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「黙示録研究」

一三 底なき坑の蝗

藤井武
Takeshi Fujii



第五の天使がラッパを吹いた。

そのときヨハネは一つの星が天から地にちてあるのを見た。それは世のはじめの頃、神にそむいて、その尾をもって天の星のおよそ三分の一を引き、もろともに地に落ちたところのその星であった(黙示録一二の四)。「あしたの子明星よ、いかにして天よりちしや」と言われるその明星すなわちサタンであった。

見れば、この星は何か鍵のようなものを手にしている。恐ろしく頑丈なる器具である。さもあろう、それは「底なきあな」の鍵であるから。

宇宙の何処かに底なきあながある。その名を地獄という。永遠の義なる神が手づから造りたもうた場所であって、世の終わりにいたって十分に用いられようとするものである。その時まで、神はそのあなの鍵を天からちた明星に渡し置きたもうた。けだし底なきあなとかの星と、性質上大いに似通う所があるからであろう。

さて、今や第五のラッパが鳴りひびくや、星はやおらち上りて、いかめしい門の扉に近づき、手にせる鍵を鍵穴に突き込んで、グイと廻転した。力づよき栓のはずれるような音がして、底なきあなは開かれた。

たちまち見る、濛々もうもうたる煙、あたかも大きな炉の煙のように、または火山のそれのように、すさまじくあなから立ちのぼるを。見る見るそれは空一面にひろがり、今まで輝かしく照っていた日も、清らかに澄んでいた空も、一斉にあなの煙にまみれて、暗くきたなくかわってしまった。

しかしそれはまだわざわいの予兆に過ぎなかった。このように日と空とを蔽うた煙の中から、見よさらに濃き煙か雲か、響きをさえ立てながら現われ出て、あまねく地上にいまわるものがある。いなごの大軍である。昔モーセの時代にエジプトを襲うたものといえども、これには到底かなうまい。

この気味わるき地獄の虫はおのおの地のさそりがもつような力を与えられている。それは一通りならぬ疼痛とうつうの力である。しかもかれらは地のさそりのように、草木をそこなおうとするのでない。地の草、すべての青きもの、またすべての樹をそこなうことなく、ただ「額に神のいんなき人」をのみそこなうことを命ぜられている。すなわち神を信ぜぬ人々のみである(信ずる者は天の使いによってその額にいんせられる――黙示録七の三)。地獄のいなごの使命は、神を信ぜぬ者を刺すにある。

しかり、彼らを刺すにある。これを殺すのではない。殺すことは許されない。五月いつつきのあいだ、苦しめるのである。目的は苦痛にあって、死にはない。しかしながら苦痛と死と、いずれが軽くいずれが重いか。少なくとも地獄のいなごの与える苦痛は死にまさるとも劣らないのである。それはあたかもさそりに刺された苦痛に似ている。人々はえかねて死を求めるであろう。けれども死は見出されない。死は逃げ去って、死にたくも死ぬことができない。生きるには余りにえがたき苦痛である。しかも死ぬことは許されないのである。

かくも恐ろしき役目を果たすところのそのいなごの形は如何いかん。それは小さしといえどもいかめしい。たとえば軍馬のようである。りんとして頭をもたげ、今にもいななくかとさえおもう。頭には金に似た冠のようなもの。勝利を象徴して。顔は人の顔に似る。加うるに女の頭髪のような頭髪さえ房々ふさふさと。口をひらけば、獅子の歯のような歯、胸をあらわせば、鉄の胸当のような胸当。それらのものが翼を張って一斉に襲いかかれば、そのひびき何にかたとえよう。轟々として戦車幾千地を動かし進むがごとく、戛々かつかつとして軍馬幾万戦闘に馳せゆくがごときである。

以上のごとき外形に応じて、最も怖るべきものはその尾である。尾はさそりの尾に似ている。これにはりがある。この如何いかがわしき尾にこそ、五月いつつきのあいだ人をそこなう力が備わっているのである。

おそるべきいなごの大軍、それを統べ率いるところの王がある。底なき所の使いである。名をヘブル語ではアバドンといい、ギリシャ語ではアポルオンという。いずれも滅亡を意味する。滅亡を王としていただき、その意を果たさんがために奔走するもの、そういうものが底なきあないなごである。

第五のラッパの審判として、あるいは「第一の禍害わざわい」として、ヨハネが見た幻影は右のようなものであった。これは果たして何を意味するのか。

今この一幅いっぷくの絵画が全体として我らに与えるところの総印象を一言するならば、それは物暗さであろう。ここにはすべてが物暗い。明るいものまたは清らかなものはほとんど見当らない。先ず第一には神にそむいて天からちたところの星すなわちサタンである。第二には底なきあなすなわち地獄である。次にはそこから立ちのぼる煙である。そうしてそのために暗くかつきたなくなった日と空とである。ことにすさまじきものは、煙から出てくる異様の虫である。またそれによって刺される「神なき人々」である。またその人々のえがたき苦痛である。死よりも勝るその苦痛、求むれど逃げ去って得られぬ死。さてはかかる怪しき軍勢を統御する王たる滅亡など。いずれか物暗きものならぬがあろう。

まことにみなすさんでいる。みなゆがんでいる。みなひねくれている。真直なもの、公明なもの、おおらかなものは一つもない。いかにも悪魔とか地獄とかいうものの勢力にふさわしい。

これがもし黙示録の九章にあるのでなくして、独立に存在する画であったならば、私はただちにそこに象徴せられる一つのものを想い定めるであろう。何か。いわく、罪である。「罪」を画題として描かれた画に、これ以上のものを期待し得ようか。罪の源はたしかに天の国ではない、底なきあなである。これをいだすものは天からちた星である。そうしてこの忌まわしい罪の小虫は日をも空をも、そのほか一切の美しきものを掻き消すところの煙に乗じて、全地にはびこり、すべて神を信ぜぬ人々の胸の中に入りこんでこれをむしばむのである。底なきあなよりのいなごのむれは、さしあたりこれを罪の象徴として見て、最も適切であることを覚える。

しかしながらここは人の始めの堕落ではなく、世の終わりの審判である。罪なるものの出現を描くべき時ではない。第五のラッパのわざわいは、罪そのものではなくして、とにかく罪に対するある審判として見られねばならぬ。

しからばいかなる審判か。思うに、罪に対する審判はまず罪そのものである。罪はそれ自らを罰する。我らが神にそむき神から離れるときに、その事自体の中に言いがたきわざわいがもっている。愛と生命と光明との源なる神から離れたということ、その事にまさるわざわいが何処にあろうか。アダム夫妻は神にそむくと共に彼のかおを避け、林間に身をかくした。そのとき夫妻の心は真暗であった。カインは弟を殺してのち神のまえにおもてを伏せた。そのとき彼の心に地獄があった。およそこれらの場合に、罪は自らを罰したのである。神にそむき神から離れるという罪そのものが、同時に罪人に対する必然の審判であったのである。

このおごそかなる事実は、すべての罪人がみずからの経験によってこれを知っている。しかしながら人はなおこれをごまかすことが出来ないでない。現に多くの人がごまかしている。神なき世界の暗ささびしさに目を閉じ心を硬くし、いてこれを意識しないのである。実に今の世にありて最も珍らしきものは、罪そのものを審判として感じ禍害わざわいとして苦しむその正直なる心である。

もちろん一たびキリストを受け入れたもの、一切を彼に引き渡したもの、彼にありて生きるものにとっては、もはやこの意識はあり得ない。何となればキリストはかれらの義であるからである。かれらはすなわち「額に神のいんある人々」である。罪のいなごはかれらの良心を刺すことを許されないのである。かくのごとき人々の胸に、キリストから来るところの大平安がある。たとえ底なきあなから何が上って来ようとも、彼らにとって何であろうか。

しかしながら最後まで信じないものに至っては、やむを得ない。額にいんなきものは一度は罪そのものののろいを十分にめることがなければならぬ。罪人は罪の酒杯の苦さを味わわねばならぬ。ここにおいてか第五ラッパの審判がある。その時こそ罪は罪らしく自らを罰するであろう。底なきあなからのいなごが、さそりのごとき尾をふるうて、罪人の良心を刺すであろう。その痛みに比べては、死さえ甘くあるであろう。しかしそのとき死を求めても死は得られぬであろう。かくて神への従順を拒むものは、ついにその代価のいかにやすからぬかをさとるであろう。罪は戯れではない。その中にこれだけの真剣味がある。何人も嘲りすますわけにはゆかない。