さて、この特別な項目についてもっとよく考えることにします。この項目はキリストの偉大性というこの問題全体の核心です。このためにソロモンは選ばれたのであり、これはソロモンの意義を総括しています。この項目とは子たる身分です。できるだけはやくソロモンからキリストに移ることにします。おそらく、これに関してソロモンについて述べられた言葉を思い出すことができるでしょう。主はダビデに言われました、「あなたの子ソロモンが私の家および私の庭を造ります。私は彼を選んで私の子としたからです。私は彼の父となります」(歴代誌上二十八・六)。
さて、この御言葉は、これに関する最初の手がかりとして、子たる身分というこの問題のための鍵を私たちに与えます。もう一度――特別な問題を扱う前に――この一般的な言葉を述べさせて下さい。ソロモンの意義は、この「子たる身分(sonship)」という言葉にあります。というのは、ソロモンの王職はイスラエル史上最高の君主政治でしたが、他方、神の御言葉が述べているように、ダビデはイスラエルの王たちの中で最大の者であって、ソロモンよりも上位にあるからです。人格という点では、確かにダビデはソロモンよりも遥かに偉大な人です。ダビデは神の御心に適う者であり、神は永遠にわたってダビデをイスラエル最高の王と見なされます。これを考えると、王職がダビデで終わらなかったのは驚くべきことと言えるでしょう。なぜ歴史はダビデで終わらなかったのでしょう?次の理由のためです。すなわち、ある霊的原則を神は主権的な方法で保たれたのです。その原則とは、すべては子たる身分に集約されなければならないということです。究極的には、子たる身分が神の御思いを完全に表現して、その具体化となります。ですから、ソロモンについて絶えず繰り返して述べられているのは、子たる身分なのです。「あなたの子を……私の子としたからです」。ダビデは言いました、「(主は私に多くの子を賜わり)そのすべての子らのうちからわが子ソロモンを選ばれた」(歴代誌上二十八・五)――子たる身分は包括的なものであり、ある意味、排他的なものでもあります。ソロモンが関与する所を支配しているのは、この「子」という言葉です。次に、キリスト、ダビデのさらに偉大な子に来ると、すべてはキリストの子たる身分へと向かい、自らの特徴や意義をキリストの子たる身分から得ます。さて、これは事実を述べた一般的な話ですが、あなたたちはこれを覚えて思い巡らすといいでしょう。その理由は、先に進むにつれて明らかになります。
この問題については、ヨハネとパウロが偉大な解説者であることがわかります。ヨハネは第一に御子としてのキリストを示しています。ヨハネは自分の福音書を一つの文章にまとめました。それによると、福音書に記されていることには、一つの目的があります。「それは読者が、イエスはキリスト、神の御子であることを信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためです」(ヨハネ二十・三十一)。ですから、ヨハネは御子としてのキリストを示しているのです。ヨハネの目的はこのパースンです。
パウロも御子としてのキリストを示していますが、さらに先に進みます。すでに述べたように、これに優るものは何もありませんが、私が言わんとしているのは次の通りです。すなわち、パウロはさらに進んで、子たる身分の内容を開示しているのです。また、それに関連したある面があることを示しているのです。聖霊により私たちは子たちです。キリストは第一の者であり、長子です。そして(神性の要素を除いて)子たる身分という関係の中に私たちは召されています。子たる身分の意義――その内容、解き明かし、関連性、包括性――がパウロの大きなテーマです。
さて今回、しばらくの間、この二つの点に専念することにします。ここで御言葉をいくつか引用しなければなりません。
「主はまた『あなたのために家を造る』と仰せられます。あなたの日が満ちて、あなたが先祖たちと共に眠る時、私はあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするでしょう。彼は私の名のために家を建てます。私は永遠にその王国の位を堅くしましょう。私は彼の父となり、彼は私の子となります」(サムエル記下七・十一〜十四)
「彼は私の名のために家を建てます。彼は私の子となり、私は彼の父となります。私は彼の王位を永遠にイエラエルの上に堅くします」(歴代誌上二十二・十)
「あなたの子ソロモンが私の家および私の庭を造ります。私は彼を選んで私の子としたからです。私は彼の父となります。私はその王国を永遠に堅くします」(歴代誌上二十八・六、七)
「私たちは、先祖たちに対してなされた約束の良いおとずれを、あなたたちに伝えているのです。神はイエスをよみがえらせて、私たち子孫にこの約束を果たして下さいました。それは詩篇の第二篇にも『あなたは私の子。きょう、私はあなたを生んだ』と書いてある通りです。また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、今や二度と朽ち果てることがないことについては、『私はダビデに約束した聖なる確かな祝福をあなたたちに与える』と仰せられました」(使徒十三・三十二〜三十四)
「いったい、神は御使いたちの誰に対して、『あなたは私の子。きょう、私はあなたを生んだ』と言い、さらにまた、『私は彼の父となり、彼は私の子となる』と言われたことがあるでしょう?……しかし、御子については、『ああ、神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの真っ直ぐな杖は、あなたの王国の杖です』と仰せられました」(ヘブル一・五、八)
永遠の原則に基づく御子
ソロモンに対して、またソロモンについて神が語られたことは、ソロモンによって完全かつ十分に成就されるべきものではありませんでした。これは極めて明らかなことだと思います。主がそう語られたのにはさらに深い考えがあって、主はソロモンの先を考えておられたのです。ソロモンは実際のところ、神ご自身の御思いによると、主イエスについて示していました。神は子たる身分について、王国と家について語られましたが、ソロモンはその一時的な部分的成就にすぎませんでした。神にはさらに深い考えがあったのです。(私たちは人なのでこのような話し方をします。神は過去、現在、将来という時間の枠組みの中で語ることはありません。神にとってすべては現在であり、永遠の今です。神が語られた時、神の御心および意図にはキリストがありました。しかし、私たちに関する限り、私たちは時間の中にいますから、この御言葉の成就は将来と関係しており、主イエスと関係しています。)「私は彼の父となり、彼はわたしの子となります」「私は彼の王国を堅くします」――これらの御言葉はソロモンについて語られました。しかし、雑作もなくわかるように、主イエスの場合、無限に優れています。この御言葉には主イエスと関係した内容が含まれていて、ソロモンの及ばない遥か彼方にまで至っているのです。そして、その証拠の一つは「私は彼の王座を永遠に堅くします」という主の御言葉自身です。この御言葉はソロモンやイスラエルには当てはまりませんが、主イエスには当てはまります。
私が第一に強調しているのは、ヨハネやパウロは永遠の原則に基づく御子としてキリストを示している、ということです。ご存じのように、ヨハネはその福音書の中で、多くのとても印象的な方法で、これを徹底的に示そうとしています。冒頭の言葉は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」であり、明らかに、この子たる身分の永遠性を強調しようとしています。この言葉なる方はたちまち時間の中に到来されました。「言葉は肉体となって、私たちの間に幕屋を張られた」。これは時間の面であり、現在のことですが、他方は永遠です。ヨハネは他の数々の方法で御子の永遠性を強調しようとしていますが、ヨハネの福音書全体を通して極めて印象的なのは、「私は在る(I am)」という名称の使い方です。この名称が登場するのは特にヨハネ十八章であり、際立っていると思います。この章の物語によると、番兵がユダに率いられて、イエスを捕らえにやって来ました。そこにイエスは弟子たちと共にいて、たいまつとあかりと武器を持った一団が到着しました。イエスが「誰を探しているのか?」と静かに言われると、彼らは「ナザレのイエスを」と答えました。そして、イエスが「私です(I am)」と言われると、彼らは後ずさりして地面に倒れました。イエスは再び「誰を探しているのか?」と言われました。「ナザレのイエスです」。「私である(I am)と言ったではありませんか」。「私である!(I AM!)」。あなたたちは直ちにモーセを思い出すでしょう。「そこでモーセは神に言った、私がイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたたちの先祖の神が私をあなたたちのところに遣わされました』と言うとき、彼らが『その名は何というのですか?』と私に聞くならば、何と答えましょうか?すると神はモーセに言われた、『私は在りて在る者(I AM THAT I AM)』です。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい。私は在る(I AM)という方が、私をあなたたちのところに遣わされました』」(出エジプト記三・十三、十四)。他の箇所で主イエスがこの名を名乗られたことを、あなたは覚えておられるでしょう。「アブラハムが生まれる前から、私は在るのです(I am)」(ヨハネ八・五十八)。時制がごちゃまぜになっています!これは私たちを言語の外側に、時間や天然的感覚の外側に連れ出して、神の領域にもたらします。私は在る(I AM)は時間とまったく関係ありません。私は在る(I AM)はこの世とまったく関係ありません。私は在る(I AM)は永遠から永遠までです。ヨハネはこの永遠の土台に基づいて御子としてのキリストを紹介します。
しかし、パウロは永遠のキリストを紹介するだけではありません。この永遠性に基づいて教会を建造し始めるのです。エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙は、私の理解ではまさに現在のものですが、永遠のキリストを示しています。そして、「神は世の基の前から私たちをキリストにあって選」ばれました(エペソ一・四)。この永遠の選び、任命、定めからパウロは教会を建造します。彼は言います、「教会は時間に属するものでも、地に属するものでもありません。教会の源と基礎は永遠の過去にまで遡り、世々の時代にまで至るものなのです。教会にとって時間は束の間のものにすぎません」。パウロはキリストの永遠性に基づいて建造します。これは私たちに何を伝えているのでしょう?もちろん、これはこの第一のすべてを支配している要点――ソロモンに優るキリスト――を実証しているのです。ソロモンよりも偉大な者、御子がここで述べられています――御子はこの子(ソロモン)より無限に優っているのです!
子たる身分とは何でしょう?神の全き御思いによると(ソロモンに関する神の部分的御思いのことではありません――それは絵図、型、肖像、影にすぎません)、子たる身分は永遠から発するものであり、もはや時間が存在しなくなる時になっても先に進み続けます。これが神の御思いによる子たる身分です。しかし、それはさらに何を私たちに伝えているのでしょう?私たちはこの世が造られる前からキリストにあって選ばれました。神は時の前から私たちを予め知り、任命し、定めておられました――これは何を伝えているのでしょう?実は、私は在る(I AM)は堅固さの同義語なのです。「あなたの御座は、おお、神よ、永遠に続きます」――これはキリストの堅固さ、教会の堅固さ、聖徒たちの堅固さを示しています。ああ、何という保証、何という力、何と途方もないものなのでしょう、信仰にとってこの神の主権的恵みという事柄は!恵みが主権をもって手を取り合って働いているのです!前にも指摘したように、ソロモンの誕生にまつわる出来事を見ると、ソロモンが選ばれた理由は神の主権的恵みを措いて他にありません。そして、これこそ子たる身分が伝えるメッセージです。そうです、主権と恵みです。何と広大なのでしょう!何と偉大なのでしょう!
前に述べましたが、あらゆる困難や問題から逃れる道は霊的に拡大されることであり、霊的に拡大される道はキリストをさらに新しく大いに理解することによります。それがここで述べられています。キリストを見て下さい!キリストについてこのように詳しく私たちに告げているのは、何が目的なのでしょう?私たちが欲しているのは単なる情報なのでしょうか?キリストは神の御子であり、永遠の過去に御父と一つだったこと、そしていつまでも永遠におられること――このような情報を私たちは欲しているのでしょうか?私は極めて敬虔な気持ちでこの質問をしています。また、同じ気持ちで言いますが、これが神の宇宙のどこかにある純粋に客観的な事柄だとしたら、そのような情報は私にとってあまり重要なものではありません。しかし、神がこれを人々に啓示されたからには、私はその理由を知りたいのです。それを啓示する時、神は何を考えておられたのでしょう?その答えは次の通りです――すなわち、あなたや私はそれと関わりがあるからなのです。世が造られる前に、私たちはそれに関して選ばれました。そして、キリストにあって私たちはそれに結ばれています。ああ、ですから、何と途方もないことなのでしょう、永遠の命、世々に存続する命を受けて、神の永遠の御子に結び合わされることは!子たる身分は、一時的な束の間のものにすぎないあらゆるものを超えて進みます。私たちはキリストに結び合わされることにより、ただちにキリストの永遠性の源に導かれます。キリストの永遠性には時間の面と、性格の面や性質の面があります。なぜなら、永遠の命は無限に続くものであるだけでなく、神の性質・本質の栄光だからです。ですから、パウロは永遠性というこの事実の上にすべてを建て上げて、私たちをその中にもたらします。何と素晴らしい啓示でしょう!真理として示されただけでも、これは人を魅了し、捕らえ、うっとりさせます。しかし、これが聖霊によって打ち込まれるとき、それはどれほど人を変容させ、確立し、解放することでしょう!ああ、教会がこの恩恵にあずかって生きさえするなら、狭量な一時的要素はすっかりなくなるでしょう!結局のところ、あれこれ色々なことがありますが、それは重要なことなのでしょうか?それはせいぜい一時的なものであって、この世のためのものにすぎません。しかし、神がこの世を超越して行っておられることこそ、大切なものなのです。
さて、御子としてのキリストと、次に子たる身分の内容と性質――これがここでヨハネとパウロを通して示されている第一の項目です。
主権を持つ御子
次に、ヨハネは御子キリストを主権を持つ王として示します。ヨハネはキリストを奇妙な方法で示しますが、その意義は何と深遠で恐るべきものなのでしょう。
「そこでピラトは再び官邸に入り、イエスを呼んで言った、『あなたはユダヤ人の王なのか?』。イエスは答えられた、『あなたがそう言うのは、自分で言っているのですか、それとも、他の人々が私のことをそう言ったのですか?』。ピラトは答えた、『私はユダヤ人なのか?あなたの同国人や祭司長たちがあなたを私に渡したのだ。あなたは一体何をしたのか』。イエスは答えられた、『私の王国はこの世のものではありません。もし私の王国がこの世のものなら、私の僕たちは、私をユダヤ人に渡すまいと戦ったでしょう。しかし事実、私の王国はこの世のものではありません』。そこでピラトはイエスに言った、『それでは、あなたは王なのか?』。イエスは答えられた、『あなたの言う通り、私は王です。このために私は生まれ、このために私は世に来ました。それは私が真理について証しするためです。誰でも真理につく者は、私の声を聞きます』」(ヨハネ十八・三十三〜三十七、アメリカ標準訳)。
主権を持つ方としての御子を示す、何と奇妙な方法でしょう!ここで、「私の王国はこの世のものではありません」と述べられています。これは生の発言であり、それを理解できる人が誰もいない所で語られました。しかし、ヨハネはある目的をもってこの発言を記録しました。なぜなら、この発言は子たる身分と王職に関係しているからです。しかし、パウロはこの事実を取り上げるだけでなく、この発言を解き明かして開示します。
「私の王国はこの世のものではありません」。パウロはこれについて何と述べているでしょう?
「神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そしてこの時代だけでなく、来るべき時代においても唱えられるあらゆる名を超えて、遥かに高くされました。また神は万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとしてお与えになりました……」(エペソ一・二十〜二十二)。
ここで読むのをやめます。なぜなら、次に続く御言葉は私たちを教会の偉大さに導きますが、今はキリストの偉大さについて扱っているからです。これがキリストの「私の王国はこの世のものではありません」という御言葉に対するパウロの解き明かしです。「……天上でご自分の右に座らせ、すべての支配や権威を超えて、遥かに高くされました」。ソロモンに対してこう述べることはできません――また、ソロモンに関する御言葉によると、ソロモンは他のどの王と比べても、あらゆる点で遥かに優れています――しかし、この御方の前ではソロモンでさえ霞んでしまいます!キリストはこの地上だけでなくあらゆる領域で、すべての支配と権威を遥かに超えています。キリストは万物の上におられます。これが王職という観点から見た御子キリストの偉大さです。
しかし次に、キリストの王国についてはどうでしょう?「私はその王国を永遠に堅くします」(歴代誌上二十八・七)。ああ、この御言葉はキリストとその王国によって完全に成就されます。パウロはこれをコロサイ人への手紙で取り上げています。
「……御父は私たちを暗闇の力から解放し、愛する御子の王国に移して下さいました」(コロサイ一・十三)
私はここで読むのを中断して、挿話として、今日キリスト教が陥っている混乱した状況を解きほぐしたいほどです。キリスト教は王国と教会の思想を混合してしまいました――このもつれこそ、教会が弱く、敗北しているすべての原因です。私が言わんとしているのはこうです。今日、主の民は――そうです、福音的キリスト教ですら――ソロモン王国流に教会を運営しようとしているのです。ソロモン王国は地的な王国であり、この世のものでした。それは目で見て知ることができ、耳で聞くことのできるものでした。また、それはこの世にあって、この世が一目置くものでした。巨大であるがゆえに印象的であり、ほめそやされるものでした。様々な名声、称号、この世に属するあらゆるものによって、地位を得て、影響力をふるうものでした。人々はそれを「王国を拡張すること」と称しています。王国に関する彼らの考えは間違っています。ここでパウロは現経綸に関して、この二つのもの――教会と王国――を結びつけていますが、「それはまったく天的なものであって、この世のものではない」と述べています。この後、彼は直ちに次のように続けます。
「もしあなたたちがキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにキリストはいて、神の右に座しておられます。あなたたちの思いを、地にあるものにではなく、上にあるものに置きなさい」(コロサイ三・一、二、アメリカ標準訳)。
そうです、宗教的な方法すらいけません。「私の王国はこの世のものではありません」と主は言われました。そして、パウロはそれを解き明かします。教会は現経綸においてキリストの王職とその王国の諸々の原則を、霊的な方法で体現します。そして、この王国の諸々の原則は、教会を高く上げ、この世からまったく切り離して、天的なものとします。教会がこの地上に属する独自の決まりや形式や手段を持つようになり、建築や衣裳やそうした類のあらゆるものを用いるようになるやいなや、私たちはソロモン流の王国に逆戻りしているのであり、教会の天的土台を離れてしまったのです。
「私の王国はこの世のものではありません」とヨハネはこの御子について述べ、パウロは解き明かして言います、「神はキリストを天上でご自分の右に座らせ、すべての支配を超えて、遥かに高くされました」、「万物をキリストの足の下に服従させ」、「万物の上にかしらとして与えられました」。しかし、これはどこのことでしょう?この世を行き巡って、これがどこに見つかるのか見てご覧なさい。見つかるのは、そのおぞましい模造品である法王とローマ教会だけです――それは「万物の上にかしらとして教会に与えられました」というこの御言葉が示しているものの偽物であり、一時的なものにすぎません。パウロにとって、それは霊的なものです。キリストとの合一により、私たちは時間の中から引き上げられて永遠に移されただけでなく、地上から引き上げられて天上に移されました。現経綸では今や、すべてが霊的で天的な秩序に属しています。「私の王国はこの世のものではありません。もし私の王国がこの世のものなら、私の僕たちは戦ったでしょう」。この御言葉はこれを述べる一つの方法です。別の言い方をすると、「私の王国はこの世のものではありません。私の僕たちはそれを確立するために肉や血によって戦うことはありません」となります。パウロはその意味を私たちに告げます、「私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、主権者たちに、権力者たちに、この暗闇の世の支配者たちに、天上にいる悪の霊の軍勢に対するものです」(エペソ六・十二)。これがキリストが言わんとされたことです!ここでキリストはパウロを通して自ら語り、解き明かされます。キリストがピラトに語った時、そこには理解できる人が誰もいませんでしたが、その言葉をキリストは解き明かしておられるのです。今や、解き明かすことができます。御霊が来臨して、一群れの人々を形成されたからです。その人々は御霊により、主が語られたことを理解することができます。主が語られた時、誰も理解する人がいなかったので、「私にはまだあなたたちに言うべきことがたくさんあります。しかし、今はまだ、あなたたちはそれに耐えられません。しかし、真理の御霊が来る時、御霊はあなたたちをすべての真理の中へと導きます」(ヨハネ十六・十二、十三)と主は言わなければなりませんでした。この御言葉は今や成就しました。肉や血によってではありません。なぜなら、これは霊的なものだからです。これは広大な領域にまで及びました。ソロモンの領土よりもずっと広大です。そして、すべてはこの領域の中で、この領域から治められます。これに関していかなる間違いも犯さないで下さい!この世と、この世の王国は、自分自身の道を進んでいるわけではありませんし、究極的には悪魔の道を行くこともありません。確かに、すぐ目にとまるのはこの暗闇の世の支配者たちであり、悪魔の働きなのですが、その背後には、悪魔とその働きを利用している方がおられます。サタンはこの御方の僕にすぎません。この御方は至高の主であり、すべての支配や主権、権威や名を遥かに超えています。その名がいかなるものであれ、人や悪魔であれ、この御方は遥かに超越しています。聖書が正しくないか、あるいは、これが事実であるかの、いずれかです。
主イエスのこの主権は何と途方もないものなのでしょう!キリストの偉大さを真に理解する時、私たちの問題の多くは解決し始めます!これはなぜでしょう?この問題やあの問題、また他の問題が解決し始めるのはなぜでしょう?なぜサタンが自分の道を大手を振って歩いているように思われるのでしょう?なぜサタンは嘲り、勝利しているのでしょう?あなたは、サタンが勝利している、と確信しているのでしょうか?もっと先を見て下さい。そして、サタンの働きすら、私たちの主の主権によって、ゆくゆくは神の御旨に役立つものとされるのをご覧なさい。「兄弟たち、あなたたちに知らせたいのですが、私の身にふりかかった事が、むしろ福音を前進させることになったのです」(ピリピ一・十二)。悪魔や人々の手により教会が苦しみを受けたことが、最終的には神の働きを前進させる結果になったのです。
贖う近親者としての御子
ヨハネは次に、王としてのキリストを示します。そうです、謙卑や苦難の中にあっても王なのです。ああ、ここには素晴らしい秘密や奥義があります。それを述べるにはあまりにも時間がかかるので、今は扱えません。ここではそれはおぼろげに見えるだけですが、ソロモンの生涯に起きた素晴らしい出来事の中にそれを見ることができます。その出来事はソロモンの知恵を示す特別な例として選ばれました。疑いもなく多くの出来事があったはずですが、その中からこの出来事が抜き出され、例として記録されました――その出来事とは二人の女性と二人の赤ん坊に関するものです。彼らは一緒に暮らし、一緒に寝ていました。ある夜、赤ん坊の一人が下敷きになって死んでしまいました。その赤ん坊の母親は自分の死んだ子をもう一人の母親の脇にそっと置き、生きている赤ん坊を自分の方に取りました。翌朝、本物の母親は自分の子がいなくなっていること、そして死んでいる子は自分の子ではないことを見いだしました。そこで、彼女はこの問題のことでソロモンのところに行きました。この二人の女はソロモンの前に召還され、この問題がすべてソロモンに示されました。ソロモンは神から与えられた洞察力、識別力、知恵を用いて――知恵は常に問題を解くための手段であることを思い出して下さい――過激なやり方をすることに決めました。ソロモンは剣を求めて言いました、「その生きている子を真っ二つにして、片方ずつ両方の女に与えなさい」。これで問題が解決したのです!偽物の母親は傍観者のように立ち上がり、この判決を聞いても、冷酷なことに動じませんでした。本物の母親は手放しました。彼女はその子の命を救うために、自分を下ろし、自分の権利を手放しました。彼女は言いました、「ああ、その子をあの女に与えて、決して殺さないで下さい」。彼女が言ったのはこういうことでした、「私の子を殺さないで下さい。私はその子と離ればなれになっても構いません。私にとって大事なものを、すべて私は手放します。私はいかなる代償も払いますから、その子を生かしておいて下さい!」。ソロモンは言いました、「この女が母親です。彼女にその子を渡しなさい」。
主イエスの次の御言葉は覚えておられるでしょうか?「羊飼いではなく、羊が自分のものではない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置いて逃げ去ります。そして、狼は羊を奪い、散らします。彼は雇い人であって、羊のことを気にかけないからです。私は良い羊飼いです……私は羊のために自分の命を捨てます」(ヨハネ十・十二〜十四)。この二つのことの原則がおわかりになったでしょうか?あなたは死と命のこの問題を解かなければなりません。この問題はどうすれば解けるのでしょう?あなたが自分の命を明け渡すことによってです。キリストの場合、そうでした。キリストにとって、この問題を解いて、ご自分の権利、主張、所有権を確かなものにする唯一の方法は、手放すことだったのです。「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失い、誰でも私のためにそれを失う者は、それを見いだします」(マタイ十六・二十五)。この問題をよく調べるにはもっと長い時間が必要でしょうが、私はおぼろげながらここに王職を見ます。ソロモンよりも偉大な方がここにおられ、この御方が遥かに重大な問題や状況を取り扱っておられるのです。
キリストの権利と所有権が確立されなければなりません。キリストはどうやってそうされるのでしょう?握ることによって、肉の戦いによって、自己主張によってでしょうか?いいえ、自分の命を多くの人の贖いの代価として与えることによってです(マタイ二十・二十八)。ここでキリストは生死の問題全体を取り扱っておられます。これをヨハネは示しているのです。
私がこの箇所から見るのは次のことです。ヨハネは主イエスが言われたことを記しました――「父よ(中略)あなたの子の栄光を表して下さい。子があなたの栄光を表すためです。あなたは子にすべての肉を支配する権威を与えて下さいました。それは、あなたが子に賜った者たち全員に、子が永遠の命を与えるためです」(ヨハネ十七・一、二)。「父はご自分の内に命を持っておられるように、子もまた自分の内に命を持つようにして下さいました。また、父は子に裁きを下す権威を与えて下さいました。子は人の子だからです」(ヨハネ五・二十六、二十七)。ここに子たる身分の三つの面が示されています。そしてこれにより、彼は直ちに人類と決定的関係を持つに至ります。人の子という言葉は人類を表す名前です。この言葉は人との関係を示しています。しかし、彼はどうやって人を見いだされるのでしょう?死によってです。彼はどうやって人を贖われるのでしょう?贖う近親者、人の子としてです。人を死者の中から復活させるために受けた権威を、彼はどのように行使されるのでしょう?彼は自分の命を捨て、自分の権利を手放し、自分の主張を放棄し、自分の個人的利益を脇にやって、贖いの目的を果たすために死なれます。「私は良い羊飼いです(中略)私は羊のために自分の命を捨てます」。人の子が贖って下さいます。どうやってでしょう?十字架というこの無限の知恵によってです。「十字架につけられたキリストは神の知恵です」(一コリント一・二十三、二十四)。命を捨てること、手放すことというこの無限の知恵によってです。例の女は自分の権利だったものを手放しました。主イエスは「神の形の中に存在されますが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、ご自分を空しくし、僕の姿を取り、人間の姿になられました。その有様は人と異ならず、ご自分を低くして、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました」(ピリピ二・五〜八)。このように手放すことにより、彼は私たちを贖って神にもたらし、群れを救って下さいました。ソロモンは大いに賢く、例の物語はとても印象的で美しいのですが、彼はこれを行えませんでした。ソロモンは全人類を贖う近親者というこの広大な領域の中に入って行けませんでしたし、この原則に基づいて死に至るまで従順になり、人類を贖うこともできませんでした。
以上がキリストの偉大さです。キリストは御子であり、至高の王職を持つ永遠の御子であり、贖う近親者たる御子です。パウロはこれを開示して、教会をまさにキリストにあるひとりの人の完全な身の丈にもたらします――しかし、これは別の主題です。
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