聖書朗読:歴代誌上二十八章、二十九章
この二つの章が見せているものは、それが実現される時、私たちの問題をすべて解決するものであり、私たちをあらゆる困難から解放するものです。一言で言うと、それは霊的拡大です。私たちの問題の大部分は、私たちの狭量さのためです。パウロの理解によると、コリントの数々の重大な問題に対する解決法は、霊的に拡大されることでした。彼が直面していた問題や困難はご存じでしょう。ついに彼は心からの思いをすべてぶちまけました、「私たちの口はあなたたちに対して開かれています。ああ、コリント人よ、私たちの心は広くなっています。あなたたちは、私たちに心を狭められているのではなく、自分で心を狭めているのです。どうかあなたたちも心を広くして、私たちに応じて下さい」(二コリント六・十一〜十三)。これは包括的な総括の言葉であって、「あなたたちの間の揉め事、問題、困難はみな、あなたたちの狭量さのせいです。もしあなたたちがもっと寛大な人々だったなら、こうしたことの多くはまったく消え去っていたでしょう。逃れる道は広くされることなのです!」ということをまさに意味します。確かにしばしばあることですが、様々な異なる領域で破綻が生じるのは、それを対処できるだけの心の広さを持つ人が一人もいないためです。問題に取り組むのにふさわしい度量を持つ人が誰かいさえすれば、状況は救われていたはずです。今日、あらゆる種類の疾病が教会を悩ませており、キリスト教を動揺させています。そうした疾病について述べるまでもありません。私たちはそうした疾病にすでに気づいているからです。しかし、それらの疾病の主な原因は、霊的度量に欠けていることです。あるいは、再び別の言い方をすると、それらの疾病はけちな狭量さのせいなのです。逃れる唯一の道は、心を広くすること、新たな地平を切り拓くことであり、クリスチャンである私たちがその中に導かれたものの偉大さを新たに感じるようになることです。しかし不幸なことに今日、クリスチャンの間には主の水準ではなくこの世の水準にしたがった偉大さしかみあたりません。あまりにも多くの方面でそうなのです。
さて、聖書には四つの偉大な項目があります。それを「信仰の四本柱」、「四大項目」と呼んでもいいでしょう。たった今読んだこの二つの章は、それをすべて網羅しています。型や原則として次のことが示されています。
キリストの偉大さ。キリストはダビデの子であり、ダビデよりも偉大です。
十字架の偉大さ。これは祭壇や犠牲の供え物全体の膨大さによって示唆されています。
教会の偉大さ。教会は神の家です。
神の御言葉の偉大さ。この二つの章はこれを二つの点で示唆しています。第一に、ソロモンが偉大だったのは彼が神の御言葉に対して忠実だったからに他ならないと述べられています。第二に、ダビデは神の家の図面をソロモンに委ねるにあたって、「彼はそれをすべて主から書き物として受けた」と述べられています――神の御言葉が支配していたのです。
これが聖書の四大項目です。
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