聖書朗読:歴代誌上二十九・二十一〜二十二、列王記上八・六十二〜六十三、 歴代誌下四・一、七・一、四、五、九、エペソ一・六〜八、三・十七〜十九、五・二十七
歴代誌のこれらの章では、すでに見たように、ソロモンは神からふんだんに溢れるほどの厚遇を受けます。これは神が見ておられたのはソロモンよりも偉大な方だったからです。この御方を神は絵図という方法で人々に説明しようとしておられたのです。ですから、ソロモンの治世に関する別の記録を見ると、十字架の偉大さを示唆する描写も見つかります。神はこれを絵図という同じ方法で示しておられます。十字架を指し示す大いなる祭壇が示されており、それには二つの項目が関係しています――王の高揚と神の家の奉献です――この祭壇の意義の重大さは、いけにえの膨大さによって示唆されています。
十字架と関係しているこの二つの項目をざっと眺めることにします。十字架の偉大さは第一に王の即位と関係していることがわかります。これについては新約聖書でかなり述べられています――この即位、この高揚は、十字架で成就された途方もない働きのためなのです。
「……死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました。それゆえ神はまた彼を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものが、イエスの御名によってすべて膝をかがめるためです」(ピリピ二・八〜十)
次に、神の家が十字架の偉大さに基づいてどのように確立されたのか、また、教会の意義がどのように十字架から発するのかがわかります。これについてはエペソ書からいくらか読みました。エペソ書は他のいかなる手紙、聖書のいかなる他の箇所にもまして教会と関係しています。教会の基礎はまさに主イエスの十字架であることがわかります。
しばしこの話題を離れて、今回は十字架の偉大さについてだけ話すことにします。
無数の無益ないけにえ
ソロモンが献げたこのいけにえについて読むと感銘を受けます。これについて考えると気が遠くなりそうです――雄牛の大群に次ぐ大群が献げられたのです!当時、公道は牛や羊でごった返していたに違いありません。数千のいけにえが続々と献げられていたからです!これについてあれこれ想像してみても仕方ありません!文字通り、血の川が何本も流れていたはずです。これは恐ろしい光景です。いけにえの意義や霊的価値という道徳上の理由がなければ、当時の祭司たちはきっとその悲惨さに打ちのめされていたにちがいありません。祭司たちが数千の雄牛や羊や小羊を続々と屠ることができたのは、いけにえの意義を理解していたからに他なりません。これは私たちの想像力を超えています――また、あまりこれについて思い巡らしたくもありません――しかし、これは主イエスの十字架がいかに偉大であるかを示す型なのです。これは私たちに再考を促すものです。もしこれが十字架の型、罪のための献げ物であるキリストの型であるなら、そしてまた、型は常にその本体よりも遥かに劣るということが真実なら、十字架はどれほど偉大であることでしょう!論理的に考えただけでも、十字架は神の御思いにとって途方もないものであることがわかります。しかしそれでも、聖書がはっきり確かに告げているように、ソロモンの時代、彼の即位と宮の奉献の時に膨大な供え物がささげられましたし、記録されている最初のいけにえ(アベルの供え物)からその時に至るまで多くの世代にわたって供え物ささげられてきて、その後も数百万という数のいけにえがささげられたわけですが、それらのいけにえは最終的にはいかなる意味においても役に立ちませんでした。
いけにえが無益だったのには二つの理由があります。第一に、いけにえは最終目標に決して到達しなかったことです。何度も何度もささげられなければならなかったのです。それは際限がありませんでした。そうです、今朝いけにえを献げたおかげで、その時は神を儀式的になだめることができたかもしれませんし、神はそのいけにえを考慮して受け入れて下さったかもしれません。しかし、その晩にはまた繰り返さなければならず、明日もそうなのです。このようなことが毎朝、毎晩、一生続きます。そして、どれほど長く生きながらえたとしても、この件に決着がつくことはありません。次の世代も同じことを続けなければなりませんし、そのまた次の世代もそうなのです。
いけにえが無益だった第二の包括的理由は、いけにえは決して良心をなだめられなかったことです。つまり、いけにえは罪の重荷を良心から取り去ることが決してなかったのです。いけにえは外側の儀式的なものにすぎませんでした。いけにえは宗教にすぎず、どれほど徹底的に行ったとしても、実際のところ内なる命とは何の関係もありませんでした。「……供え物やいけにえは、良心に触れて、礼拝する者を完全にすることはできません」(ヘブル九・九)。最終的に結局のところ、いけにえは無益だったのです。
十字架――永遠に有効な一つの献げもの
そのいけにえの膨大さをご覧なさい!再び言いますが、ソロモンが献げたこの膨大な供え物のことを考えると唖然とします。しかし次に、各世代を足し合わせてご覧なさい!次に、単純ですが素晴らしいこの御言葉が来ます、「……諸々の時代の終わりにあたって、ただ一度キリストが現れて、ご自分を献げたことによって、罪を取り除いて下さいました」(ヘブル九・二十六)。「……イエス・キリストの体が一度限り永遠にささげられたことにより」(ヘブル十・十)。「……キリストは罪(複数)のために一つの永遠のいけにえを献げた後、神の右に座られました」(ヘブル十・十二)。一つの供え物、ただ一つだけです!これは何という御業でしょう!何世代にもわたって行われてきたこの膨大な供え物が決してなしえなかったことを、たった一つの行いでなしたのです。「彼は一つの供え物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされました」(ヘブル十・十四)。御言葉によると、それ以外の供え物はどれも、礼拝者たちを全うすることができませんでした。しかしキリストは、一つの供え物によって、永遠に全うされたのです。何といういけにえでしょう!何という十字架でしょう!二万二千頭の雄牛、数千の羊や小羊がささげられました。しかし、たった一つの供え物が一度限り永遠に成就したのです!この意義を本当に肝に銘じるためなら、これを何度繰り返しても構いませんし、思い巡らしても構いません。ただ一つの供え物、たった一つが、他の供え物をすべて飲み尽くしたのです!
なぜ一つの供え物が、一度限り永遠に成就したのでしょう?この一つの供え物には他の供え物にはない特徴があったからにちがいありません。その特徴とは何でしょう?性質が完全であったという点において、神をまったく満足させたことに他なりません。動物のいけにえは儀式的には完全であり、予型としてはしみも傷もありませんでしたが、実際には身体的な面しか関係していませんでした。それらは選り抜きのいけにえであり、特別な品種や血統に属していました。それゆえ、混血による欠陥も特にありませんでした。しかし、それは外面的なものにすぎませんでした。血流まで調べるなら、そこには旧創造が見つかったでしょう。この雄牛たちも他の雄牛と同じように獰猛だったでしょう!獰猛さが血液中に宿っていたでしょう。なぜなら、獰猛さは性質であり、旧創造だったからです。儀式的な意味においてのみ、動物のいけにえは完全でした。しかし、キリストは――儀式的にではなく、実際的に、内在的に完全でした――傷のないご自身を神に献げられました――儀式的にではなく実際に献げられたのです。キリストの御血にはいかなる腐敗もありませんでした。神の奥義によると、キリストが地上の母親から受け継いだものと、ご自分の神聖な性質との間には、はっきりした境界がありました。汚れたものは切り離されていました。キリストの中には、アダムの堕落によるものは何もありませんでした。「この世の君が来ます。彼は私の内に何も持っていません」(ヨハネ十四・三十)。この一つの供え物の性質は本質的かつ内在的に完全でした。他のどのいけにえにもこのような特徴はありませんでした。神が求めておられたのはこれです――完全な存在、完全な人間、創造された完全な種族、人を創造するにあたって神が抱いておられた御思いを本質的性質により完全に満足させる者です。神はそのような者としてキリストを見いだされました。そして、キリストが神に献げられたので、もはや供え物は必要ありません。それは一度限り永遠のものだったのです。もはや成就されています。神は満足しておられるからです。十字架につけられた方がどなたなのかという観点から見た、十字架の偉大さ――これが私たちの信仰の偉大な基礎です。なぜなら、十字架が偉大なのは、キリストが偉大だからです。
このような十字架の偉大さは、私たちの救い、希望、義認、義の基礎です。ですから、どこか別の所に完全さを探すのはきっぱりとやめようではありませんか。自分自身の内や他の人々の内に完全さを探していけません。神が満足しておられるものに目を留めようではありませんか――これこそ神が満足しておられる唯一の決定的な対象なのです。
ですから、私たちは十字架を見なければなりません。神聖な用語を用いると、四つの寸法を持つ十字架を見なければなりません――その寸法とは広さ、長さ、高さ、深さです――このように十字架を見ない限り、私たちの救いは依然として何か本質的な性質に欠けていますし、私たちは救われた民かもしれませんが、神の意図された通りの民ではないのです。
十字架の及ぶ範囲
次に述べたいのは、私たちの主イエスの十字架は、旧約におけるいかなる予表や予型とも異なっており、ソロモンの時代のこの膨大な絵図とも異なっているということです。主イエスの十字架は超歴史的なものだったという、この第二の点で異なっていたのです。これは技巧的表現に聞こえるかもしれませんが、私が言わんとしているのは、主イエスの十字架は時間を超えたものであるということです。そして、時間とは歴史の別の言葉に他なりません。最も初期に書かれたクリスチャンの文献は新約聖書の書簡ですが(福音書ではありません。福音書は書簡の後に書かれたからです――これをはっきりと心に留めておいて下さい。これには大きな違いがあるからです!)、カルバリは一度たりとも述べられていません。あなたがこれまでこれに注意したことがあるかどうか、私にはわかりません。最も初期のクリスチャンの文献では、十字架刑や十字架の物語は決して述べられていません。述べられているのは常にキリストの死です。十字架刑やカルバリではなく、死について述べられているのです。これには物凄く大きな違いがあります。一方は歴史的出来事、一つの事実にすぎず、この世の歴史のいつかどこかで起きた事件にすぎません。これが十字架刑であり、歴史的出来事です。キリストの死はそうではありません。書簡を書いた時、使徒たちは何か霊的な事柄に取り組んでいたのであり、歴史的出来事に取り組んでいたのではありません。局所的なものではなく普遍的なものに、時間の中にあるものではなく永遠のものに取り組んでいたのです。使徒たちはキリストの死について扱いました。そしてそれは広大な背景に対抗するために、広大な舞台の中に置かれました。書簡ではキリストの死についてかなり述べられていますが、死の物語は一度も語られていません。これには意味がないわけではありません。その理由は、書簡は私たちを十字架の意義という現実の領域の中にもたらすからです。書簡が書かれたのは、十字架刑から四十年以内のことでした。試しに、このような出来事が私たちの生涯の間に起きて、その出来事の四十年以内にそれについて書くことになったとしましょう。きっと私たちはその物語について語り、詳細をすべて与えて、何が起きたのか、どこで起きたのか、当事者は誰か、述べるにちがいありません。福音書に記されている詳細をすべて与えるに違いありません。しかし、使徒たちは書簡を書いた時、実際の出来事について書いていたにもかかわらず、そうしたことを一つも取り上げませんでした。使徒たちにとって、十字架は霊的なものであり、まったく別の領域に属するものだったのです。なぜなら、十字架は内なるものだったからです。主イエスの十字架は使徒たちにとって、エルサレム郊外の丘陵で起きた歴史的出来事以上に無限に偉大なものだったのです。キリストの死についての述べ方は単純です。「諸々の時代の終わりにあたって、ただ一度キリストが現れて、ご自分を献げたことによって、罪を取り除いて下さいました」(ヘブル九・二十六)。この御言葉は単純ですが、時間や空間を遥かに超越していることがわかります。使徒たちの書簡には、暦上の日付が全く記されていませんが、これは注目すべきことではないでしょうか?使徒たちの暦にはもともと十字架の日付は記されていませんでしたが、それにも関わらず、十字架は暦を一変させるものだったのです。使徒たちにとって、十字架は単なる歴史的出来事ではありませんでした。十字架は霊的なものであり、暦に記される出来事よりも遥かに偉大なものだったのです。
神がイスラエルを選ばれたことの正しさの証明
さて、この意義について少し見ることにしましょう。第一に、主イエスの十字架は歴史全体を集約するものであり、それを超越するものであって、私たちを神の主権という偉大な領域の中にもたらします。ああ、神の主権について黙想すればするほど、私は途方もない高揚、救い、解放を覚えます。恵みによって働く神の主権について黙想する時は、特にそうです!ここでは、主イエスの十字架により、神がイスラエルを選ばれたことの正しさが示されています。イスラエルの物語は歴史ですが、その背景には何かがあります。それはイスラエルの選びです。イスラエルはあらゆる諸国民の中から選ばれ、神へと分離されましたが、これは神が主権的御旨のためになさった主権的働きでした。その御旨とは何だったのでしょう?神はなぜイスラエル人を選び、彼らを一つの民として分離して、ご自分のものにされたのでしょう?一つの目的のためです――その目的とは、イスラエル人により、神がご自分をすべての諸国民に啓示して、イスラエルをすべての諸国民に対する祝福とすることです。これが神の御旨でした。そして、この偉大な選びの御旨を成就するために、イスラエル人は諸国民から切り離され、諸国民といかなる交流ももたない、分離された民にならなければなりませんでした。イスラエル人は聖なる国民となり、道徳的・霊的生活という点で、諸国民から分離され、区別され、完全に孤立しなければなりませんでした。イスラエル人はまったく神のものであり、それはイスラエル人が啓示によって神をすべての諸国民にもたらすためでした。この御旨を成就するには、イスラエル人の分離がいかに必要だったかわかります!これが原則であり、法則です。もし神の啓示や祝福の道具、経路、器となることを望むなら、あなたは献げられ、聖別され、まったく切り離されて、神へと分離されなければなりません。ですから、この区別を損なって、イスラエルを周囲の国民と混交させようと、サタンは常に絶えず努力し労苦してきたのです。イスラエルの歴史は、イスラエルの献身を損なおうとするサタンの努力の歴史でもあります。そして、イスラエルが堕落して、自分たちの選びの召しや目的というビジョンを失い、自分たちに関する神のこの偉大な御旨が視界から消え去って行った時、彼らは異国民と結婚し、区別の壁は崩れ落ちました。そこで、預言者たちがやって来て、イスラエルの聖なる選びの召しを宣言しました。それは、当初イスラエルがどのように分離されて神のものになったのかを思い出させるためであり、神が彼らを選ぶにあたって行われた偉大な御業を再び示すためでした。そして、そうすることによって、自分を再び神に献げて、この霊的姦淫をすべて断つようイスラエル人に訴えたのです。霊的姦淫という思想は、預言者たちの言葉が示すとても顕著な思想であり、預言者たちはこの霊的姦淫を取り除いて再び聖なる者となるよう訴えました。預言書はこのようなことで満ちているのはご存じでしょう!イスラエルの聖なる使命を説き、立ち返るようイスラエルに求めた預言者たちに対して、イスラエルはどうしたでしょう?彼らは預言者たちを迫害して殺したのです。旧約の終わり頃の状況はこの通りであることがわかります。その後、キリストが出現されました。彼はダビデの子孫から生まれ、律法の下に生まれて、ユダヤ人となられました。この地上の事柄に関する限り、彼はユダヤ人であり、イスラエル国民でした。彼は聖なる汚れのない者であり、罪人とは区別されていました。この広大な背景がおわかりでしょう。イスラエルが召され、選ばれたのは、あることを行い、ある存在になるためでしたが、キリストはその使命をすべてご自分でお引き受けになったのです。キリストは神の御旨をすべて体現されました。キリストはこれを神に献げるにあたって、何を行われたのでしょう?キリストはイスラエルの使命をすべて成就して、神と祝福を全世界にもたらされたのです。この御方によって、イスラエルを選んだ神の正しさが証明されました。メシヤである主イエスの十字架により、神の主権の正しさが証明されました。キリストはすべてを成就して、神の正しさが示されました。これがキリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれた理由です――イスラエルを選んだ神の正しさを証明し、祝福をすべての諸国民にもたらすためです。そして、キリストの十字架により、イスラエルだけでなく地のすべての民が神の祝福を受けます。これこそ、彼らに対して神が常に抱いておられた御思いでした。このようなことはユダヤ人のいけにえでは不可能でした。この十字架は何と偉大なのでしょう、神の主権は何と素晴らしいのでしょう!
創造者たる神の正しさの証明
神の主権により、あらゆる悲劇や失敗もイエス・キリストが処置して征服して下さいます。また、あらゆる過ちも彼が責任を負って下さいます。この原則はこのように広範に及ぶものですが、これからあなたが慰めを得ているのかどうか、私にはわかりません。主はそうしたものを飲み尽くして下さいました。そして今、イスラエル国家に対してではなく、ユダヤ民族や他の民族のすべての人に対して神はこう言われます、「ユダヤ人と異邦人との間の悲劇は十字架によって取り除かれました。また十字架により、私が人を創造したのは結局のところ正しかったことが証明されたのです」。人々はこの造られた世界について論じて言います、「悲劇です!神は敗北しました!神は失敗を犯しました!神は間違いを犯しました!見てご覧なさい!いったいなぜ神はこの世や人を造られたのでしょう?何が起きるか、神はご存じなかったのでしょうか!事の成り行きを見る限り、神がこの世界を造られたのは正しいことではありません!」。しかしイスラエル同様、全人類についても、主イエスの十字架によって神の正しさが証明されました。これこそ、「世の基の前から屠られていた神の小羊」(黙示録十三・八)といった御言葉の意味です。それが意味するのは、神は主イエスの十字架によりこの世の歴史全体を引き受けて、それを飲み尽くしてしまわれた、ということです。今のところ、世界は今ある通りのものですが、神は主権をもって主イエスの十字架により悲劇を益に、苦難を価値あるものに変えて下さいます。それから、その後、神は全被造物を今の状態から解放して下さるのです。
悪の天的力は征服された
これは私たちを結論の言葉に導きます。主イエスの十字架の及ぶ範囲は超歴史的であるだけでなく、地球外にも及びます。神の御言葉が啓示しているように、この世界は単独で存在しているのではありませんし、この地球で起きる出来事の及ぶ範囲は地球だけに限られているのでもありません。啓示されていることによると、この宇宙の支配権と統治権を巡って、この世界を超えたところやその周辺や外側で、巨大な戦いが繰り広げられています。その暗示がエペソ書六・十二のような御言葉に示されています。「この暗闇の世の支配者たち(中略)天上にいる悪の霊の軍勢」。戦いが進行中です。ダニエル書にもこれが暗示されています――大天使に立ち向かっていた霊の君主たちが、主の権益を妨げて、この世で勝利していたのです(ダニエル十・十三、二十)。この世界を超えた所で、またこの世界の周辺で、この宇宙の支配権を巡って戦いが進行中です。主イエスの十字架の意義はこの領域にあります。霊的戦いや競り合いが繰り広げられているこの周辺領域のただ中に、主イエスは十字架によって入って行かれました。そして、ご自分から主権者たちや権力者たちを剥ぎ取って、「彼らをさらしものにし、それによって彼らに対して勝ち誇られました」(コロサイ二・十五)。そうです、まさにこの領域で、主イエスの十字架は究極的な最高の意義を発揮したのです。そして、この宇宙の主権という問題は十字架によって決着がついたのです。ですから、このエペソ人への手紙は――私たちはいつもこの手紙を心の片隅に留めています――包括的かつ総括的にこう述べています、「……神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右に座らせ、彼を、すべての支配、権威、権力、主権の上に置き、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました。そして、神は万物をキリストの足の下に従わせられました」(エペソ一・二十〜二十二)。これが十字架の勝利です!これがキリストの死の意義と価値が及ぶ範囲です!キリストは死ぬことによって死を屠られたのです。サタンに渡されることによって、サタンを征服されたのです。墓に下ることによって、墓からその刺を永遠に取り除かれたのです。これが神の主権です!それは何と偉大でしょう――超歴史的であり、地球外にも及びます!主イエスの十字架は何と偉大でしょう!誰がそれを描写できるでしょう、誰がそれに辿り着けるでしょう?
しかし、親愛なる友よ、私たちはこれについてこのように黙想していますが、それが単なる素晴らしい言葉や思想で終わらないようにしようではありませんか。ああ、この十字架は私たちのためにどれほど希望や確かさを与える言葉を語りかけてくれることか!あなたは自分自身や、他の人々や、この世界に絶望したことがあるでしょうか?主イエスの十字架はあなたのすべての絶望に答えます。イエスが死んで復活されたからには、不可能なことは何もありません。あなたも私も、自分たちが思うほど無力ではありません。そうです、イエスが死者の中から復活されたからには、すべてが可能なのです。復活により、キリストの宇宙的勝利の印が神から与えられました。イエスが死なれた以上、希望の福音は私たちのものです。「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの神また父。この御方はその大いなるあわれみにより、イエス・キリストの死者の中からの復活により、私たちを再生して生ける望みを与え、あなたたちのために天に蓄えられてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない嗣業を受け継ぐ者として下さいました。あなたたちは、終わりの時に啓示されるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力によって守られているのです」(一ペテロ一・三〜五)。
形而下の被造物の贖い
十字架と被造物の贖いについては何も述べませんでした。一方においてイスラエルとイスラエルに関する神の正しさの証明があり、他方においてこの宇宙的な地球外の領域がありますが、その両者の間には地球があって、十字架によりこの形而下の被造物の贖いは確保されています。被造物は虚無に服しており、呪いと腐敗の中にありますが、主イエスの十字架は虚無、呪い、腐敗をみな対処しました。そして、キリストにあって、朽ちることのない被造物となるでしょう――私たちの体もその一部ですがそれだけではありません――全被造物がそうなるのです。この全被造物が腐敗の束縛から解かれる日、被造物の今の呻きが解放と救いの叫びにとって代わられる日、被造物が栄化される日、その日は何という日でしょう!主は御足を置く所を栄光の場所とされます(イザヤ六十・十三)。これは御足下にある新しい地のことを言っています。
そしてその後、「義が住む新しい天と新しい地」(二ペテロ三・十三)が到来します。これが主イエスの十字架の希望です。それは大いなる十字架です。それを描写しようとどれほど努力しても、描写しきれません。主は私たちに、この一度限り永遠に献げられた一つの供え物の偉大さを理解する新しい心を与えて下さいます!
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