きたもうのであるか。彼の霊はいかにしてかく私に与えられたのであるか。イエスのほか何人も私に対してかかる働きかけをなし得ないことを思えば、彼は現在特別に力ある存在状態にある事を想像せねばならぬ。
復活昇天はイエスの生活の一大飛躍であった。これによって彼は謙遜より栄光に、無力より能力に移った。地上にあるかぎり、彼はひとえに己を虚しうし、己を卑うしたから、その霊的活動には甚だしき限局なきを得なかった。その間かれはいまだおのが霊を他人に与え、またはみずから他人の中にありて生くるがごとき事を実現しあたわなかった。これみな彼が「生ける血気」より「生命を与える霊」に化して後の事であったのである(前コリント一五の四五)。まず自ら復活したるイエスのみよく人を復活的生命に入らしめることが出来る。我らは彼と共に十字架につけられしかして彼と共に甦らしめられるのである。
このゆえにもし彼が甦らなかったならば、いまだひとりの人だに永遠の生命を得なかったであろう。イエスの復活なくば霊もなく(ヨハネ七の三九)、生命もなく、愛もない。キリスト教とそれによって起こりしすべての善きものとはみな復活に始まる。
第四(もしイエスが復活しなかったならば)、来世の希望は消え失せたであろう。人の来世の希望は必ずしもキリスト教によって起こったものではない。否、神の観念のあるところ必ず来世の観念がある。人の生命がその肉体と共に朽つべきでないとの暗示は、人の性質の構成そのものにさえ現われているのである。このゆえに昔より死後生活の思想は到るところに存在した。しかしながらかくのごとく特殊の天啓によらない来世観念がいかに低劣、曖昧、かつ薄弱なものであったかは、歴史ならびに文学がよくこれを証明する。キリストの徒をほかにして、墓の彼方の福いなる希望にその眼を輝かせつつ世を逝った者は何処にあるか。実に旧約の聖徒たちすらもこの経験においては気の毒なほど恵まれなかったのである。
人は漠然と霊魂の不滅をいう。しかし人の生命が霊魂と身体との両要素より成ることは言うまでもない。けだし人は天然の発達の冠であると共に、また神に象られたものであるからである。人は神と天然との連鎖である。この本来の地位は永久に変わるべきでない。従って人にもし来世生活があるべくば、それは必ず霊魂の不滅と共なる身体の復活でなければならぬ。
イエスの復活は事実をもってこれを証明した。彼は一度び死にて陰府にまで往きながら、再び栄化せられたるその身体をもって堂々と復活した。それは人類千古の秘密の啓示であった。誠に「我れかつて死にたりしが、見よ、世々限りなく生く。また死と陰府との鍵をもてり」と彼自身のいうたとおりである(黙示録一の一八)。
復活のイエスによって見えざる世界は開かれた。死と陰府との恐怖は彼によって駆逐せられた。彼は自ら生命であり復活である。ゆえに彼に結びつくものはまた必ず彼のごとくに復活し得る(ヨハネ一一の二六)。イエスの復活は人類の来世生活の根源であり保証である。
不完全なる霊魂の不滅ではない、完き身体を纏える聖き霊魂をもって、来たるべき代々の代々、イエスと共にイエスのごとく、神の面前にただ神にのみ仕える生活のその希望である。これ使徒ペテロのいわゆる「生ける望み」であって、「イエス・キリストの父なる神その大いなる憐憫に随い、イエス・キリストの死人の中より甦りたまえる事に由り我らを新たに生まれしめて」懐かせたもう所のものに他ならない(前ペテロ一の三)。
もしイエスが死人の中より甦らなかったならば、生ける望みは何処にあったか。否、そのとき人類はただにこの輝かしき希望を懐くあたわなかったばかりでない、イエスさえ躓いた事を見て、彼らは遂に来世の希望を棄てたであろう。
イエスの復活は私にとっての最大の霊感である。それを懐うとき私の胸には言いがたき光耀の思いが漲る。この思いは殊に復活節のころ天然の讃美に燃やされて最高調に達する。それは余りに気高く余りに美わしく余りに微妙な経験であって、口や筆をもって表わすことが出来ない。我らは時として一輪の草花または一曲の音楽に限りなき喜悦をおぼえ、何人にもその実感を伝え得ないことを経験する。かかる種類の経験の理想的なものが、すなわち復活から私が受けるところの霊感である。新しき葡萄酒は古き革袋の中に盛ることは出来ないとイエスは言うたが、復活の霊感もまた現在の不完全なる肉体においてこれを表現することは性質上不可能の事に属するのであろう。復活の適当なる讃美は復活の後でなければあたわない。