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「永遠の希望」
充さるべき預言
イスラエル歴史と人類の救済
藤井武
Takeshi Fujii
四千年の昔の頃、アラビアの曠野に牧者らの団体があった。彼等は砂の上に天幕を張りて家とし、水ある所を追うて漂泊うた。彼等の日々の業は己が群れを牧しこれを集めこれに飲う事に過ぎなかった。従ってその生活は甚だ単調であった。種を携え涙を流して出で往けど禾束を携え喜びて帰り来たらんというがごときは彼等の味わい知らざるところであった。彼等はしばしば餓渇に耐え、窮乏を常の事として忍ばなければならなかった。ゆえに忍耐は自ら彼等の習性となった。また乏しくして寂しき曠野の生活に慣れし彼等の心は、多くこの世の物に繋がれなかった。彼等の目は晴朗なる砂漠の空気を通して天に向かった。「黄昏には野に出でて黙想をなし」(創世二四の六三)、夜には「天を望みて星を数え」し者は実に彼等であった(創世一五の五)。かくて忍耐の民なりし彼等はまた夢想の民であった。忍びかつ夢みる事は彼等の最も優れたる特性であった。
しかしてこの著しき特性を遺憾なく代表したる者は、彼等の中より出でしアブラハムの孫なるヤコブであった。彼は稀なる夢想家にしてまた忍耐家であった。かつて己が家を出で母の故国に赴かんとする旅中、「あるところに到れる時日暮れたればすなわちそこに宿り、そこの石を取り枕となしそこに臥して寝ねたり。時に彼れ夢みて、梯の地に立ち居てその頂の天に達れるを見、また神の使者のそれに昇り降りするを見たり。エホバその上に立ちて言いたまわく云々」(創世二八の一一以下)。貴き夢!これ人のかつて見たる夢の中最も意義深きものであった。されば主イエスは後にこれを引いて宣べたもうた、「誠に誠に汝らに告ぐ、天開けて人の子の上に神の使たちの昇り降りするを汝ら見るべし」と(ヨハネ一の五一)。彼(ヤコブ)はまた二十年の後再び父の国に帰らんとしてヤボクの渡の辺に来たり、夜己れ一人そこに「遣りしが、人ありて夜の明くるまでこれと角力す。その人己のヤコブに勝たざるを見て、ヤコブの腿の枢骨に触れしかば、ヤコブの腿の枢骨その人と角力する時挫離れたり。その人、夜明けんとすれば我を去らしめよと言いければ、ヤコブいう、汝我を祝せずば去らしめずと。ここにおいてその人彼にいう云々」(創世三二の二四以下)。夢想家ヤコブはここに再び常人の獲難き経験を有ったのである。彼と角力したる怪しき人の何者なりしかは唯彼のみぞ知る。しかして彼はそこの名をペニエル(神の面)と名づけて「我れ面と面とを合わせて神と相見てわが生命なお存るなり」と言うた。ヤコブもし夢想家ならざりせば、すなわち彼にしてもし一椀の羮のために家督の権を売りしその兄エサウのごとくに、ただ現在のみを愛し地の事のみを思いしならば、彼は決して神と相見る機なくして過ぎたであろう。
夢想家ヤコブはまた忍耐家であった。彼は母の兄の女なるラケルを愛し、その父と約束して、彼女のため父に仕えること七年であった。「ヤコブ七年の間ラケルのために勤めたりしが、彼を愛するがためにこれを数日のごとく見なせり」。しかるに期満つるも、父彼を欺きてラケルを与えざるや、すなわちヤコブさらに七年の勤労を繰り返して、遂に約束の妻を得て、その忘れがたき初めの愛を完うしたのである。七年また七年、黙々として待ち続けたるヤコブは確かに忍耐の人であった。
誰か夢想をもって閑人の空しき遊戯と做すものぞ。誰か忍耐をもって薄幸児の強いられたる運命と做す者ぞ。イスラエルの祖先らは曠野にありて夢みかつ忍んだ。しかしながらこれ決して無意義なる境遇上の習慣ではなかった。そもそも彼等の特にかかる境遇に置かれしその事が、宇宙の造り主の大いなる経綸に出でたのである。イスラエルと称えられて同じ名の民族の始祖となりしヤコブがかかる経験を嘗めさせられしその事が、人類の救い主の深き聖旨に基づいたのである。
「我が僕ヤコブ(民族)よ、わが選びたるイスラエルよ、今聴け、汝を創造し汝を胎内に造りまた汝を助くるエホバかく言いたもう云々」(イザヤ四四の一、二)。エホバは誠に胎の内よりすでにイスラエルを造りたもうた。彼等の胎とは他のものではない、曠野に夢想と忍耐とを続けたる牧者の団体がそれである。またこれが代表者たるヤコブ――ベテルに梯を夢み、ハランに十四年を忍びしヤコブがそれである。彼等は多分自ら何のゆえたるを知らずして夢みかつ忍んだであろう。寂しき曠野の夕まぐれ、羊の群れを追いつつ黙想に耽りし若き牧者ら、彼等はよく己が使命を覚らなかった。されども神は陶人の土塊を扱うがごとくに彼等を捉えて、ある大切なる器を造りつつあったのである。彼等は自ら知らずして、偉大なる理想の民待望の族イスラエルを産出すべき準備をなしつつあったのである。彼等の夢想はメシア待望の卵であった。彼等の忍耐はユダヤ民族四千年の忍耐の型であった。彼等は実に選民の母であった。
かくイスラエルは胎の内に在りてすでに神の造りたもうところであった。次に彼等が一箇の民族として生まれ出づるに至りし跡を尋ぬるに、また均しく神の創造を認めざるを得ない。「汝を創造したるエホバ云々」と。彼等は他の諸民族のごとく己が郷国に土着し安住し適易なる気候風物に包まれて成長しなかった。ヤコブの子らは思わざる事情に促され、一族すべて七十人相率いて異国エジプトに下った。しかしてかの地に留ること四百年、子孫繁殖して国に満つるに至りしも、その生活は決して無事でなかった。王の命により苛重なる力役は彼等に課せられ、また彼等より出づる男児は生誕と共に殺戮せられんとした。しかしながら「イスラエルの子孫は苦しむに従いて増し殖えたれば皆これを懼れたり」(出エジプト一の一二)。産婆らは王を畏れずして神を畏れしため、イスラエルの男児は安然に呱々の声を挙ぐることが出来た。しかしてこれら男児中の一人は、奇しき経験を重ねたる後、遂に彼等の救済者として立った。この救済者もまたその祖ヤコブに似てさらに遥かに偉大なる夢想家かつ忍耐家であった。彼はホレブ山中燃えつきざる棘を見、その中より神の声を聞きし以来、幾度びか大いなる夢を見た。ある時は「エホバの鼻の息によりて紅海の水積み重なり、岸堅く立ちて浪のごとくに成り、大水海中に凝る」を夢みた。またある時は不毛の曠野に幾十万の男女を養うべきパンの朝毎に天より降るを夢みた。彼の夢は人々の嗤笑いな憤怒を買うた。これがため彼は石にて撃たれんとした事もあった。しかしながら偉大なる夢想家は常に彼等に答えて言うたのである。曰く「汝等は静まりて居るべし」と(出エジプト一四の一四)。しかして見よ、彼の忍耐は決して徒然ではなかった。彼の狂妄なる夢は必ず事実となって現われた。イスラエルは彼に導かれてエジプトを出で、シナイの野に屯して、遂に優秀なる一箇の国民となった。驚くべきイスラエル建国史!事は自然と人とに対してみな逆であった。イスラエルはただ神の創造によって生まれたのである。
すでにこれをその胎内に造り、またこれを創造したまいしエホバは、さらにまたこれを助けたもうた。「また汝を助くるエホバ云々」と。世の民等みな多神教と偶像崇拝とに迷える間にありて、独りイスラエルのみは明白なる唯一神の啓示を受け、また神の人類救済に関する永遠的計画について貴き黙示を受けた。しかしてこの黙示に基づき彼等は久しき間ただ一つの夢想を続けた。イスラエルの夢想とは何ぞ。曰く約束の王とその国である。王や来たる?国や近づきし?と彼等は項を伸ばしてひたすらに待ち望んだ。しかるに来たりし者は王にあらずして敵であった。近づきしものは国にあらずして亡命であった。憐むべし栄光と平和とに恋々たりしイスラエルの男女等、かえって鎖に繋がれて遠き異境に流鼠の客となる。彼等にしてもし他の民族ならんか、必ずや失望喪心、また起つあたわざるに至ったであろう。しかしながら神の助けたもう民は倒さるれども亡びなかった。イスラエルはすべての患難を忍び耐えた。ヤコブの子等はバビロンの辺りに石を枕にして相変わらず昔の夢を繰り返した。
そもそもイスラエルのこの特別なる歴史は何を意味するのであるか。彼等のみ胎内にある時よりして神に造られ、神の創造によりて民族を成し、神の助けによりてその存続を保ちしは、果たして何のためであるか。彼等のみエホバを識り、メシアを待ち、神の国を望む事を許されしは、果たして何故であるか。一言すれば「わが選びたるイスラエルよ、わが心喜ぶわが選人よ」と言いて、彼等のみ神の選民たるの名誉を恣にしたるはそもそも何故であるか。
こはユダヤ人の特権を認むると同時に自ら起こり来る疑問であって、しかしてまた独りユダヤ人問題のみならず、すべて神の選択に対して繰り返さるる所の疑問である。悪者の上にも善者の上にもその日を昇らしめたもう神が、何故にある特別の人または民族を選びて、他に勝るの恩恵を施したもうのであるか。この疑問の原因は、選択の性質の半面のみを見て、他の半面を見ざるの謬にある。神の選択はもちろんその半面において恩恵である、特権である、名誉である。されども同時に他の半面においてそは必ず犠牲である、義務である、奉仕である。換言すれば神の選択の目的は選ばれし者自身においてのみあるにあらずして、同時に必ず他の者においてある。選択そのものが目的ではなくして手段に過ぎない。選ばれたる者は神の宝として愛玩せらるるにあらずして、神の器として使用せらるるに過ぎない。神はその大いなる計画を実行せんがために適当なる器を選び、これを通してその恩恵を遍く施さんと欲したもうのである。イスラエルの選ばれたる所以もまた実にこれより外にはなかった。
しからば神の器としてのイスラエルの使命はいかん。「わが扶くる我僕、わが心喜ぶわが選人を見よ。我れわが霊を彼に与えたり。彼れ異邦人に道を示すべし……彼は衰えず喪胆せずして道を地に立て終らん」と(イザヤ四二の一〜四)。道を――福音を――神の国の福音を――異邦人に――全人類に示し、しかして遂に必ずこれを世界中に宣伝し終らんと。偉大なるかなイスラエルの使命!彼等の選択の目的は全人類の救済にあったのである。彼等は神の救済が世界万民に及ばんがための器として選ばれたのである。しかして彼等の享受したるすべての特権は皆これがためであった。これあるがゆえに神は四千年の昔アラビヤの牧者等を捕えて彼等をして野に夢み山に忍ばしめたもうた。これあるがゆえに神は彼等の子孫を導いてエジプトを出で乳と蜜との流るる地に到らしめたもうた。これあるがゆえに神は律法と預言者とを彼等に遣りまた幾多の患難の中に彼等を支えたもうた。神は二千年の間かくのごとくに彼等を選びまた育みて、彼等をして福音のために天下に向かって証をなすの準備をなさしめ、しかして時満つると共に聖子イエス・キリストを彼等の間に降したもうたのである。神の民は今や己が主を迎うべくあった。イスラエルは今やその選ばれたる所以の使命を果たすべくあった。人類の救済は今や彼等より出づべくあった。(ヨハネ四の二二)
しかるにいかん、彼等はいかにその使命を果たしたか。「彼は己の国に来たりしに、己の民はこれを受けざりき!」(ヨハネ一の一一)。使徒ヨハネの一言千秋の恨事を伝う。二千年間の神の選民とその前に遣わされし神の独子、彼は此を受けんがために選ばれた、此は彼に迎えられんがために遣わされた。「我はイスラエルの家の失せたる羊のほかに遣わされず」(マタイ一五の二四)。イスラエルとイエス、羊とその牧主、しかして彼等は遂に彼を受けず、かえって十字架につけてしまった。ああ、選民はその使命を辱かしめた。彼等は神の二千年の撫育に背き、人類の永遠の救済を空しくせんとした。十字架はこれをイスラエル歴史の背景に照らし見てその意義特に深長である。神の久しき努力と人類の永しえの希望とが二つながらここに失せんとしたのである。
ここにおいてか神はさらに新たなる計画を立て直したもうた。彼は翻って異邦人を顧みたもうた。葡萄園を託けられし農夫等果期に至りて遣わされし主人の子を受けずしてかえってこれを殺したれば、葡萄園は他の農夫等に貸し与えられたのである(マタイ二一の三三以下)。神は今や世界の異邦人中より「御名を負うべき民を取りたまい」つつある(行伝一五の一四)。しかしてこれら選ばれたる少数の異邦人は旧の選民イスラエルに代わりて神の国の福音を宣べ伝えつつある。今やイザヤ、エレミヤ等の子孫は黙して語らず、約束の王の来臨はかえって東京またはヒラデルヒヤにおいて叫ばれつつある。神は野のオリブの枝を取りてこれを善きオリブに接ぎたもうたのである。
しからばイスラエルはいかにしたか。彼等はその貴き使命を異邦人に奪われて自ら滅亡してしまったか。あるいは気息奄々として漸くその生存を維持しつつあるか。げに彼等の国は瓦解し、その他は掠奪せられて、民は四方に散乱した。しかして世界到るところにおいて彼等は言うべからざる侮辱と迫害とに悩みつつある。およそ民族としてユダヤ人のごとくに数多の患難を荷いしものはない。しかるに見よこの比なき患難の下における彼等の驚くべき持続力を。「彼等は塵のごとくに四方に吹き散らさるといえども、なお巌のごとくに堅くして密なる民族的結合を維持した」。かつて彼等のさかえたる土地の上には爾来いずれの国民のこれに代わるも繁栄するあたわざるに反し、彼等自身は気候と風土とのいかんに拘わらず往く所として成功せざるはない。いずれの国にありても政治上または法律上の弱者たるの地位に置かるるに拘わらず、経済と科学と美術と哲学とにおいては、彼等は常に世界の優者たるの実力を握りつつある。実に彼等は今もなおヤコブの末である。その強烈なる忍耐力はいずれの民族もこれに企及することが出来ない。
しかり、彼等は今もなおヤコブの末である。今もなお彼等は忍びかつ夢みつつある。ああ偉大なる夢想家!彼等は四千年の久しき間暫くも醒むる事なくして夢み続けた。不幸にして彼等は己が主イエス・キリストを認むるあたわざりしといえども、しかも彼等は決して神の約束を忘れたのではない。約束の王とその国とは今も彼等の慕い求むる所である。散らされたる彼等が旧き預言に従いて地の四方より再びパレスチナに復帰せん事は、今も彼等の待ち焦るる所である。
「エジプトの獅身像何かあらん。ゴルヂウスの結び目何かあらん。最大の謎――万世に亙りて解くべからざる唯一の秘密はユダヤ人である。その存在その持続その事が理智の説明をもって応ずべからざる、人心に対する一大挑戦である」とある優れたる記者は叫んだ。しかして実に彼の言う通りである。世界歴史はユダヤ人の存続という大いなる謎を提供して、心ある者の説明を挑みつつある。この一大事実を無視する者は歴史を見るの目なき者である。イスラエルは何がゆえにかくして今なお存続しつつあるか。神は何がゆえに今なお彼等を支えつつあるか。理智はこれを説明するあたわず。ただ神の言のみこれが明白なる解答を供するのである。
この後我帰りて、倒れたるダビデの幕屋を再び造り、その頽れし所を再び造り、しかしてこれを立てん。これ残余の人々主を尋ね求め、すべて我が名をもて称えらるる異邦人もまた然せんためなり。(行伝一五の一六、一七)
兄弟よ、我れ汝が……この奥義を知らざるを欲せず。すなわち幾許のイスラエルの鈍くなれるは、異邦人の入り来たりて数満つるに及ぶ時までなり。かくしてイスラエルはことごとく救われん。(ロマ一一の二五、二六)
もし彼等の落度世の富となり、その衰微異邦人の富となりたらんには、まして彼等の数満つるにおいてをや。(ロマ一一の一二)
神はその選びたまいし旧き民を決して棄てたまわない。彼等は一度び己が使命について躓きしといえども、神は彼等を支えてこれをさらに遠大なる計画の中に追い込みたもうたのである。イスラエルをして福音を万民に伝えしめ、彼等を介して全人類を救わんとの神の旧き計画は今もなお変わらない。理智をもって解すべからざるユダヤ人の存続その事が何よりの証明である。彼等の亡びざるはその使命の失せざるがためである。彼等は奉仕せんがために存続しつつある。
今や神の民は異邦人の中より取られ、イスラエルは暫く黙せしめられている。されども時到らんか、イスラエルは遂にその罪を悔いて栄光のキリストの前にひれ伏すであろう。しかる後彼等はことごとく猛然として起ち、陸を越え海を渡り、国々島々地の極に至るまで隈なく往き巡り、しかして貴き神の福音をもって蒼穹を鳴り響かしむるであろう。しかして「多くの民強き国民エルサレムに来たりて万軍のエホバを求めエホバに祈らん。その日には諸の国語の民十人にてユダヤ人一箇の裾を拉えん。すなわちこれを拉えて言わん、我ら汝らと共に往くべし、そは我ら神の汝らと共に在すを聞きたればなり」と(ゼカリア八の二二、二三)。ああその日人類の福祉は果たしていかばかりぞ。かくてイスラエルの救済は実に人類の救済のために必要である。
されば健在なれイスラエル!夢みよ忍べよヤコブの子ら!重ねて汝等の使命を辱かしむるなかれ。一度びは汝等が選民たるの実を十分に挙げよ。我等は神のためまた全人類のためにこれを祈る。