「……神の大能の力の働きにしたがって、信じる私たちに働く彼の力の卓越した偉大さ。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座らせ、彼を、すべての支配、権威、権力、主権の上に置き、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました」(エペソ一・十九〜二十一、アメリカ標準訳)
高く上げられたキリストは人の完全な代表である
今回の私たちの主題は、これらの御言葉の中に入り込んで、その意味するところを理解・感得することです。この目的を達成するために、私たちは主にまったく依り頼みます。この節全体を熟慮しつつ読むなら、次のことがわかるでしょう。すなわち、キリストが神の右におられることには目的があるのです。その目的とは、キリストを私たち信者全員の総代表とすることです――「信じる私たちに」とある通りです。これには関連があります。神は「キリストをご自分の右に座らせ」ましたが、これはキリストを死者の中からよみがえらせたこの卓越した偉大な力を行使した最終段階でした。そして、この句の終わりで、神は「キリストを万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会は彼のからだです」と述べられています。キリストは神の右に単独者として――高く上げられて孤立している、誉れある主として――着いたわけではありません。そうではなく、神の御思い、意図によると、キリストは私たち信じる者、彼のからだである教会と関係しているのです。神の御言葉が示す根本的なキリスト像は、キリストは人の代表たる立場、地位にあるというものです。これこそ、イエス・キリストについての啓示全体の最も根本的なものです。キリストは人に関する神の思想の化身です。しかし奇妙なことに、この化身たる御方は究極的には人間経験をまったく超越した領域にもたらされます。この御方は他の誰もいたことのない所に置かれます。キリストは完全にまた最終的に代表者として公にされます。それは死を通り抜けて死を超越した経験と立場によります。私は言いますが、人類史上、他の何者もそこに達したことはありません。一見、この事実は「キリストは代表である」という観念を粉砕するかのように思われます。他の誰も到達したことのない領域や土地でキリストが代表であると言っても、どうやってキリストはすべての人の代表になれるのでしょう。しかし、これについてさらに注意深く考えるなら、まさに正反対であることがわかります。これこそキリストが代表たりうる理由であり、その方法なのです。なぜなら、どの領域や係累においても、その完全な代表となるには、その領域の目的や可能性をすべて実現する必要があるからです。ある花を取り上げて「この花はこの種類の花の完全体です!」と言うには条件があります。その条件とは、その花があるべき姿を完全に表すこと、そして創造時に内包していた可能性をすべて開花させることです。その花が成長を遂げて、神に定められた生来の目標に完全に達しない限り、完全体とはいえません。ですから復活したキリストは――こう言ってもよろしいでしょうか?――人を創造したときに神が抱いておられた御思いの完全体であり、それゆえ、キリストは他のいかなる人も到達したことのない領域の中に入っていかなければならなかったのです。人に対する神の当初の御思いに完全に応える地位と豊かさをキリストは持たなければなりません。
復活したキリストはあらゆる制約を一掃する
しかし、私たちはこれに取りかからなければなりません!聖書の中には、旧約と新約のどちらにも、死者の中から甦った他の人々がいます。ラザロは顕著な例です。しかし、あまり議論するまでもなくわかることですが、復活後のラザロと復活後のキリストとの間にはとても大きな違いがあります。ラザロは死者の中からよみがえりましたが、依然として同じ人のままでした。ラザロに何らかの変化があったことを示すものは何もありません。ラザロは前と同じまま戻って来ました。ラザロの復活は神聖な意味における復活ではなく、甦生だったのです。復活と甦生との間には大きな違いがあります。主イエスの場合、これについて独特な点があります。キリストの独特さはその性質にあります。復活後、キリストはその性質を帯びておられました。多くの違いがありました。その違いはあまりにも現実的だったため、キリストと最も親密な関係にあった人々、最も親密にキリストと同行していた人々でさえ、神からの特別な力づけがない限り、キリストを見分けられなかったことがわかります。キリストが彼らを受け入れたのは、昔の理由に基づいてではありませんでした。キリストは昔の愛情に満ちた人間的抱擁や接触をまったく許可されませんでした――「私に触れてはいけません」(ヨハネ二十・十七)――なぜなら、抱擁や接触は天然的生活の古い水準にある仕草だったからです。他方、キリストはご自分に触れることを許されましたが、それは信仰による接触でなければなりませんでした。キリストは「私に触ってみなさい」と疑いを持つ者を招かれました――「あなたの手を伸ばして、私の脇に入れなさい」(ヨハネ二十・二十七、アメリカ標準訳)――しかしこれは疑いと不信仰に打ち勝ちなさいという信仰への招きでした。これはそれまでとは異なる種類の関係でした。というのは、キリストはある領域の外に出て行って、別の領域の中に入られたからです。今や、昔の制約や束縛はもはやありません。空間はなくなり、時間もなくなりました。キリストは姿を消されますが離れることはありません。そこにおられるのであって、やって来るのではありません。今や、新たな力、新たな能力、新たな才能があります。すべてが別の領域にあるのですが、それでも大いに現実的です。キリストはその現実を強化されます。なぜなら、信者たちは二つの世界の間にあるからです――昔の世界と今の世界です――信者たちはその違いを学ばなければなりません。それはまったく新しい種類の命と新しい体制についての啓示です。あの世の目に見えない世界に対する好奇心に、主はつけ込もうとしておられるのではありません。霊的現実を強烈に印象づけようとしておられるのであって、それこそ主が痛感させようとしておられることです。復活したキリストを見て、復活の側にあるこの人の性質を理解するとき、私たちは人が造られた目的をキリストの内に見るようになりますし、キリストが人に対する神の御思いの化身であることを見るようになります――キリストは私たちが経験する生活上の諸々の制約のまったく外側にあってそれを超越しており、空間や時間の支配の外側にあって、私たちがほとんど知らない力や、私たちがみな望んではいるものの朧気にしかわかっていない能力を持っておられるのです。
キリストは何をなさったのでしょう?死に至らせるものや、死が包含しているものを、すべて取り除かれたのです。死は万物の上に制約を課すものであり、天と地との間に割り込んで来て、人を束縛し、人の成長を強固に阻んで、虚無に至らせるものです――死は人のあらゆる奮闘や努力を虚無に至らせるものです。キリストはこの死を対処し、それを道から除いて、人に対する神の御旨がすべて力強く成就されることを可能にしました。キリストは死の行程を逆転させて、人が成熟に達する邪魔者である死を取り除かれました。そして復活により、命と不朽――不朽性――を明らかにされたのです。
ですから、復活後にキリストが行われた最初のことの一つは、聖書をひもといて、聖書全巻に記されているご自身について示すことでした。キリストはモーセの書からはじめて、当時の聖書の最初から最後まで解き明かされました。聖書全巻――これは何を示しているのでしょう?それは歴史です。聖書は常に神を見据えつつ人の歴史を示します。そして、人の歴史は神の御思いに関する限り、失敗の歴史です。しかし今、復活により、キリストは失敗と無力さに満ちたこの全歴史をひもといて、「この失敗、この無力さは永遠に続くわけではありません。それは必然的なものではありませんし、最終的なものでもありません。私がここにいるのです!」と訴え続けてきたものが一貫して現存していたことを示すことができます。ラザロのよみがえりの記録から、主がどのようにこの特別な真理を用いられたのかわかります。「あなたの兄弟はよみがえります」。「はい」とマルタは言いました。「終わりの日に彼がよみがえって復活することは存じております」。主はさえぎって言われました、「終わりの日ではありません!私がいるからには、終わりの日は今なのです。時は過ぎ去り、昨日も今日も明日もありません」――「私は復活であり命です」。「私がここにいるからには(When I am here)、時は完全に包囲・網羅されて追放されているのです」。「私はある(I am)」――前にこの言葉を聞きました!この永遠なる御方は復活であり命です。なぜなら、永遠が到来する時、時間は退散するからです。聖書はすべて、この御方を示しているので、「確かに、地上の歴史は今ある通りのものかもしれません。しかし、私がここにいます。最後には、この歴史は一変するでしょう」という内容が含まれているのです。これはキリストが復活の日に言われたのと同じことです、「私は生きています。私は全聖書を成就しました。私は全聖書、神に関わる人の全歴史を集約して、それを成就しました。私は神の御旨をすべて実現し、歴史からは不可能と思われたことをすべて実現したのです」。
復活・昇天したキリストの表現である教会
さて、復活して神の右に座しておられるキリストに関して、新約聖書は私たちに二つのことを示しています。それが私たちに示しているのは次のことです――これまで指摘してきたように、それはこのエペソ書に特に記されています――すなわち、キリストのからだである教会は御霊により今や、復活したキリストと一つなのです。「……キリストを万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会は彼のからだです」。これはかしらのないからだではありませんし、からだのないかしらでもありません。かしらとからだは一つです。同じ書が述べているように、私たちは神の御思いによればキリストと共に天上に座しています。教会は、霊的立場から見るなら、復活したキリストと一つです。これが新約聖書が私たちに教える第一の偉大な項目であり、特にパウロを通して御霊の啓示によって与えられました。たとえ地上のある場所にいる小さな群れが教会を代表しているだけだったとしても、もしその群れがキリストの立場に本当に立つなら、時間も空間も制約もすべて取り払われて、地の最果てまで一瞬のうちに影響が及びます。もし地上のある小さな群れが、再生により、キリストを死者の中からよみがえらせたこの同じ御霊の力強い働きにより、復活したキリストの立場に立ち、その最も内なる存在が真にキリストと共によみがえらされて新創造に根ざすものとなって御霊に治められるようになるなら、そしてその群れが聖霊によって機能するようになるなら、空間は取り払われ、地理はまったくなくなり、その地点から地の果てまで影響が及ぶようになります。そして、一瞬のうちにどこでも何でも起きうるようになります。これは何週間、何ヶ月、何年も待たなければならない問題ではありません。もし主がそう望まれるなら、教会は一瞬のうちにその効力を及ぼせるのです。なぜなら、時間はもはや支配していないからです。御霊の中にある時、あなたは時間の領域の外にいるのです。御霊によって祈ることは、神の右におられるキリストの何たるかを機能させることに他なりません。それは復活したキリストが機能することです。ですから、復活したキリストは言われます、「見よ、私はこの時代の終わりまでいつもあなたたちと共にいます」。「天と地のあらゆる権威が私に与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい」(マタイ二十八・十八〜二十)。
しかし、誰が行くべきでしょう?教会です。そして、教会の最低限の核は二人です。これは団体的なことであって、からだの意義を見せています。御霊による機能が働いてる時、それは復活、昇天して、高く上げられたキリストがそのからだを通して御業をなさっていること以下の何ものでもありません。あらゆる制約は取り払われます。これは途方もないことです!もちろん、これは私たちにとって尋常ならざることには聞こえません。なぜなら、私たちはこれについて前に聞いたことがあり、教えとしてそれについていくらか知っているからです。しかし、この類のことをそれについて聞いたことのない世の中に持ち出すなら、それは馬鹿げた異様な思い込みに聞こえます。しかし、キリスト教はそのような世間の中にあるので、途方もない信仰が必要です。これは本当か否かのいずれかです。もしこれが本当なら、これは途方もないことです。もし本当でないなら、私たちは愚か者です!しかし、これは事実です。ああ!復活したキリストとの生ける合一の意義を教会がさらに学ぶことができますように!二、三人以上の一つの群れが必要です。この地上では時間や空間によって制限されているかもしれませんが、それでも聖霊によって真に機能している群れが必要です。それはこの宇宙的キリスト――キリストが神の右におられることの意義全体――が表現されるためです!私は神に求めます。これをあなたが御霊によって考え、知り、理解することができますように。というのは、これは大きな違いを生じさせるからです!これを適切に理解するには、さらに長い道のりを行かなければなりません。しかし、これは本当のことなのです!
すでに述べたように、神の御心によると、復活して神の右におられるキリストは人の総代表です。神の右にキリストがおられることは何を意味するのでしょう?キリスト復活後の四十日は何を物語っているのでしょう?キリストは別の領域におられて、全く別の立場に立っておられることを物語っているのです。古い人の天然的な事物は過ぎ去りました。キリストはそうしたものをお許しになりません。すべてが新しくなりました――新しい力、関係、能力、理解力が到来しました。状況は一変しました。この状況は古い状況を超越しており、その遥か彼方まで及びます。そして、今や可能になったものは、私たちの理解力を超えています。これがコリント人への第二の手紙五章十七節の意味です、「誰でもキリストにある人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、新しくなりました」(アメリカ標準訳)。
このような事柄に触れる時、人の言葉は無力で表現不能です。「彼の力の卓越した偉大さ」――この領域は最高なのです!ああ、キリストのパースン、死、復活の偉大さを新たに理解することにより、このように広げられますように!
こういうわけで、新約聖書が示す最も重要なことは、霊的立場に真に立つ教会は復活したキリストと一つであるということです。ここで言う教会とは、地上にある「教会」のことではありません。なぜなら、そのようなものはここで言う教会ではないからです。しかし、教会に関する神の御思いは無理なものでも単なる理想でもありません。実際的なものです。単純で謙遜な二人の聖徒が御霊の中で実際に共に集まるなら、その二人がたとえこの世では重要人物ではなかったとしても、天と地のあらゆる権威を委ねられたキリストの機能的道具となることができます。この二人により、昔の制約はすべて取り払われます。そして、この二人は地の果ての至る所に一瞬のうちに影響を及ぼせます。あなたはこれを信じるでしょうか?実際のところ、これこそ私たちが復活したキリストをあがめる意味です。復活したキリストをあがめることは感情以上のものでなければなりません。キリストの復活は輝かしい教理以上のものでなければなりません。そうです、キリストの復活は私たちがそれに同意する真理以上のものなのです。それは大いに実際的なものでなければなりません。復活したキリストは教会にとって最も実際的な問題です。キリストは復活したとき言われました、「天と地のあらゆる権威が、たった今、私に与えられました。ですから、あなたたちは出て行って……」――これは教会に対して語られました――「見よ、この時代の終わりまで私はあなたたちと共にいます」――天と地のあらゆる権威を持つ方が私たちと共におられます。その実際上の意義や価値を私たちは理解してきませんでした!私たちはただその断片を拾い上げて、それを世界的な伝道や宣教の根拠としてきたにすぎません。復活したキリストがこの御言葉に込められた力強い意義を、私たちはまだ汲み尽くしていないのです。
霊的なものは究極的には文字通り完成される
これに関連して新約聖書が私たちに示しているもう一つのことは――これについては触れるだけですが――霊的なものは究極的には文字通り実現されるということです。キリストとの合一は今は霊的な事柄です。それは霊の命の事柄であり、私たちの内におられる御霊の事柄であり、私たちが御霊の中にあるという事柄です。しかしこれにはもう一面あって、この霊的なものは究極的には文字通り完成されるます。霊的なものの究極的完成とは、この卑しい朽ちるべき体が個人的にも団体的にもキリストの栄光の体のように変えられることです。これは個人的な事柄です。コリント人への第一の手紙十五章はそれを意味するからです。これはまた団体的な事柄でもあります。なぜなら、からだ全体が変えられるからです。教会は、しみやしわやそのようなもののまったくない、輝かしい教会、栄光の教会になります(エペソ五・二十七)。腐敗の跡は何もなく、腐敗することもありえません。キリストの栄光の体のようになります。これが霊的なものの究極的完成です。「私たちは聖霊によりその保証を持っている」と使徒は述べています。
どうか主がキリストの復活の実際上の意義を私たちに垣間見せて下さいますように。この実際的意義は行動に影響を及ぼすべきものですから、私たちはこの実際的意義をまず信仰によって理解し、次にそれに基づいて行動を開始しようではありませんか。私たちが共に集まる時、祈りの言葉を唱えるだけだったり、あらゆる種類の嘆願をするだけではいけません。生ける主に御霊により、場所や空間や時間の領域を超えて働く機会を与えるものでなければなりません。主ご自身が御座から教会を通して地と天の全領域に触れて、御旨として示されたことを行いうるものでなければなりません。主は時間の外側におられることがわかっていながら、なぜ今そうしないのでしょうか?私たちはもっと遥かに実際的になりたいのです。私たちは復活して御座に着かれた主と一つであるということが本当なら、それは絶大な影響を及ぼしてしかるべきです。どうかそうなりますように!
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