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「永遠の希望」

新しき天地

新約聖書における来世の観念

藤井武
Takeshi Fujii



来世とは墓の彼方かなたいいであるか。すなわち我等は死と共に来世に移り永遠の生活に入るのであるか。あるいはまた来世とは世界がある大いなる異変によりてその現在の実質をことごとく滅失したる後を言うのであるか。多くの人の来世観は前者にあらずんば後者に属するもののごとく見ゆる。そのいずれにせよ幽玄なる思想たるを失わない。しかしながら来世をかくのごとくに解釈して、自ら人の欲求の最も深きものにわざる所あるの感を禁じない。死をもって来世の必然的要件となし、来世の生活と言えば必ず墓の向側むこうがわを想像せざるべからざるがごときは、たとえ死そのものをいかに説明し去るといえども、なお生の充実をねごうてやまざる人の心に一味の物暗さを附与せずしては済まない。また世界の存続する限りを現世とし、その消滅の後を後世と見るは、来世を全然我等の想察の区域外に撤去する事であって、従ってそは人の希望たるべく余りに朦朧である。かくのごとき来世観をもって我等の生活の基調キーノートたらしめんとするは至難事である。我等の希望は陰鬱ならずして晴朗なるを要する、空漠ならずして明確なるを要する。しかしてさいわいなるかな、神はすべて我等の必要を知りたもう。神が新約聖書を通して我等に提供したもう所の来世はこれよりも遥かに優れたるものである。

新約聖書における来世はこれを原語にて、「来たらんとする時代」(マタイ一二の三二、エペソ一の二一)「来たりつつある時代」(マルコ一〇の三〇、ルカ一八の三〇)または「かの時代」(ルカ二〇の三五)と称する。すなわち「時代」である、歴史的観念である。まずこの一事を明らかにするによりて、その通俗の思想との間における二三の重要なる相違を解することが出来る。第一に来世は個人的観念ではない。個人各自の死をもって始まる生活ではない。世界に臨むべき歴史的紀元である。ゆえにその到来以前は生者死者を問わず、何人も未だ来世の生活に入らない。第二に来世は死との間になんら必然的関係を有しない。そは世界に通ずる新時代なるがゆえに、その到来するや、生ける者は生けるがままにこれに移るであろう。来世は決して死の親族ではない。来世と現世とを隔つるものは、墓にあらずして、ある光輝ある他の者である。第三に来世は世界の消滅を予想しない。そは来たらんとする、あるいは来たりつつある時代である。ゆえにその到来はもちろん現在の時代の終末または退去を意味する。しかしながら時代は過ぎ去るも世界は消滅しない。来世は存続せる世界の上に実現する。来世の観念を世界消滅の思想より引き離すは、これを死より引き離すと同じく、キリスト教の救贖きゅうしょく観を明確ならしめ、信者の希望を晴朗ならしむる上において、最も必要の事であると信ずる。

来世は時代である。ゆえにこれを正解せんがためには先ず新約聖書における時代の観念を明らかにするを要する。聖書はしばしば「もろもろの時代」を言う。「これは我等の主キリスト・イエスの中に神の定めたまいしもろもろの時代の目的によるなり」(エペソ三の一一)。「神は……御子によりてもろもろの時代を造りたまえり」(へブル一の二、改正英訳脚注参照)。よって知る、神はある目的をもって御子キリストによりもろもろの時代を制定したまいし事を。目的とは何ぞ。言うまでもなく人類の救贖きゅうしょくを完全ならしめんとする目的である。神はそむける子等のかたくななる心を熟知したもうがゆえに、一挙にして彼等を駆り立てんとしたまわない。その罪の発動に応ぜんがため、もろもろの時代を制定し、一の時代には一の方法をもって、他の時代には他の方法をもって、あるいは導きあるいは懲らしめ、かくして最後にその聖旨みこころを完全に実行せんと欲したもうのである。すなわち時代とはこれを一言すれば、神が永遠の計画に基き、特殊の顕現をもって、その聖旨みこころを実行したもうところの時の区分である。

ゆえに時代は単に一二にして尽きない。聖書はあるいは「歴世よよもろもろの時代)歴代よよ隠れて今神の聖徒に顕われたる奥義」(コロサイ一の二六)と言いて、今の時代に先だち過去においてすでに幾多の時代を経過したる事を表わしている。また前に掲げたるがごとく「来たらんとする時代」あるいは「来たりつつある時代」と言いて、未来における新しき時代の到来を預言している。かくのごとく過去の時代あり、現在の時代あり、また未来の時代がある。いずれも人類救蹟きゅうしょくの途上における一階梯である。世界完成の過程における一紀元である。しかして現世といい来世という、畢竟ひっきょうその現在及び未来の時代を指して言うに過ぎない。現世には現世に特殊なる神の顕現あり、来世には来世に特殊なる聖旨みこころの実行がある。しかしながら二者は全く相れざる別個の世界ではない。同一の野に落莫たる冬枯は消えて生命の萌ゆる春の臨むがごとく、現世は去りて来世これに代わるも、また世界の歴史的紀元の更替たるにほかならない。

来世はいかにして来たるか。個人の死によってではない、世界の消滅によってではない、来世はキリストの再臨によって来たる。旭日東に上りてあしたは世にあまねきがごとく、栄光の主天より顕われて来世は地を蔽うのである。かつて弟子等彼に問うて「汝の来たりたもうと、世(現在の時代)の終わりとには、何のしるしあるか」と言いしに対し、イエスは先ず世の終わりのしるしについて答えたる後に曰いたもうた、「その時人の子のしるし天に現われん。その時地上の諸族皆嘆き、かつ人の子の能力ちからと大いなる栄光とをもて天の雲に乗り来たるを見ん」と(マタイ二四の三〇)。すなわち現世の終末に続いて直ちに人の子の顕現がある。知るべし、現世の終末と来世の開始との間に立つものは、墓にあらずして、再臨のキリストなるを。再臨によりて現世は去り、再臨によりて来世は来たる。来世とはキリスト再臨以降の時代のいいである。(再臨の二段の間に横たわる審判時代はこれを過渡の時期と見る。)

来世はキリストと共に来たる。しかしてキリストの来臨によりて世界は消滅しない。またすべての人がその生存状態を一変しない。の忠なる僕たるキリスト者は復活または栄化せしめられて天的生活に入るといえども(彼等も決して地と絶縁しない)、ユダヤ人及び異邦人は依然として現在の世界に現在の身をもって存続するのである。かくのごとくにして永遠の来世は始まる。知らず、神はかかる状態における来世をもっていかなる聖旨みこころを実行せんと欲したもうのであるか。

来世はもちろん先ず第一にキリスト者のために必要である。彼等は特に「かの世に入るにふさわしき者」と称せられ(ルカ二〇の三五)、「この世の子ら」と全く区別せらる(ルカ一六の八)。来世は実に彼等の時代である。彼等柔和なる者はこの時に地を嗣ぐであろう。彼等義に飢え渇く者はこの時に飽き足るであろう。

第二に来世はまたユダヤ人のために必要である。パウロは曰う、神はユダヤ人をその不信によって躓く石に躓かせ、これをにぶくしたまえりと(ロマ九の三三、一一の七)。すなわち信ずる者のためには「恵みの時、救いの日」なる現世は、彼等不信のユダヤ人のためには大いなる審判の時代であるのである。しかしながら神は決して選民を棄てたまわない。「幾許いくばくのイスラエルのにぶくなれるは、異邦人の入り来たりて数満つるに及ぶときまでなり。かくしてイスラエルはことごとく救われん」(ロマ一一の二五)。イスラエルに未来の希望がある。全イスラエルの救わるべき大いなる希望がある。そのみたさるべき時は何時いつぞ。現世か、否「異邦人の数満ちたる」後である。現世において救わるべき異邦人のことごとく救われたる後、すなわち「救いの日」の閉鎖の後である。神がその選民に対する約束を実行せんがために、来世は必ず無くてはならない。

第三に来世は異邦人のためにも必要である。来世において救われたるユダヤ人は、次にまた異邦人を救いに至らしむべき恩恵とならんという。「ユダの家及びイスラエルの家よ、汝等が国々のうち呪誼のろいとなりしごとく、このたびは我汝等を救うて祝言はぎごととならしめん」(ゼカリア八の一三)。「もし彼等(イスラエル)の衰微おとろえ異邦人の富となりたらんには、まして彼等の数満つるにおいてをや」(ロマ一一の一二)。神の約束にしてみたされずんばすなわちやむ。しからざる限り、来世はまた異邦人の恵まるべき時代たらざるを得ない。

かくのごとく神は来世において果たすべき幾多の目的を有したもう。しかしながら以上は実にその一端に過ぎない。ユダヤ人と異邦人との救済のごときは来世の首途かどでにおいてすでにこれを果たしたもうであろう。ついで彼は万物を復興せしめ、新しき天地を造りたもうであろう。来世において世界はただに消滅せざるのみならず、現在よりも遥かに堅実にして壮美にして完全なるものである。死は全く人の記憶より忘却せられてその蔭をだにとどめない。しかのみならず神は「その恩恵めぐみの極めて大いなる富を来たらんとする後の世々よよに顕わさんと」欲したもうという(エペソ二の七)。神は永遠の来世の中さらに無数の時代を画して、限りなく新たなる恩恵を顕わしたもうのである。新約聖書の来世は実に驚くべき永遠的恩恵の時代である。