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「黙示録研究」

一一 白衣の大集団

藤井武
Takeshi Fujii



地上においていんせらるる神の僕の幻影につづき、ヨハネは天上に集められしすべての聖徒の大集団を見た。すなわち千万とも数えつくすによしなき大いなる群衆があった。彼らはみな純白の衣をまとい、手に手に棕櫚しゅろの葉を持って居った。彼らは諸々の国、もろもろやからもろもろの民、もろもろの国語の中より集められし団体である。すなわち彼らの中にはギリシャ人もあればドイツ人もある、アングロ・サクソンもあれば大和民族もある。白人もあれば黒人もある、へブル語の民もあれば梵語の民もある。しかして彼らは神の聖座みくらこひつじとの前に立ち、声を一つにして高らかに叫んでいう、「救いは聖座みくらに坐したもう我らの神と羔とにこそ在れ」と。この声高き讃美に和して「アーメン」を唱えながら、ひとしく数えつくすことあたわざる天使の群集もまた聖座みくらの前に伏し神を拝していう、「讃美、栄光、智慧、感謝、尊貴とうとき能力ちから勢威いきおい、世々限りなく我らの神にあれ、アーメン」と。

それはいかばかり荘厳の光景であろう。煉獄浄罪の山のふもとに立ちて海上を眺めやりしダンテは紅の朝霧を破って船を導き来たるただ一人の白衣の天使を見出してさえ、「眼は近く彼にえ得ず、私はこれを垂れた」と言うている、しかして「願わくは再びこれを見得んことを」と言うている。まして天使に似たるものの無数の集団をや。天は秩序の世界であるから、彼らは多分

拡がりて段をなし、また常春とこはる
もたらす太陽に頌歌しょうかの薫香を放つ
窮みなき薔薇

のごとき形して示されたであろう。しかしてまた「他の一軍」なる天使団は、さながら純白の花の周囲にまつわり羽音にて野をうならす蜜蜂のようでもあったであろう。

旧新の人にてむらがる
この安らかなる歓喜の王国は
皆ただ一つの目標を眺めて愛す。

その同じようなる観物を見た時のダンテの祈りは「おお唯一つの星として彼らの眼に閃き、かくてこれをち足らす三重の光よ、下界なる我らの擾乱じょうらんをみそなわせたまえ」であった。天上歓喜の王国に諸国諸族諸民諸語の人々が一つの目標を眺めつつ声を共にして讃美するを見る時、下界なる我らキリスト者の擾乱じょうらん、そのもろもろの宗派的分争の醜さは何事ぞ。

ヨハネは深き感慨をもってこの光景を眺め居るうち、長老たちの一人が彼の思いを一しお明らかならしめんとて彼にむかうて問うた、「この白き衣を着たるはいかなる者にして何処いづこより来たりしか」と。ヨハネは謙遜に答えた、「わが主よ、なんじ知れり」と。ここにおいて長老彼のために説明していう、「彼らは大いなる患難なやみよりできたり、羔の血に己が衣を洗いて白くしたる者なり。このゆえに神の聖座みくらの前にありて昼も夜もその聖所にて神に仕う。聖座みくらに坐したもう者は彼らの上に幕屋を張りたもうべし。彼らは重ねて飢えず重ねて渇かず、日も熱も彼らをおかすことなし。聖座みくらの前にいます羔は彼らを牧して生命いのちの水の泉にみちびき、神は彼らの目よりすべての涙を拭いたもうべければなり」と。

長老の問いは白衣の集団につき我らの知るべき最も重要なる事項の何であるかを教える。しかして問題は二つである。曰く、「いかなる者」、曰く「何処いづこより」。

何処いづこより?」「大いなる患難なやみより」である。彼らは享楽より来たらずして患難より来た。みちは二つある、しかしてただ二つしかない。昔より人類の文明を貫通するこの二大潮流があったのである。享楽を目的とするギリシャ主義と患難を目的とするユダヤ主義とである。我らの生涯は大体の方向において必ず二者のいずれかに属する。いずれが合理的であるかを私は知らない。ただこの一事を知る、すなわち天国は患難のみちにあることこれである。我らの小さき実験がその事を証明する。享楽の生涯にいかばかり貴きものがあっても天国の予感だけはない。これに反して、患難の生涯にかの日の前味がある。十字架を負うのよろこびはこの世ながらに永遠の福祉さいわいである。

何処いづこより?」これを現世の立場よりいえば「何処いづこへ」 quo vadisクオー ヴァデス である。答えて「十字架へ」と言い得る人はさいわいである。

「いかなる者?」「羔の血に己が衣を洗いて白くしたる者」である。自ら努力して善き品性を築き上げたる者ではない、修養の人、自省の人、道徳の人ではない。ただ信仰の人である、自分の浅ましさを十分意識し、何一つの弁解もなく、何一つの修飾もなく、その身そのまま、キリストの血の中に飛び込んでそこにひたる人、

イエスきみよ このままに
われをこのままに すくいたまえ

との祈りをもって彼の足下にひれ伏す人、その人である。その人の衣は「のごとくなるも雪のごとく白くなり、くれないのごとく赤くとも羊のごとくに」せられる。その人は勝利の印なる棕櫚しゅろの葉を手にして天上の構廬節を祝うことを許される。

患難と羔の血、これを一言にしていえば十字架である。患難はおのが十字架、羔の血はキリストの十字架である。願わくは我らの地上の生涯が十字架の生涯にてあらんことを。