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「永遠の希望」
新しき天地
世界改造の時代
藤井武
Takeshi Fujii
人は現代を呼んで世界改造の時代という。まことに世界的大戦乱の後を承けたる今の時に附する名として適わしきもののごとくに聞こゆる。しかして世界の改造は古来人類の最も深き欲求である。その響きは我等の天性の根底に訴える所がある。ゆえに今やその時代に入れりと聞いて、人類は大いなる期待を抱かざるを得ない。万国の民は斉しく目を挙げて何物かを望みつつある。これ世界歴史上かつて見ざりし盛観である。
しかしながら改造に対する人類の期待は果たして現代において充さるべきか否か。こは疑問と言わんよりはむしろあまりに明白なる事実である。我等の欲求は区々たる社会制度の改正ではない。我等は戦争の絶対的廃止を欲求する。我等は死と罪との絶滅を欲求する。我等は天然万物の改造を欲求する。かのユダヤの旧き預言者の歌いしごとく「彼等はその剣を打ちかえて鋤となし、その鎗を打ちかえて鎌となし、国は国に向かいて剣を挙げず、戦闘の事を再び学ばざるべき」世界、「海に浮かぶ者、海の中に充つる者、諸の島及びその民の、エホバに向かいて新しき歌をうたい、地の極よりその頌美をたたえまつる」世界、狼は小羊と共に宿り、または砂漠は喜びてサフランの花のごとくに咲き輝かん世界、かかる世界に現在の世界の改造せられんことを我等は欲求するのである。しかして誰か現代の小政治家小社会指導者を捉えて、彼等に迫るにこの遠大なる理想の成就をもってする痴者があろうか。人類の理想は現代において充されんには余りに遠大である。世界の改造はいと旧き夢にしてしかして今なお夢である。現代を呼んで世界改造時代と言うがごときは時代錯誤の最も甚だしきものである。
世界の改造は今なお旧き夢である。我等は近頃この旧き題目のしきりに人の口に上るを聞いて一層その感を深くせざるを得ない。しかしながらこは遂に夢として終わるべきであろうか。もししからんには我等はもはやこの大いなる欲求の重荷を負うに堪えない。むしろ速やかにこれを抛棄すべきはずである。しかるに今日まで失望は失望に尋ぎたるに拘わらず、全人類は依然としてこの題目に対する興味を失う事なく、多少の徴候を認むる毎にまたその期待を新たにしつつあるは何故であるか。これけだしこの大いなる夢の終に必ず実現すべき証拠である。神は人の霊性の深き所にこの切なる欲求を植え付けたもうたのである。
世界改造の時代は何時如何にして来たるか。使徒ペテロは教えて曰うた、「古より神がその聖なる預言者の口によりて語りたまいし万物の革まる時まで、天は必ずイエスを受け置くべし」と(行伝三の二一)。天よりイエスの遣らるる時、万物革新の時代は来たるとの意である。世界の改造はキリストの再臨によりて始まる。現代は世界改造の時代ではない。福音宣伝の時代である。イエス・キリストのために証明をなすべき時代である。この時代の終りし後、キリスト自ら世に来たりし後に、世界改造の時代は彼によりて初めて我等に臨むのである。
この新時代は俗にこれを千年期と称する(黙示録二〇章に基く)。いわゆる千年期に関しては新約聖書中これに触るるもの少なきに反し、詩篇記者及び預言者等のしばしば美わしき語をもってこれを謳うがゆえに、従来注解者は主としてその光を旧約に探りてこれを解くの傾きがあった。しかして旧約の預言より見て、千年期はイスラエルの理想国である。何となればこの時メシアたるキリストは彼等の王となりてエルサレムに君臨し、彼等を通して万国を治めたもうがゆえである。これすなわち彼等の慕い求むるダビデの裔の地的王国である。彼等はこの国において初めて「地の美産を食らうことを得」るのである(イザヤ一の一九)。父祖アブラハム以来彼等に約束せられしエホバの諸の恩恵は、少なくともその大部分がこの時代に実現せらるべきを疑わない。ユダヤ人の立場より見たる千年期は目的に対する手段としてよりも、むしろ目的その者たるの色彩を帯ぶる事多きは事実である。しかしながらそれにも拘わらず千年期の主要なる性質を示すものはかえって僅少なる新約の諸章句である。新約において主イエスはこの時代を「更世時代」と呼びたもうた(マタイ一九の二八)。使徒ペテロがこれを「万物革新時代」と名づけしは前記のごとくである。パウロが「彼(キリスト)はすべての敵を足の下に置きたもうまで王たらざるを得ざるなり」(前コリント一五の二五)と言い、ヨハネが「彼等(聖徒)は神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間王たるべし」(黙示録二〇の六)と言いしも、また明白にこの時代に関する。よって知る、千年期は神の国そのものにあらずして、これに達せんがための経路たり、その準備時代たる事を。新約の光に照らして見たる千年期は目的ではない、手段である。この時代において幾多の重大なる出来事はなお進行中にあるのである。否、救済に関する最大の出来事はかえってこの時代の終期に属するをもって見ても、以上の解釈の謬らざる事を証明するに足る(黙示録二〇の九、前コリント一五の二六)。
しかり、千年期はこれを目的として見てその価値の甚だ低きを思わざるを得ない。何となれば人生の最大敵たるサタンと死とは共にいまだ滅ぼされざるがゆえである。かかる不完全なる時代をもって我等の理想とするがごときは、神の栄光を傷つけ、聖徒の希望を杳からしむるものである。しかしながら目的に対する手段として見んか、讃美すべきは実に千年期である。これぞ人類の久しく慕い求めたる世界改造の時代である。この時主イエス・キリストはその栄光の体において地上に臨み、万物を己に服わせ得る力をもって驚くべき改造の事業を始めたもうのである。「諸の高き山諸の聳えたる嶺に河と水の流れとあるべし……月の光は日のごとく、日の光は七倍を加えて七つの日の光のごとくならん」(イザヤ三〇の二五、二六)。しかしてこの光栄ある事業に参与するの特権を与えらるる者は誰ぞ。そはすなわち復活したる聖徒等である。彼等はこの時こそ世界改造の共働者たるを許され、主の命のままに全地に遣られて、呪われし地の面より罪の痕跡を除去せん事に全力を尽くすであろう。かくて造られたる者は日々に「滅亡の僕たる状より解かれ」「山と岡とは声を放ちてみまえに歌い、野にある木は皆手を拍ち」「全地は楽しみ、多くの島々は喜ぶ」であろう。かくて人類の旧き大いなる夢は遂に厳然たる事実となりて現わるるであろう。