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「神聖な啓示の四大項目」

Four Greatnesses of Divine Revelation

第8章 第三部:教会の偉大さ

Chapter 8 - Part 3: The Greatness of the Church

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



聖書朗読:歴代誌上二十八・二〜七、十一〜十三、十九:二十九・三〜五:歴代誌下二・一、二:エペソ一・四〜六、十一、十二、十七〜二十三:二・七、十九〜二十二:三・十、十一、二十、二十一:四・一、四、五、十三〜十五:五・二十五〜二十七

神聖な啓示の偉大な項目の三番目に来ることにします――それは教会の偉大さです。残念なことに、神の民のほとんどはその偉大さを見ていません。クリスチャンたちは自分の救いの偉大な御旨や意図を理解するのも、また自分の高い召しを知って理解するのも、痛ましいほどに遅いのです。そして、これに関連して、神の民の間に大きな分裂が生じています。キリスト教はせいぜいありきたりのものになってしまいました。救われて、クリスチャンとして普通の歩みをする問題になってしまい、次のことを認識せずにいます。すなわち、神の御心によると、私たちの救いには偉大な御旨があったのです。この偉大な御旨は、まず自分が救われて、次に他の人々を救いにもたらす働きに取り組むことだけではありませんし、それで終わるものでもありません。そのどちらも良いことです。どちらも基本的で本質的なことですが、始まりにすぎません。そこからまったく別の何かが始まるのです――それについてパウロはこう言及して述べています、「あなたたちにお願いします。あなたたちが召された召しにふさわしく歩んで下さい」。「あなたたちが召された召し」というこの句の周辺に、パウロは教会に関する途方もない項目をすべてまとめています。教会は、その過去の面については、遥か世々の昔にまで遡ります。その上側の面については――「天上にある」ものであって、今や天的な使命を帯びています。次にその将来の面については――「来るべき世々」に至ります。これらの御言葉は、私たちが召された召しについて示していますが、私たちの間でこれを真に理解している人は何と少ないのでしょう!この幻と神聖な啓示とを喪失してしまった悲劇について、私たちは長々と述べることもできます。群衆が今この召しにあずかるのをほとんど不可能にする邪魔物が建て上げられており、それが伝統や組織によって群衆の手足を縛っています。この伝統や組織は責任者たちの自由を奪ってあまりにも束縛するものです。彼らの生計がそれにかかっているからです。そのため、彼らは神の完全な御思いの中に入ることができないのです。私たちはこの道を追うつもりはありません。むしろ神の御思いのこの積極面にとどまって、教会の偉大さというこの問題に迫るよう努めた方がいいでしょう――なぜなら、消極面はこれに優るものではないからです。

私たちはこれまでキリストの偉大さについて考え、数章を費やしてその偉大さについて黙想してきました。次に、十字架――キリストの死と復活の及ぶ範囲とその内容――の偉大さを見ました。教会の偉大さを熟考するにあたり、教会が偉大なのは教会がこの他の二つの偉大な項目にあずかっているからであることがわかります。つまり、教会の偉大さとはキリストの偉大さであり、その十字架の偉大さなのです。この二つの偉大な項目が教会の真の性格を決めています。私たちはソロモンという予型を扱ってきました。この予型の描写は荘厳かつ壮大で、あふれるほど豊かです――ソロモンは予型としてキリストを示していますが、これは「ソロモンよりも偉大な者がここにいます」(マタイ十二・四十二)という主ご自身の御言葉を思い起こさせます。しかし、私たちは次のことも思い起こす必要があります。すなわち、ソロモンが前に進み出て注目されるようになったのは、神の家と関係していたのです。神の家こそまさにソロモンに脚光をあてたものであり、ソロモンの威光の原因であり根拠だったのです。「家を建てなければならない」とダビデは心に思っていましたが、それは神の御思いでした。「あなたの心にこの事があったのは結構なことです」(列王記上八・十八)。ダビデの心の思いは主からでした。それゆえ、主はダビデにこの家に関する完全で完璧な啓示を任されたのです。ダビデは注目すべき言葉を述べました、「主の手によって書かれたものにより、私はこれをことごとく理解するようにされました」(歴代誌上二十八・十九)。これを説明するのは不可能です!ソロモンが登場したのは明らかに神の御旨によるものであり、神が植え付けて解き明かされた御思いから発したことでした。ソロモンこそ、それを成就するために委ねられた者でした。主の御旨によると、ソロモンの栄光は主の家の栄光と関係しており、その偉大さは主の家の偉大さと関係していました。言い換えると、ソロモンが建てることになっていたこの家は、ソロモン自身の栄光と光輝を現し出すことになっていました。ソロモンが集めたもの、主があらゆる方法でお与えになったものは、ソロモンが建てることになっていたこの家の中に組み込まれて、主としてその家によって表示・展覧されることになっていました。

もちろん、私たちは直ちに使徒の最上級表現に飛ぶことにします。「この御方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が代々いつまでもありますように」(エペソ三・二十一、アメリカ標準訳)。このエペソ人への手紙は歴代誌のこの描写に対応するものであり、教会はキリストのからだとして、神に選ばれた器であり、キリストの栄光と偉大さの表れとなるよう神によって定められ啓示されたことを示しています。教会は器、乗り物であり、これにより、キリストの何たるかがことごとく代々にわたって示されます。ある意味、実にこう言えるのです。すなわち、イエス・キリストの啓示と、神がキリストを目の前に示されることとの間には関係があると。その理由は、この選びの民を得るためです。この選びの民は神が予知して予め定められた民であり、この民により神はキリストにあって宇宙に知れわたるため、宇宙中が驚きます。「……今や、主権者たちと権力者たちに(中略)教会を通して……」(エペソ三・十)。ですから、この家がソロモンの偉大さの現れだったように、神は教会がキリストの偉大さの現れとなるように思い描かれたのです。

この偉大さについて一望したので(もちろん、これを何らかの形で適切に理解するには、キリストの偉大さについてこれまで述べてきたことがすべて必要です)、祭壇とその供え物の偉大さについても思い出す必要があります。祭壇とその供え物はソロモンと共に登場したものでした――当時神に献げられた供え物は膨大なものでした。十字架におけるキリストの御業の偉大さは、教会がいかに偉大なものに違いないかを示しています。キリストは教会を愛して、教会のためにご自分を渡されました。それは一つの犠牲であり、供え物であって、それと較べるなら、ソロモンが献げた数万の雄牛や羊も無にすぎません。この一つの犠牲はあまりにも偉大なため、予型では比較になりません。主イエスの十字架の御業は大いに偉大なものでした。そうである以上、これは教会がどれほど偉大なものに違いないかを示しているのではないでしょうか?教会は主ご自身のたとえ話では「高価な真珠」と呼ばれています(マタイ十三・四十六)。それを得るために、神聖な商人である御方は自分の持ち物をすべて手放されました――この御方の持ち物「すべて」とは、この世の歴史が始まって以来、どんな商人も手にしたことのないものでした。この御方には富も豊かさもあり、この世の造られる前から神と共に持っておられた栄光もありました。それは何か破壊しえないものであり、偉大な素晴らしいものでした。この御方は良い真珠を探しておられましたが、高価な真珠を一つ見つけると、すべてを売り払ってそれを得たのです。私たちにはこれを理解することはできません。私たちの理解力を超えているからです。しかし、御言葉にはそうあります。これは神聖な啓示です。十字架こそ教会の値段だったのです。何らかの言語を絶する理由により、教会は神に取ってそのように価値あるものなのです。キリストは教会を愛されました。「神の教会を彼はご自分の血で買い取られました」。これは明らかにとても偉大で素晴らしい事柄です。

教会が受けついだキリストの諸々の特徴

さて、教会が受けついだキリストの諸々の特徴の中から、そのいくつかを見なければなりません。それは今話題にしている教会の何たるかを知るためです。教会とは何でしょう?教会はキリストに当てはまる特徴を受けついでいます。ですから、キリストに言えることは、神の御心によると、教会にも言えなければなりません。神が見ておられる教会はそのようなものなのです。

(a) キリストの永遠性

キリストについて考えた時、最初に熟考したキリストの特徴はキリストの永遠性、永遠の起源でした。キリストの永遠の子たる身分について復習する必要はないでしょう。これについてはこう言うだけで十分でしょう。すなわち、キリストはこの世が造られる前から存在しておられたのです。時間――年と月、昼と夜、夏と冬――は諸々の天体がそれをつかさどることによって存在していますが、この時制が始まる前からキリストは存在しておられました。年と月、昼と夜、夏と冬は天体がつかさどっており、時間的要素です。そうしたものが存在する前から、キリストは存在しておられました。なぜなら、彼が万物を創造されたからです。今用いているこの「永遠」という言葉の意味は、過去に遡って時間の前にまで至ること、時間の諸々の区切りの前にまで至ること、歴史の前にまで至ることです。これはキリストに当てはまります。エペソ人への手紙は言います、教会はこの世の基の前から神の御心の中に存在していた、と。これは永遠の過去に、教会はキリストと同じように実際に存在していたことを必ずしも意味しません。そうではなく、教会は「予知」されていたのです。「神はこの世の基の前から私たちをキリストにあって選び(中略)イエス・キリストにより私たちに子たる身分を授けてご自分のものとするようあらかじめ定めて下さいました」(エペソ一・四、五)。前に指摘したように、このエペソ人への手紙は時間の中にはありません。この手紙は時間的事柄、日々の生活の実際的事柄、この地上における私たちの歩みや行動に影響を及ぼしますが、この手紙は時間の存在しない領域にあります。この手紙は過去に遡り、その先にまで及びます。この手紙は時を超えて神聖な起源にまで至ります。神聖な起源こそ、この手紙の立脚点です。その意味するところを理解しない限り、教会について真に理解することはできません。これを理解する時、今日の「教会教(churchianity)」はことごとく何と馬鹿げたものになってしまうことでしょう、何とちっぽけで惨めなものになってしまうことでしょう。また、こう痛感せずにはいられないでしょう。すなわち、伝統的に「教会」と称されるようになったものを私たちが大いに重んじる時、それは神から見るとたんなる教会ごっこにすぎないのです。教会の神聖な光景を実際に一目でも見るなら、他のものはみな、つまらない、惨めな、馬鹿げたものになってしまいます。そして、私たちの内側で大いなる解放が起きるでしょう――しかし、それには照らしが必要です。

教会はキリストの絶対的堅固さという特徴を帯びています。教会は時間の外側にあるものであり、この世が造られる前にキリストにあって選ばれました。真の教会の堅固さとは、神の御心によると、キリストご自身の堅固さです。これは神の根拠に基づいており、神の領域の中にあります。これは動かすことのできない、覆すことのできない事実です。他のいかなるものもそうではありません。ああ、神の御心に在る堅固さよ!生き残るのは確実です。実に、生き残る以上です。私たちは昔の詩歌を歌います。

「諸々の冠や王座は朽ち果て
 いくつもの王国が興っては廃れる。
 しかし、イエスの教会は
 常に存在して永らえる。
 地獄の門は決して
 『教会に打ち勝つことはない』」

「私は私の教会を建てる。ハデスの門がこれに打ち勝つことはない」(マタイ十六・十八)。教会はキリストの命そのものの永遠性と不滅性を現しているのです。

(b) キリストの天的性質の奥義

次に、キリストの天的性質について述べました。「私は天から下ってきました」(ヨハネ六・三十八)。ここでも、彼がご自分の天的起源について絶えず繰り返し語られた言葉を集める必要があります。この手紙のこの箇所では、教会が強烈に示されていて、次のように強調されています。「キリスト・イエスにあって、私たちを彼と共によみがえらせ、彼と共に天上に座らせて下さいました」(エペソ二・六)。ピラトに対するキリストの御言葉――「私の王国はこの世のものではありません」(ヨハネ十八・三十六)――についても述べました。私は歴代誌下二十八・五の最後の数節に感銘を受けました。「主はわが子ソロモンを選び、これを主の王国の位に座らせて、イスラエルを治めさせようとされた」。それはイスラエルの王国ではなく、イスラエルを支配する神の王国でした。「私の王国はこの世のものではありません」。言い換えると、「私の王国は神の王国です――この世の王国よりも遥かに大きく、それを超越しています。この世のものではありません。すなわち、単なる一時的なものではないのです」。

キリストはこの人類の他の誰ともまったく「異なっている」ことを私たちは指摘しようとしました。彼は昔も今も何とまったく異なっておられることでしょう。まったく別の領域から来られたのです!これは教会にも言えます。教会はまったく異なるものであり、私たちに馴染みのあるものとまったくかけ離れています。キリストについて述べたことは教会にも言えます――キリストがこの世を通過された時、理解されることも知られることもありませんでした。そして、「父以外に子を知る者はいません」(マタイ十一・二十七)と積極的に断言されました。ここに一つの奥義があります。この「奥義」という言葉を使徒は何度も用いていますが、特にこの書でそうです。この言葉は説明するのが極めて困難です。この言葉を説明しようとする時は常に、パラドックスに頼らざるを得ません。なぜなら、奥義―― mysterium ――とはまさに隠れた顕現を意味するからです。これは矛盾でありパラドックスですが、これがこの言葉の本質です。神が現されますが、隠れた方法によってです。「父以外に子を知る者はいません」。しかし、それでも「私を見た者は父を見たのです」。御父はキリストにあって神として現されますが、それは隠れた方法によってであり、イエス・キリストを見るには特別な啓示を与える神の働きが必要です。神が主権的に働いて、あなたの心の目を開いて下さらない限り、あなたはイエス・キリストがいかなる方かを真に見ることはできません。これはこの地上におけるキリストの全生涯が示していることです。ある使徒は啓示を受けた瞬間、「あなたはキリスト、生ける神の子です」と言うことができましたが、これを聞いて喜んだ主は、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。これをあなたに啓示したのは血肉ではなく、私の父だからです」(マタイ十六・十七)と言われました。しかし、その瞬間が過ぎ去って間もなく、啓示を受けたこの人が誓いと呪いをもってこの御方を否み、しかも三回もそうしたのです。もしその啓示が永続的なものだったとするなら、この人はどうしてそんなことができたのでしょう?奥義が啓示されて、それをこの人が見た時、それは神が主権的に働かれた瞬間でした。隠された方法で神が現されました。もっともそれはその瞬間しかもたず、次に幕が再び下りて来て、奥義のままになってしまったのです。

キリストに言えることは教会にも言えます。キリストは天的であり、神が啓示して下さらない限り、キリストを理解することも知ることもできません。これを本当に理解していただきたいと思います。一方において、これがどれほど私たちを無力な立場に置くのか、私は承知しています。そうならざるをえないのは良いことです。ですから、他方において次のことが必要です。すなわち、神ご自身の主権的啓示の働きに基づいて存在するに至った教会を、神は得なければならないのです。教会の純粋性のためにこれが必要です。もし誰もが教会を見て理解・把握することができたとするなら、そして、人の理解力という限られた領域にまで教会が引きずり降ろされかねない事態になったなら、それは一体いかなる種類の教会になってしまうことでしょう?これこそまさにこれまで悪魔がしようとしてきたことです――悪魔は、誰でも理解できる所にまで教会を引きずり降ろそうとしてきたのです。それは、誰でも教会に入れるようになるためであり、あるいは「自分は教会の中にいる」と誰もが考えるようになるためです。悪魔はこの偉大な事実を排除することにより、何という大混乱を巻き起こしたことでしょう!人々はこれをキリストに対して行い、キリストを史的イエスにしてしまい、言語を絶する損失を招きました。キリスト教の大半は今日、おぞましい状態にあります。キリストのパースンの扱いをこのように間違ってしまったからです。彼らは史的イエスという基盤の上にすべてを築き上げようとしています。彼らは叫びます、「イエスに戻れ!」と(これが意味するのは、パウロから離れよということです)。これはまさに、この地的で人間的なレベルにまで物事を引きずり降ろして、誰でも理解・把握できるようにすることです。「私たちはパウロに従うことはできません。パウロはあまりにも奥義的で、この世離れしていて、よそよそしいです。単純な史的イエス、福音書のイエスに戻りましょう!」。これはまさに、神がそれを心にかけてこられたものを神にもたらすのに必要なものを投げ棄てることです。「父から賜ったのでない限り、誰も私のもとに来ることはできません」(ヨハネ六・六十五)と主イエスは言われました。「誰も私のもとに来ることはできません」。男であれ女であれ、人を真にキリストにもたらすには、神の側で神聖な主権的働きが必要です。選択して行くことを決意してもだめです。「クリスチャンになろう」と言うことは誰にもできません。いかなる場合も神が何事かを行わなければなりません。それは神ご自身の主権的働きです。福音を安売りしてはいけません!もしそうするなら、門戸をあまりにも広げすぎて、しばらくすると、入り込んだものをしぶしぶ取り除かなければならなくなるでしょう。天的性格をキリストから受けついでいる教会は、啓示がなければその中に入れないものです。なぜなら、啓示以外に教会を知ることはできないからです。「知る者はいません……」。私たちにできるのは、こうした事実を述べることだけです。いかなる教えもこれを成し遂げることはできず、この件に関して私たちは無力です。私たちのなすべきことは、ただ神聖な事実を述べることだけであり、啓示するのは神の役割です。しかし、神に感謝します、神は啓示して下さいましたし、今も啓示して下さいます。私たちの中にはこのように言える人もいるでしょう、「神はこの件で私たちの心を照らして下さいました。キリストと教会の啓示があらゆる方法で一大変化を引き起こしたのです」。もちろん、この「見る」機関は内住の聖霊による新生により元々備わっているものです。

(c) 神聖なパースンの諸々の特徴の現出

キリストが教会の中で神を啓示する方法は、キリストが啓示される方法とまったく同じです――神はご自分を人格的な方法で啓示されるのです。ヘブル人への手紙は、「神はこの終わりの時代、御子にあって私たちに語って下さいました」という御言葉で始まります――御子という方法によったのです。これは「人格的な方法で」と言うのと同じことです。神が啓示される唯一妥当な方法は人格的方法です。神が語られる御言葉だけでは、たとえどれほど多くの御言葉があったとしても、神を真に知ることはできません。精神的・知的な神理解や神観念と、生ける、心を変容させる理解との間には、大きな違いがあります。私たちが生き生きと実際に神を知るためには、生ける人格的な方法で、神ご自身が私たちを訪れて下さらなければなりません。例えば、あなたがある人の伝記や自伝を読んだとしましょう。読み終わった後、あなたは「その人のことなら本で知っています」と言うかもしれません。しかし、それがどれほど本当だったとしても、実際にその人に会ってみると、本には書かれていなかったことがあることがわかります。そして、それがすべてを一変させてしまうのです。実際のところ、あなたは本を読んでも変わりませんでしたし、様変わりすることもありませんでした。あなたは色々な印象を受けはしましたが、あなたの命や性質がそれによって実際に変化することはありませんでした。しかし、当人に会うなら、その人から衝撃を受け、あなたは深い感銘を受けて、大きな影響を受けることになります。このようなことが頻繁にあります。しかし、これはお粗末な例証にすぎません。命に至らせる神の啓示は、人格的方法によるものでなければなりません。神は御子のパースンにおいて到来し、受肉されました。あなたが御霊によりキリストの現実に実際に触れるなら、途方もない結果が生じます。福音書に記されている出来事がこれをいかに証明しているかはご存じでしょう。群衆がキリストに群がって、間近にまで押し迫ることが何度もありましたが、群衆には何も起きませんでした。しかし、群衆の中に一人の人がいました。その人には心の底からの必死な願いがあり、信仰がありました。その人は、「あの御方の衣に触れるなら、健康にしていただける」と言っていました(マタイ九・二十一)。この人とキリストとの間には何らかの霊的つながりがありました。そのつながりは、キリストと彼に群がったその他の群衆との間には存在しないものでした。そして、その人が触れた時、その人は史的イエスではなく神のキリストを見いだしたのです。たんなるガリラヤ人ではなく現実の神の人を見いだしたのです。説明して定義するのは困難ですが、そこには違いがあったことがおわかりになるでしょう。これだけが十分な神の啓示です――それは人格的方法によるのです。

この特徴を教会は受けついでいます。そしてこれこそ、「キリストのからだなる教会」という教会のこの定義の実際の意味です。「神はキリストを万物の上にかしらとしてお与えになりました」――この御言葉は「教会のかしらとしてお与えになりました」とは言っていません(そう言うのは正しいことなのですが、そうは言っていません)――そうではなく、「教会かしらとしてお与えになりました」と言っています。教会がこの頭首権の下に来て、かしらであるこの御方との生き生きとした関係の中に入る時、教会はキリストにある「万物」の中に入ります。そしてキリストのからだとして、教会はキリストを現します。

さて、教会の偉大さは以下の点に存します。すなわち、教会は今、この経綸において、そこで神を見いだせる所、神と会うことのできる所、神に触れることのできる所、神がご自分を啓示される所となるよう、神によって選ばれ立てられています。「二人または三人が私の名の中に共に集められるとき、私は彼らの真中にいます」(マタイ十八・二十)。その所で神と会い、神を見いだし、神に触れることができます。そこに神の顕現の手段があるのです。

ですから、教会はこの経綸時代、地上に存在するよう召されています。また、来るべき世々、まさに御体となるよう召されています。この御体を通して、神はキリストにあってご自分を現し、ご自分を知らされます。私たちが知っているもの、一般に教会と称されているものは、このような教会でしょうか?ああ、断じて違います!しかし、これが神の御思いなのです。

私はここのところアドルフ・ケラーの本を読んでいました。彼は世界中を旅して教会を訪問し、教会合同のために何が出来るのかを見て回りました。私は彼の本で次のような文章に出会いました、「私は認めなければならない。これまで壮麗な教会の建物の中に座すことはしばしばあった。ステンドグラスの窓や、彫刻されたパイプオルガン付きの建物である。しかし、例えば、男たちや女たちでごったがえしている、ウクライナの農夫たちの部屋の方が、『自分はキリストの教会の中にいる』と実感したのである。彼らは神の御言葉を聞くために、遠くから裸足でやって来た。このような貧しくて小さな会衆や教会は、ユーゴスラビヤの山々、オルヒニアの寂れた村々、ベルギーの炭坑区、チェコスロバキヤの宿屋や倉庫に散在しているが――これらの諸教会は我々を真に謙らせるものである。なぜなら、これらの諸教会は我々に何度も何度も、真の貧困とキリストの真の富を示してくれるからである。しかも、今日我々が知っている教会は堅固に確立されていて自己充足している教会だが、そのような教会が示し得ないような仕方で示してくれるのである」。次に、彼はこう述べます、「教会は神が当初意図された性質をもはやまったく現していないし、現すこともできないのである」。神の御心の教会と何とかけ離れていることでしょう!真の教会は、神の御旨によると、キリストご自身がおられるところ、キリストが死と復活の前に受けていた諸々の地的制約なしに御業を進めることができるところ、それ以下の何ものでもありません。復活・昇天して高く上げられたキリスト、神がその内にあらゆる豊かさを宿らせたキリストが、真の教会の中におられます。この真の教会を特定することは不可能です。二人または三人が集められている所を見ることしかできません。あれやこれ、あるいは「教会」と称されている何か他のものを、真の教会と言うことはできません。そうです、真の教会は依然として奥義的なのです。真の教会とは積極的に表現されたキリストです。教会はキリストである以上、それは何と偉大でしょう!

私たちに出来るのは事実を述べることだけであり、事実は以上述べた通りです。次になすべきことは、「ああ、主よ、真の教会を啓示して下さい!」と主に祈ることです。

(d) 来たるべき日のための使命

さて、最後に一言述べます。キリストにまつわる常に現存する支配的要素についてです。その意義はこれまで十分に考慮されてこなかったと思います。キリストが地上におられた時、キリストは常に前を向いておられたことに注意して下さい。キリストは常に来たるべき時のことを考えて話されました。これがキリストに関する支配的要因・特徴の一つです。「その日には……」(マタイ七・二十二等)。キリストは来たるべき日を見据えつつ、それについて話されます。常にキリストの目は彼方の地平線に注がれており、その時起きることを話されます。「その時あなたたちは知るでしょう、その時あなたたちは見るでしょう、その時すべてが明らかになるでしょう、その時それまで隠されてきた奥義的なものはすべて完全に明らかになるでしょう」。それは第一に聖霊の来臨と関係していました。しかし、書簡に来ると、この同じことが教会の場合にも支配的であることがわかります。今も力強い出来事、大きな可能性、大きな問題や責任がありますし、今も教会は、今この時でさえ、主権者たちや支配者たちに対して神の多種多様な智恵を啓示するための道具です(エペソ三・十)。しかし、その先行きは輝かしいものであり、すべてを支配しています。「……それは私たちが彼の栄光の賛美へと至るためです」(エペソ一・十二)。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた彼の慈愛による恵みの卓越した富を、来たるべき世々に示すためでした」(エペソ二・七)。「……この方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々限りなくありますように」(エペソ三・二十一)。

今この時、ここでこれを述べる目的は、教会が召されている途方もない目標をあなたたちに思い出してもらうことです。教会が果たすべき使命という光に照らして見る時、教会は何と偉大でしょう!何と偉大な使命でしょう!私たちは多くの時間を費やして、教会の召命とは何か、来たるべき世々に教会はどうなるのか、考えることもできます。しかし、さしあたって、一つの点だけ見ることで満足しなければなりません。その一つの点とは、高貴な国、高貴な王の、市民、幸いな市民になることについてです。これには感謝すべき多くの祝福がありますが、王の家族や家庭の一員になること、統治する家の一員になることは、無限に偉大なことです。そして、これに教会は召されています。その土地の住民となるよう召されているだけでなく、この統治する家庭の構成員となるよう召されています。私たちはこの召しをもって召されています。このように側近となるよう召されています。「諸国民はその光の中を歩む」(黙示録二十一・二十四)という御言葉はこれを述べたものです。教会はこの特別な団体、選民であり、永遠から永遠に至ります。教会はそれ自身のためにあるのではありませんし、満足や歓びを味わうためにあるのではありません。神の御手に用いられる道具となって、神の宇宙の中で、来たるべき世々にわたって、御座と緊密に連携して神に仕えるためにあるのです。教会は何と偉大でしょう!これまで私たちが見てきたことよりも遙かに多くのことを見た使徒がこう述べているのももっともです、「あなたたちにお願いします。謙遜と柔和の限りを尽くして、あなたたちが召された召しにふさわしく歩いて下さい」(エペソ四・一。二)。次に、彼はこの歩みを日常生活全般と結びつけて言います、「もしあなたが本当にこの教会の一員であり、これを本当に理解しているなら、悪い父親や母親、悪い夫や妻になることはないでしょう。悪い主人、女主人、僕となることはないでしょう。こうしたことはみな、あなたの霊的理解の影響を受けるでしょう」。これは何と実際的でしょう!高尚な教義を持ちながら貧しいクリスチャンである人々が大勢います。真理をすべて知っているにもかかわらず悪い雇用主である人々が大勢います。そのようなものは教会ではありません。

どうか主ご自身が私たちの心を開いて、主権的恵みをもって触れて下さいますように。それは私たちがこの真理を見て、それに同形化されるためです。