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「永遠の希望」

充さるべき預言

大いなる欲求

藤井武
Takeshi Fujii



(1)我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に嘆き共に苦しむことを。
(2)しかのみならず、御霊みたまの初めの実をもつ我等も自ら心の中に嘆きて云々。
(3)かくのごとく御霊もまた我等の弱きを助く……御霊自ら言い難き嘆きをもて云々。(ロマ八の二二、二三、二六)

すべて造られたる者すなわち天然に嘆きあり、御霊の初めの実をもつ我等すなわちキリスト者に嘆きあり、御霊みたま彼自身にもまた嘆きがある。何のための嘆きぞ。失望の嘆きか、否欲求の嘆きである。欲求の最も切なるものは嘆きとして現わる。天然に切なる欲求あり、キリスト者に切なる欲求あり、聖霊にもまた切なる欲求がある。

しからば何ぞ、天然の切なる欲求とは何ぞ。「それ造られたる者は切に慕いて神の子たちの現われん事を待つ」。すなわち神の子等の顕現である。そはこの時天然自身もまた滅亡ほろびの僕たるさまより解放せられて、神の子等の光栄の自由にあずかり得るからである。キリスト者の切なる欲求とは何ぞ。「我等は……子とせられん事すなわち己が体の贖われん事を待つ」。すなわち身体の救贖きゅうしょくである。そはこの時我等は完全に神の子とせられて、キリストと共に限りなき栄光を受け得るからである。聖霊の切なる欲求とは何ぞ。「我等はいかに祈るべきかを知らざれども御霊自ら……執り成したもう」。すなわちキリスト者の欲求をさらに明白ならしめたるものである。そは聖霊は自己のために欲求するものにあらずして、聖徒のためにその弱きを助けて執り成す者であるからである。

よって知る、三者の切なる欲求は畢竟ひっきょう同一のものなる事を。神の子等の顕現はキリストの顕現と同時である(コロサイ三の四)。聖徒の身体の救贖きゅうしょくはキリスト天より降りていわゆる携挙を行いたもう時である(前テサロニケ四の一七)。しかして携挙と顕現とはキリスト再臨の二階段に過ぎない。ひとしく再臨である。すべての被造物つくられしものも切にキリストの再臨を欲求し、聖徒も切にこれを欲求し、聖霊もまた切にこれを欲求す。物界と霊界とに遍満する切なる欲求である。何の欲求かまたかくのごとく壮大にして至深なるものがあるであろうか。

ここにおいてか疑う、かかる壮大にして至深なる欲求の存在する所以ゆえん如何いかん。何故に天然も聖徒も聖霊も声を揃えてキリストの再臨を欲求するのであるか。何故に彼等は未来の栄光を待ち望むのであるか。何故に不完全なる現状をもって満足する事が出来ないのであるか。誰がかかる切なる欲求を彼等に賦与したのであるか。この問題に対しては、少しく注意して聖書を読む時は、その明白なる解答を発見する事が出来る。

先ず天然の欲求について聖書は曰う。(ロマ八の二〇〜二二、不幸にして邦訳聖書においては旧訳改訳共この関係を辿ることが出来ない。よってやむを得ず私訳による。)

(20)造られたる者の虚無むなしきに服せしは己が願いによるにあらず、望みをもってこれに服せしめたる者による。
(21)そは造られたる者自ら滅亡ほろびの僕たるさまより解かれて、神の子等の光栄の自由に入るべければなり。
(22)何となれば我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に嘆き共に苦しむことを。

天然はある他の者の所為によりて虚無むなしきに服すといえども、これをもって終わるにあらず、虚無むなしきの中になお未来の望みがある(二〇節)。何故に天然に望みがあるか。その望みの理由または根拠は何処にあるか。曰く神必ず天然を滅亡ほろびの僕たるさまより解放し神の子等の光栄の自由に入れんと定めたまえるがゆえである(二一節)。しからば神必ずかく定めたまえりとの証拠は何処にあるか。曰く天然に切なる欲求の嘆きを与えられたることその事が何よりの証明である(二二節)。望みの根拠は神の計画にある。ゆえにそは最も確実なる望みである。しかして神の計画の証明は天然の嘆きそのものにある。神もし天然の救済を計画したまわなかったならば、天然に嘆きの心をも与えたまわなかったであろう。しかしながら神はさいわいなる万物の復興を備えたもうのである。しかしてこれあるがゆえに万物に切なる欲求を賦与したもうたのである。天然は嘆く。何のゆえぞ、その前途に確実なる望みの横たわるがゆえである。これを慕いこれを求めて造られし者みな嘆き苦しむのである。

次に聖徒の嘆きについて聖書は曰う。(後コリント五の一、二)

(1)我等は知る、我等の幕屋なる地上の家やぶるれば、神の賜う建造物たてものすなわち天にある手にて造らぬ永遠とこしえの家ある事を。
(2)これによりて我等は嘆き、天より賜う住所すみかをこの上に着ん事を切に望む。(ここに「これによりて」と訳したる原語の en touto を邦訳聖書に「その幕屋にありて」と意訳したるは誤訳と信ず。ヨハネ一六の三〇、行伝二四の一六、前コリント四の四、ヨハネ一書三の一九参照)

聖徒の幕屋なる地上の家すなわち現在の肉体やぶれなば、神は必ず天にある手にて造らぬ永遠の家すなわち栄光の霊体をこれに賦与したもう。これ神の永遠の計画にして、最も確実なる望みである。「これによりて」、この神の計画あるによりて、この確実なる望みあるによりて、聖徒は心の中に嘆きて切にこれを欲求するのである。もし我等にこの確実なる望みなかりせば、またこの切なる欲求をも抱かなかったであろう。しかるに神は我等のために栄光の霊体を備えたもう。しかして時にこれが一瞥を許したもう。ここにおいて我等の心は躍るのである。先ず目的物の実在ありて、しかる後にこれに対する欲求がある。欲求は実在する目的物の反映である。我等の嘆きそのものが、未来において我等を待つ所の栄光の証明である。

第三に聖霊の嘆きについて聖書の言う所いかん。(ロマ八の二七、二八)

(27)また人の心を極めたもう者は御霊のおもいをも知りたもう。
(28)御霊は神の御意みこころかないて聖徒のために執り成したまえばなり。

人の心を極めたもう者すなわち神は、聖霊の嘆きをもことごとく知りたもう。何となれば聖霊の切なる欲求の目的物は、神自らこれを我等のために備えたまいしものなるがゆえである。

「御霊は神の御意みこころかないて聖徒のために執り成す」という。しかり聖霊は神の永遠の計画に従いて、我等の求むべきものを我等のために求むるのである。我等は神の計画をことごとく究むることが出来ない。ゆえに時として我等はいかに祈るべきかを知らない。しかしながら「御霊はすべての事を究め神の深き所まで究む」(前コリント二の一〇)。神は我等のためにいかなる栄光を備えて待ちたもうか、これ聖霊のことごとく究め知る所である。しかして我等がようやくその一瞥を許されて切に嘆き求むる時に当たり、聖霊はその完全なる知識をもって、来たりて我等の弱きを助け、共に嘆き求むるのである。されば聖徒よ、臆するなかれ、汝等のうちにありて汝等を助くる聖霊の嘆きそのものが、汝等の希望の実現すべき最大証明である。

J・デンニー曰く「霊的欲求は預言の一種なり」と。誠にしかりである。神は失望せしめんがために、人の霊魂に欲求を植え付けたまわない。先ず与えんとするもの在るがゆえに、これを待ち望ましめたもうのである。すべての造られし者もし切に慕いて神の子等の顕現を待たんか、これ神の子等は時に到りて必ず栄光の中に現わるべきがゆえである。御霊の初めの実をもつ我等もし心の中に嘆きて身体の救贖きゅうしょくを待たんか、これ我等の身体は時に到りて必ず復活または栄化せしめらるべきがゆえである。御霊もし自ら言い難き嘆きをもって聖徒のために執り成しをなさんか、これ御霊の求むる所そのままに必ず実現すべきがゆえたるや言うまでもない。もし天然と聖徒と聖霊とその深き嘆きを一つにしその切なる欲求を共にせんか、これ必ず彼等すべてを包容すべき絶大の恩恵の未来に実在するがゆえである。

ひるがえって問う、天然に果たして嘆きがあるか。天然を知る者はこれを愛する者である。しかしてかかる者の眼は美わしき天然の外装の下にもれる言いがたき嘆きを看取せざるを得ない。幾多の詩人は天然のために代言して歌った。シェリング曰く「うららかなる春の日、天然はその美の限りを現わして人の心を酔わしむといえども、なお喰い入るばかりの悲哀の杯をも飲ましむるにあらずや」と。また曰く「天然は新郎を失いし新婦に似たり。たえなる美服をまとえども、その眼には涙溢る」と。ゲーテ曰く「余はしばしば天然のえがたき哀しみをもって何物かを求むるを見たり」と。しかしてこれひとり彼等の経験のみならんやである。次に問う、聖徒に果たして嘆きがあるか。ああ、いずれの聖徒にか復活の切なる欲求が無いであろうか。最後に、聖霊に果たして嘆きがあるか。乞うこれを論ずるなかれ。密室に入りて、または山嶺に上りてひとり静かに父と語れ。父の細き声に応じて、我等の小さき胸の中に洪水のごとくに動くものは果たして何であるか。