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「永遠の希望」

充さるべき預言

旧新約の二大預言とその成就

藤井武
Takeshi Fujii



元始はじめに神、天地万物を創造し、また自己の像のごとくに人を創造したもうた。その時世界は至福いとさいわいであった。人は未だ罪を犯さず、平和は全地を蔽うておった。「神その造りたるすべての物を見たまいけるに、はなはだ善かりき」。善いかな、天地及びその衆群ことごとく神の意のままに成る。ここにおいて神自ら安息やすみたもうた。

神の安息!かつては一度ひとたびその時があったのである。しかしながらそは唯一度ひとたびであった。創世記第二章に記されし造化第七日の安息を除いて、聖書は再び神の安息について語らない。否、むしろその反対を伝えて曰う、「わが父は今に至るまで働きたもう。我もまた働くなり」と。まことに神の安息は今や遠き過去の思い出に過ぎない。造化完成の際における唯一度ひとたびの安息を最初また最後のものとして、爾来じらい神は決して再び安息やすみたまわないのである。もし人の語をもって言い得るならば、爾来じらい神の心に全く平和が失われたのである。何故であるか。

たえなる造化の事実にいで直ちに来たりしものは、被造者たる人の讃美または感謝ではなかった。かえってその造物者に対する不信叛逆であった。何等の痛恨事ぞ。創世記をひもといて、その第一章に荘厳偉大至福なる万物の創造を学び、その第二章に美わしき神の安息とエデンの園とを見たる後、その第三章に至り忽焉こつえんとしてアダム夫妻堕落の記事に接せざるべからざるは、実に人類最大の不幸である。あわれもしこの事実だになかりせば、すべての悪と死とは人を悩ます事なく、全地は今も平和をもって蔽われておったであろう。聖書の記事は創世記第二章より直ちに黙示録の最後に接続したであろう。しかしながら事実は如何いかんともすべからず、罪は永久に人の心に宿った。しかしてその時より神その造りたるすべての物を見たもうに、はなはだ悪しきものとなってしまった。

人に罪ありて、神に安息あるあたわず。永き造化の時は過ぎて、安息はつか、直ちに救贖きゅうしょくの時代が始まった。神に取って造化は難事ではなかった。何となればその時未だ神に叛く者がなかったからである。造化は全く神の意のままであった。「神光あれと言いたまいければ光ありき」。神かくあれと宣言したまえばすなわちその事成る。造化は実に神の宣言によって成ったのである。しかしながら救贖きゅうしょくは造化のごとくに容易ではない。救贖きゅうしょくは神の発意のみをもっては成就しない。もちろん救贖きゅうしょくもまた造化とひとしくそのすべての条件を神自らたしたもう。しかりといえども人もしこれを受けざるにおいては、救贖きゅうしょくは遂に成就しないのである。神光あれと言いたまえばすなわち光ありしがごとくに、神救わんと言いたまいて直ちに人は救われない。人をしてこれを受けしめんがために、神は永き努力を続けたもう。これゆえに救贖きゅうしょくは造化のごとくに宣言によって即時たちどころに成らない。救贖きゅうしょくは預言とその困難なる実現とによって成るのである。宣言が造化の特徴なりしごとく、預言は救贖きゅうしょくの特徴である。人に叛逆の心ありて、神は預言の必要を感じたもう。かくて人類の創造にぐその堕落と共に、単純なる宣言の時代は去りて、困難なる預言の時代は臨んだのである。

初めアダム等蛇に誘惑まどわされてエホバに背きその禁じたまいし樹のを食らいてより、彼等の心またエホバを思わず、日の清涼すずしき頃園の中を歩みたもうエホバの声を聞きてこれをはばかり、そのかおを避けて林間に身をかくした。叛逆者の心事何ぞさびしき。しかしながらエホバは彼等のために深く心を痛め、これを呼びて言いたもうた、「おんな苗裔すえは遂に蛇のかしらを砕かん」と(創世三の一五)。誘惑者のかしら砕かるるの日はすなわち人の叛逆の残なくいやさるる時である。叛逆者に対してかえってその罪の救療を約束したもう。エホバの愛は偉大なるかな。しかしてこの驚くべき恩恵の約束こそは、やがてすべての預言の濫觴らんしょうであった。この時以来神は一に預言をもって我等人類に臨みたもうたのである。

このゆえに聖書はその創世記第三章以下ヨハネ黙示録に至るまでことごとくこれ預言の書である。ただにいわゆる大小預言者の書と黙示録のみがしかるのではない。モーセの五書その他の歴史書もそうである、ヨブ記その他の教訓書もそうである、福音書も使徒書翰も皆そうである。聖書が人の罪とこれに対する神の救贖きゅうしょくとを伝える書である以上、その全部が預言書たるの性質を有するは少しも怪しむに足らぬ。しかしてその旧新約六十六巻を通じて顕わるるものは実に二箇の最大なる預言である。その一に曰う、「神の子は来たらん」と。これすなわち旧約であった。その二に曰う、「神の子は再び来たらん」と。これすなわち新約である。神の子の初臨と再臨、是のごときが人類堕落の当初より神の備えたまいし救贖きゅうしょくの大計画プログラムである。しかしてその第一の預言はすでにことごとく成就した。また第二の預言は今や成就せんとしつつある。前なる預言と後なる預言とを結び付けてつづりしものが旧約聖書である。前なる預言を歴史とし、後なる預言を預言としてつづりしものが新約聖書である。聖書とは実に預言書より以外の者ではない。

おんな苗裔すえ蛇のかしらを砕かん」とは旧新約を総括したる根本的の大預言であった。神はこの根本的預言に基づき、爾来じらい種々の形態かたちをもって神の子の来臨を預言したもうた。我等は旧約聖書をひもときて随所にこの活文字のあとを読むことが出来る。なかんずくその最も代表的なるはアブラハムとダビデとに向かってなされし神の約束である「汝の子孫によりて天下の民みな福祉さいわいを得べし」と、これアブラハムのしばしば受けたる黙示であった(創世一二〜二二章)。「万民の福祉さいわいを与うべき王は汝の後裔より出でん」と、これダビデに臨みしエホバの言の意味であった(後サムエル七の四〜一七)。しかしていわゆる預言者等はみな顕著なる黙示を受け、明白なる語をもってこれを伝えた。彼等の最後なる者は叫んで曰うた、「見よ、彼来たらん」と(マラキ三の一)。彼とは誰ぞ。そのただにユダヤ人の王たるべき人にあらざることは前後詞コンテクストの証明する所である。曰う、「見よ、我れわが使者を遣わさん。彼我が前に道を備えん」と(マラキ三の一)。知るべし、来たるべき彼は実にエホバ彼自身なることを。ここに至って旧約の預言はまさにその絶頂に達したのである。(旧約のメシアが神の子たるの観念を有する事についてはその他イザヤ九の五、六、ミカ五の二、ゼカリア一二の一〇参照。)

誰かいう、預言書はマラキ書をもって尽き、マタイ伝をもってさらに史伝は始まると。史伝か預言書か。かれにしてこれねたるものがマタイ伝である。注意せよ、その冒頭の辞を。「アブラハムの子にしてダビデの子なるイエス・キリストの系図」と。こは果たして本書がユダヤ人たる読者を目的とするにより、その王たるイエスの系図を遡りて、ユダヤ人の祖先まで辿ったのであるか。余はマタイ伝記者の大眼目の決してここに存せざりし事を信ずる。マタイ伝記者の歴史観はまた旧約聖書記者のそれと同一であった。彼は歴史を見るに、人間の立場においてはしなかった。彼は神の大計画の発展としてすべての歴史を見たのである。ことに聖霊の導きによりイエスの伝を描かんと欲して、この立場に彼の立ちしは疑うによしなき事実である。しかしてこの立場より見て、イエスの地位は極めて明瞭であった。イエスこそは人類堕落以来久しき間の神の大預言の目的そのものである。「神の子来たらん」とのふるき預言は今まさに彼において成就したのである。神のアブラハムとダビデとに向かって約束したまいしところ、その預言者をして語らしめたまいしところは、今まさに彼において実現したのである。このゆえにいう、「アブラハムの子にしてダビデの子なるイエス・キリスト」と。所意いうこころは「来たるべき神の子なるイエス・キリスト」というと少しも異ならない。すなわち預言者マラキが「見よ、彼来たらん」と叫びたるに対して、使徒マタイは「しかり、今彼は来たれり」と応じたのである。

イエスの出現をふるき大預言の成就として示せるマタイ伝は、同時にまたそれ自身が一つの新たなる預言書である。マタイ伝の骨子をなすものは、物語の間に織り込まれたる五大教訓集(五〜七章山上の垂訓、一〇章十二使徒派遣の際の教訓、一三章比喩、一八章教会の教訓、二四、二五章の預言)であるが、こはいずれもキリストの再臨に関する預言として見てのみよくその意味を探り得る所のものである。「我汝等に告げん、人の子大権の右に坐し天の雲に乗りて来たるを汝等見るべし」と(マタイ二六の六四)。マタイ伝の第二の解鍵はこの一語において存する。キリスト初臨の預言成就の歴史とその再臨の預言と、これをもってマタイ伝の内容は尽くるのである。

同じ事がその他の新約諸書についてもまたこれを断言し得る。しかして旧約を摘要せしものが最後の預言書なりしがごとく、新約を総括するものもまたその最後の書である。ヨハネ黙示録とは何ぞ、キリスト再臨の大預言よりほか何でもない。その冒頭七教会に宛てたる挨拶の語を見よ、「願わくは今いまし、昔いまし、しかして来たりたもうべき者より汝等恩恵めぐみと平安を受けよ……見よ、彼は雲に乗りて来たる。……我はアルハなり、オメガなり。始めなり、終わりなり。今あり、昔あり、しかして来たるべき全能の者なり」。またその最後の力ある結語を見よ、「この事を証しする者いいけるは、我必ず速やかに来たらん。アメン、主イエスよ、来たりたまえ!」。曰く来たるべき者、曰く来たらん、曰く来たりたまえ。これ旧約の信仰であって、また新約の信仰である。神の選民は幾千年の間来たるべき者を待ちこがれた。同じように真正のキリスト者もまた今や再び来たるべき者を待ちぶるのである。この待望をほかにして聖書が教える所の信仰的生活なるものはない。しかしてまた近世の聖書学者ゴーデーの喝破せしごとく、信仰の立場より見て世界歴史はこれを次の短かき三語をもってことごとく包括することが出来る。曰く彼は来たりつつあり、彼は来たれり、彼は再び来たりつつありと。かくて彼は再び来たれりと言わんその時、堕落をもって始まりし人類の歴史は至極の栄光をもって完結するのである。望ましきは実にその時である。

神の子の来臨とその再臨、こは共に驚くべき超自然事である。ゆえに我等のうちなる自然性は常にその真実を疑う。しかしながらこの二大事件の真実を信ぜんがために、決して深遠なる哲学的または神学的研究を必要としない。神の子の来臨を信ぜしむるものはただ罪の痛さである。その再臨を信ぜしむるものは贖われし者に特有なる大矛盾の苦しみである。

罪よ、罪よ、我が霊魂の中心にまで食い入り、その全組織を腐蝕し敗壊せしめずんばやまざる恐るべき呪うべき罪の力よ。何者かよくこれをいやしこれをつつみこれを潔め得べき。らい病者は非凡なる稀代の天才の出現するにあらざれば、到底自己を潔むるあたわざるを知る。罪人つみびと我もまたしかり。我に向かって神の子より以下なる者の来たりて汝を救わんと言うとも、決してこれを信ずることが出来ない。我が傷痍きずの痛みの深さはこれをいやすべく人以上の手を絶対に必要とするのである。悩める罪人の眼は直ちに神に向かって迫る。彼に取りて神の子の来臨は、たとえ事実ならずとするも、少なくとも絶対の必要であり、また衷心ちゅうしんの熱望である。むしろ人たる救い主の出現こそ彼の信じ難しとするところ、もしこの傷痍きずいやさるべきみちなしとせばすなわちやむ。しからずして何処かにそのみちの備えらるるあらば、そは必ずや至聖者の自ら働きたもうところなるを彼は知る。いま神の子我等の間に来たり、我等のためにその生命をてたりというか。何事かこれよりもさらに適切なるべき。この大いなる嘉信を聞いてこれを信ぜざる者は霊に痛みなき幸なる人々であろう。我等はただ叫んで曰う、「しかり、しかり、アメン、ハレルヤ」と。「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たれり。信ずべくまた疑わずしてくべき話なり。罪人のうち我はかしらなり」(前テモテ一の一五)。

神の子は来たりたもうた。しかしてその目的は人の霊の新生にあった。エホバに叛きてより恐るべき罪の奴隷となりて苦しめるアダムの子等の霊魂を贖うて、神の子たるの自由に入らしめん事、これ彼が唯一の目的であった。ゆえに彼来たりしがゆえに必ずしも社会は改善せられず、文明は進歩せず、いわゆる幸福は増進しなかった。否、人の自然性の要求はかえってことごとく彼の一蹴するところとなったのである。彼はただ人知れず深く悩める霊魂を求めてこれを招きたもうた。しかしてかかる霊魂はまた鹿の渓水たにみずを慕うがごとくに彼を慕うた。さいわいなるはこの招求とこの思慕との相逢着する刹那である。その時天において大いなる喜びあり、地において限りなき感謝がある。その時人の罪は彼の呑みつくす所となり、彼の霊は人のうちに来たり宿るのである。しかしてえ難かりし痛みは全くいやされて、人の思う所に過ぐる平康と自由とがこれに代わるのである。人一度ひとたびこの恵まれたる経験に入らんか、彼はただ歓喜と感謝とに溢れてまた他を思わず、救贖きゅうしょくの事すでに完成したるがごとくに感ずるのである。

しかしながら歓喜感謝は贖われれたる者の人生観の全部ではない。自由と平康とのみが彼の内的消息ではない。彼にはまた他面において特別なる哀しみなげき痛みがある。贖われたる者のこの世における生活は実に極端なる矛盾不調和の生活である。彼の自由にして永遠に生くべき霊魂は、極めて不自由なるかつやがて朽つべき身体に包まれて、言うべからざる苦痛を感ずる。願わくはこの身も共に救われて、自由の霊に相応すべき完全なるものと化せられんとは、贖われし者の衷心ちゅうしんよりの切望である。「聖霊の初めて結べる実をてる我等も、自ら心の中に歎きて、我等の身体の救われんことをつ」。これ矛盾の第一である。また彼が内心はひとり限りなき平康をたたえるも、彼を囲繞いじょうする世はとこしえに擾乱じょうらんちまたより脱れない。福音宣伝二千年になんなんとして、かえって全地に未曾有みぞうの戦禍はみなぎる。目ある者は見よ、この世は全体として昔より少しも向上せざるのみならず、かえって益々悪化しつつある。しかして遠からず全社会の大混乱を来たさんとするの徴候顕著なるものがある。「これみなわざわいの始めなり……その時大いなる患難なやみあり。このごとき患難は世の始めより今に至るまであらざりき」。これ矛盾の第二である。さらにまた贖われし者の天地は光明につるといえども、万物に大いなる欠陥あり、造化当初の完全なる面影は全くこぼたれて、野の鳥と海の魚とは恐怖を抱き、山と森とは荒廃にさらさる。しかも彼等は皆その中心に尽きざる恨みを蔵するのである。耳ある者はかの宇宙にどよめく万物の呻吟しんぎんを聴くべし。

よろず受造者つくられしものは今に至るまで共に歎き共に苦しむを我等は知る」。これ矛盾の第三である。

身体の復活、社会の完成、しかして万物の復興、これありて人類の救贖きゅうしょくは初めてまったし。しかして霊において贖われたる者の希望はこれより以下たる事が出来ないのである。神は彼の心より小なる肉的自然的要求を駆逐したもうと共に、この偉大なる客観的大自然的希望を賦与したもう。しからばこの希望はいかにしてたさるるのであるか。神は先に人の霊の痛みをいやさんがために、その独子ひとりごくだしたもうた。しかしてすべての害悪の本源は一に霊においてあったのである。救贖きゅうしょく聖手みては人の堕落の跡を追う。霊の叛逆をもって始まり、体と世と物との敗壊をもって終りし堕落を救わんがために、神もまた霊の新生をもって始め、最後に体の復活と世の審判と物の復興とに及ぼしたもうのである。神の子キリスト再び来たりて、この最後の大業を完成したもうのである。されば彼の初臨はやがてその再臨の予約であった。第一の預言の実現その事がやがて第二の預言であった。旧約は実に新約の母であった。神の子は必ず再臨する!何となれば彼は一度ひとたび来臨したからである。「汝等が彼の天に昇るを見たるそのごとくまた来たらん」(行伝一の一一)。しかり、千九百年の昔、東の空に異常なる星輝き、ベツレヘムの野に天使と天軍現われて、しかしてキリストこの世に生まれたまいしごとく、いつかまた「権威と大いなる栄光をもって」彼の再び来たりたもうその時が必ず到来するのである。しかしてその時信者は栄光の体をせられて始めて霊の自由をまっとうし、悪魔とその勢力とは全滅せしめられて全世界が贖われ、万物は新たにせられてふるき天地は消え去るのである。その時「荒野と潤いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランの花のごとくに咲き輝かん……エホバに贖い救われし者、歌うたいつつ帰りてシオンに来たり、そのこうべとこしえの歓喜を戴き、楽しみと悦びとを得ん。しかして悲哀かなしみと歎きとは逃げ去るべし」(イザヤ三五章)。ああ、慕うべきかな、シオン!エデンの園をわれしアダムの子は、シオンの都に入りて始めて完全なる神の子と成ることが出来る。ここに至りて「おんな苗裔すえは蛇のかしらを砕かん」との元始はじめの大預言は全く成就し、救贖きゅうしょく聖業みわざは完結を告ぐるのである。「彼我に曰いけるはすでに成れり。我はアルハなり、オメガなり。始めなり、終わりなり」(黙示録二一の六)。かくて神は最後に再び聖なる永遠の安息に入りたもうのである。

元始はじめに万物の創造あり、たちまち人類の堕落ありて、ここに救贖きゅうしょくの時代は始まった。救贖きゅうしょくは前後の二大預言とその実現とによりて成る。しかして前なる預言はすでにことごとく実現せられた。今や残る所は何ぞ。ただ後なる預言の成就の近づきつつあるのみではないか。しかり、その日は近づきつつある。その大いなる日は刻々に近づきつつある。されば備えよ吾友!「夜すでにふけて日近づけり。ゆえに我等暗昧くらきわざを棄てて光明ひかりよろいるべし」(ロマ一三の一二)。「我必ず速やかに来たらん。アメン、主イエスよ、来たりたまえ」(黙示録二二の二〇)。