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「永遠の希望」
新しき天地
キリスト再臨の二階梯
藤井武
Takeshi Fujii
人類の救い主の出現は、アブラハム以来数千年の久しき間、イスラエルの民の理想であった。彼等はその預言者と共に歌い続けた。曰く
朝の光、上より臨み、
暗黒と死の蔭とに坐する者を照らし、
我等の足を平和の路に導かん。
と(ルカ一の七八、七九)。美わしくもまた偉大なる理想である。人は皆暗黒を歩み死の蔭の地に住むといえども、やがて朝の光上より臨まんか、新しき生命はこれと共に賦与せられ、平和は我等の霊魂に充ち満つるに至らんと。救い主の出現は実に人生の革命である。従ってそは歴史上の最大事件として期待せられた。
時満ちて朝の光は上より臨んだ。人類の救い主は終に出現した。しかしながら期待に反きて、そは極めて静粛なる出来事であった。ベツレヘムの里に馬槽の中に臥させられし小さき嬰児、それが主キリストであった。何人もこの事に気付かなかった。イスラエルの民は平日のごとく飲み食い、シオンの女等は相変わらず虚飾と遊楽との中に驕り暮らした(エデルシャイム『イエス伝』参照)。神の子の降臨は世の人の眼より全く隠れたる秘事であった。
世はこれを知らず、選民イスラエルさえこれを知らなかった。しかしながらその間に最も少数なる真の主の民があった。彼等の曇りなき眼に朝の光はいと鮮やかに映じた。すなわち東の博士たちは、ある特別なる星の現わるるを見たのである。ベツレヘムの野に宿りて群れを守り居たる牧者等は、主の栄光に照らされかつ天使の告知と天軍の讃歌とを聴いたのである。「義かつ敬虔にしてイスラエルの慰められんことを待ち望みし」シメオンは、聖霊に感じて事を知ったのである。博士と牧者とシメオンと、彼等は皆歓喜に溢れ、あるいは東よりまた野よりベツレヘムに往き、あるいはエルサレムの宮に入りて主キリストに見え、これを拝し神を讃美した。世の人の心付かざりしイエスの生誕は、ただ彼等にのみ限りなき恩恵であった。
後およそ三十年にして、イエスは卒然大いなる権威を帯びて世に現われた。ガリラヤにエルサレムにサマリアに、彼の姿の動くところ、人は皆驚き怖れた。平民も貴族も、為政家も宗教家も、学者も病者も、婦人も小児も、何人も彼の強き影響より脱るることは出来なかった。彼が驢馬に乗りてエルサレムに上りし時は、群衆あるいはその衣をあるいは樹の枝を途に敷き、かつ叫んで曰うた。「ダビデの子にホサナ、讃むべきかな、主の御名によりて来たる者、いと高き処にてホサナ」と。しかして遂にエルサレムに入れば、都挙りて騒ぎ立ちしという。僅かに三年の馳駆によりて一世を震憾したるその驚くべき勢力は、実に救い主の出現に適わしきものであった。
すなわち知る、キリストの初臨に明白なる二箇の階梯ありし事を。彼は先ず世の人の眼に見えざる態にて私かに来臨したもうた。その時彼を認めし者は特別に彼の有なる少数者のみであった。次に彼は万民の前に顕著なる態をもって出現したもうた。世は挙りて彼を認め彼のために動かされた。前後三十有余年、これを通じてキリストの来臨という。預言者ミカが「イスラエルの君となる者ベツレヘムの中より出づべし」と言い、マラキが「汝等の求むる主たちまちその殿に来たらん」と言いしは、共にキリストの来臨(初臨)を預言するものなるも、前者はその初めの階梯について、後者は後の階梯について語ったのである。
キリストの再臨は、その初臨によりて初まりし事業の完成である。救贖に関する神の事業の成就である。否、神の造化の目的の完全なる遂行である。ゆえにそは人生の革命であるばかりでない、また天地万物の革新である。
見よ、主エホバ能力を有ちて来たりたまわん。
その臂は統べ治めたまわん。(イザヤ四〇の一〇)
しかり、彼は「万物を己に従わせ得る能力」を有ちて来たりたもう(ピリピ三の二一)。イスラエルも異邦人も、天も地も、みなその臂の統治に従うのである。キリストの再臨は人生と宇宙とに関わる出来事である。
しかしながらこの大いなる出来事もまた一時に成就するのではない。キリストの初臨に二箇の階梯ありしがごとく、彼の再臨にもまた二個の階梯がある。初めは秘密に、後は顕著に。この順序によりて救い主は出現したるごとく、またこの順序によりて彼は再臨するのである。二階梯を区別せずして、再臨の真相を明らかにすることは出来ない。
「汝等腰に帯し、燈火を点して居れ。主人婚筵より帰り来たりて戸を叩かば、直ちに開くために待つ人のごとくなれ。主人の来たる時、目を覚まし居るを見らるる僕どもは幸福なるかな。我れ誠に汝等に告ぐ、主人帯してその僕どもを食事の席につかせ、進みて給事すべし。主人、夜の半頃もしくは夜の明くる頃に来たるとも、かくのごとくなるを見らるる僕どもは幸福なり。汝等これを知れ、家主もし盗人いずれの時来たるかを知らば、その家を穿たすまじ。汝等も備え居れ。人の子は思わぬ時に来たればなり」(ルカ一二の三五〜四〇)。主人はあたかも盗人のごとくに、思わぬ時私かに帰り来たりて戸を叩かんと言う。しかして腰に帯し燈火を点して目を覚まし居る僕、主人の帰来を今か今かと待ち侘び居る僕にあらざれば、その音を聴きて直ちに彼を迎え、しかして彼より大いなる恩恵を受くることが出来ないと言う。またかく備え居らざる者は、不用意なる家主が盗人のためにその家を穿たるごとくならんと言う。いかに意味深き譬喩よ。キリストの来たりたもう時また実に是のごとしである。彼はいずれの時とも知らず、号令と天使の長の声と神のラッパと共に自ら天より降りたもう(前テサロニケ四の一六)。もちろんその声は地の極にまで響き渡るであろう。しかるにも拘わらず、これはかの婚筵より帰りし主人が戸を叩くの音である。すべての僕がこれを聴くことは出来ない。否、ただ目を覚ましてひたすらに彼を待ち望める少数の僕のみこれを聴いて起たしめらるるのである。しかしてかかる僕のみがこの時キリストを迎えて彼と共に居りかつ彼より大いなる恩恵を受くることが出来るのである。その他の者は惰眠の中にありて何事をも知らず、恥づべき不覚を招くであろう。かつてベツレヘムの野に天使の声と数多の天軍の歌との響きし時もまた同様であった。その万民に関わる大いなる歓喜の音信も、その天の栄光と地の平和とに関わる荘厳無比の讃美の調べも、ただ心貧しき三四の牧者の耳に響きしのみであって、多数者は今己が郷に起こりつつあるこの驚くべき出来事を夢にも知らず、日常のごとく小なる世の煩労に没頭しておったのである。しかして最初に主と見えて心より神を讃美するの特権は、彼等少数の牧者等にのみ帰したのである。主降誕の夜におけるベツレヘムの光景は、彼が再臨の晨における全世界の光景の予表であり、模型であった。
また言う「我(キリスト)は輝く曙の明星なり」と(黙示録二二の一六)。夜将に明け初めんとして東天すでに燦然たる明星の懸かるを見る。その光は強くその形は鮮やかなりといえども、これを望み得る者は果たして誰であるか。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔うなり」(前テサロニケ五の七)。彼等は明星の何時上るかを知らない。しかして世の多数者は皆この「夜に属する者」である。この間にありて唯少数の「光の子供、昼の子供」がある。「我等は夜に属く者にあらず。暗に属く者にあらず。されば他の人のごとく眠るべからず。目を覚まして慎むべし」とパウロは言うた。夜央けて他の人の眠りに耽る時、独り目を覚まして慎み、衛士の晨を待つがごとくに東を仰いで待ち望める光の子供、昼の子供――彼等のためにこそ曙の明星は夜の暗未だ消えざる間に、光り輝きつつ上るのである。福なるかな、再臨の晨における明星の望見者!彼等は降誕の夜における東の博士たちのごとく、世の人の未だ何事をも知らざる時、歓喜に溢れつつ主と相見ゆることが出来るのである。千九百年の昔東の空にて現われし奇しき星は、いつかまた天より現わるべき「輝く曙の明星」の先駆者であった。
主人は何時婚筵より帰り来たるか。曙の明星は何時輝き上るか。何人もこれを知らない、何者もこれを妨ぐることは出来ない、いかなる条件もその前に充たさるるを要しない。ただ父の御心のままである。千年の後か、百年の後か、あるいは明年か、もしくは今年か、しかりあるいは今日であるかも知れない。今日にも終わりのラッパ鳴らんには、「キリストにある死人まず甦り、後に生きて存れる我等は彼等と共に雲の中に取り去られん」(前テサロニケ四の一七)。昔より今に至るまで我等と共に彼の十字架に鎚り、また彼の再び来たらん事を待ち望みつつ眠りにつきし兄弟姉妹等は、皆一斉に朽ちざる体に甦らされ、各々その墓を破って出で来たるであろう。しかる後に生きて存れる我等もまた彼等と共に取り去らるるであろう。しかしながら多数の者は現在のままに地に遺さるるであろう。主の来たりたもう時もし昼ならんには、「二人の男畑に居らんに、一人は取られ、一人は遺されん」。もし薄明の頃ならんには、「二人の女碾き居らんに、一人は取られ、一人は遺されん」。もし夜ならんには、「二人の男一つ寝台に居らんに、一人は取られ、一人は遺されん」(全地の中ある所は昼、ある所は薄明、ある所は夜であろう)。人は平常の通りに勤労みつつある、戯れつつある、飲食または睡眠に耽りつつある、遠き計画を巡らしつつある、思い煩いつつある、罪を犯しつつある。すべてが平常の通りである。しかるに見よ、何の前兆もなく、何の予報もなく、此処に一人、彼処に一人、地の塩たる敬虔にして正直なる男女が、突然彼等の間より姿を隠すであろう。憶うその時遺されし多数者の驚愕やいかに!その日まで首を高うして「主の来たりたもう約束は何処にありや、先祖たちの眠りし後、万のもの開闢の初めと等しくして変わらざるなり」と声高く嘲り居りし彼等は、この無言の大事実、秘密の奇蹟の前に、いかに顔色を失うことであろう。彼等は取られし者のいかにして何処に往きしかを知らない。しかしながら取られし者はもちろん消え失せたのではない。彼等はエノクのごとく、死を見ぬように移されたのである(へブル一一の五)。すなわち暫らくこの地より携え挙げられて、今や主キリストと共に在るのである。「……空中にて主を迎え、かくていつまでも主と共に居るべし」(前テサロニケ四の一七)。かくのごとくキリストの再臨はその第一の階梯において、世の人には奇しき秘密である。ただ彼の有なる少数者に取りてのみ限りなき恩恵である。
しかしながら宇宙的出来事たる再臨はもちろん秘密事として終わるはずがない。再臨は顕現である、キリストの世界的顕現である。人の子かつて驢馬に乗り、前後に従う群集の歓呼の中に、堂々としてエルサレムに上りしがごとく、彼はまた「能力と大いなる栄光とをもて、天の雲に乗り来たる」であろう(マタイ二四の三〇)。その能力は「利き剣をもって諸国の民を撃ち、鉄の杖をもってこれを治む」るの能力である(黙示録一九の一五)、「万物を己に服わせ得るの能力」である。その栄光は「烈しく照る日のごとく」、これを見る者をして「その足下に倒れて死にたる者のごとくならしむる」栄光である(黙示録一の一七)。「雲を己の車となし」「風を使者となす」の能力と、「光を衣のごとくに纏い」「焔の出づる火を僕となす」の栄光である(詩一〇四)。何者の能力かこれに当らん、何人の栄光かこれに比えん。彼はこの異常なる能力と栄光とをもって、全地をその手に収めんがために天より現われたもうのである。「我また天の開けたるを見しに、視よ白き馬あり、これに乗りたもう者は『忠実また真』と称えられ、義をもて審きかつ戦いたもう。彼の目は焔のごとくその頭には多くの冠冕あり」(黙示録一九の一一、一二)。かくて彼はかつてその弟子等がオリーブ山上彼の「天に昇り往くを見たるそのごとく復た来たりたも」うであろう。再臨はここに至ってもはや秘密の奇蹟ではない、神の子の宇宙的顕現である。彼は今や薄明の中に輝く「曙の明星」にあらずして、宇宙を照らす「義の太陽」(マラキ四の二)である。ゆえに独り少数の「光の子供、昼の子供」のみならず、先に遺されしすべての「夜に属く者、暗に属く者」もまた仰いでその燦爛たる光明に撃たれざるを得ない。世界の夜はすでに明けたのである。主の日はすでに来たのである。久しき間夜の暗の裡に隠されし一切の罪悪は、今やことごとく彼の前に暴露せられて、その当然の処分を受けなければならない。彼を斥けし者、彼を裏切りし者、彼のいと小さき者を躓かしめし者、彼を待ち望む者を嘲りし者、ああ彼等はこの時いかにするであろうか。大いなる能力と栄光とをもって天の雲に乗り来たる彼を見て、彼等はその心にいかなる思いを懐くであろうか。彼等は多分彼を見ざらんと欲して逃げ避くるであろう。「人々その恐るべき容貌とその稜威の光輝とを避けて巌の洞と地の穴とに入らん」(イザヤ二の一九)。されども禍なるかな、その日何人も彼を避くることは出来ないのである。「見よ、彼は雲の中にありて来たりたもう。諸衆の目、殊に彼を刺したる者これを見ん。かつ地上の諸族みな彼のゆえに歎かん。しかり、アーメン」(黙示録一の七)。「彼等はその刺したりし我を仰ぎ観、独子のために哭くごとくこれがために哭き、長子のために悲しむがごとくこれがために痛く悲しまん」(ゼカリア一二の一〇)。
しからば先に地より取り去られしかの忠実なる僕等はこの時いかにして在るか。彼等はすでに栄光の体を与えられてキリストの許に集まりかつ「いつまでも彼と共に居る」と云う。ゆえに彼の在る所に彼等もまた在る。彼もし大いなる能力と栄光とをもって天より来たらんか、彼等もまた彼に従い来たらざるを得ない。すなわち曰う、「我神エホバ来たりたまわん、諸の聖者汝と共なるべし」(ゼカリア一四の五)。「見よ、主はその聖なる千万の衆を率いて来たりたまえり」(ユダ一四)。「我等の主イエス、すべての聖徒と共に来たりたもう」(前テサロニケ三の一三)。「天に在る軍勢は白く潔き細布を着、馬に乗りて彼に従う」(黙示録一九の一四)と。彼等もまた天的栄光を帯び大いなる軍勢を成して、神の子キリストに従い来たるのである。その中には使徒あり預言者あり、殉教者あり宗教改革者あり、また隠れたる無数の聖徒等がある。アブラハムもモーセもエリアも、パウロもヨハネもルーテルも、皆その中にあるであろう。彼等はそのかつて斥けられ迫められ虐げられしこの地に、今や永遠の勝利者として、王の王主の主なる屠られし羔と共に来たり臨むのである。かくてキリストの栄光の顕現は単独ではない。「我等の生命なるキリストの現われたもう時、汝等もこれと共に栄光の中に現われん」(コロサイ三の四)。ああ、その荘厳なる光景よ!誰かよくこれを想像することが出来ようか。天地の創造せられし以来、何処にかかかる偉観を望みし事があるか。誠にこれ「眼未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ思わざりし」神の大いなる奥義である。
かくのごとくにしてキリストの再臨に前後の二階梯がある。初めに彼は世の人の知らざる時、ただ「己を望む者に再び現われて、救いを得させたもう」(ヘブル九の二八)。次に彼は大いなる権威と栄光とをもって、来たりて「全地の王となりたもう」(ゼカリア一四の九)。第一段の目的は信者の個人的救贖の完成である。第二段の目的は社会と万物との根本的改造である。しかして社会の改造はその準備として大いなる審判を必要とする。審判なくして罪の社会の根本的改造を実行することは出来ない。ゆえにキリストの第二段の顕現に先だち、数年に亙る審判の時代がある。社会はその間に甚大なる難難によって専ら改造の準備をなすであろう。天地もまた稀有なる異変によって、同じく復興に備えるであろう。
社会の改造と万物の復興!絶大なるかなその事業。これ天地の創造よりもさらに困難なる事業である。何となればここに罪の根本的原因の絶滅の必要がある。またその普遍的結果の除却の必要がある。サタンとその幕僚との討滅、呪われし地の解放、罪人の最終審判、これら数多の大事件を成就せずして、新天新地は出現しない。実に「その時キリストは諸の権能、権威、権力を亡」ぼさざるを得ないのである。ゆえに彼が第二段の顕現の後、改造の事業の完結までには、数多の年月を要するであろう。されども改造は必ず成る。万物は必ず彼に服する。新しき天地は必ず創造せらる。罪と死とを知らざる社会は必ず実現する。神は必ず「すべてにおいてすべてとなりたもう」。宇宙は必ず完全に達する。人類の祈求は必ず充たさる。(ああ、遠大なるかな、我等の希望!)ただこれがためにキリストの再臨は絶対的必要である。人生及び宇宙の完成は、神の子自身の事業としてにあらざるよりは、実現すべく余りに遠大である。再臨なくんば人生と宇宙とは絶望である。再臨を嘲る者よ、汝等の希望は何処に在るか。彼れ再び来たらずしては、神の造化も我等の生涯もことごとく失敗に終わるのである。ゆえに「御霊も新婦(キリスト者)もいう『来たりたまえ』と。聞く者も言え『来たりたまえ』と」(黙示録二二の一七)。しかり、イスラエルも異邦人も、野の獣も山の鳥も、海も陸も、天も地も、みな声を合わせて言え「来たりたまえ」と。重ねて言う「主イエスよ来たりたまえ」。