詩人は預言者である。彼は見えざる世界を見、聴きがたき声を聴く。彼は霊に感じて天の国と未来の時との秘密を解する。
ダビデはしばしば来たらんとするメシヤすなわちキリストの事を歌うた。しかし大抵いつも自分の経験の上にキリストの経験の小さき模型を彼は認めたのであった。ただ一度だけ彼は自ら全く第三者の立場に立ってキリストの幻を見たことがあった。詩篇第百十篇はすなわちその記録である。
「エホバわが主にのたもう」以下僅かに七節のこの小詩は、実は
メシヤ預言の詩も少なくない中に、ひとりこの詩が主要の地位を占めるは何故か。けだし昇天のキリストの幻を示すものとして、この詩は旧約中ほとんど独一なるものであるからである。キリストの栄光の預言はその苦難の預言とともに旧約中に満ちている。しかし彼が十字架のあがないを果たしたのち、復活して天に昇り、しかしていかなる地位いかなる能力に入るべきかの具体的光景は、何人も明白にこれを予見することを許されなかった。しかるにこの大いなる秘密を蔽う
エホバわが主にのたもう、
われなんじの仇をなんじの承足 とするまでは、
わが右に坐すべし。
エホバはなんじの力の杖をシオンより突きいださしめたまわん。
汝はもろもろの仇のなかに王となるべし。(詩一一〇の一、二)
そこは天のシオンであった。聖座のうえに坐したもうエホバがあった。その前に立てるひとりの人があった。それは今しがた昇天し来たりしキリストであった。エホバは彼にむかうて口を開いていうた、「われなんじの仇をなんじの
これは明白にキリストの勝利の預言である。さらに
「われなんじの仇をなんじの
キリストの完全なる勝利とは何か。サタンとその業績との全滅である。罪とそれにもとづく一切の
復活して天に昇ったキリストが先ず受けたところの報償は、この勝利の保証であったとダビデはいう。しかし、キリストの勝利は始めより定まれる事ではなかったか。彼の地上の生涯がすでにその実現ではなかったか。その曠野の誘惑、そのゲッセマネの苦祷、その十字架と復活、これみな偉大なる勝利の記録ではなかったか。何ぞ昇天の後にして
しからずである。キリストの勝利は決して始めより定まらなかったのである。否、かえって彼の地上の生涯は、勝敗の数が全然未決であったところに意味を有したのである。人の子イエスは勝つも負くるも一にその自由に委ねられた。神はいわば手をひいて上よりこれを傍観したもうた。もちろん祈りに応じて援助は送られたとはいえ、勝利の保証は絶対に与えられなかった。イエスは何処までもおのが自由の意思によって勝敗いずれとも定まらぬ悪戦を続くべきであった。敗北の危険は常に彼の身に附きまとうた。イエスがこの世にて経験したる道徳的生活は最も真実なる意味においての冒険であった。彼の感じたる誘惑は人みなの感ずるもののさらに強き牽引であり、彼の味わいし苦難は肉をもつ者に
しかしながらイエスは遂に
かかる絶大なる功業が完うせられたからには、それに相応する結果が何処かに起こらねばならぬ。もしイエスの従順が神を喜ばしめたならば、その神の喜びは何らかの形において発現するが自然である。
我らはおのずからイエスの功業に対する神の報償を予想させられる。
しかしてこの報償の一つがすなわち右のものであった。最後の勝利の保証である。今やキリスト・イエスの戦いは第二期に入ると共に、その性質を一変したのである。昨日まで彼は人としてのあらゆる弱さをもって唯ひとり悪戦し苦闘した。しかし今日よりは
主はなんじの右にありて
その怒りの日に王たちを撃ちたまえり。
主はもろもろの国のなかにて審判 をおこないたまわん。
此処 にも彼処 にも屍 を満たしめ、
寛 らかなる地を統 ぶる首領 をうちたまえり。
彼れ道のほとりの川より汲みて飲み、
かくて首 を挙げん。(詩一一〇の五〜七)
エホバ彼の右にありて戦いたもう。エホバ彼のためにその敵を撃ちたもう。もちろん彼みずからもまた共に戦う。しかして戦いは決して容易でない。サタンとその全軍を滅ぼし、死をも
キリストの勝利、従ってまたすべて彼に属して戦う者の勝利は、天にて堅く保証せられる。しかしてその理由は一に彼が地上にて果たしたる功業にある。ダビデは我らにこの消息を伝えてくれた。これは我ら各自にとって意味浅き
人はいざ知らず、私は日々におのが戦いに危くも敗れようとする。私の戦いが勝利に終わるべき徴候は極めて微弱であって、反対にそれが敗北に帰すべき危険は私の身辺に満ちている。もし私が自分の業績によって前途を予測すべきであるならば、私は平明に絶望するよりほかない。
しかし私は自分を見ずして、彼をあおぐ。私はダビデに指示せられて、天の聖座に坐する私の主をのぞむ。見よ、
しからば彼に従うて戦うところの私の戦いがいかばかり苦戦であろうとも何であるか。私自身の今日までの業績が
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